砂糖二つの特等席   作:y@s

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第30話 正阿弥興山、再訪

 

 

「千聖、いつになったら修司さん連れてくるの?」

 

夕飯の席で、唯がふと言った。千聖は箸を止めた。

 

「……まだ早いって、前にも言ったでしょう」

 

「千聖が連れてこないから、私から会いに行ったのよ」

 

「それは知ってるわ」

 

「だから、今度は千聖がちゃんと連れてきなさい」

 

千聖は小さくため息をついて、「考えておくわ」と答えた。

 

 

次にアトリエに行った時、千聖はその話を修司に伝えた。

 

「……母が、修司さんを家に連れてきてほしいと言っていて」

 

修司は仕事の手を止めて、千聖を見た。それから、いたずらっ子みたいな顔をした。

 

「それなら、じいさんも連れてくか?」

 

「……え」

 

「面識あるみたいだし、ちょうどいいだろ」

 

千聖は少し戸惑った。

 

「興山さんも、ですか。お忙しくないんですか」

 

「大丈夫だ」修司は涼しい顔で言った。「綺麗な女性の手料理が食べられるとでも言えば、ホイホイついてくる」

 

「……それは、本当に大丈夫なんですか」

 

「あのじいさんに限って、間違いない」

 

 

数日後、白鷺家の食卓に、思いがけない来客が二人並んだ。

 

修司と、勝義。

 

唯は勝義の姿を見た瞬間、一瞬固まって、それから声を上げた。

 

「……あら。あらあらあら」

 

「久しいな、一ノ瀬、……今は白鷺か」

 

「本当に。お変わりないですね、先生」

 

「先生はやめろ。面倒だ」

 

唯はくすくす笑って、テーブルに料理を並べ始めた。

 

「ふふ、まさかこんな形で再会するなんて思わなかったわ」

 

「わしもだ。お前の娘が、修司の女になるとはな」

 

「ちょっと興山さん」

 

千聖が思わず口を挟んだ。勝義は気にせず笑った。

 

「事実だろう」

 

「……否定はしませんけど、言い方を考えてください」

 

夕食が始まった。唯と勝義は、昔話に花を咲かせた。あのコレクションの話、コートの話、業界の懐かしい人々の話。

 

「懐かしいのぉ」勝義がしみじみと言った。「初めて会った時は、随分生意気な小娘だと思ったがのぉ」

 

「先生、その若い頃の話はちょっと」

 

唯が珍しく慌てた様子で言った。勝義はそれを見て、声を上げて笑った。

 

「ハッハッハ。今でも生意気だがな」

 

「……興山さん」

 

千聖が呆れながら言うと、修司も小さく笑っていた。

 

会食は、笑いの絶えない時間になった。唯の手料理を、勝義が遠慮なくおかわりし、修司はいつもより少し肩の力が抜けた様子で食べていた。

 

 

食事が一段落した頃、勝義がふと千聖を見た。

 

「修司、あのコート見せてみろ」

 

修司が少し驚いた顔をした。

 

「……今、ここで?」

 

「いいだろう。久しぶりにお前の仕事を、ちゃんと見たい」

 

千聖は席を立って、自室から二着のコートを持ってきた。黒と、ライトグレー。

 

「両方、お持ちしました」

 

「両方着てみてくれ」

 

千聖は少し戸惑ったが、まず黒を羽織った。それから、ライトグレーに着替えて、もう一度リビングに立った。

 

勝義は、千聖の姿をじっと見ていた。黒の時も、ライトグレーの時も、しばらく無言で観察していた。

 

それから、ライトグレーの方を見て、ふっと表情が変わった。

 

「……やはり、こっちが本命か」

 

千聖は少し緊張した。

 

勝義は、立ち上がって、ライトグレーのコートに近づいた。袖を持って、生地を確かめた。それから、修司を見た。

 

「修司」

 

「……はい」

 

「ならば、このコートは、お前の未熟さを表しておる」

 

部屋の空気が、少し変わった。千聖は思わず修司を見た。

 

修司は、しばらく黙ってから、静かに答えた。

 

「……何を言いたいか、わかってる」

 

「わかっておるならいい」

 

「ああ、わかってる」

 

勝義は腕を組んで、続けた。

 

「最初の一着は、仕事として持ってきたな」

 

勝義の目が、少し和らいだ。

 

「二枚目のデザイン画を持ってきて、必死に頼む姿には、心打たれてつい、本気の仕事をしてしもうた」

 

千聖は、息を呑んだ。

 

「……それに」

 

勝義が千聖をちらりと見て続けた。

 

「お前の気持ちは、痛いほどよぉわかる」

 

修司は、何も言わなかった。耳が、少し赤かった。

 

「どんな理由にしろ、わしに本気の仕事をやらせたことは、褒めてやる」

 

勝義は、修司の肩に手を置いた。

 

「よぉ頑張ったな」

 

修司の喉が、小さく動いた。

 

「お前も一人前の仕事ができるようになったな」

 

千聖はその光景を、静かに見ていた。修司の目元が、少し緩んでいた。からかい上手で、いつも余裕がある修司が、今は祖父の前で、子供みたいな顔をしていた。

 

「……じいさん」

 

「ん」

 

「ありがとう」

 

それだけだった。けれど、その一言に、たくさんの意味が詰まっていた。

 

部屋の中が、少し湿っぽくなった。

 

勝義はそれを察したのか、わざと明るい声を出した。

 

「それから、これはバカ息子夫婦の仕事じゃな」

 

修司が、思わず笑った。

 

「……やっぱり、わかるか」

 

「わかるに決まっとる」

 

勝義は、千聖と唯を見て、肩をすくめた。

 

「全く、このバカ息子夫婦といい、孫達といい、わしをなんだと思っておるんだ。わしは人間国宝だぞ。もっと敬わんか」

 

「敬ってるよ」

 

修司が言うと、勝義が片眉を上げた。

 

「敬ってる相手に仕事しろよなんて言うか?」

 

「……それは事実だから言ってる」

 

唯が、思わず笑い出した。

 

「先生、本当にお変わりないですね」

 

「お前もな」

 

千聖も、ようやく笑った。湿っぽかった空気が、一気に明るくなった。

 

リビングに、笑い声が広がった。

 

 

笑いが落ち着いた頃、唯がふと千聖に目を向けた。

 

「ねえ、千聖」

 

「なに」

 

「修司さんとは、チューもまだしてないの?」

 

千聖は、持っていたカップを危うく落としそうになった。

 

「……っ、母さん!」

 

「だって気になるじゃない」

 

「そういうことを、なぜ今聞くの」

 

「雰囲気がちょうどよかったから」

 

「ちょうどよくないわ!」

 

千聖は顔が燃えそうなほど熱くなった。修司は涼しい顔をしていたが、耳の先が赤くなっていた。

 

唯はそれに構わず、にこにこと続けた。

 

「まあ、Hはしてもいいけど、子供はまだダメよ。千聖は、まだ高校生なんだから」

 

「母さん!!!」

 

「大事なことだもの」

 

「大事かもしれないけど今言うことじゃないでしょう!」

 

千聖が真っ赤になって叫ぶと、勝義が修司の方を向いた。

 

「修司」

 

「……なんだ」

 

「いつからそんなに奥手になった」

 

「……じいさん」

 

「昔のお前なら、もう少し積極的だったじゃろうに」

 

「昔と今は違う」

 

「どう違う」

 

修司は少し間を置いた。

 

「……千聖が大事だから」

 

勝義が、深く頷いた。

 

「ほう」

 

唯も、嬉しそうに目を細めた。

 

千聖は、もうどうしていいかわからなかった。顔が熱い。耳も熱い。修司の一言が、また胸の奥にすとんと落ちた。

 

「……みんな、意地悪です」

 

千聖が絞り出すように言うと、四人の視線が集まった。

 

「意地悪じゃない、本当のことだ」と勝義。

 

「大事なことよ」と唯。

 

「……同意見だ」と修司。

 

千聖は両手で顔を覆った。

 

 

しばらくして、唯が少し興味深そうな顔をした。

 

「ねえ、先生」

 

「うん、なんじゃ」

 

「修司さんの昔の話、聞いてもいいかしら」

 

勝義の顔が、ぱっと明るくなった。

 

「聞くか。それなら話してやろう」

 

「ちょっと待ってくれ」

 

修司が思わず止めた。勝義は構わず続けた。

 

「修司は高校生の頃、よくわしの工房に逃げ込んでおった」

 

「……じいさん」

 

「親と喧嘩してな」

 

唯が首を傾けた。

 

「喧嘩? 修司さんと、ご両親が?」

 

「親父たちとは服作りの方向性が違うんだ」

 

修司が、少し諦めた様子で説明した。

 

「親父もお袋も、服作りの人間で。二人で今も洋裁屋をやってます。服を作ることが全てで、美への奉仕者みたいな人たちで」

 

唯の目が、少し動いた。

 

「……洋裁、というと」

 

「唯、心当たりがあるんじゃないか」

 

勝義が意地悪そうに笑った。唯は少し考えてから、声を上げた。

 

「……まさか、鷲須さんって。あのテーラー鷲須の?」

 

「そうです」

 

「あら」唯は苦笑いをした。「随分お世話になったわ。何着か、仕立てていただいたことがあって。別格の仕事をされるのよね、お二人とも」

 

「仕事人としては認めてる」

 

修司がぽつりと言った。

 

「ただ、仕事に対してちょっと……いや、かなり常軌を逸してる。美という魔物に、食い殺されそうな人たちなんです」

 

勝義が深く頷いた。

 

「バカ息子夫婦は本当に似た者同士じゃ。二人とも美のためなら何もかも忘れる。夫婦そろってそうなんだから始末が悪い」

 

「母さんも相当だが、親父はじいさんに似てめちゃくちゃなので」

 

「わしに似てるとはどういう意味だ」

 

「そのままだろ」

 

勝義がハッハッハと笑った。

 

「それで姉と妹を連れて、じいさんの工房に避難してました。子供の頃から、よく三人で逃げ込んでた」

 

千聖は思わず聞いた。

 

「……修司さんに、お姉さんと妹さんが?」

 

「あぁ……いる」

 

「そうか、知らなかったのか」勝義が千聖を見た。「修司には姉と妹がおる。三人で工房に来ては、好き勝手やってたもんだ」

 

唯が楽しそうに言った。

 

「賑やかだったんでしょうね」

 

「賑やかというか、騒がしかった」修司が苦そうに言った。「姉は親父に似て豪快だし、妹はお袋に似て頑固だし」

 

勝義が、急に片手を上げた。

 

「あのバカ息子夫婦の話はするな。せっかくの飯と酒が不味くなる」

 

「さっきまで自分で話してたじゃねーか」

 

「もうしまいじゃ。そうだ、今は修司の話だ」

 

勝義は満足そうに盃を傾けた。

 

修司が小さく舌打ちをした。

 

千聖はそれを見て、思わず笑いそうになった。修司が舌打ちをするのは、珍しかった。祖父の前でだけ見せる、少し子供っぽい仕草だった。

 

——可愛い。

 

思ってしまってから、千聖は内心で目を瞑った。

 

勝義が、また楽しそうに話を続けた。

 

「修司が工房に逃げ込んでくると、わしは連れ出してやったもんだ。高校生の頃は毎晩のように」

 

「……どこへ連れ出したんですか」

 

千聖が聞くと、修司が少し顔を背けた。

 

「キャバクラじゃ」

 

「おい」

 

勝義がにこにこしながら言うと、修司が静かに止めようとした。勝義は構わなかった。

 

「高校生の修司を毎晩連れて回った。酒も覚えさせた。煙草も。男の嗜みというものをな、全部教えてやったんだ」

 

唯が目を丸くした。

 

「……先生それは」

 

「楽しかったじゃろ、修司」

 

「……楽しかったのは楽しかったがな」

 

「この頃に悪い遊びは全部、じいさんに教わりました」修司は静かに言った。「とんでもない不良老人です」

 

勝義が豪快に笑った。

 

「ハッハッハ! 男の嗜みを教えただけじゃろ!」

 

「高校生に教えることじゃねぇだろ」

 

「細かいことを言うな。で、あの頃お前が口説いた女たちはどうした」

 

リビングの空気が、少し変わった。

 

千聖は、何気なく聞いていたつもりだった。でも、その瞬間、胸の奥でちくりと何かが刺さった。

 

口説いた、女たち。

 

複数形だった。

 

「……とっくに別れてる」

 

修司がさらりと答えた。

 

「なんじゃ、つまらんの」

 

勝義が言う。千聖はカップを持ったまま、視線を落とした。

 

別れてる。それはわかっている。わかっているけれど、修司に熱を上げた女性たちがいた、という事実が、じわりと胸に引っかかった。

 

キャバクラにも行っていた。女性慣れしているのは知っていた。でも、改めて言葉で聞くと、なんとなく、落ち着かなかった。

 

修司は千聖と同い年の子と付き合ったことなんて、一度もないだろう。大人の女性と付き合ってきたはずで、千聖はまだ高校生で、子供で——。

 

「……千聖」

 

唯の声が、静かに落ちてきた。

 

千聖は顔を上げた。

 

唯が、千聖の表情をじっと見ていた。少し意地悪な、でも温かい目をしていた。

 

「焼きもち焼いてるの?」

 

「……焼いてないわ」

 

「嘘ね」

 

「焼いてないって言ってるでしょう」

 

「顔に書いてあるわよ」

 

千聖は視線を逸らした。唯は楽しそうに修司に言った。

 

「修司さん、うちの子、可愛いでしょう」

 

「……唯さん」

 

「ふふ、本当に可愛い顔してるから、ちゃんと見てあげて」

 

修司が、千聖の方を向いた。

 

千聖は思わず目を伏せた。見られたくなかった。今の自分の顔は、絶対にポーカーフェイスではなかった。

 

修司が、ソファから立ち上がった。

 

千聖の隣に来て、静かに座った。

 

それから、千聖の肩を抱いた。

 

千聖は、息を止めた。

 

修司は何も言わなかった。ただ、千聖の頭を、自分の肩に引き寄せた。そっと、触れるだけの力で。

 

「……遊びの女たちと、お前は違う」

 

低く、静かな声だった。

 

「あの頃のことは、あの頃のことだ。今は、千聖しか見てない」

 

千聖は、俯いたまま動けなかった。

 

修司が千聖の額に、そっと口づけをした。

 

唇が、額に触れた。ほんの一瞬だけ。

 

——あ。

 

千聖の頭の中が、真っ白になった。

 

嬉しいのか、恥ずかしいのか、もうよくわからなかった。ただ、胸の中が、どうしようもなくいっぱいになった。

 

修司は何事もなかったように、また前を向いた。

 

千聖はしばらく、修司の肩に頭をもたせかけたまま、動けなかった。

 

勝義が、満足そうにそれを見ていた。

 

「……まあ、よしとするか」

 

唯が、目を潤ませながら笑っていた。

 

「……うちの子の初めてのキスを、こんな場でもらうなんて」

 

「母さん、違うわ……おでこよ……」

 

千聖がかすれた声で言うと、唯がくすくす笑った。

 

「おでこでもキスはキスよ」

 

「……もう」

 

千聖はまた顔を覆った。修司の肩に頭をもたせかけたまま、顔だけ隠した。

 

勝義が盃を傾けながら、のんびりと言った。

 

「やれやれ。わしの孫ながら、随分と甘い男になったもんじゃ」

 

「……じいさんに言われたくない」

 

「甘いのは悪いことじゃないぞ。好きな女に甘くなれるのは、それだけ本気だということじゃ」

 

千聖の耳が、また熱くなった。

 

「……ほんとうに、意地悪」

 

唯が笑った。

 

「でも千聖、幸せそうよ」

 

千聖は何も言えなかった。

 

幸せ。

そうかもしれない。顔が熱くて、恥ずかしくて、どうしようもなくて、それでも、修司の肩が温かくて。

 

——どうしよう、本当に、どうしよう。

 

窓の外に、夜の灯りが灯っていた。

 

賑やかな食卓は、まだしばらく続きそうだった。

 

 

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