帰り道
電車の中で千聖はずっと窓の外を見ていた。
雨上がりの夜景が流れていく。
濡れた街灯、滲んだ看板の光、暗い川面。
どれも見慣れた景色のはずなのに、今夜は妙に鮮明だった。腕の中のパーカーが、ほんのりと温かい。体温のせいか、それとも最初からそういう布地なのか、千聖にはわからなかった。
また来た時に返してくれれば。
窓ガラスに映った自分の顔が、かすかに眉を寄せていた。
来るつもりはない。それは本当のことだ。あの部屋に上がったのは偶然で、雨のせいで、限界だったせいで、
——理由はいくつでも並べられる。けれど理由を並べるほど、何かが落ち着かなかった。
千聖は視線を窓から引き剥がして、膝の上のパーカーに目を落とした。黒いスウェット生地、洗いざらしで、飾り気がない。けれど手触りが、思いのほか柔らかかった。
お嬢ちゃんが持ってた方が似合うから。
「……意地悪」
誰もいない車両の中で、千聖は小さく呟いた。
自室に戻ると、千聖はパーカーをクローゼットの扉にかけた。洗って返す、という体裁を整えるためだ。それだけのことなのに、なぜかハンガーにかける手が少し迷った。
着替えを済ませて、ベッドに入る。目を閉じる。
眠れなかった。
天井を見つめながら
今日のことを順番に整理しようとした。
雨の中で立ち尽くしていたこと、声をかけられたこと、古いエレベーター、布地の積み上がった部屋、大きすぎるパーカー、砂糖二つのコーヒー。
よく頑張ったな、お嬢ちゃん。
胸の奥で、また何かが微かに動いた。
千聖はそれを、そっと手で押さえるように、シーツを握った。泣きたいわけではない。嬉しいわけでも——いや、嬉しいのかもしれない。
それが少し、厄介だった。
白鷺千聖は、人に褒められることに慣れている。
「すごいね」「さすがだね」「完璧だね」
そういう言葉は毎日のように降ってくる。受け取り方も、返し方も、とっくに知っている。
けれど今夜の一言は、そのどれとも違った。
評価ではなかった。ねぎらいでもなかった。ただ、見ていた。千聖が何者であるかではなく、今夜この瞬間に限界だったという、それだけのことを、過不足なく拾い上げた声だった。
千聖は目を閉じた。
瞼の裏に、修司の横顔が浮かんだ。作業机に向かって、淡々と手を動かしている。急かさず、放っておかず、ただそこにいる。
——どんな人なんだろう。
思考がそこに辿り着いた瞬間、千聖は少し驚いた。他人にそういう疑問を持つのは、久しぶりだった。芸能界では、人を値踏みすることはあっても、純粋に「知りたい」と思うことは、あまりない。
修司のことは何も知らない。名前と職業と、アトリエの場所と、砂糖二つのコーヒーの淹れ方と——それだけだ。
それだけなのに、どこか輪郭がはっきりしている。
目を閉じたまま、千聖はひっそりと息を吐いた。
来るつもりはない。
もう一度、自分に言い聞かせた。
——でも。
でも、が続かなかった。
言葉にする前に、眠気がじわりと滲んできた。
クローゼットの扉にかかったパーカーの気配を、なんとなく感じながら、千聖の意識はゆっくりと沈んでいった。
翌朝、目が覚めた時、千聖の頭にあったのは修司のことではなかった。
今日のスケジュール、学校の課題、撮影の準備、いつも通りの朝だった。
洗顔をして、制服に着替えて、朝食を済ませる。何も変わっていない。
けれど、登校の途中だった。
雑居ビルの前を通りかかったわけでも、コーヒーの香りを嗅いだわけでもない。
ただ、駅のホームで電車を待っていた時に、ふと思った。
今日も雨だったら、どうしていたんだろう。
今日は晴れている。だから関係のない話だ。
それなのに、思考が続いた。
雨だったら傘を持っていた。
傘があれば濡れない。
濡れなければあのビルには寄らない。
ならば今日も、別の道を歩いていた。
——だから、昨日は雨でよかった。
電車が来た。千聖はホームに並びながら、自分が今なんと思ったか、一瞬だけ反芻した。
雨で、よかった。
「……何を考えているんだろう」
小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。ポーカーフェイスは崩れていない。
それでも、耳のあたりが、かすかに熱かった。
電車に乗り込みながら、千聖はその熱を、努めて無視した。
窓の外の青い空が、昨夜の濡れた街灯よりも、なぜか遠く見えた。