それから一週間、千聖は一度もあのビルの前を通らなかった。
通らなかった、というより、通れなかった。
正確には——通らないように、していた。
駅からの帰り道に、ほんの少しだけ遠回りをすれば、雑居ビルのある路地を避けられる。
千聖はその遠回りを、意識的に選んでいた。
意識的に、というところが、すでに少し、厄介だった。
撮影現場は、都内のスタジオだった。
雑誌の取材、衣装合わせ、カメラの前に立つ。どれも慣れた手順だ。千聖はいつも通りの顔で、いつも通りの角度で、レンズの前に立った。
「白鷺さん、今日の衣装、すごく似合ってますね」
スタイリストが言った。淡いブルーのワンピース。確かに、悪くない。千聖は「ありがとうございます」と微笑んだ。
——修司さんなら、何と言うだろう。
思考が、するりと横滑りした。
千聖は内心で小さく目を瞬いた。
なぜ今、そこに辿り着いたのか、自分でもわからなかった。修司は服飾デザイナーだ。衣装を見れば、何か言うかもしれない。それだけのことだ。
それだけのことのはずなのに、思考はしばらく、そこに留まった。
「悪くないんじゃない」くらいは言うかもしれない。でも、きっと一言で終わる。そういう人だ。
「白鷺さん?」
カメラマンの声で、千聖は意識を引き戻した。
「すみません、少し考え事を」
「いえ、表情が柔らかくなったので、そのままいきましょうか」
シャッターが切られた。千聖は自分の顔が、今どんな表情をしているのか、よくわからなかった。
学校では、もっとさりげなく、それは来た。
古典の授業中だった。教科書を開いて、先生の声を聞いて、ノートを取る。どこにも修司の入り込む隙はない。
けれど窓の外を、ふと見た。曇り空だった。
雨が降ったら。
考えかけて、千聖は静かにノートに視線を戻した。
降らない、今日は降らない、そもそも、降ったとしても、もうあの日とは違う。
あの日は限界で、雨で、偶然で——。
ペンが、止まっていた。
隣の席の生徒がこちらを見た気がして、千聖はすぐに手を動かした。ポーカーフェイスは崩れていない。ノートの文字は、綺麗に並んでいる。
何も、おかしくない。
——おかしくない。
言い聞かせる必要が出てきた時点で、少しおかしかった。
一週間が経った夜、千聖はクローゼットの前に立っていた。
扉にかけたままのパーカー。
洗濯は、三日前に済ませた、畳んで引き出しにしまおうと思って、そのままにしている。
返しに行けば、それで終わる。
返しに行かなければ、理由が要る。
——返しに行けばいい。それだけのことだ。
わかっている。
アトリエの場所は知っている。
パーカーという返す口実もある。
ついでに礼も言える。
筋が通っている。
何もおかしくない。
それなのに、足が動かない理由を、千聖は言葉にできなかった。
行けば、また会う、また会えば、また声を聞く、またからかわれて、またうまく返せなくて、またあの砂糖二つのコーヒーを——。
千聖はそこで思考を断ち切った。
パーカーをそっと手に取った。
柔らかい、洗剤の匂いがする、修司のアトリエの匂いは、もうしない。
それが、なぜか少しだけ、寂しかった。
「……返しに行くだけ」
誰にともなく、呟いた。
返しに行くだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
白鷺千聖は、借りたものをきちんと返す人間だ。
ただそれだけのことで、他に意味はない。
パーカーを丁寧に畳んで、鞄の中にしまった。
明日。
明日、返しに行く。
そう決めてベッドに入ったのに、なぜか眠りにつくまで、ひどく時間がかかった。