「花音、今日、少し時間ある?」
千聖がそのメッセージを送ったのは、翌日の昼休みだった。
花音からの返信は、三秒で来た。
「あるよ! どうしたの、珍しい」
「放課後、いつもの場所で」
「わかった」
放課後、校門近くのベーカリーカフェ。千聖と花音が、二人でよく使う席だった。
花音はすでに来ていて、ホットミルクを両手で包んでいた。千聖の顔を見た瞬間、目を丸くした。
「……千聖ちゃん、なんか顔色おかしい」
「おかしくないわ」
「おかしいよ。なんか、ふわふわしてる」
「ふわふわしてない」
千聖は向かいに座って、紅茶を注文した。それから、テーブルの上で指を組んだ。
「花音」
「うん」
「この一週間、いろいろあって」
花音は黙って、続きを待った。
「……どこから話せばいいのかしら」
「最初から」
千聖は少し息を吐いた。
「まず、母が修司さんのアトリエに突然来て」
「え」
「旧姓を名乗って。なんか修司さんの素を見るために」
花音の目が、みるみる大きくなった。
「……唯さんが? 旧姓で?」
「そう。それで修司さんのお祖父様と昔のご縁があって、話が盛り上がっていて」
「すごい展開……」
「それから、修司さんが母に気持ちを話していて」
「気持ち、って」
千聖は少し間を置いた。
「……私のことが好きだって」
花音が、息を呑んだ。
「……千聖ちゃん、それ」
「聞こえてしまったの。ドアの前で」
「立ち聞き!?」
「わざとじゃないわ」
「でも聞いたんだね」
「……聞いた」
花音がテーブルに身を乗り出した。
「それで、それで?」
「修司さんに、気づかれた。顔に出てたみたい」
「え、ばれたの」
「ばれた」
「どうなったの」
「母も修司さんも、全部認めて。隠すことじゃないって」
花音が、両手でほっぺたを挟んだ。
「……すごい。修司さん、はっきり言ったんだ」
「ええ。顔が真っ赤なまま、私はずっとソファの端に座ってた」
「それで、それだけ?」
千聖は紅茶を一口飲んだ。
「……次の週に、修司さんのお祖父様が記者を連れてアトリエに来て」
「記者?」
「コートのことで、取材があって。そのお祖父様が、私のことも知っていて」
「知ってたの?」
「母さんがモデル時代にお世話になっていたみたいで」
花音がしみじみと言った。
「千聖ちゃんの周り、すごい人ばっかり集まってくるね」
「そんなこともないわ」
「あるよ絶対」
千聖は小さく笑った。それから、少し声を落とした。
「それで昨日、うちに修司さんとお祖父様が来て、一緒に夕食を食べて」
「え、ご飯!? もうそこまで進んでるの!?」
「……そうなるのよ、なぜか」
「なぜかって、千聖ちゃん」花音が目をきらきらさせながら言った。「それってもう、家族ぐるみじゃない」
「……そうかもしれない」
千聖は、昨日の食卓を思い出した。唯と勝義が昔話をして、修司が呆れた顔で笑っていて。笑い声が絶えなかった時間。
「……それで」
花音が、千聖の顔をじっと見た。
「まだあるの?」
「……ある」
「千聖ちゃんの顔が、さっきからずっとふわふわしてる理由はなに」
千聖は、テーブルの上の指をぎゅっと組んだ。
「……修司さんに、おでこにキスされた」
花音が、固まった。
三秒くらい、何も言わなかった。
「……え」
「おでこよ。おでこに」
「お、おでこ……」
「修司さんの昔話を聞いて、その…焼きもちを焼いてしまって、修司さんが気づいて、肩を抱いてくれて、それで」
「ちょ、ちょっと待って」花音が片手を上げた。「整理させて。焼きもちって何に?」
「修司さんの若い頃の話が出て……女性と付き合っていたことがあって」
「そりゃそうだよ二十八歳だもん」
「わかってる。わかってるけど、聞いたら、少し落ち着かなくて」
花音の顔が、じわじわと崩れていった。にこにこというより、とけていくような笑顔になった。
「……千聖ちゃんが焼きもち」
「花音」
「千聖ちゃんが焼きもちを焼いた」
「わかってる、言わないで」
「かわいい」
「やめて」
「本当にかわいい」花音が言った。「それで修司さんがおでこにキスしてくれたの?」
「……そう」
「なんて言いながら?」
千聖は少し顔が熱くなった。
「……遊びの女たちとお前は違う、今は千聖しか見てない、って」
花音が、両手でテーブルを叩いた。静かに、でも確実に。
「千聖ちゃん」
「なに」
「それ、プロポーズ一歩手前だよ」
「そんなことないわ」
「あるよ! 二十八歳の男性がそれを言ったら、そういうことだよ!」
千聖は視線を逸らした。
「……まだ付き合ってもいないのよ」
「そんな段階じゃないよもう」花音が言った。「千聖ちゃん、あのね」
「なに」
「修司さん、ちゃんと千聖ちゃんのこと、本気で考えてるよ」
千聖は、何も言わなかった。
「卒業したら、ちゃんとした形にしたいって思ってるんでしょ、たぶん」
「……そうかもしれない」
「千聖ちゃんはどうなの」
千聖は、紅茶のカップを見つめた。
「……どうって」
「修司さんのこと、どう思ってるの。ちゃんと」
千聖は少し間を置いた。花音はせかさずに、待っていた。
「……好き、よ」
「うん」
「アトリエに行くと、落ち着く。修司さんの話を聞くのが好きで、コーヒーを淹れてもらうのが好きで、からかわれるのも、実は嫌いじゃなくて」
「うん」
「おでこにキスをされた瞬間、頭が真っ白になって、嬉しいのか恥ずかしいのかわからなくて」
「うん」
「……卒業したら、ちゃんとしたいって、思う」
花音が、静かに笑った。
「それが答えだよ、千聖ちゃん」
千聖は、花音の顔を見た。
「……花音は、どう思う。修司さんのこと」
花音は少し考えてから、真剣な顔で言った。
「会ったことないから、わからないけど」
「そうね」
「でも、千聖ちゃんがその顔をしてるから」
「その顔って」
「すごく、幸せそうな顔」花音がやわらかく笑った。「今の千聖ちゃんの顔、見たことなかったから。私、安心した」
千聖は、少し黙った。
「……花音」
「うん」
「ありがとう」
「なんで」
「聞いてくれて」
花音が、照れたように笑った。
「当たり前だよ。親友でしょ」
千聖も、ようやく笑った。
窓の外に、冬の夕方の光があった。二人のテーブルに、湯気がゆっくりと立ち上っていた。
「……ねえ、花音」
「うん?」
「いつか、修司さんを紹介するわ」
花音の目が、ぱっと輝いた。
「本当に!?」
「本当よ。あなたには、ちゃんと会ってほしい」
「やったあ」
花音が嬉しそうに言って、ホットミルクを一口飲んだ。それから、にんまりと笑った。
「千聖ちゃん」
「なに」
「一個だけ聞いていい」
「……なに」
「おでこへのキスの感触、どうだった」
千聖は、一瞬固まった。
「……言わない」
「えーっ」
「絶対に言わない」
「ちょっとだけ!」
「花音」
千聖は、静かに言った。でも、耳の先が、少し赤くなっていた。
「……それだけは、私だけのものよ」
花音は一瞬だけ黙って、それから満面の笑みになった。
「……千聖ちゃん、本当に幸せそうだね」
千聖は何も言わなかった。
ただ、紅茶のカップを両手で包んで、窓の外を見た。
冬の光の中で、千聖は少しだけ、笑っていた。