ドアを閉めた瞬間から千聖の中で何かが弾けた。
ベッドに倒れ込んで枕を抱えた。それだけでは足りなくて枕に顔を押し付けた。それでも足りなかった。
——合鍵。
合鍵をもらった。
アトリエの合鍵を。
修司さんのアトリエの鍵が今、私のコートのポケットに入っている。
千聖はがばりと起き上がってコートのポケットに手を突っ込んだ。指先に小さな鍵が触れた。
取り出して手のひらに乗せた。
小さかった。古くて少し使い込まれた鍵だった。
「……」
声にならなかった。
俺がいない時もここに来ていい。
修司の声また頭の中で再生された。
「……っ」
千聖はそのままベッドに倒れ込んだ。鍵を胸に抱えて天井を見た。
駄目だった。顔がゆるむのを止められなかった。
いつでも来ていい。
俺がいなくてもここはお前の場所だ。
言葉にはなっていなかったけれど、確かにそういう意味だった。修司さんがそういう意味で渡してくれた。
「……嬉しい」
小さく声に出してみた。
部屋の中に千聖の声が吸い込まれた。
「嬉しい、嬉しい、嬉しい……っ」
枕に顔を埋めた。足をばたばたとさせた。十六歳の女の子がするような、みっともない喜び方をした。
でも、止まらなかった。
合鍵だ。合鍵をもらった。修司さんのアトリエの合鍵を。
しかも手を繋いで歩いた。ケーキを一緒に食べた。今夜の手を繋ぐあの感触は、また全然違う種類の温かさがあって。
修司さんの手、大きかった。
また思い出して、また顔が熱くなった。
「……どうしよう」
本当にどうしようもなかった。
千聖はしばらく枕に顔を埋めたまま動かなかった。嬉しさが、波みたいに何度もやってきた。引いては来て、引いては来て、そのたびに心臓がうるさくなった。
落ち着いてきた頃、唯の声が蘇った。
お泊まりしてもよかったのよ。
「……」
千聖は天井を見た。
修司さんのところに。クリスマスだもの。
——もし、本当にそうしていたら。
考えてはいけない、と思った。でも、考えてしまった。
修司さんのアトリエに泊まる。アトリエにはソファがある。でも一人しか眠れない広さで。そうしたら修司さんはどこに——。
「……っ」
千聖は枕を顔に押し付けた。
駄目だった。そこから先の想像が止まらなかった。
修司さんが隣にいる。暗い部屋の中で。あの、低くて静かな声で、千聖の名前を呼んで——。
「……っっ!」
千聖は起き上がった。顔が、耳まで熱かった。頭の中が真っ赤だった。
——何を考えているの私!
でも、考えてしまった。
もし本当にそうなったら。修司さんがそういう顔で私を見たら。
——H、しちゃったりしたら。
「だあーっ!!」
千聖は枕に顔を押し付けて声にならない叫びをあげた。
恥ずかしかった。自分で自分が恥ずかしかった。でも、嬉しかった。嬉しいのがまた恥ずかしかった。
何がどうなっているのかわからなかった。
恥ずかしい、嬉しい、恥ずかしい、嬉しい——全部が同時に来て、感情の仕分けが完全に崩壊していた。
ポーカーフェイスの白鷺千聖は、どこに行ったの。
思ったけれど今夜ばかりは仕方がなかった。
ベッドの上で千聖はしばらくもがいた。枕を抱えて、離して、また抱えて。顔を覆って、足をばたつかせて、また枕に顔を押し付けて。
どうしたらいいかわからない。
本当にわからなかった。
こんな気持ちを誰かに話せたら。
——母さん。
千聖は枕から顔を上げた。
廊下に出るとリビングの明かりがまだついていた。
ドアをノックすると、「どうぞ」と唯の声がした。
「……起きてた?」
「ええ。入りなさい」
千聖はリビングに入った。唯はソファに座っハーブティーを飲んでいた。千聖の顔を見て少し目を細めた。
「……まだ赤いわね、顔」
「……うるさい」
「座りなさい」
千聖は唯の隣に、おずおずと腰を下ろした。しばらく黙っていた。
「……ねえ、母さん」
「んん」
「真面目な話、していい?」
唯はハーブティーをテーブルに置いた。千聖の方に、ちゃんと向き直った。
「どうぞ」
千聖は少し間を置いてから、言った。
「……修司さんのことが、好き」
「知ってるわ」
「だから、いろいろ考えてしまって」
「いろいろって」
千聖は膝の上で指を組んだ。
「……さっき、母さんがお泊まりの話をして。馬鹿にしないで聞いてほしいんだけど」
「馬鹿にしないわ」
「……もし本当にお泊まりしたら、って考えて。そうしたら、その先のことまで考えてしまって」
唯は何も言わなかった。
「その……Hとか、そういうことまで考えてしまって」千聖は声が小さくなった。「それが恥ずかしくて、でも嬉しくて、何がどうなっているのかわからなくて」
「……うん」
「どうしたらいいか、わからないの。こんな気持ち、初めてで」
唯はしばらく千聖を見ていた。
それから静かに言った。
「千聖」
「……なに」
「それは普通のことよ」
千聖は顔を上げた。
「好きな人のことを考えて、そういうことまで想像して、恥ずかしくなる。十六歳の女の子なら、当たり前のことだわ」
「……そうなの」
「そうよ」
唯は少し微笑んだ。
「ねえ千聖。母さん、ずっと少し心配していたの」
「何を」
「あなたが小さい頃からずっと芸能界にいたから。早くから大人の世界にいて、感情を抑える癖がついてしまって」唯は少し声を落とした。「女の子らしい気持ちを、ちゃんと感じられる子に育つかどうか、心配だったの」
千聖は、何も言わなかった。
「でも」
唯が千聖の手をそっと包んだ。
「今夜の千聖を見てたら安心した」
「……どうして」
「ちゃんと女の子だもの。好きな人のことを考えて、一人でばたばたして、顔を真っ赤にして」唯がくすりと笑った。「さっき部屋から、なんか声が聞こえてたわよ」
「……聞こえてたの」
「ふふ、うっすらとね」
千聖は両手で顔を覆った。
「……恥ずかしい」
「恥ずかしくないわ。可愛いわよ、千聖」
「可愛くない」
「可愛い。母さんから見たら、ずっとそうだったけど、今夜は特別に可愛い」
千聖は顔を覆ったまま少し黙った。
「……修司さんのことが好きすぎて、どうしていいかわからなくなるの」
「うん」
「ちゃんと大人になったら、ちゃんとした形にしたいって、修司さんは言ってくれて。私も、そう思ってる。でも、気持ちが先に走ってしまって」
「それでいいのよ」
唯が言った。
「気持ちが先に走るくらい、好きだってことでしょう。それを大事にしなさい」
「……大事に」
「焦らなくていい。でも、ちゃんと自分の気持ちを見ていなさい。見て見ぬふりをしないで」
千聖はゆっくりと顔から手を離した。
「母さんは……心配じゃないの。修司さんのこと」
唯は少し考えてから、言った。
「心配は、してるわよ。一回りも年が離れてるんだもの。いろいろ、思うことはあるわ」
「でも」
「でも、あなたが今夜みたいな顔をするなら、信じてもいいかなって思う」唯が千聖の手を一度ぎゅっと握って、離した。「修司さんも、ちゃんと待てる人だってわかったから」
千聖は少し、息を吐いた。
「……ありがとう、母さん」
「なんで」
「話を聞いてくれて」
「当たり前じゃない」唯がにっこりと笑った。「でも、Hの話は、もう少し大人になってからにしなさいね」
「……母さん!」
「冗談よ。半分は」
「半分って何!」
唯が声を上げて笑った。千聖もつられて少し笑った。
リビングに二人の笑い声が広がった。
「さあ、もう寝なさい。明日も仕事でしょう」
「……うん」
千聖は立ち上がった。それから、もう一度だけ唯を振り返った。
「ねえ母さん」
「うん?」
「私、ちゃんと女の子だった?」
唯は少し目を細めて言った。
「ええ。ずっとそうだったわよ、千聖」
千聖はそれだけで十分だった。
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
自分の部屋に戻ってドアを閉めた。
ベッドに横になって、またコートのポケットから合鍵を取り出した。
手のひらに乗せて眺めた。
いつでも来ていい。
「……うん」
千聖は鍵をそっと枕元に置いた。
明かりを消した。暗い部屋の中で目を閉じた。
修司さんの手の温もりがまだ右手に残っていた。
それを感じながら千聖はゆっくりと眠りについた。