十二月に入ると、千聖のスケジュールは一気に埋まった。
ドラマの撮影、雑誌の撮影、年末のバラエティ特番、舞台挨拶。マネージャーの藤田から送られてくるスケジュール表は、空白を探す方が難しいほどだった。
「白鷺さん、来週の火曜日も追加で入りました。朝八時スタートです」
「わかりました」
千聖は手帳に書き込みながら、答えた。忙しい。それはわかっていた。ありがたいことだ、とも思っていた。
でも、気づけばアトリエに行けない日が、二週間続いていた。
街は、クリスマス一色だった。
撮影の合間に通る渋谷も、表参道も、イルミネーションが灯って、カップルが手を繋いで歩いている。
千聖は車の窓から、それをぼんやりと眺めた。
信号待ちの間、歩道で男性が女性の肩を抱いていた。女性が笑った。男性が何か耳元で言って、女性がますます笑った。
——微笑ましいわね。
そう思おうとして、思えなかった。
胸の奥に、何かがちりりと刺さった。
修司さんに、最後に会ったのはいつだろう。
千聖は目を閉じた。
翌日の撮影現場は、ラブロマンスのドラマだった。
千聖の役は、年上の男性に片想いをしている大学生。クリスマスのシーンで、相手役の男優と向き合うシーンがあった。
「では、キスシーンから行きましょう」
監督の声が飛んだ。
千聖はいつも通り、役に入った。相手役の男優の目を見た。演技として、その人を見た。
——なのに。
唇が触れた瞬間、頭の中に、別の顔が浮かんだ。
修司さん。
千聖は内心で、慌てて打ち消した。
「カット、OKです。白鷺さん、今日も素晴らしかったです」
監督の声を、遠くで聞いた。
帰宅したのは、夜の十時を過ぎていた。
玄関のドアを開けると、リビングから明かりが漏れていた。
「お帰り、千聖。遅かったわね」
唯がソファで寛いでいた。手元にワイングラス。テレビには、ドラマが映っていた。
「ただいま。見てるドラマ、面白い?」
「ええ、最近のお気に入りよ。ちょうどいいところだから、一緒に見ない?」
千聖はコートを脱いで、隣に腰を下ろした。
画面の中では、男女が向き合っていた。照明が落とされた寝室。男性が女性の頬に触れて、ゆっくりと引き寄せて——
千聖は、目が釘付けになった。
べつに、珍しい場面でもなかった。女優として、そういうシーンは日常的に目にする。
なのに今夜は、なぜか、画面から目が逸らせなかった。
「……いいドラマね」
唯がしみじみと言った。
「ヒロインが幸せそうで、見てるこっちも嬉しくなる。やっぱり愛されてる女の顔って、特別よね」
千聖は何も言わなかった。
「千聖も、ああなるといいわね」
「……母さん」
「本当のことよ」唯がワインを一口飲んだ。「修司さんに、ちゃんと愛されなさい」
千聖は視線をテレビに戻した。画面の中の、幸せそうな女性の顔を見た。
ちゃんと、愛されなさい。
「……おやすみなさい」
千聖は立ち上がった。
「あら、もう寝るの?」
「疲れたから」
「そう。おやすみ」
自分の部屋に入って、ドアを閉めた。
ベッドに倒れ込んで、天井を見た。
頭の中が、静かだった。静かなのに、うるさかった。
——遊びの女たちと、お前は違う。
修司の声が、蘇った。
——今は、千聖しか見てない。
おでこに触れた、唇の感触。ほんの一瞬だったのに、今でもはっきりと覚えていた。
千聖は両腕で顔を覆った。
ドラマの画面が、頭の中でちらついた。照明が落とされた寝室。引き寄せられていく距離。
もし、修司さんが——。
「……っ」
千聖は跳ね起きた。
ダメだ。考えてはいけない。
でも、一度浮かんだ想像は、消えなかった。修司の手が、自分の頬に触れたら。修司が、あんなふうに自分を見たら。
ちゃんと、愛されなさい。
唯の声が、また聞こえた気がした。
千聖はベッドの上で膝を抱えた。
——何を考えているの、私。
恥ずかしかった。自分で自分が恥ずかしかった。でも、止まらなかった。
二週間。アトリエに行けていない。修司の声を、聞けていない。からかわれていない。コーヒーを淹れてもらっていない。
当たり前にあったものが、なかった。
それだけで、こんなに落ち着かないなんて。
千聖はスマートフォンを手に取った。修司との会話履歴を開いた。最後のメッセージは、十二日前だった。
『忙しそうだな』
それだけだった。千聖は『ええ』と返した。それきりだった。
画面を見つめながら、千聖は思った。
——会いたい。
シンプルな言葉だった。それだけだった。
でも、その気持ちが、胸の中でどうしようもなく大きかった。
修司さんに会いたい。アトリエに行きたい。砂糖二つのコーヒーを飲みたい。修司さんの隣に座っていたい。
それだけで、きっと、この落ち着かない気持ちが、少し静まる気がした。
千聖はスマートフォンを胸に抱えたまま、目を閉じた。
——クリスマスまでに、一日だけでも空きができないかしら。
窓の外で、風が鳴った。
師走の夜は、静かで、冷たかった。