砂糖二つの特等席   作:y@s

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第32話 会いたい

 

十二月に入ると、千聖のスケジュールは一気に埋まった。

 

ドラマの撮影、雑誌の撮影、年末のバラエティ特番、舞台挨拶。マネージャーの藤田から送られてくるスケジュール表は、空白を探す方が難しいほどだった。

 

「白鷺さん、来週の火曜日も追加で入りました。朝八時スタートです」

 

「わかりました」

 

千聖は手帳に書き込みながら、答えた。忙しい。それはわかっていた。ありがたいことだ、とも思っていた。

 

でも、気づけばアトリエに行けない日が、二週間続いていた。

 

 

街は、クリスマス一色だった。

 

撮影の合間に通る渋谷も、表参道も、イルミネーションが灯って、カップルが手を繋いで歩いている。

 

千聖は車の窓から、それをぼんやりと眺めた。

 

信号待ちの間、歩道で男性が女性の肩を抱いていた。女性が笑った。男性が何か耳元で言って、女性がますます笑った。

 

——微笑ましいわね。

 

そう思おうとして、思えなかった。

 

胸の奥に、何かがちりりと刺さった。

 

修司さんに、最後に会ったのはいつだろう。

 

千聖は目を閉じた。

 

 

翌日の撮影現場は、ラブロマンスのドラマだった。

 

千聖の役は、年上の男性に片想いをしている大学生。クリスマスのシーンで、相手役の男優と向き合うシーンがあった。

 

「では、キスシーンから行きましょう」

 

監督の声が飛んだ。

 

千聖はいつも通り、役に入った。相手役の男優の目を見た。演技として、その人を見た。

 

——なのに。

 

唇が触れた瞬間、頭の中に、別の顔が浮かんだ。

 

修司さん。

 

千聖は内心で、慌てて打ち消した。

 

「カット、OKです。白鷺さん、今日も素晴らしかったです」

 

監督の声を、遠くで聞いた。

 

 

帰宅したのは、夜の十時を過ぎていた。

 

玄関のドアを開けると、リビングから明かりが漏れていた。

 

「お帰り、千聖。遅かったわね」

 

唯がソファで寛いでいた。手元にワイングラス。テレビには、ドラマが映っていた。

 

「ただいま。見てるドラマ、面白い?」

 

「ええ、最近のお気に入りよ。ちょうどいいところだから、一緒に見ない?」

 

千聖はコートを脱いで、隣に腰を下ろした。

 

画面の中では、男女が向き合っていた。照明が落とされた寝室。男性が女性の頬に触れて、ゆっくりと引き寄せて——

 

千聖は、目が釘付けになった。

 

べつに、珍しい場面でもなかった。女優として、そういうシーンは日常的に目にする。

 

なのに今夜は、なぜか、画面から目が逸らせなかった。

 

「……いいドラマね」

 

唯がしみじみと言った。

 

「ヒロインが幸せそうで、見てるこっちも嬉しくなる。やっぱり愛されてる女の顔って、特別よね」

 

千聖は何も言わなかった。

 

「千聖も、ああなるといいわね」

 

「……母さん」

 

「本当のことよ」唯がワインを一口飲んだ。「修司さんに、ちゃんと愛されなさい」

 

千聖は視線をテレビに戻した。画面の中の、幸せそうな女性の顔を見た。

 

ちゃんと、愛されなさい。

 

「……おやすみなさい」

 

千聖は立ち上がった。

 

「あら、もう寝るの?」

 

「疲れたから」

 

「そう。おやすみ」

 

 

自分の部屋に入って、ドアを閉めた。

 

ベッドに倒れ込んで、天井を見た。

 

頭の中が、静かだった。静かなのに、うるさかった。

 

——遊びの女たちと、お前は違う。

 

修司の声が、蘇った。

 

——今は、千聖しか見てない。

 

おでこに触れた、唇の感触。ほんの一瞬だったのに、今でもはっきりと覚えていた。

 

千聖は両腕で顔を覆った。

 

ドラマの画面が、頭の中でちらついた。照明が落とされた寝室。引き寄せられていく距離。

 

もし、修司さんが——。

 

「……っ」

 

千聖は跳ね起きた。

 

ダメだ。考えてはいけない。

 

でも、一度浮かんだ想像は、消えなかった。修司の手が、自分の頬に触れたら。修司が、あんなふうに自分を見たら。

 

ちゃんと、愛されなさい。

 

唯の声が、また聞こえた気がした。

 

千聖はベッドの上で膝を抱えた。

 

——何を考えているの、私。

 

恥ずかしかった。自分で自分が恥ずかしかった。でも、止まらなかった。

 

二週間。アトリエに行けていない。修司の声を、聞けていない。からかわれていない。コーヒーを淹れてもらっていない。

 

当たり前にあったものが、なかった。

 

それだけで、こんなに落ち着かないなんて。

 

千聖はスマートフォンを手に取った。修司との会話履歴を開いた。最後のメッセージは、十二日前だった。

 

『忙しそうだな』

 

それだけだった。千聖は『ええ』と返した。それきりだった。

 

画面を見つめながら、千聖は思った。

 

——会いたい。

 

シンプルな言葉だった。それだけだった。

 

でも、その気持ちが、胸の中でどうしようもなく大きかった。

 

修司さんに会いたい。アトリエに行きたい。砂糖二つのコーヒーを飲みたい。修司さんの隣に座っていたい。

 

それだけで、きっと、この落ち着かない気持ちが、少し静まる気がした。

 

千聖はスマートフォンを胸に抱えたまま、目を閉じた。

 

——クリスマスまでに、一日だけでも空きができないかしら。

 

窓の外で、風が鳴った。

 

師走の夜は、静かで、冷たかった。

 

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