「千聖、いつになったら修司さん連れてくるの?」
夕飯の席で、唯がふと言った。千聖は箸を止めた。
「……まだ早いって、前にも言ったでしょう」
「千聖が連れてこないから、私から会いに行ったのよ」
「それは知ってるわ」
「だから、今度は千聖がちゃんと連れてきなさい」
千聖は小さくため息をついて、「考えておくわ」と答えた。
次にアトリエに行った時、千聖はその話を修司に伝えた。
「……母が、修司さんを家に連れてきてほしいと言っていて」
修司は仕事の手を止めて、千聖を見た。それから、いたずらっ子みたいな顔をした。
「それなら、じいさんも連れてくか?」
「……え」
「面識あるみたいだし、ちょうどいいだろ」
千聖は少し戸惑った。
「興山さんも、ですか。お忙しくないんですか」
「大丈夫だ」修司は涼しい顔で言った。「綺麗な女性の手料理が食べられるとでも言えば、ホイホイついてくる」
「……それは、本当に大丈夫なんですか」
「あのじいさんに限って、間違いない」
数日後、白鷺家の食卓に、思いがけない来客が二人並んだ。
修司と、勝義。
唯は勝義の姿を見た瞬間、一瞬固まって、それから声を上げた。
「……あら。あらあらあら」
「久しいな、一ノ瀬、……今は白鷺か」
「本当に。お変わりないですね、先生」
「先生はやめろ。面倒だ」
唯はくすくす笑って、テーブルに料理を並べ始めた。
「ふふ、まさかこんな形で再会するなんて思わなかったわ」
「わしもだ。お前の娘が、修司の女になるとはな」
「ちょっと興山さん」
千聖が思わず口を挟んだ。勝義は気にせず笑った。
「事実だろう」
「……否定はしませんけど、言い方を考えてください」
夕食が始まった。唯と勝義は、昔話に花を咲かせた。あのコレクションの話、コートの話、業界の懐かしい人々の話。
「懐かしいのぉ」勝義がしみじみと言った。「初めて会った時は、随分生意気な小娘だと思ったがのぉ」
「先生、その若い頃の話はちょっと」
唯が珍しく慌てた様子で言った。勝義はそれを見て、声を上げて笑った。
「ハッハッハ。今でも生意気だがな」
「……興山さん」
千聖が呆れながら言うと、修司も小さく笑っていた。
会食は、笑いの絶えない時間になった。唯の手料理を、勝義が遠慮なくおかわりし、修司はいつもより少し肩の力が抜けた様子で食べていた。
食事が一段落した頃、勝義がふと千聖を見た。
「修司、あのコート見せてみろ」
修司が少し驚いた顔をした。
「……今、ここで?」
「いいだろう。久しぶりにお前の仕事を、ちゃんと見たい」
千聖は席を立って、自室から二着のコートを持ってきた。黒と、ライトグレー。
「両方、お持ちしました」
「両方着てみてくれ」
千聖は少し戸惑ったが、まず黒を羽織った。それから、ライトグレーに着替えて、もう一度リビングに立った。
勝義は、千聖の姿をじっと見ていた。黒の時も、ライトグレーの時も、しばらく無言で観察していた。
それから、ライトグレーの方を見て、ふっと表情が変わった。
「……やはり、こっちが本命か」
千聖は少し緊張した。
勝義は、立ち上がって、ライトグレーのコートに近づいた。袖を持って、生地を確かめた。それから、修司を見た。
「修司」
「……はい」
「ならば、このコートは、お前の未熟さを表しておる」
部屋の空気が、少し変わった。千聖は思わず修司を見た。
修司は、しばらく黙ってから、静かに答えた。
「……何を言いたいか、わかってる」
「わかっておるならいい」
「ああ、わかってる」
勝義は腕を組んで、続けた。
「最初の一着は、仕事として持ってきたな」
勝義の目が、少し和らいだ。
「二枚目のデザイン画を持ってきて、必死に頼む姿には、心打たれてつい、本気の仕事をしてしもうた」
千聖は、息を呑んだ。
「……それに」
勝義が千聖をちらりと見て続けた。
「お前の気持ちは、痛いほどよぉわかる」
修司は、何も言わなかった。耳が、少し赤かった。
「どんな理由にしろ、わしに本気の仕事をやらせたことは、褒めてやる」
勝義は、修司の肩に手を置いた。
「よぉ頑張ったな」
修司の喉が、小さく動いた。
「お前も一人前の仕事ができるようになったな」
千聖はその光景を、静かに見ていた。修司の目元が、少し緩んでいた。からかい上手で、いつも余裕がある修司が、今は祖父の前で、子供みたいな顔をしていた。
「……じいさん」
「ん」
「ありがとう」
それだけだった。けれど、その一言に、たくさんの意味が詰まっていた。
部屋の中が、少し湿っぽくなった。
勝義はそれを察したのか、わざと明るい声を出した。
「それから、これはバカ息子夫婦の仕事じゃな」
修司が、思わず笑った。
「……やっぱり、わかるか」
「わかるに決まっとる」
勝義は、千聖と唯を見て、肩をすくめた。
「全く、このバカ息子夫婦といい、孫達といい、わしをなんだと思っておるんだ。わしは人間国宝だぞ。もっと敬わんか」
「敬ってるよ」
修司が言うと、勝義が片眉を上げた。
「敬ってる相手に仕事しろよなんて言うか?」
「……それは事実だから言ってる」
唯が、思わず笑い出した。
「先生、本当にお変わりないですね」
「お前もな」
千聖も、ようやく笑った。湿っぽかった空気が、一気に明るくなった。
リビングに、笑い声が広がった。
笑いが落ち着いた頃、唯がふと千聖に目を向けた。
「ねえ、千聖」
「なに」
「修司さんとは、チューもまだしてないの?」
千聖は、持っていたカップを危うく落としそうになった。
「……っ、母さん!」
「だって気になるじゃない」
「そういうことを、なぜ今聞くの」
「雰囲気がちょうどよかったから」
「ちょうどよくないわ!」
千聖は顔が燃えそうなほど熱くなった。修司は涼しい顔をしていたが、耳の先が赤くなっていた。
唯はそれに構わず、にこにこと続けた。
「まあ、Hはしてもいいけど、子供はまだダメよ。千聖は、まだ高校生なんだから」
「母さん!!!」
「大事なことだもの」
「大事かもしれないけど今言うことじゃないでしょう!」
千聖が真っ赤になって叫ぶと、勝義が修司の方を向いた。
「修司」
「……なんだ」
「いつからそんなに奥手になった」
「……じいさん」
「昔のお前なら、もう少し積極的だったじゃろうに」
「昔と今は違う」
「どう違う」
修司は少し間を置いた。
「……千聖が大事だから」
勝義が、深く頷いた。
「ほう」
唯も、嬉しそうに目を細めた。
千聖は、もうどうしていいかわからなかった。顔が熱い。耳も熱い。修司の一言が、また胸の奥にすとんと落ちた。
「……みんな、意地悪です」
千聖が絞り出すように言うと、四人の視線が集まった。
「意地悪じゃない、本当のことだ」と勝義。
「大事なことよ」と唯。
「……同意見だ」と修司。
千聖は両手で顔を覆った。
しばらくして、唯が少し興味深そうな顔をした。
「ねえ、先生」
「うん、なんじゃ」
「修司さんの昔の話、聞いてもいいかしら」
勝義の顔が、ぱっと明るくなった。
「聞くか。それなら話してやろう」
「ちょっと待ってくれ」
修司が思わず止めた。勝義は構わず続けた。
「修司は高校生の頃、よくわしの工房に逃げ込んでおった」
「……じいさん」
「親と喧嘩してな」
唯が首を傾けた。
「喧嘩? 修司さんと、ご両親が?」
「親父たちとは服作りの方向性が違うんだ」
修司が、少し諦めた様子で説明した。
「親父もお袋も、服作りの人間で。二人で今も洋裁屋をやってます。服を作ることが全てで、美への奉仕者みたいな人たちで」
唯の目が、少し動いた。
「……洋裁、というと」
「唯、心当たりがあるんじゃないか」
勝義が意地悪そうに笑った。唯は少し考えてから、声を上げた。
「……まさか、鷲須さんって。あのテーラー鷲須の?」
「そうです」
「あら」唯は苦笑いをした。「随分お世話になったわ。何着か、仕立てていただいたことがあって。別格の仕事をされるのよね、お二人とも」
「仕事人としては認めてる」
修司がぽつりと言った。
「ただ、仕事に対してちょっと……いや、かなり常軌を逸してる。美という魔物に、食い殺されそうな人たちなんです」
勝義が深く頷いた。
「バカ息子夫婦は本当に似た者同士じゃ。二人とも美のためなら何もかも忘れる。夫婦そろってそうなんだから始末が悪い」
「母さんも相当だが、親父はじいさんに似てめちゃくちゃなので」
「わしに似てるとはどういう意味だ」
「そのままだろ」
勝義がハッハッハと笑った。
「それで姉と妹を連れて、じいさんの工房に避難してました。子供の頃から、よく三人で逃げ込んでた」
千聖は思わず聞いた。
「……修司さんに、お姉さんと妹さんが?」
「あぁ……いる」
「そうか、知らなかったのか」勝義が千聖を見た。「修司には姉と妹がおる。三人で工房に来ては、好き勝手やってたもんだ」
唯が楽しそうに言った。
「賑やかだったんでしょうね」
「賑やかというか、騒がしかった」修司が苦そうに言った。「姉は親父に似て豪快だし、妹はお袋に似て頑固だし」
勝義が、急に片手を上げた。
「あのバカ息子夫婦の話はするな。せっかくの飯と酒が不味くなる」
「さっきまで自分で話してたじゃねーか」
「もうしまいじゃ。そうだ、今は修司の話だ」
勝義は満足そうに盃を傾けた。
修司が小さく舌打ちをした。
千聖はそれを見て、思わず笑いそうになった。修司が舌打ちをするのは、珍しかった。祖父の前でだけ見せる、少し子供っぽい仕草だった。
——可愛い。
思ってしまってから、千聖は内心で目を瞑った。
勝義が、また楽しそうに話を続けた。
「修司が工房に逃げ込んでくると、わしは連れ出してやったもんだ。高校生の頃は毎晩のように」
「……どこへ連れ出したんですか」
千聖が聞くと、修司が少し顔を背けた。
「キャバクラじゃ」
「おい」
勝義がにこにこしながら言うと、修司が静かに止めようとした。勝義は構わなかった。
「高校生の修司を毎晩連れて回った。酒も覚えさせた。煙草も。男の嗜みというものをな、全部教えてやったんだ」
唯が目を丸くした。
「……先生それは」
「楽しかったじゃろ、修司」
「……楽しかったのは楽しかったがな」
「この頃に悪い遊びは全部、じいさんに教わりました」修司は静かに言った。「とんでもない不良老人です」
勝義が豪快に笑った。
「ハッハッハ! 男の嗜みを教えただけじゃろ!」
「高校生に教えることじゃねぇだろ」
「細かいことを言うな。で、あの頃お前が口説いた女たちはどうした」
リビングの空気が、少し変わった。
千聖は、何気なく聞いていたつもりだった。でも、その瞬間、胸の奥でちくりと何かが刺さった。
口説いた、女たち。
複数形だった。
「……とっくに別れてる」
修司がさらりと答えた。
「なんじゃ、つまらんの」
勝義が言う。千聖はカップを持ったまま、視線を落とした。
別れてる。それはわかっている。わかっているけれど、修司に熱を上げた女性たちがいた、という事実が、じわりと胸に引っかかった。
キャバクラにも行っていた。女性慣れしているのは知っていた。でも、改めて言葉で聞くと、なんとなく、落ち着かなかった。
修司は千聖と同い年の子と付き合ったことなんて、一度もないだろう。大人の女性と付き合ってきたはずで、千聖はまだ高校生で、子供で——。
「……千聖」
唯の声が、静かに落ちてきた。
千聖は顔を上げた。
唯が、千聖の表情をじっと見ていた。少し意地悪な、でも温かい目をしていた。
「焼きもち焼いてるの?」
「……焼いてないわ」
「嘘ね」
「焼いてないって言ってるでしょう」
「顔に書いてあるわよ」
千聖は視線を逸らした。唯は楽しそうに修司に言った。
「修司さん、うちの子、可愛いでしょう」
「……唯さん」
「ふふ、本当に可愛い顔してるから、ちゃんと見てあげて」
修司が、千聖の方を向いた。
千聖は思わず目を伏せた。見られたくなかった。今の自分の顔は、絶対にポーカーフェイスではなかった。
修司が、ソファから立ち上がった。
千聖の隣に来て、静かに座った。
それから、千聖の肩を抱いた。
千聖は、息を止めた。
修司は何も言わなかった。ただ、千聖の頭を、自分の肩に引き寄せた。そっと、触れるだけの力で。
「……遊びの女たちと、お前は違う」
低く、静かな声だった。
「あの頃のことは、あの頃のことだ。今は、千聖しか見てない」
千聖は、俯いたまま動けなかった。
修司が千聖の額に、そっと口づけをした。
唇が、額に触れた。ほんの一瞬だけ。
——あ。
千聖の頭の中が、真っ白になった。
嬉しいのか、恥ずかしいのか、もうよくわからなかった。ただ、胸の中が、どうしようもなくいっぱいになった。
修司は何事もなかったように、また前を向いた。
千聖はしばらく、修司の肩に頭をもたせかけたまま、動けなかった。
勝義が、満足そうにそれを見ていた。
「……まあ、よしとするか」
唯が、目を潤ませながら笑っていた。
「……うちの子の初めてのキスを、こんな場でもらうなんて」
「母さん、違うわ……おでこよ……」
千聖がかすれた声で言うと、唯がくすくす笑った。
「おでこでもキスはキスよ」
「……もう」
千聖はまた顔を覆った。修司の肩に頭をもたせかけたまま、顔だけ隠した。
勝義が盃を傾けながら、のんびりと言った。
「やれやれ。わしの孫ながら、随分と甘い男になったもんじゃ」
「……じいさんに言われたくない」
「甘いのは悪いことじゃないぞ。好きな女に甘くなれるのは、それだけ本気だということじゃ」
千聖の耳が、また熱くなった。
「……ほんとうに、意地悪」
唯が笑った。
「でも千聖、幸せそうよ」
千聖は何も言えなかった。
幸せ。
そうかもしれない。顔が熱くて、恥ずかしくて、どうしようもなくて、それでも、修司の肩が温かくて。
——どうしよう、本当に、どうしよう。
窓の外に、夜の灯りが灯っていた。
賑やかな食卓は、まだしばらく続きそうだった。