千聖の誕生日は、平日だった。今年は朝から夜まで、テレビドラマの撮影が入っている。
——仕方ない。誕生日くらい、いつも通り。
そう割り切っていた千聖だったが、修司はもっと早くから、別のことを考えていた。誕生日当日ではなく、千聖の一日オフの日に合わせて、予定を組んでいた。
それを、千聖はまだ知らなかった。
*
「ねえ、知ってる?」
放課後、隣のクラスの子が、興奮気味に話しているのが聞こえてくる。
「校門のところに、すっごいかっこいい人がいるんだって。車で誰か待ってるみたい」
「え、モデルとか?」
「わかんない。でもオーラすごいって」
「誰かの彼氏だったりして」
「誰のー……」
花音が、目を輝かせて千聖の肩を叩いた。
「千聖ちゃん、見に行こう!」
「……別に、興味ないけど」
「またまたぁ。話のネタになるって。ほら行くよ」
花音に腕を引かれ、千聖はしぶしぶ廊下を歩いた。
*
校門の前には、フレンチブルーの車が停まっていた。低く構えた、流線型のシルエット。見慣れない外車だった。
そのボンネットに、修司が腰かけていた。
「今日は特別授業でも見学に来たんですか」「お名前教えてください」——数人の生徒たちが、遠巻きに、けれど確実に囲むようにして修司に声をかけていた。修司は困ったような、けれど無下にもできないような表情で、短く相槌を打っている。
「……えっ」
千聖は、その場で足を止めた。
「あれ、千聖ちゃんの……」
花音が、千聖の顔を覗き込んでくる。千聖は答えられなかった。
胸の奥に、ちりっとした感覚があった。理由は自分でもよくわかっていた。
——女の子に、囲まれてる。
修司が千聖に気づいたのは、千聖が校門を出たときだった。
「悪い、連れが来たようだ」
「千聖」
修司が立ち上がると、周りの生徒たちが、少し残念そうにさっと視線を逸らした。
「女の子に囲まれて、ずいぶん楽しそうですね」
「別に楽しくはなかったが」
「そう見えました」
「ふぅ…やれやれ」
修司は、小さくため息をつき、少し困ったように眉を下げたが、それ以上言い訳はせず、車の後部から大きな衣装ケースを取り出した。
「ほら、これ」
「……何ですか?」
「これから、デートだろ。その制服のままってわけにもいかないからな。着替えてこい」
千聖がケースを開けると、中にはサックスブルーのブラウス、ライトグレーのプリーツスカート、白のレザースニーカー、そして小さくて可愛らしいキャメルのミニレザーバッグが、丁寧に畳まれて入っていた。
「……これ、私に?」
「サイズは合ってるはずだ」
千聖は、言葉を失った。中身の一つ一つが、自分の好みを知り尽くしたような、けれど決して派手すぎない、上品な選び方だった。
「花音、更衣室、一緒に来てくれる?」
「もちろん! てか私も見たい、それ」
*
学校の更衣室で、千聖はケースの中身に着替えた。ブラウスの生地は驚くほど柔らかく、スカートの丈も絶妙だった。
「……わ」
鏡の前に立った千聖を見て、花音が声を上げた。
「千聖ちゃん、めちゃくちゃ可愛いんだけど! てかこのバッグ、どこの? 私も欲しい」
「わからない……でも、すごく軽い」
「修司さん、センス良すぎでしょ。いいなぁ」
花音は、バッグを羨ましそうに眺めながら、千聖の背中を押した。
「ほら、早く見せてきなよ」
*
校門に戻ると、修司が車に寄りかかって待っていた。千聖の姿を見て、少し目を細める。
「さすが人気女優だな。着こなしが完璧だ」
「……からかわないでください」
「からかってない」
修司は、まっすぐに千聖を見た。
「よく似合ってる」
たった一言だったが、千聖の頬が、じわりと熱くなった。
修司の視線が、千聖の手首に留まった。
「……そのブレスレット」
千聖の左手首には、去年修司から贈られたブレスレットがあった。
「はい。春になるとつけたくなって」
「そうか…ありがとう」
短い返事だったが、修司の目元が、わずかに緩んだ気がした。千聖は、その視線に気づかれないように、そっと手首を隠すように袖を引いた。
「花音、また今度ね」
「うん、いってらっしゃーい! ばっちり楽しんできてね!」
花音が、にやにやしながら手を振ってくる。千聖は顔を赤くしながら、助手席のドアを開けてもらった。
*
車が走り出すと、千聖はシートベルトを締めながら、あらためて車内を見回した。
「修司さん、車、持ってたんですね。知りませんでした」
「普段はあまり乗らない。アトリエまでは自転車で十分だからな」
「自転車、乗ってるんですか」
「電動のママチャリだ。代官山あたりは坂が多くてな、自転車がないと生活できない」
「……修司さんが、ママチャリ」
千聖は思わず笑ってしまった。
「なんだ、おかしいか」
「ちょっと、想像つかなくて」
「見た目で判断するな。あれは正義だ」
「後ろにもカゴを付けてあるから荷物も沢山運べる」
真顔で言うので、千聖はますます笑いをこらえきれなかった。
「そういえば、修司さんって、どんな所に住んでるんですか」
「知り合いがやってる安いホテルと年間契約してる」
「ホテル……?」
「寝るだけだからな。部屋を借りても、あまり帰らないし、色々楽なんだ」
「アトリエに泊まること多いですもんね」
「それに、あそこのホテル、モーニングがバイキングで美味いんだ」
「……なんか、思っていたのと全然違います」
「どんなの思ってたんだ」
修司が、ちらりと千聖を見た。千聖は、少し考えてから、視線を逸らした。
「……秘密です」
ーーー
修司は前を見たまま、静かに続けた。
「本当は、誕生日当日に予定を合わせたかった。だが今年は仕事だろう。だから、お前のオフの日に合わせて、前々から予定を組んでおいた」
「そんな前から……」
千聖は、言葉を失った。
「向かう先は、横浜の山手にある洋館だ。一日一組限定の、予約困難なサロンがある」
「予約困難……」
「なかなか取れないことで有名な場所だ。だから、知り合いのつてを頼ってねじ込んでもらった」
事も無げに言う修司に、千聖はまた、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
「まだ礼を言うには早い。着いてからだ」
*
洋館に着いたのは、予約時間より少し早い頃だった。
蔦の絡まる煉瓦の壁、アーチ型の窓、手入れの行き届いた庭園。まるで異国の映画に迷い込んだような場所だった。
「時間まで、少し庭を歩くか」
「はい」
二人は、石畳の小道をゆっくりと歩いた。庭には春の花が咲き誇り、若葉が風に揺れていた。遠くに、港の景色がかすかに見えた。
「……こんな景色、初めて見ました」
「気に入ったか」
「はい、とても」
千聖は、隣を歩く修司を見上げた。柔らかな春の光が、二人の間を静かに満たしていた。
しばらく無言で歩いていると、修司がふと足を止めた。
「花、好きなのか」
庭の一角、満開の芝桜を見つめながら、千聖が立ち止まっていたことに気づいたらしい。
「好き、というか……綺麗だなって」
「うちのアトリエにも、少し飾るか」
「え?」
「出窓とかに」
千聖は、想像してみた。修司が花の世話をしている姿を。似合わないような、けれど妙にしっくりくるような、不思議な絵だった。
「想像すると、面白いです」
「なんだそれ」
「いえ、なんでも」
千聖はくすくすと笑った。修司は少し不服そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
庭の奥に停めた車を、千聖はちらりと振り返った。
「あの車、大事にしてるんですね」
「大事にはしてる。あまり乗らないと機嫌が悪くなるからな。今日は久しぶりの遠出だから、こいつのご機嫌取りも兼ねてる」
「車の機嫌って……」
「本当だ。エンジンの掛かりが悪くなって拗ねるんだ」
「普段は、どこに置いてるんですか」
「高校の後輩がやってる店に預けてある」
「お店……何のお店ですか」
「車の買い付けだ。古くて希少な車を見つけてきて、自分の店で直して、オークションに出す」
「それって、修司さんの本業と関係あるんですか」
「いや、あいつの趣味と実益を兼ねた商売だ。俺は時々手伝う程度だな」
千聖は、少し感心したように車の方を見た。
「修司さんの周り、面白い人ばっかりですね」
「似た者同士が集まるんだろう」
石畳の小道を抜けると、遠くにベルの音が聞こえた。案内の時間らしい。
「そろそろか」
「はい」
二人は、庭園を抜けて、洋館の玄関へと戻っていった。
*
案内された部屋は、アンティークの調度品が並ぶ、静かな一室だった。窓からは、山手の緑と、遠くに港の景色が見える。
テーブルには、すでに白いクロスが掛けられ、銀色のケーキスタンドが用意されていた。
「誕生日、おめでとう、千聖」
修司が、椅子を引いてくれる。
千聖は、込み上げてくるものを堪えながら、静かに椅子に座った。
「……ありがとうございます」
しばらくして、スタッフが銀のポットと、三段のケーキスタンドを運んできた。
一番下の段には、キュウリと燻製サーモンのサンドイッチ、卵とクレソンのフィンガーサンド。真ん中の段には、焼きたてのスコーンが二種類——プレーンと、紅茶葉を練り込んだもの。そして一番上には、小さな苺のタルト、抹茶のマカロン、薔薇の形をしたショコラが並んでいた。
「わあ……」
千聖は、思わず声を漏らした。
「好きなものから食べていい」
「どれも綺麗すぎて、もったいないです」
「見るためじゃなく、食うために作られてる。遠慮するな」
修司にそう言われて、千聖はまず、苺のタルトに手を伸ばした。一口食べると、甘酸っぱい苺と、なめらかなカスタードが、口の中でとろけた。
「美味しい……」
「そうか」
修司は、紅茶を一口飲みながら、千聖の様子を眺めていた。
「修司さんも、食べてください」
「見てる方が楽しい」
「そんな……一人だけ見られてるの、恥ずかしいです」
「なら、俺の分も食わせてくれ」
修司が、スコーンを一つ、皿ごと千聖の方に寄せた。千聖は少し戸惑いながらも、クロテッドクリームとジャムを、丁寧に塗った。
「はい、どうぞ」
差し出されたスコーンを、修司は素直に受け取って食べた。
「悪くない」
「褒めてください、素直に」
「美味い」
短い返事だったが、千聖にはそれで十分だった。
千聖は、ふと自分の服に視線を落とした。
「そういえば、この服……」
「気に入らなかったか」
「そうじゃなくて。てっきり、修司さんが仕立ててくれるのかと思ってました」
修司の手が、一瞬止まった。
「……最初は、そのつもりだった」
「え?」
「今、大きな仕事を抱えてて、時間が取れなかった。悪いな、既製品で」
「そんな、謝らないでください」
千聖は、慌てて首を振った。
「これだって、すごく可愛いです。サイズもぴったりだし」
「それは良かった」
修司は、少しだけ安堵したように、紅茶を口にした。
「今度、時間ができたら、ちゃんと仕立ててやる」
「約束ですよ」
「ああ」
窓の外では、庭の若葉が風に揺れ、遠くの港に、小さな船がゆっくりと進んでいくのが見えた。
「千聖」
「はい?」
「今日、楽しいか」
千聖は、少し考えてから、微笑んだ。
「はい。……すごく」
「なら良かった」
修司は、それだけ言うと、また紅茶に口をつけた。何気ない仕草だったが、その横顔には、確かな満足の色が浮かんでいた。
*
洋館を出る頃には、空が少し茜色に染まり始めていた。
「このまま帰るのも、もったいないな」
修司がスタートボタンを押しながら言った。
「え?」
「少し走るか。横浜、ゆっくり見て回ったことないだろう」
「……はい、あまり」
千聖は、助手席に座りながら、少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
車は、山手の坂を下り、港の見える丘公園の脇を抜けていった。窓の外には、赤レンガ倉庫の輪郭が、夕暮れの中に浮かび上がっていた。
「わあ……」
「気になるなら、寄るか」
「はい!」
*
赤レンガ倉庫の前に車を停めると、二人は海沿いの遊歩道をゆっくりと歩いた。海風が、千聖の髪を軽く揺らした。
「潮の匂い、久しぶりです」
「撮影で来ないのか」
「スタジオばっかりで……こういう、ゆっくり歩く時間、あんまりないので」
千聖は、海の方に視線を向けたまま、小さく息をついた。修司は、それを黙って見ていた。
「なら、これからは時々連れてきてやる」
「え?」
「息抜きも必要だろう。仕事ばかりじゃ、お前が保たない」
修司らしい、ぶっきらぼうな優しさだった。千聖は、頬が緩むのを堪えられなかった。
「……ありがとうございます」
*
日が沈み始めると、二人は再び車に戻った。修司はそのまま、みなとみらいの方へ車を走らせた。
大きな観覧車が、夕暮れの空に淡く光り始めていた。
「あれ、乗ったことあるか」
「ないです。近くで見たことも、あんまり」
「乗ってみるか」
「……いいんですか」
「誕生日だろう。今日は、お前の希望を優先する」
千聖は、少し迷ってから、小さく頷いた。
*
観覧車のゴンドラに乗り込むと、ゆっくりと二人の体が持ち上がっていった。窓の外には、みなとみらいの夜景が、少しずつ広がっていく。
「綺麗……」
千聖は、窓に手をついて、景色に見入っていた。
「千聖」
名前を呼ばれて振り返ると、修司が、静かにこちらを見ていた。
「今日一日、どうだった」
「……最高でした。こんな誕生日、初めてです」
「そうか」
修司は、少しだけ目を細めた。
「来年も、再来年も、覚えておく必要がある。お前の誕生日は、これから毎年、俺が忘れない日にする」
「……修司さん」
千聖の胸に、じんわりと熱が広がった。ゴンドラが頂上に差しかかる頃、窓の外には、横浜の夜景が一面に輝いていた。
二人だけの、静かな時間だった。
修司は、わずかに笑った。
千聖もつられて微笑んだ。
観覧車がゆっくりと下降していく間、二人はただ、隣り合って夜景を眺め続けた。