砂糖二つの特等席   作:y@s

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第34話 合鍵

 

 

クリスマスイブの朝、千聖のスマートフォンには仕事のメッセージが三件届いていた。

 

年末特番の収録時間変更。雑誌の撮影が延長になる可能性。舞台挨拶の動線確認。

 

千聖はそれを読みながら、手帳を開いた。

 

二十四日。二十五日。どこにも、空白はなかった。

 

——そう、よね。

 

わかっていた。最初からわかっていた。芸能界にとってクリスマスシーズンは書き入れ時で、売れている女優にとっては特にそうだった。ありがたいことだ。本当に、ありがたいことだった。

 

でも。

 

千聖は手帳を閉じた。

 

——修司さんに、もう三週間会えていない。

 

三週間。二十一日。こんなに長く会えなかったのは、初めてだった。

 

最後に交わしたメッセージも、もう一週間前だった。『年内、忙しいか』と修司から来て、千聖が『そうみたいです』と返した。それきりだった。

 

——忙しいのはわかってる。修司さんだって仕事がある。私だって仕事がある。それくらいのことは——。

 

千聖は枕に顔を埋めた。

 

——会いたい。

 

理屈じゃなかった。ただ、会いたかった。修司さんの声を聞きたかった。からかわれても構わなかった。砂糖二つのコーヒーを飲みたかった。あのアトリエの空気の中に、ただいたかった。

 

我慢できている。ちゃんと我慢できている。

 

……できていない。

 

千聖はごろんと寝返りを打った。天井を見た。

 

街はクリスマス一色だった。撮影の移動中に車の窓から眺めるたびに、カップルが手を繋いで歩いている。イルミネーションの下で笑い合っている。肩を寄せて、ショーウィンドウを覗き込んでいる。

 

いいなぁ——羨ましい。

 

思ってしまってから、千聖は少し驚いた。自分がそんなことを思うとは、思っていなかった。

 

でも、羨ましかった。

 

修司さんとああやって歩けたら。表参道のイルミネーションの下を、二人で歩けたら。

 

——修司さんは、どんな顔をするかしら。

 

きっといつも通り、涼しい顔をしているだろう。でもひょっとしたら、少しだけ照れるかもしれない。あの耳が赤くなる感じで。

 

想像したら、頬が熱くなった。

 

——何を考えているの、私。

 

千聖は両手で顔を覆った。

 

でも、歩いてみたい。

 

消せなかった。

 

——情けないわね、本当に。

 

思ってから、少しだけ可笑しくもなった。ポーカーフェイスで通ってきた千聖が、枕に顔を埋めて、一人で顔を赤くしている。

 

……十六歳なんだから、仕方ないのかもしれない。

 

そうだった。そうなのだった。

 

 

収録が終わったのは、夜の七時を少し過ぎた頃だった。

 

予定より早かった。

 

マネージャーの藤田が「次は明日の朝です」と言った瞬間、千聖の中で何かが決まった。

 

「藤田さん、今日はここで上がります」

 

「送りましょうか」

 

「大丈夫です。自分で帰ります」

 

藤田は少し戸惑ったが、頷いた。

 

千聖はコートを羽織って、外に出た。

 

アトリエまで、タクシーで十五分。

 

車の窓から、夜の街を眺めた。イルミネーションが、オレンジと金色に輝いていた。カップルが手を繋いで歩いていた。

 

——いいなぁ。

 

また思った。今度は、隠さなかった。

 

修司さんと、歩きたい。

 

 

エレベーターで四階。廊下を歩いた。アトリエのドアの前に立った。

 

ノックした。

 

返事がなかった。

 

もう一度、ノックした。

 

やはり、返事がなかった。

 

ドアノブに手をかけた。鍵がかかっていた。

 

——いない。

 

わかっていたことだった。修司だって仕事がある。連絡もせずに来た自分が悪かった。

 

でも。

 

千聖はドアの前に、立ち尽くした。廊下は静かで、どこかで換気扇が回っている音だけがしていた。

 

——馬鹿みたい。

 

連絡もせずに来て、鍵がかかったドアの前に立って。仕事を早く終わらせて、ここまで来たのに。

 

笑えた。笑えるはずだった。

 

でも、笑えなかった。

 

目の奥が、じわりと熱くなった。

 

千聖はその場にしゃがみ込んだ。膝を抱えて、ドアを見た。

 

ドアは、何も言わなかった。

 

一粒だけ、こぼれた。

 

素早く指で拭った。

誰も見ていない廊下で、一人で泣くなんて、みっともなかった。

でも、その一粒が、三週間分の重さをしていた。

 

会いたかった。

 

それだけだった。なんでもよかった。からかわれても、仕事の話だけでも、コーヒーを飲んで、少し話して、それだけでよかった。

 

ただ、ここにいる修司さんに、会いたかった。

 

どのくらいそうしていただろう。

 

廊下の奥で、エレベーターが動く音がした。扉が開いた。足音がした。

 

千聖は顔を上げた。

 

 

「……千聖?」

 

修司だった。

 

少し息が上がっていた。鍵を手に持って、驚いた顔をしていた。

 

「なんで……連絡も」

 

千聖は立ち上がろうとした。膝が、少し震えた。

 

修司が近づいてきた。千聖の顔を見て、眉が少し動いた。

 

「……泣いてるのか」

 

「泣いてません」

 

「目が赤い」

 

「……気のせいです」

 

修司はしゃがんで、千聖と目線を合わせた。それから、静かに言った。

 

「忘れ物を取りに戻ったんだ」

 

「……そうですか」

 

「ちょうどよかった」

 

修司は立ち上がって、手を差し出した。

 

千聖はその手を、少し迷ってから、取った。

 

引き起こされた。温かかった。

 

 

「少し、歩くか」

 

外に出ると、修司がそう言った。

 

「え」

 

「せっかくだから」

 

千聖は少し驚いて、修司を見た。修司は涼しい顔をしていた。

 

「……いいんですか」

 

「俺が言い出したんだろ」

 

二人は並んで、夜の街に出た。

 

イルミネーションが、あたりを柔らかく照らしていた。

 

さっきまで車の窓から羨ましそうに眺めていた光景の中に、千聖は今、いた。

 

修司さんと並んで、歩いている。

 

——夢みたい。

 

思った瞬間、修司の手が千聖の手を包んだ。

 

千聖は、息を止めた。

 

「……手が冷たい」

 

修司がそれだけ言った。

 

「……手袋、忘れて」

 

「馬鹿だな」

 

でも、手を離さなかった。

 

修司さんと、手を繋いでいる。

 

手を、繋いでいる。

 

……修司さんの手、大きい。

 

どうでもいい感想しか出てこなかった。

頭が、うまく働かなかった。

ただ、繋がれた手の温もりだけが、リアルだった。

 

「……千聖」

 

「は、はい」

 

「ケーキ屋、閉まる前に行くか」

 

「……え、ケーキ」

 

「クリスマスだろ」

 

修司が顎で示した先に、小さなケーキ屋があった。ショーウィンドウに、残り僅かのホールケーキが並んでいた。

 

「……いいんですか、そんな」

 

「売れ残りでいいなら」

 

「売れ残りでも十分です」

 

修司は手を繋いだまま、歩き出した。

 

千聖はその後をついていきながら、口元がゆるんでいくのを止められなかった。

 

クリスマスのケーキを、修司さんと買いに行く。

 

なんでもないことのはずだった。でも、なんでもないことが、どうしようもなく嬉しかった。

 

——修司さん、ずっと手を繋いだままだ。

 

離さないままだった。

 

千聖は、繋がれた手を、少しだけ、強く握り返した。

 

修司は何も言わなかった。

 

ただ、千聖の方を見ずに、前を向いたまま、握り返してくれた。

 

——ああ、どうしよう。

 

幸せだった。

 

 

買ったのは、残り一つのショートケーキだった。

 

「一個しか残ってなかったな」

 

「……二人で食べれば、いいんです」

 

アトリエに戻って、修司がコーヒーを淹れた。千聖がケーキを皿に載せた。フォークを二本用意した。

 

「こんなクリスマスでいいのか?」

 

「十分すぎます」

 

千聖はそう言って、ケーキを一口食べた。甘かった。生クリームが、ふわりと溶けた。

 

「……美味しい」

 

「そうか」

 

「修司さんも食べてください」

 

「あぁ」

 

修司がフォークを手に取った。二人で、一つのケーキを分け合った。

 

アトリエの中に、クリスマスの音楽は流れていなかった。でも、静かで、温かかった。

 

千聖は、コーヒーを一口飲んだ。砂糖が、二つ。

 

これでよかった。

これがよかった。

 

ケーキを食べ終えて、皿が空になった。

 

修司がコーヒーカップを置いて、少し間を置いた。

それから、テーブルの上に何かを置いた。

 

小さな鍵だった。

 

千聖は目を瞬かせた。

 

「……鍵、ですか」

 

「そう」

 

「何の鍵ですか?」

 

「ここのだ」

 

「えっ!」

 

千聖は、鍵を見た。小さな、古い鍵だった。

 

「俺がいない時も、ここに来ていい」

 

修司が静かに言った。

 

「今日みたいに、来た時に誰もいなかったら、困るだろ」

 

千聖は、鍵から目を離せなかった。

 

「……それは」

 

「大したものじゃない。ただの鍵だ」

 

「大したものじゃないって」

 

千聖は顔を上げた。

 

「……大したものです」

 

修司は少し目を細めた。

 

「そうか」

 

「そうです」

 

千聖は、鍵をそっと手に取った。

 

小さかった。でも、重かった。

 

いつでも来ていい。俺がいなくても、ここはお前の場所だ。

 

言葉にはなっていなかった。でも、その鍵は、そういう意味をしていた。

 

「……プレゼント、これにします」

 

「安上がりだな」

 

「違います」千聖は鍵を胸に押し当てた。「世界で一番、嬉しいものをもらいました」

 

修司は何も言わなかった。

 

でも、コーヒーを一口飲んで、窓の外に視線をやった横顔が、いつもより少し、柔らかかった。

 

千聖は鍵を、コートのポケットにそっとしまった。

 

温かかった。手のひらに残った温もりが、なかなか消えなかった。

 

 

家まで送ると、修司が言った。

 

「……いいんですか」

 

「夜だろ」

 

玄関のドアを開けると、リビングから光が漏れていた。唯が起きていた。

 

「あら、お帰り——あら」

 

唯が修司を見て、目を細めた。

 

「修司さん、遅くにありがとうございます」

 

「いえ」

 

「夕飯は? 食べていきますか」

 

「大丈夫です。これから戻りますので」

 

唯はにこにこと二人を見比べて、それから千聖に言った。

 

「ねえ千聖」

 

「なに」

 

「お泊まりしてもよかったのよ」

 

千聖は、固まった。

 

「……え」

 

「修司さんのところに。クリスマスだもの」

 

「……っ、母さん!」

 

「なんで怒るの」

 

「なんでって……なんで……!」

 

千聖の顔が、火がついたように赤くなった。修司を見ることができなかった。修司の方から視線を感じたが、絶対に見れなかった。

 

「ふふ、冗談よ」唯が楽しそうに笑った。「……半分は」

 

「半分って何!」

 

「まあまあ」

 

唯が修司に向き直った。

 

「遅いのに、送ってくださってありがとうございました。また来てくださいね」

 

「ありがとうございます。では」

 

修司が軽く頭を下げて、玄関を出た。

 

千聖はドアの前で、まだ顔が冷めなかった。耳まで熱かった。

 

「……母さん」

 

「なあに」

 

「あんなことを言わないで」

 

「どうして? 本音でしょう」

 

「本音じゃ……」

 

——あったかもしれない。

 

思ってしまって、千聖はまた真っ赤になった。

 

「おやすみなさい!」

 

「あら、早いわね。おやすみ——」

 

千聖は逃げるように自分の部屋に入って、ドアを閉めた。

 

ベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋めた。

 

手のひらに、まだ修司の温もりが残っていた。繋いでいた、右手。

 

——修司さん、最後まで何も言わなかったな。

 

お泊まりの話を聞いた時、修司はどんな顔をしていたのだろう。

 

見れなかった。

 

見ておけばよかった。

 

でも、見れなかった。

 

千聖は枕に顔を押し付けたまま、少しだけ笑った。

 

幸せだった。

 

それだけは、はっきりしていた。

 

窓の外で、遠くの街がまだ光っていた。

 

クリスマスの夜は、静かに更けていった。

 

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