手違いからひとつ前のデータを投稿する大失態を犯しました
加筆箇所は組み込んだのて、今日中にもう少し読みやすいように編集し直すので今しばらくご容赦ください。
元日の朝は、静かだった。
千聖は目が覚めると、枕元の合鍵を確認した。昨夜と変わらず、そこにあった。
窓の外に、冬の青い空があった。
——新年、か。
去年は、こんな気持ちで新年を迎えるとは思っていなかった。修司さんのアトリエの合鍵を持っていて、手を繋いで歩いて、ケーキを一緒に食べて。
千聖は合鍵を手のひらに乗せて、少しの間眺めた。
——新年の挨拶、行ってもいいかしら。
メッセージを送ろうとして、やめた。
せっかく合鍵があるのだから。
いつでも来ていい。
修司さんの声が聞こえた気がした。
雑居ビルに着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
エレベーターで四階。廊下を歩いた。アトリエのドアの前に立った。
ノックした。
返事がなかった。
もう一度、ノックした。
やはり、返事がなかった。
——いないのね。
千聖はコートのポケットの中の合鍵を、指先で確かめた。
使っていいのだろうか。修司さんは「来ていい」と言ってくれたけれど、いない時に一人で入るのは、また少し違う気がして。
でも。
いつでも来ていい。俺がいなくても、ここはお前の場所だ。
千聖は深呼吸をひとつした。
「……失礼します」
誰もいない廊下に向かって、小さく言った。
鍵穴に合鍵を差し込んだ。
回した。
かちり、と音がした。
ドアが、開いた。
アトリエの中は、静かだった。
人の気配が、なかった。
当たり前のことだけれど、修司さんがいないアトリエは、初めてだった。
千聖は入口のところで、少しの間、立ち止まった。
布地の匂いがした。コーヒーの名残も、かすかに。いつも通りの匂いなのに、人がいないだけで、部屋がこんなに違って感じるとは思わなかった。
——寂しい。
思ってから、少しおかしくなった。修司さんのいない部屋に来ておいて、寂しいとは。
でも、新鮮でもあった。
いつもは修司さんがいて、千聖は決まってソファに座って、コーヒーを受け取って、向かいに座った修司さんと話す。それがこの部屋での千聖の定位置だった。
でも今日は、誰もいない。
どこを見てもいい。どこに立っていてもいい。
千聖はそっと、部屋の中を歩き始めた。
トルソーの前を通り過ぎた。布地が半分かけてあって、まだ仕事の途中らしかった。スケッチが何枚か、机の上に広げてあった。見ていいものかどうか迷ったが、一番上のものだけ、少し覗いた。線が細くて、丁寧だった。修司さんの手が動いた跡が、そこにあるみたいで、胸がちくりとした。
棚に近づいた。
本が並んでいた。服飾関係の専門書が多かったが、端の方に、少し古びた文庫本が何冊か挟まっていた。背表紙が日焼けしていた。
その棚の隅に、何か小さなものがあった。
手に取った。
四角くて、薄くて、プラスチックの透明なケースに入っていた。中に、四角い板みたいなものが入っている。黒くて、つるつるしていて、真ん中に穴が開いていた。
「……なに、これ」
千聖は首を傾げた。
表面に、小さな文字でタイトルらしきものが書いてあった。音楽のアルバムの名前のようだった。
裏返すと、細かい文字がたくさん並んでいた。曲名のリストらしかった。
「……CD?」
違う気がした。CDより一回り大きくて、薄くて。穴も、CDより大きかった。
千聖はしばらく眺めた。なんとなく、音楽に関係するものだとはわかった。でも、こんな形のものは、見たことがなかった。
——修司さんに、聞いてみよう。
そう思った瞬間、後ろでドアが開く音がした。
「……千聖?」
振り向くと、修司が立っていた。買い物袋を提げていた。
千聖は少し慌てた。
「あ……あの、勝手に入ってしまって、すみません」
「いい。鍵を渡したんだから」
修司は部屋に入ってきた。千聖の手の中のものを見て、少し表情が動いた。
「……それ、どこにあった」
「棚の隅に。これ、なんですか」
修司はそれを受け取って、少し懐かしそうに眺めた。
「MDだ」
「MD?」
「ミニディスク。昔の音楽メディアだ。今はもうほとんど使わない」
「……音楽を聴くもの、なんですか」
「そう。これに曲を録音して、専用のプレーヤーで聴く」
「今のスマートフォンで音楽を聴くみたいな感じ?」
「そうなる、な」
修司は少し笑った気配がした。
「……俺が高校生の頃は、これが普通だった。気に入った曲をMDに録音して、電車の中で聴いてた」
千聖はそれを想像した。高校生の修司が、イヤホンをして電車に乗っている。手の中に、このMDを持って。
「……今みたいにスマートフォンで何千曲も持ち歩けるわけじゃなくて、一枚に八十分くらいしか入らないから、何を録音するかをよく考えてたな」
「八十分……今では考えられないですね」
「そうだな」
「……もっとあるんですか」
千聖がMDを返しながら聞くと、修司がまた棚を探った。
ケースがまとめて出てきた。十枚以上あった。
「……こんなに」
「溜め込んでたな」
テーブルに並べた。ラベルに、手書きで曲名やアーティスト名が書いてある。修司さんの字だった。少し細くて、真面目な字だった。
千聖は一枚ずつ眺めた。
「これ、英語のアーティストですね」
「洋楽だ。高校の時によく聴いてた」
「……これは?」
千聖が別の一枚を手に取った。ラベルに、カタカナでいくつかの曲名が並んでいる。
「当時のヒット曲を録音したやつだ。友達から借りてダビングした」
「ダビング?」
「コピーすること。MDはそれができたから、友達と貸し借りして増やしてた」
「今で言うと、プレイリストを共有する感じですか」
「そうなるな」
千聖はまた別の一枚を取った。ラベルの字が、修司さんのものと少し違う。
「これは修司さんの字じゃないですね」
「友達が書いたやつだ。そのまま返さずにいた」
ラベルには「JAZZ best」と書いてあった。
「ジャズも聴いてたんですか」
「これは友達のやつだけど、聴いてるうちに好きになった」
修司が棚の引き出しからプレーヤーを取り出した。電池を入れ替えて、ジャズのMDを差し込んだ。再生ボタンを押すと、古いジャズが流れてきた。トランペットが柔らかく鳴って、ピアノが続いた。
「……いい」
「そうだろ」
「今も聴くんですか、ジャズ」
「たまにな。仕事中に流すこともある」
千聖はイヤホンを片方借りて、自分も聴きながらラベルを眺めた。残りのMDを手に取った。
古いロックバンドの曲だった。ギターが鋭くて、ボーカルが少し掠れている。
「……誰ですか、これ」
「高校の時に好きだったバンドだ。今はもう解散してる」
「かっこいい」
「そうか」
修司が少し意外そうな顔をした。
「千聖が好きそうな感じじゃないと思ってた」
「どんな感じだと思ってたんですか」
「もっとクラシックとか、落ち着いたやつ」
「普段聴くのはそうですけど、こういうのも好きですよ」
千聖はもう一度、イヤホンを耳に当てた。音楽が、小さく流れた。修司が高校生の時に、繰り返し聴いていた曲。
「これは……インディーズって書いてある」
「さっきのバンドの音源だ。ライブで売ってたやつを録音した」
「CDがあったんですか」
「百枚限定とかで自主制作してたんだ。今はもう手に入らない」
千聖はそのラベルをじっと見た。
「……曲名も書いてありますね」
「全部で八曲入ってる」
千聖はMDを差し替えて、再生した。ロックバンドの音が流れてきた。荒削りな熱気があった。
「……かっこいい」
「そうだろ」
「スマホに入れたいくらいです」
「入れればいい」
千聖はスマートフォンを取り出した。ジャズのアーティスト名を検索した。あった。ダウンロードした。
洋楽も検索した。あった。ダウンロードした。
当時のヒット曲も、一曲ずつ調べてダウンロードした。
「……全部ありました」
「今は便利だな」
「ほんとに」
千聖はインディーズのMDのラベルを見て、バンド名を検索した。
出てこなかった。
曲名で検索した。
出てこなかった。
「……ない」
「そうだな。メジャーデビューしてないから」
「どこにもないんですか」
「どこにもない」千聖が残念そうな顔をしているのを見て、修司が少し笑った。「そういうものだ」
千聖はもう一度、バンド名を変えて検索してみた。やはり出てこなかった。
「……悔しいですね」
「いい曲だろ」
「だから悔しいんです。聴けないのが」
修司はしばらく千聖の顔を見ていた。それから、立ち上がった。
「ちょっと待て」
仕事机のパソコンの前に座った。引き出しからケーブルを取り出した。MDプレーヤーとパソコンを繋いだ。
「修司さん、何を」
「取り込む。音質は落ちるけど、聴けないよりはいいだろ」
千聖は少し驚いた。
「……できるんですか」
「アナログ経由になるけどな。時間がかかる」
修司がパソコンで録音ソフトを開いた。MDプレーヤーの再生ボタンを押した。波形が、画面に現れ始めた。
「……曲が終わったら教えてくれ。次に進める」
「わかりました」
千聖はMDプレーヤーの画面を見ながら、曲が流れるのを待った。一曲目が終わった。
「終わりました」
「次」
修司が操作して、二曲目が始まった。
八曲、全部終わるまで、二人は静かにそれを待った。修司は仕事の手元を見ながら、千聖はイヤホンで曲を聴きながら。
最後の曲が終わった。
「できた」
修司がファイルを整えて、千聖のスマートフォンに転送した。
千聖はイヤホンで一曲目を再生した。さっきと同じ曲が、スマートフォンから流れた。
「……ある」
「音質は粗いけど」
「十分です」千聖はスマートフォンを胸に押し当てた。「ありがとうございます」
「大げさだな」
「大げさじゃないです。どこにもない曲ですよ、これ」
「そんなに気に入ったのか」
「はい」
修司は少し黙ってから、言った。
「……解散した時、もう聴けないんだと思った。だから録音しといてよかった」
千聖はその言葉を、静かに受け取った。
修司さんが大事にしてきた音楽が、今、私のスマートフォンの中に入っている。
「……大切にします」
修司は何も言わなかった。
でも、パソコンの画面に向かいながら、少しだけ、口元が緩んでいた。
不思議な気持ちだった。
それから修司は、棚の奥をまた探り始めた。
「ついでだ、他にも出てきた」
取り出したのは、細長いプラスチックのケースだった。中に、黒くて四角いテープが入っている。
「カセットテープ」
「カセット……」
「さすがにこれはもっと古い。じいさんの工房にあったやつをもらってきた」
千聖はそれを手に取った。テープが薄く透けて見えた。ラベルに、手書きの文字で曲名が書いてある。古い歌謡曲のタイトルが並んでいた。
「……興山さんが聴いてたんですか」
「たぶんな。プレーヤーはないから聴けないけど」
「もったいない」
「そうだな」
修司はカセットをテーブルに並べた。それから、また引き出しを開けた。
「これも出てきた」
修司が引き出しの一番奥から、小さな機械を取り出した。丸みのある、コンパクトなデジタルカメラだった。シルバーのボディが、少し古びていた。
「デジカメ……の前に、これ」
もう一つ、別の機械も出てきた。画面がついていて、十字キーとボタンがある。
「……ゲーム機?」
「ゲームボーイアドバンス。携帯ゲーム機だ」
「実物は初めて見た」
「今でもソフトがあれば動く」
修司は引き出しをさらに探って、小さなカートリッジをいくつか取り出した。テーブルに並べた。
「……何のゲームですか」
「マリオだ。これとこれ」
千聖はカートリッジを手に取った。小さなラベルに、赤い帽子のキャラクターが描いてあった。
「マリオは知ってます。やったことはないけど」
「じゃあやってみるか」
修司がカートリッジを差し込んで、電源を入れた。画面に光が灯った。懐かしそうなメロディが、小さなスピーカーから流れた。
「……かわいい音」
「これがマリオだ」
修司が操作方法を教えてくれた。十字キーで動いて、Aボタンでジャンプ。千聖はゆっくり試した。マリオが走って、ジャンプした。
「……動いた」
「当たり前だ」
「楽しい」
千聖がコースを進んでいくと、穴が現れた。ジャンプのタイミングを間違えて、マリオが落ちた。
「あっ」
「タイミングが早い」
「もう一回やります」
また同じ穴で落ちた。
「……難しい」
「コツがある。穴の端ギリギリまで走ってから跳べ」
「端ギリギリ……」
三回目、慎重に進んだ。端まで走って、跳んだ。渡れた。
「やった!」
「上手い」
「褒めてくれましたね」
「事実だ」
しばらく千聖がやっていたが、ゴール手前でまた落ちた。
「……はい、交代」
修司にゲームボーイを渡した。
修司の手元が、明らかに違った。迷いなく走って、敵を踏んで、コインを取りながら、すいすいと進んでいく。
「……速い」
「慣れてるから」
「何年やってたんですか」
「高校の間はずっとやってたな」
あっという間にゴールした。ファンファーレが鳴った。
「すごい」
「千聖もあと何回かやればできる」
「返してください」
また千聖の番になった。今度は少し長く進めた。ゴール直前でまた落ちた。
「あーっ」
「惜しかった」
「返してください修司さん」
「今は俺の番だ」
「え、交互じゃなかったんですか」
「俺がそんなことを言ったか」
「言ってないけど……」
「まあ、貸してやる」
修司がゲームボーイを渡してきた。千聖は受け取りながら、思わず笑った。
修司さん、ちょっとゲームを独り占めしようとした。
——可愛い。
思ってしまった。言わなかったけれど。
修司が、小さく笑った。
「……ゲームにそんなに食いつくとは思わなかった」
「面白いじゃないですか」千聖は画面から目を離さずに言った。
「修司さんは、高校の時もこうやってやってたんですか」
「まあ、な。じいさんの工房に逃げ込んでる時とか、電車の中とか」
「一人で?」
「友達と回しながらやることもあった」
千聖はその光景を想像した。高校生の修司が、友達とこのゲーム機を回しながら遊んでいる。
二人で交互にやりながら、気づいたら一時間が経っていた。
「次はこれ」
修司がデジタルカメラを取り出した。シルバーのボディが、少し古びていた。
「高校の時に使ってたやつだ。電池が切れてるから動かないけど、データが残ってるかもしれない」
「見られますか」
「SDカードを抜いてパソコンで読めば」
修司が仕事机のパソコンの前に座った。千聖も隣に来た。SDカードを差し込むと、フォルダが開いた。
「……ある」
画像ファイルが、ざっと百枚以上あった。
修司が一番古いフォルダから開いた。
最初の写真は、古いライブハウスの外観だった。看板に、知らないバンドの名前が書いてある。
「……ライブですか」
「さっき話した友達のバンドだ」
次の写真は、狭い楽屋みたいな場所で、男子高校生たちが騒いでいた。一人がカメラに向かって変な顔をしていて、別の一人が笑いながらそれを押さえようとしている。
千聖は思わず笑った。
「修司さんも写ってますか」
「……これだ」
修司が画面の端を指した。
隅に、細い男の子が写っていた。今より少し線が細くて、髪が少し長かった。でも、顔は確かに修司さんだった。少し笑っていた。
「……若い」
「高一の時だ」
「笑ってる」
「なんだ」
「珍しいと思って」千聖は画面を覗き込んだ。「今も笑いますけど、なんか、無防備な感じで」
「……修司さんって、高校時代、どんな感じだったんですか」
「どんな感じって」
「友達は多かったんですか」
「普通だったな。特別多くも少なくもない」
「どんな友達と?」
修司は少し考えてから、答えた。
「服に興味がある奴と、音楽が好きな奴が多かったな。バンドをやってる友達がいて、よくライブを見に行ってた」
「ライブ」
「小さなライブハウスで。チケットが三百円とか五百円の」
「そんなに安いんですか」
「インディーズのバンドはそんなもんだ。でも熱かった。狭い会場で、汗だくで演奏してて」
千聖はゲームの手を少し止めて、修司を見た。
「楽しそうですね」
「楽しかった、な」
修司が少し遠くを見るような顔をした。
修司は何も言わなかった。次の写真に進んだ。
今度は、どこかの街の写真だった。古い商店街の路地で、味のある看板が連なっている。光の入り方が、なんとなく計算されているように見えた。
「……綺麗」
「気に入った場所を撮ってた」
「これも高校の時ですか」
「ああ。古着屋のバイトの帰りに、遠回りして歩き回ってた」
次は、夕暮れの川だった。光が水面に反射して、橙と金色が混ざっていた。
「……修司さん、写真も上手いんですね」
「素人だ」
「でもこれは綺麗だと思います」
次は、また友達との写真だった。どこかの屋上で、みんな制服を着崩して、だらしなく座っている。誰かがポテトチップスの袋を掲げていて、別の誰かが寝転んでいる。
千聖は画面を見ながら、じわじわと楽しくなってきた。
「……みんな、バカやってますね」
「高校生なんてそんなもんだ」
「修司さんもこういう感じだったんですね」
「俺だって高校生だった」
「あの頃は服作りも始めてたから、ライブに行くと、演奏してる人たちの衣装ばかり見てた。このギタリストの革ジャン、どこで買ったんだろうとか、このボーカルのシャツの縫い方が面白いとか」
「……職業病みたいですね」
「高校生から職業病だったな」
千聖はまたゲームに目を戻した。
「それ以外は何をしてたんですか」
「バイトをしてた。生地を買う金が必要だったから」
「何のバイト?」
「最初は飲食店。でも、すぐ辞めて古着屋に移った」
「古着屋が良かったんですか」
「服に囲まれてる方がよかった。店主が面白い人で、ヴィンテージの服のことをいろいろ教えてくれた」
「その経験が、今に繋がってるんですか」
「多少はな」
千聖はそれを聞きながら、修司の高校時代を少しずつ、頭の中で組み立てていった。ライブハウスに通って、古着屋でバイトして、興山さんの工房に逃げ込んで、電車の中でこのゲームをやっていた修司さん。
今の修司さんと、繋がっているようで、少し遠い気もした。
服の写真も多かった。ヴィンテージの革ジャン、古いデニム、面白い柄のシャツ。アングルが細かくて、縫い目や生地の質感まで写し込んでいる。
「古着屋のバイトの時ですか」
「そうだ。気に入った商品を記録してた。仕事でスケッチするより先に、こうやって写真で残してた」
「……それが今のデザインに繋がってるんですね」
「多少はな」
動画ファイルもあった。修司が開くと、手ぶれした映像が流れた。ライブハウスの中で、バンドが演奏している。音が割れていて、画質も荒いけれど、熱気だけははっきり伝わってきた。
「……すごい」
「スマホのカメラじゃないから画質は悪いけど」
「そういうことじゃなくて」千聖は画面を見たまま言った。「雰囲気が、すごく伝わってきて」
演奏が激しくなって、観客が動いた。映像がさらにぶれた。修司の笑い声が、かすかに録音されていた。
千聖はそれを聞いて、胸がちくりとした。
修司さんの、高校生の時の声だ。
「……いいですね、これ」
「何が」
「全部。ライブも、写真も、バカやってる友達も」千聖は少し間を置いた。「修司さんの高校時代が、ちゃんとここにあって」
修司はしばらく、画面を見ていた。
「……懐かしいな」
「今も、その人たちと会うんですか」
「たまにな。みんなばらばらになったけど、年に一度くらいは集まる」
千聖はパソコンの画面を見ながら、もう一度、さっきの屋上の写真に戻った。制服を着崩した高校生たちと、その隅に写っている細い修司さん。
「……私がまだ小さい頃の話ですね」
ぽつりと言ったら、修司が少し止まった。
「……そうなるな」
「なんか、不思議です」
「何が」
「修司さんにも、高校時代があって。私が知らない時間がたくさんあって。でも今ここで、その頃のゲームをやって、写真を一緒に見てるのが」
修司はしばらく何も言わなかった。
「……千聖」
「はい」
「見せてくれてありがとうございます」
「見せようとしたわけじゃないけどな」
「それでも」千聖はにっこりと笑った。「修司さんのこと、また少し知れた気がします」
修司は何も言わなかった。
パソコンの画面を閉じて、立ち上がった。
千聖はしばらく、椅子に座ったまま動かなかった。
さっき見た写真が、頭の中に残っていた。屋上の修司さん。ライブハウスの隅の修司さん。川の写真を撮った修司さん。
——私も、修司さんの写真が欲しい。
思ってしまったら、止まらなかった。
「……修司さん」
「ん」
「写真、撮っていいですか」
修司が振り向いた。
「写真?」
「スマホで。修司さんの」
修司は少し眉を動かした。
「なんで」
「さっきの写真を見てたら、欲しくなって」
「……俺の写真が?」
「ダメですか」
修司はしばらく千聖を見ていた。それから、諦めたように息を吐いた。
「……好きにしろ」
「撮ります」
千聖はスマートフォンを取り出した。修司は仕事机の前に立ったまま、どこを向いていいかわからない様子だった。
「そのままでいいです。自然にしてください」
「自然にしろと言われても」
「じゃあ、窓の方を向いてください」
修司が窓の方を向いた。冬の光が、横顔に当たった。
千聖はシャッターを押した。
画面を確認した。
「……綺麗に撮れた」
「見せるな」
「なんでですか」
「恥ずかしい」
千聖は思わず笑った。修司さんが恥ずかしいと言うのは、珍しかった。
「もう一枚撮っていいですか」
「十分だろ」
「もう一枚だけ」
「……好きにしろ」
千聖がもう一枚撮ろうとした、その瞬間だった。
修司が、突然動いた。
千聖の隣に来たと思ったら、腰に手が回った。
「……っ」
「せっかくだから、二人で撮るか」
修司の声が、すぐそばで聞こえた。
千聖は固まった。修司の手が、千聖の腰をしっかりと引き寄せていた。肩が、修司さんの胸に触れていた。
「……ちょ、修司さん」
「撮れ」
「急すぎます」
「早く撮らないと腕が疲れる」
「疲れないでしょう!」
でも、修司は離さなかった。千聖は仕方なく、震える手でスマートフォンを前に向けた。
画面に、二人が映った。
修司さんはいつも通り、涼しい顔をしていた。千聖は、耳まで真っ赤になっていた。
「……こんな顔で撮れないです」
「撮れ」
「修司さんだけ涼しい顔して……」
「撮れ」
千聖はシャッターを押した。
修司がようやく手を離した。千聖は少し息を整えてから、画面を確認した。
修司が、横から覗き込んできた。
「……悪くない」
「悪くないって」千聖は画面を胸に押し当てた。「修司さんは涼しい顔で、私だけ真っ赤で」
「それがいい写真だろ」
「よくないです」
「お前の顔の方が面白い」
「面白くなくていいんです!」
修司が小さく笑った。
千聖はもう一度、こっそり画面を確認した。
修司さんの手が自分の腰に回っていて、二人の距離が近くて、自分の顔は確かに真っ赤だった。
でも。
——消せない。絶対に消せない。
千聖はスマートフォンをコートのポケットにしまった。合鍵と同じポケットに。
今日だけで、大事なものが二つ増えた。
千聖がソファに戻ると、テーブルの上にゲームボーイがまだ置いてあった。電源を入れた。マリオのメロディが、またアトリエに流れた。
しばらく遊んでいると、修司がコーヒーを二つ持って戻ってきた。千聖の前にカップを置いて、ゲームボーイの画面をちらりと見た。
「……また同じところで詰まってるな」
「詰まってません、考えてるんです」
「同じことだ」
千聖は少し膨れながら、操作を続けた。なんとかクリアできた。
「……やった」
「よかったな」
修司がソファに腰を下ろした。それから、少し間を置いて言った。
「それ、気に入ったならやるよ」
千聖は手を止めた。
「え」
「ゲームボーイ。ソフトもいくつか出てきたし」
修司が机の引き出しからカートリッジをいくつか取り出してテーブルに並べた。マリオが二本、あとは見たことのないタイトルが三本。
「……いいんですか」
「どうせ使わない。暇つぶしには丁度良いだろ」
千聖はゲームボーイとソフトを見比べた。それから、修司を見た。
「……本当にもらっていいんですか」
「やると言った」
「大事にしてたんじゃないんですか」
「大事にはしてたけど、使ってない」修司はコーヒーを一口飲んだ。「お前が使う方がいい」
千聖は、手の中のゲームボーイを見た。
修司さんが高校生の頃に使っていたもの。電車の中で、工房に逃げ込んだ時に、友達と回しながらやっていたもの。
それを、もらえる。
「……ありがとうございます」
「大げさだな」
千聖はソフトをまとめて、そっと膝の上に乗せた。
修司さんのものだったゲームボーイが、私のものになる。
なんでもないものかもしれなかった。でも、なんでもないものが、今日は全部、嬉しかった。
合鍵も、MDも、デジカメの写真も、そしてこれも。
修司さんの過去が、少しずつ、千聖の手の中に来てくれるみたいだった。
「……修司さん」
「ん」
「今日、たくさんもらいました」
「ゲームボーイだけだろ」
「そうじゃなくて」千聖は少し笑った。「修司さんのこと、いろいろ」
修司は何も言わなかった。
コーヒーをもう一口飲んで、窓の外に視線をやった。
耳が、少し赤かった。
「……あけましておめでとうございます」
千聖はようやく言った。
修司が振り向いた。
「遅い挨拶だな」
「来てみたら誰もいなかったんです」
「悪かった。初詣に出かけてた」
「修司さんが初詣」
「変か」
「意外で」
「何を願ったか、は聞くなよ」と修司が言った。
「聞きません」
「賢い」
「でも、気になります」
「聞くなと言った」
千聖は笑いながら、コーヒーを一口飲んだ。砂糖が、二つ。
今日のアトリエは、いつもと違う温度をしていた。
窓の外に、元日の青い空があった。