四月になった。
千聖は二年生になった。
教室が変わり、下駄箱の位置が変わったけれど、なんとなく去年とは違う空気を感じていた。
昼休み、中庭で、千聖は花音とお弁当を広げていた。
「千聖ちゃんの卵焼き、また綺麗になったね」
花音が、千聖の弁当箱を覗き込みながら言った。
「……そう、かな」
「うん。最初の頃に比べて、最近は綺麗に巻いてある感じ。千聖ちゃんも料理上手になったよねえ」
花音は箸を咥えたまま、にやりと笑った。
「なんか、若奥様みたいじゃない?」
「っ……花音」
千聖は顔を赤くして
「からかわないで」
「からかってないもーん。褒めてるの」
花音がけらけらと笑う。
千聖は誤魔化すように、お茶を一口飲んだ。
——若奥様、か。
自分でも、否定しきれないところがあった。
*
事の始まりは、一月の半ば。修司の誕生日だった。
その少し前、千聖はアトリエで、あるものを見つけていた。
ゴミ箱に、ハンバーガーの包み紙が何枚も丸めて捨てられていた。冷蔵庫を開けても、栄養ドリンクとエナジーバーばかりが並んでいた。まともな食材は、ほとんど見当たらなかった。
——修司さん、本当にこんな生活してるんだ。
千聖は、それまで漠然と「忙しい人だから」と思っていたことが、思っていた以上に酷いのだと知った。
誕生日プレゼントに何を贈るか、ずっと迷っていた千聖だったが、その光景を見てから、答えは自然と決まった。
服でも、時計でも、アクセサリーでもない。ちゃんとした、栄養のある食事。
*
「お弁当、修司さんに?」
唯は、キッチンで千聖の話を聞いて、目を丸くした。
「うん……変、かな」
「ううん、素敵だと思うわよ」
唯は微笑みながら、冷蔵庫を開けた。
「でも千聖、卵焼き以外はまだあんまり作ったことないでしょう。今日は特訓しよっか」
「お願いします……」
「彩りも大事よ。茶色いおかずばっかりだと、美味しそうに見えないの」
唯は手際よく野菜を切りながら、ちらりと千聖を見た。
「それにしても」
「なに?」
「なんだか、花嫁修行でも始めたのかと思っちゃった」
「かっ、母さん……!」
千聖の顔が、みるみる赤くなった。唯は楽しそうに笑うだけで、それ以上は何も言わなかった。
その日から数日、千聖は唯に教わりながら、こっそり練習を重ねた。卵焼き、煮物、唐揚げ——不格好なものも多かったけれど、少しずつ、様になってきた。
*
誕生日の夜、千聖はアトリエの扉を、いつもより緊張しながら開けた。
「修司さん、こんばんは」
「ああ、来たか」
修司は机に向かっていたが、千聖の手にある包みに気づいて、少し目を細めた。
「それは?」
「お誕生日、おめでとうございます」
千聖は包みを差し出した。手が、少し震えていた。
修司が包みを開くと、中から現れたのは、二段の弁当箱だった。
「……弁当?」
「はい」
千聖は俯きがちに、早口になった。
「服とか時計とか、色々考えたんですけど……修司さん、ゴミ箱、ハンバーガーの包み紙ばっかりだったので」
修司の表情が、少し止まった。
「見たのか」
「見ました。冷蔵庫の中身も」
「……それは、気まずいな」
「だから、これにしました。ちゃんと栄養のあるもの、食べてください」
修司は、しばらく何も言わずに弁当箱を見つめていた。
「千聖が、作ったのか」
「はい。母に教わりながら……下手かもしれないですけど」
「開けていいか」
「どうぞ」
蓋を開けると、彩りよく詰められたおかずが並んでいた。卵焼き、唐揚げ、彩り野菜、おにぎりが。不揃いなところもあったが、丁寧に作られたのが、一目でわかった。
修司は、しばらく何も言わなかった。
「……ありがとう」
低い声だった。それだけで、千聖には十分だった。
「食べてください」
「ああ」
修司が箸を取ろうとしたとき、千聖はふと、思いついたように動いた。卵焼きを一切れ、箸でつまむ。
「修司さん、あーん」
言ってから、自分の言葉に千聖の顔が赤くなった。
「……あの、忘れてください」
「いや」
修司が、千聖の手首を軽く掴んだ。
「言ったからには、最後までやれ」
「え……でも」
「千聖」
名前を呼ばれて、千聖は覚悟を決めた。震える手で、卵焼きを修司の口元に運んだ。
修司は、少し目を伏せて、それを食べた。
「……甘い」
「砂糖、ちょっと多めに入れました」
「知ってる。千聖の好みだろう」
修司の口角が、わずかに上がった。
「美味い」
たった一言だったが、千聖の胸に、じんわりと熱が広がった。
「……お返しだ」
修司が、唐揚げを一つ、箸でつまんだ。口の端が、悪戯っぽく上がっていた。
「え?」
「せっかく千聖に食べさせてもらったんだ。俺もやってみたくなった」
「そ、それは別に、無理しなくても……」
「無理してない。むしろ楽しんでる」
悪びれもせず、修司はそう言った。
「千聖」
名前を呼ばれて、千聖は動きを止めた。修司が、唐揚げを差し出してくる。逃げ場がなかった。
「……ほら、あーん」
からかうような声だった。千聖は真っ赤になりながら、目を閉じて、小さく口を開けた。修司の指先が、少しだけ唇に触れた。
「っ……」
千聖の顔が、耳まで赤くなった。唐揚げの味なんて、ほとんどわからなかった。
「美味いか」
「……美味しい、です」
「そうか」
修司は満足そうに笑って、また自分の箸を弁当に伸ばした。愉快そうな顔を、隠そうともしなかった。千聖だけが、まだ顔を赤くしたまま、俯いていた。
——ずるい。修司さん、絶対わざとやってる。
そう思いながらも、千聖は嫌ではなかった。むしろ、胸の奥が温かくて、少しくすぐったかった。
アトリエの中には、二人分の、ささやかな誕生日の時間が流れていた。
*
それから千聖は、時間に余裕のある日は、修司の分と自分の分、二つの弁当を作るようになった。もちろん、唯の指導は今も続いている。
「千聖ちゃん、今日のお弁当も気合入ってるね」
花音の声で、千聖は回想から我に返った。
「……ちょっと入れすぎたかも」
「あはは。でもいいんじゃない、そういうの」
花音は卵焼きを一つ、千聖の弁当からつまみ食いした。
「あ、花音」
「一個だけ! ね、千聖ちゃん」
「……もう」
千聖は苦笑しながら、自分の卵焼きを一つ、花音の弁当箱に移した。
「そういえばさ」花音が、口をもぐもぐさせながら言った。「彼氏いたら、私も花嫁修行しようかな」
「花音には気の早い話じゃない?」
「千聖ちゃんに言われたくないんだけど!」
二人は顔を見合わせて、笑った。
四月の風が、階段の踊り場を吹き抜けていった。桜の花びらが、まだ少しだけ、空を舞っていた。