砂糖二つの特等席   作:y@s

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第35話 どうしたらいいか、わからない

 

 

ドアを閉めた瞬間から、千聖の中で何かが弾けた。

 

ベッドに倒れ込んで、枕を抱えた。それだけでは足りなくて、枕に顔を押し付けた。それでも足りなかった。

 

——合鍵。

 

合鍵をもらった。

 

アトリエの、合鍵を。

 

修司さんのアトリエの鍵が、今、私のコートのポケットに入っている。

 

千聖はがばりと起き上がって、コートのポケットに手を突っ込んだ。指先に、小さな鍵が触れた。

 

取り出して、手のひらに乗せた。

 

小さかった。古くて、少し使い込まれた鍵だった。

 

「……」

 

声にならなかった。

 

俺がいない時も、ここに来ていい。

 

修司の声が、また頭の中で再生された。

 

「……っ」

 

千聖はそのまま、ベッドに倒れ込んだ。鍵を胸に抱えて、天井を見た。

 

駄目だった。顔がゆるむのを止められなかった。

 

いつでも来ていい。

 

俺がいなくても、ここはお前の場所だ。

 

言葉にはなっていなかったけれど、確かにそういう意味だった。修司さんが、そういう意味で渡してくれた。

 

「……嬉しい」

 

小さく、声に出してみた。

 

部屋の中に、千聖の声が吸い込まれた。

 

「嬉しい、嬉しい、嬉しい……っ」

 

枕に顔を埋めた。足をばたばたとさせた。十六歳の女の子がするような、みっともない喜び方をした。

 

でも、止まらなかった。

 

合鍵だ。合鍵をもらった。修司さんのアトリエの合鍵を。

 

しかも手を繋いで歩いた。ケーキを一緒に食べた。今夜の手を繋ぐあの感触は、また全然違う種類の温かさがあって。

 

修司さんの手、大きかった。

 

また思い出して、また顔が熱くなった。

 

「……どうしよう」

 

本当にどうしようもなかった。

 

千聖はしばらく、枕に顔を埋めたまま動かなかった。嬉しさが、波みたいに何度もやってきた。引いては来て、引いては来て、そのたびに心臓がうるさくなった。

 

 

落ち着いてきた頃、唯の声が蘇った。

 

お泊まりしてもよかったのよ。

 

「……」

 

千聖は天井を見た。

 

修司さんのところに。クリスマスだもの。

 

——もし、本当にそうしていたら。

 

考えてはいけない、と思った。でも、考えてしまった。

 

修司さんのアトリエに泊まる。アトリエには、ソファがある。でも一人しか眠れない広さで。そうしたら修司さんはどこに——。

 

「……っ」

 

千聖は枕を顔に押し付けた。

 

駄目だった。そこから先の想像が、止まらなかった。

 

修司さんが隣にいる。暗い部屋の中で。あの、低くて静かな声で、千聖の名前を呼んで——。

 

「……っっ!」

 

千聖は起き上がった。顔が、耳まで熱かった。頭の中が真っ赤だった。

 

——何を考えているの私!

 

でも、考えてしまった。

 

もし本当にそうなったら。修司さんが、そういう顔で私を見たら。

 

——H、しちゃったりしたら。

 

「だあーっ!!」

 

千聖は枕に顔を押し付けて、声にならない叫びをあげた。

 

恥ずかしかった。自分で自分が恥ずかしかった。でも、嬉しかった。嬉しいのが、また恥ずかしかった。

 

何がどうなっているのかわからなかった。

 

恥ずかしい、嬉しい、恥ずかしい、嬉しい——全部が同時に来て、感情の仕分けが完全に崩壊していた。

 

ポーカーフェイスの、白鷺千聖は、どこに行ったの。

 

思ったけれど、今夜ばかりは仕方がなかった。

 

ベッドの上で、千聖はしばらくもがいた。枕を抱えて、離して、また抱えて。顔を覆って、足をばたつかせて、また枕に顔を押し付けて。

 

どうしたらいいか、わからない。

 

本当に、わからなかった。

 

こんな気持ちを、誰かに話せたら。

 

——母さん。

 

千聖は枕から顔を上げた。

 

 

廊下に出ると、リビングの明かりがまだついていた。

 

ドアをノックすると、「どうぞ」と唯の声がした。

 

「……起きてた?」

 

「ええ。入りなさい」

 

千聖はリビングに入った。唯はソファに座って、ハーブティーを飲んでいた。千聖の顔を見て、少し目を細めた。

 

「……まだ赤いわね、顔」

 

「……うるさい」

 

「座りなさい」

 

千聖は唯の隣に、おずおずと腰を下ろした。しばらく黙っていた。

 

「……ねえ、母さん」

 

「んん」

 

「真面目な話、していい?」

 

唯はハーブティーをテーブルに置いた。千聖の方に、ちゃんと向き直った。

 

「どうぞ」

 

千聖は少し間を置いてから、言った。

 

「……修司さんのことが、好き」

 

「知ってるわ」

 

「だから、いろいろ、考えてしまって」

 

「いろいろって」

 

千聖は膝の上で指を組んだ。

 

「……さっき、母さんがお泊まりの話をして。馬鹿にしないで聞いてほしいんだけど」

 

「馬鹿にしないわ」

 

「……もし本当にお泊まりしたら、って考えて。そうしたら、その先のことまで考えてしまって」

 

唯は何も言わなかった。

 

「その……Hとか、そういうことまで考えてしまって」千聖は声が小さくなった。「それが恥ずかしくて、でも嬉しくて、何がどうなっているのかわからなくて」

 

「……うん」

 

「どうしたらいいか、わからないの。こんな気持ち、初めてで」

 

唯はしばらく、千聖を見ていた。

 

それから、静かに言った。

 

「千聖」

 

「……なに」

 

「それは、普通のことよ」

 

千聖は顔を上げた。

 

「好きな人のことを考えて、そういうことまで想像して、恥ずかしくなる。十六歳の女の子なら、当たり前のことだわ」

 

「……そうなの」

 

「そうよ」

 

唯は少し微笑んだ。

 

「ねえ千聖。母さん、ずっと少し心配していたの」

 

「何を」

 

「あなたが小さい頃からずっと芸能界にいたから。早くから大人の世界にいて、感情を抑える癖がついてしまって」唯は少し声を落とした。「女の子らしい気持ちを、ちゃんと感じられる子に育つかどうか、心配だったの」

 

千聖は、何も言わなかった。

 

「でも」

 

唯が、千聖の手をそっと包んだ。

 

「今夜の千聖を見てたら、安心した」

 

「……どうして」

 

「ちゃんと女の子だもの。好きな人のことを考えて、一人でばたばたして、顔を真っ赤にして」唯がくすりと笑った。「さっき部屋から、なんか声が聞こえてたわよ」

 

「……聞こえてたの」

 

「ふふ、うっすらとね」

 

千聖は両手で顔を覆った。

 

「……恥ずかしい」

 

「恥ずかしくないわ。可愛いわよ、千聖」

 

「可愛くない」

 

「可愛い。母さんから見たら、ずっとそうだったけど、今夜は特別に可愛い」

 

千聖は、顔を覆ったまま、少し黙った。

 

「……修司さんのことが、好きすぎて、どうしていいかわからなくなるの」

 

「うん」

 

「ちゃんと大人になったら、ちゃんとした形にしたいって、修司さんは言ってくれて。私も、そう思ってる。でも、気持ちが先に走ってしまって」

 

「それでいいのよ」

 

唯が言った。

 

「気持ちが先に走るくらい、好きだってことでしょう。それを大事にしなさい」

 

「……大事に」

 

「焦らなくていい。でも、ちゃんと自分の気持ちを見ていなさい。見て見ぬふりをしないで」

 

千聖は、ゆっくりと顔から手を離した。

 

「母さんは……心配じゃないの。修司さんのこと」

 

唯は少し考えてから、言った。

 

「心配は、してるわよ。一回りも年が離れてるんだもの。いろいろ、思うことはあるわ」

 

「でも」

 

「でも、あなたが今夜みたいな顔をするなら、信じてもいいかなって思う」唯が千聖の手を一度ぎゅっと握って、離した。「修司さんも、ちゃんと待てる人だってわかったから」

 

千聖は少し、息を吐いた。

 

「……ありがとう、母さん」

 

「なんで」

 

「話を聞いてくれて」

 

「当たり前じゃない」唯がにっこりと笑った。「でも、Hの話は、もう少し大人になってからにしなさいね」

 

「……母さん!」

 

「冗談よ。半分は」

 

「半分って何!」

 

唯が声を上げて笑った。千聖も、つられて少し笑った。

 

リビングに、二人の笑い声が広がった。

 

「さあ、もう寝なさい。明日も仕事でしょう」

 

「……うん」

 

千聖は立ち上がった。それから、もう一度だけ唯を振り返った。

 

「ねえ母さん」

 

「うん?」

 

「私、ちゃんと女の子だった?」

 

唯は、少し目を細めて、言った。

 

「ええ。ずっとそうだったわよ、千聖」

 

千聖は、それだけで十分だった。

 

「……おやすみなさい」

 

「おやすみ」

 

 

自分の部屋に戻って、ドアを閉めた。

 

ベッドに横になって、またコートのポケットから合鍵を取り出した。

 

手のひらに乗せて、眺めた。

 

いつでも来ていい。

 

「……うん」

 

千聖は、鍵をそっと枕元に置いた。

 

明かりを消した。暗い部屋の中で、目を閉じた。

 

修司さんの手の温もりが、まだ右手に残っていた。

 

それを感じながら、千聖はゆっくりと眠りについた。

 

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