砂糖二つの特等席   作:y@s

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第3話 パーカーと眠れない理由

 

 

帰り道

電車の中で千聖はずっと窓の外を見ていた。

 

雨上がりの夜景が流れていく。

濡れた街灯、滲んだ看板の光、暗い川面。

どれも見慣れた景色のはずなのに、今夜は妙に鮮明だった。腕の中のパーカーが、ほんのりと温かい。体温のせいか、それとも最初からそういう布地なのか、千聖にはわからなかった。

 

また来た時に返してくれれば。

 

窓ガラスに映った自分の顔が、かすかに眉を寄せていた。

 

来るつもりはない。それは本当のことだ。あの部屋に上がったのは偶然で、雨のせいで、限界だったせいで、

——理由はいくつでも並べられる。けれど理由を並べるほど、何かが落ち着かなかった。

 

千聖は視線を窓から引き剥がして、膝の上のパーカーに目を落とした。黒いスウェット生地、洗いざらしで、飾り気がない。けれど手触りが、思いのほか柔らかかった。

 

お嬢ちゃんが持ってた方が似合うから。

 

「……意地悪」

 

誰もいない車両の中で、千聖は小さく呟いた。

 

 

自室に戻ると、千聖はパーカーをクローゼットの扉にかけた。洗って返す、という体裁を整えるためだ。それだけのことなのに、なぜかハンガーにかける手が少し迷った。

 

着替えを済ませて、ベッドに入る。目を閉じる。

 

眠れなかった。

 

天井を見つめながら

今日のことを順番に整理しようとした。

雨の中で立ち尽くしていたこと、声をかけられたこと、古いエレベーター、布地の積み上がった部屋、大きすぎるパーカー、砂糖二つのコーヒー。

 

よく頑張ったな、お嬢ちゃん。

 

胸の奥で、また何かが微かに動いた。

 

千聖はそれを、そっと手で押さえるように、シーツを握った。泣きたいわけではない。嬉しいわけでも——いや、嬉しいのかもしれない。

 

それが少し、厄介だった。

 

白鷺千聖は、人に褒められることに慣れている。

「すごいね」「さすがだね」「完璧だね」

そういう言葉は毎日のように降ってくる。受け取り方も、返し方も、とっくに知っている。

 

けれど今夜の一言は、そのどれとも違った。

 

評価ではなかった。ねぎらいでもなかった。ただ、見ていた。千聖が何者であるかではなく、今夜この瞬間に限界だったという、それだけのことを、過不足なく拾い上げた声だった。

 

千聖は目を閉じた。

瞼の裏に、修司の横顔が浮かんだ。作業机に向かって、淡々と手を動かしている。急かさず、放っておかず、ただそこにいる。

 

——どんな人なんだろう。

 

思考がそこに辿り着いた瞬間、千聖は少し驚いた。他人にそういう疑問を持つのは、久しぶりだった。芸能界では、人を値踏みすることはあっても、純粋に「知りたい」と思うことは、あまりない。

 

修司のことは何も知らない。名前と職業と、アトリエの場所と、砂糖二つのコーヒーの淹れ方と——それだけだ。

それだけなのに、どこか輪郭がはっきりしている。

 

目を閉じたまま、千聖はひっそりと息を吐いた。

 

来るつもりはない。

 

もう一度、自分に言い聞かせた。

 

——でも。

 

でも、が続かなかった。

言葉にする前に、眠気がじわりと滲んできた。

クローゼットの扉にかかったパーカーの気配を、なんとなく感じながら、千聖の意識はゆっくりと沈んでいった。

 

 

翌朝、目が覚めた時、千聖の頭にあったのは修司のことではなかった。

 

今日のスケジュール、学校の課題、撮影の準備、いつも通りの朝だった。

洗顔をして、制服に着替えて、朝食を済ませる。何も変わっていない。

けれど、登校の途中だった。

 

雑居ビルの前を通りかかったわけでも、コーヒーの香りを嗅いだわけでもない。

ただ、駅のホームで電車を待っていた時に、ふと思った。

 

今日も雨だったら、どうしていたんだろう。

 

今日は晴れている。だから関係のない話だ。

 

それなのに、思考が続いた。

雨だったら傘を持っていた。

傘があれば濡れない。

濡れなければあのビルには寄らない。

ならば今日も、別の道を歩いていた。

 

——だから、昨日は雨でよかった。

 

電車が来た。千聖はホームに並びながら、自分が今なんと思ったか、一瞬だけ反芻した。

 

雨で、よかった。

 

「……何を考えているんだろう」

 

小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。ポーカーフェイスは崩れていない。

それでも、耳のあたりが、かすかに熱かった。

 

電車に乗り込みながら、千聖はその熱を、努めて無視した。

 

窓の外の青い空が、昨夜の濡れた街灯よりも、なぜか遠く見えた。

 

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