砂糖二つの特等席   作:y@s

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第4話 晴れた日の遠回り

 

 

それから一週間、千聖は一度もあのビルの前を通らなかった。

 

通らなかった、というより、通れなかった。

正確には——通らないように、していた。

駅からの帰り道に、ほんの少しだけ遠回りをすれば、雑居ビルのある路地を避けられる。

千聖はその遠回りを、意識的に選んでいた。

 

意識的に、というところが、すでに少し、厄介だった。

 

 

撮影現場は、都内のスタジオだった。

 

雑誌の取材、衣装合わせ、カメラの前に立つ。どれも慣れた手順だ。千聖はいつも通りの顔で、いつも通りの角度で、レンズの前に立った。

 

「白鷺さん、今日の衣装、すごく似合ってますね」

 

スタイリストが言った。淡いブルーのワンピース。確かに、悪くない。千聖は「ありがとうございます」と微笑んだ。

 

——修司さんなら、何と言うだろう。

 

思考が、するりと横滑りした。

 

千聖は内心で小さく目を瞬いた。

なぜ今、そこに辿り着いたのか、自分でもわからなかった。修司は服飾デザイナーだ。衣装を見れば、何か言うかもしれない。それだけのことだ。

 

それだけのことのはずなのに、思考はしばらく、そこに留まった。

 

「悪くないんじゃない」くらいは言うかもしれない。でも、きっと一言で終わる。そういう人だ。

 

「白鷺さん?」

 

カメラマンの声で、千聖は意識を引き戻した。

 

「すみません、少し考え事を」

 

「いえ、表情が柔らかくなったので、そのままいきましょうか」

 

シャッターが切られた。千聖は自分の顔が、今どんな表情をしているのか、よくわからなかった。

 

 

学校では、もっとさりげなく、それは来た。

 

古典の授業中だった。教科書を開いて、先生の声を聞いて、ノートを取る。どこにも修司の入り込む隙はない。

 

けれど窓の外を、ふと見た。曇り空だった。

 

雨が降ったら。

 

考えかけて、千聖は静かにノートに視線を戻した。

降らない、今日は降らない、そもそも、降ったとしても、もうあの日とは違う。

あの日は限界で、雨で、偶然で——。

 

ペンが、止まっていた。

 

隣の席の生徒がこちらを見た気がして、千聖はすぐに手を動かした。ポーカーフェイスは崩れていない。ノートの文字は、綺麗に並んでいる。

 

何も、おかしくない。

 

——おかしくない。

 

言い聞かせる必要が出てきた時点で、少しおかしかった。

 

 

一週間が経った夜、千聖はクローゼットの前に立っていた。

 

扉にかけたままのパーカー。

洗濯は、三日前に済ませた、畳んで引き出しにしまおうと思って、そのままにしている。

返しに行けば、それで終わる。

返しに行かなければ、理由が要る。

 

——返しに行けばいい。それだけのことだ。

 

わかっている。

 

アトリエの場所は知っている。

パーカーという返す口実もある。

ついでに礼も言える。

筋が通っている。

何もおかしくない。

 

それなのに、足が動かない理由を、千聖は言葉にできなかった。

 

行けば、また会う、また会えば、また声を聞く、またからかわれて、またうまく返せなくて、またあの砂糖二つのコーヒーを——。

 

千聖はそこで思考を断ち切った。

 

パーカーをそっと手に取った。

柔らかい、洗剤の匂いがする、修司のアトリエの匂いは、もうしない。

 

それが、なぜか少しだけ、寂しかった。

 

「……返しに行くだけ」

 

誰にともなく、呟いた。

 

返しに行くだけだ。

それ以上でも、それ以下でもない。

白鷺千聖は、借りたものをきちんと返す人間だ。

ただそれだけのことで、他に意味はない。

 

パーカーを丁寧に畳んで、鞄の中にしまった。

 

明日。

明日、返しに行く。

 

そう決めてベッドに入ったのに、なぜか眠りにつくまで、ひどく時間がかかった。

 

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