クリスマスイブの朝、千聖のスマートフォンには仕事のメッセージが三件届いていた。
年末特番の収録時間変更。雑誌の撮影が延長になる可能性。舞台挨拶の動線確認。
千聖はそれを読みながら、手帳を開いた。
二十四日。二十五日。どこにも、空白はなかった。
——そう、よね。
わかっていた。最初からわかっていた。芸能界にとってクリスマスシーズンは書き入れ時で、売れている女優にとっては特にそうだった。ありがたいことだ。本当に、ありがたいことだった。
でも。
千聖は手帳を閉じた。
——修司さんに、もう三週間会えていない。
三週間。二十一日。こんなに長く会えなかったのは、初めてだった。
最後に交わしたメッセージも、もう一週間前だった。『年内、忙しいか』と修司から来て、千聖が『そうみたいです』と返した。それきりだった。
——忙しいのはわかってる。修司さんだって仕事がある。私だって仕事がある。それくらいのことは——。
千聖は枕に顔を埋めた。
——会いたい。
理屈じゃなかった。ただ、会いたかった。修司さんの声を聞きたかった。からかわれても構わなかった。砂糖二つのコーヒーを飲みたかった。あのアトリエの空気の中に、ただいたかった。
我慢できている。ちゃんと我慢できている。
……できていない。
千聖はごろんと寝返りを打った。天井を見た。
街はクリスマス一色だった。撮影の移動中に車の窓から眺めるたびに、カップルが手を繋いで歩いている。イルミネーションの下で笑い合っている。肩を寄せて、ショーウィンドウを覗き込んでいる。
いいなぁ——羨ましい。
思ってしまってから、千聖は少し驚いた。自分がそんなことを思うとは、思っていなかった。
でも、羨ましかった。
修司さんとああやって歩けたら。表参道のイルミネーションの下を、二人で歩けたら。
——修司さんは、どんな顔をするかしら。
きっといつも通り、涼しい顔をしているだろう。でもひょっとしたら、少しだけ照れるかもしれない。あの耳が赤くなる感じで。
想像したら、頬が熱くなった。
——何を考えているの、私。
千聖は両手で顔を覆った。
でも、歩いてみたい。
消せなかった。
——情けないわね、本当に。
思ってから、少しだけ可笑しくもなった。ポーカーフェイスで通ってきた千聖が、枕に顔を埋めて、一人で顔を赤くしている。
……十六歳なんだから、仕方ないのかもしれない。
そうだった。そうなのだった。
収録が終わったのは、夜の七時を少し過ぎた頃だった。
予定より早かった。
マネージャーの藤田が「次は明日の朝です」と言った瞬間、千聖の中で何かが決まった。
「藤田さん、今日はここで上がります」
「送りましょうか」
「大丈夫です。自分で帰ります」
藤田は少し戸惑ったが、頷いた。
千聖はコートを羽織って、外に出た。
アトリエまで、タクシーで十五分。
車の窓から、夜の街を眺めた。イルミネーションが、オレンジと金色に輝いていた。カップルが手を繋いで歩いていた。
——いいなぁ。
また思った。今度は、隠さなかった。
修司さんと、歩きたい。
エレベーターで四階。廊下を歩いた。アトリエのドアの前に立った。
ノックした。
返事がなかった。
もう一度、ノックした。
やはり、返事がなかった。
ドアノブに手をかけた。鍵がかかっていた。
——いない。
わかっていたことだった。修司だって仕事がある。連絡もせずに来た自分が悪かった。
でも。
千聖はドアの前に、立ち尽くした。廊下は静かで、どこかで換気扇が回っている音だけがしていた。
——馬鹿みたい。
連絡もせずに来て、鍵がかかったドアの前に立って。仕事を早く終わらせて、ここまで来たのに。
笑えた。笑えるはずだった。
でも、笑えなかった。
目の奥が、じわりと熱くなった。
千聖はその場にしゃがみ込んだ。膝を抱えて、ドアを見た。
ドアは、何も言わなかった。
一粒だけ、こぼれた。
素早く指で拭った。
誰も見ていない廊下で、一人で泣くなんて、みっともなかった。
でも、その一粒が、三週間分の重さをしていた。
会いたかった。
それだけだった。なんでもよかった。からかわれても、仕事の話だけでも、コーヒーを飲んで、少し話して、それだけでよかった。
ただ、ここにいる修司さんに、会いたかった。
どのくらいそうしていただろう。
廊下の奥で、エレベーターが動く音がした。扉が開いた。足音がした。
千聖は顔を上げた。
「……千聖?」
修司だった。
少し息が上がっていた。鍵を手に持って、驚いた顔をしていた。
「なんで……連絡も」
千聖は立ち上がろうとした。膝が、少し震えた。
修司が近づいてきた。千聖の顔を見て、眉が少し動いた。
「……泣いてるのか」
「泣いてません」
「目が赤い」
「……気のせいです」
修司はしゃがんで、千聖と目線を合わせた。それから、静かに言った。
「忘れ物を取りに戻ったんだ」
「……そうですか」
「ちょうどよかった」
修司は立ち上がって、手を差し出した。
千聖はその手を、少し迷ってから、取った。
引き起こされた。温かかった。
「少し、歩くか」
外に出ると、修司がそう言った。
「え」
「せっかくだから」
千聖は少し驚いて、修司を見た。修司は涼しい顔をしていた。
「……いいんですか」
「俺が言い出したんだろ」
二人は並んで、夜の街に出た。
イルミネーションが、あたりを柔らかく照らしていた。
さっきまで車の窓から羨ましそうに眺めていた光景の中に、千聖は今、いた。
修司さんと並んで、歩いている。
——夢みたい。
思った瞬間、修司の手が千聖の手を包んだ。
千聖は、息を止めた。
「……手が冷たい」
修司がそれだけ言った。
「……手袋、忘れて」
「馬鹿だな」
でも、手を離さなかった。
修司さんと、手を繋いでいる。
手を、繋いでいる。
……修司さんの手、大きい。
どうでもいい感想しか出てこなかった。
頭が、うまく働かなかった。
ただ、繋がれた手の温もりだけが、リアルだった。
「……千聖」
「は、はい」
「ケーキ屋、閉まる前に行くか」
「……え、ケーキ」
「クリスマスだろ」
修司が顎で示した先に、小さなケーキ屋があった。ショーウィンドウに、残り僅かのホールケーキが並んでいた。
「……いいんですか、そんな」
「売れ残りでいいなら」
「売れ残りでも十分です」
修司は手を繋いだまま、歩き出した。
千聖はその後をついていきながら、口元がゆるんでいくのを止められなかった。
クリスマスのケーキを、修司さんと買いに行く。
なんでもないことのはずだった。でも、なんでもないことが、どうしようもなく嬉しかった。
——修司さん、ずっと手を繋いだままだ。
離さないままだった。
千聖は、繋がれた手を、少しだけ、強く握り返した。
修司は何も言わなかった。
ただ、千聖の方を見ずに、前を向いたまま、握り返してくれた。
——ああ、どうしよう。
幸せだった。
買ったのは、残り一つのショートケーキだった。
「一個しか残ってなかったな」
「……二人で食べれば、いいんです」
アトリエに戻って、修司がコーヒーを淹れた。千聖がケーキを皿に載せた。フォークを二本用意した。
「こんなクリスマスでいいのか?」
「十分すぎます」
千聖はそう言って、ケーキを一口食べた。甘かった。生クリームが、ふわりと溶けた。
「……美味しい」
「そうか」
「修司さんも食べてください」
「あぁ」
修司がフォークを手に取った。二人で、一つのケーキを分け合った。
アトリエの中に、クリスマスの音楽は流れていなかった。でも、静かで、温かかった。
千聖は、コーヒーを一口飲んだ。砂糖が、二つ。
これでよかった。
これがよかった。
ケーキを食べ終えて、皿が空になった。
修司がコーヒーカップを置いて、少し間を置いた。
それから、テーブルの上に何かを置いた。
小さな鍵だった。
千聖は目を瞬かせた。
「……鍵、ですか」
「そう」
「何の鍵ですか?」
「ここのだ」
「えっ!」
千聖は、鍵を見た。小さな、古い鍵だった。
「俺がいない時も、ここに来ていい」
修司が静かに言った。
「今日みたいに、来た時に誰もいなかったら、困るだろ」
千聖は、鍵から目を離せなかった。
「……それは」
「大したものじゃない。ただの鍵だ」
「大したものじゃないって」
千聖は顔を上げた。
「……大したものです」
修司は少し目を細めた。
「そうか」
「そうです」
千聖は、鍵をそっと手に取った。
小さかった。でも、重かった。
いつでも来ていい。俺がいなくても、ここはお前の場所だ。
言葉にはなっていなかった。でも、その鍵は、そういう意味をしていた。
「……プレゼント、これにします」
「安上がりだな」
「違います」千聖は鍵を胸に押し当てた。「世界で一番、嬉しいものをもらいました」
修司は何も言わなかった。
でも、コーヒーを一口飲んで、窓の外に視線をやった横顔が、いつもより少し、柔らかかった。
千聖は鍵を、コートのポケットにそっとしまった。
温かかった。手のひらに残った温もりが、なかなか消えなかった。
家まで送ると、修司が言った。
「……いいんですか」
「夜だろ」
玄関のドアを開けると、リビングから光が漏れていた。唯が起きていた。
「あら、お帰り——あら」
唯が修司を見て、目を細めた。
「修司さん、遅くにありがとうございます」
「いえ」
「夕飯は? 食べていきますか」
「大丈夫です。これから戻りますので」
唯はにこにこと二人を見比べて、それから千聖に言った。
「ねえ千聖」
「なに」
「お泊まりしてもよかったのよ」
千聖は、固まった。
「……え」
「修司さんのところに。クリスマスだもの」
「……っ、母さん!」
「なんで怒るの」
「なんでって……なんで……!」
千聖の顔が、火がついたように赤くなった。修司を見ることができなかった。修司の方から視線を感じたが、絶対に見れなかった。
「ふふ、冗談よ」唯が楽しそうに笑った。「……半分は」
「半分って何!」
「まあまあ」
唯が修司に向き直った。
「遅いのに、送ってくださってありがとうございました。また来てくださいね」
「ありがとうございます。では」
修司が軽く頭を下げて、玄関を出た。
千聖はドアの前で、まだ顔が冷めなかった。耳まで熱かった。
「……母さん」
「なあに」
「あんなことを言わないで」
「どうして? 本音でしょう」
「本音じゃ……」
——あったかもしれない。
思ってしまって、千聖はまた真っ赤になった。
「おやすみなさい!」
「あら、早いわね。おやすみ——」
千聖は逃げるように自分の部屋に入って、ドアを閉めた。
ベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋めた。
手のひらに、まだ修司の温もりが残っていた。繋いでいた、右手。
——修司さん、最後まで何も言わなかったな。
お泊まりの話を聞いた時、修司はどんな顔をしていたのだろう。
見れなかった。
見ておけばよかった。
でも、見れなかった。
千聖は枕に顔を押し付けたまま、少しだけ笑った。
幸せだった。
それだけは、はっきりしていた。
窓の外で、遠くの街がまだ光っていた。
クリスマスの夜は、静かに更けていった。