砂糖二つの特等席   作:y@s

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第43話 まだ知らない修司さん

 

 

車が家の近くに着く頃には、あたりはすっかり夜になっていた。街灯の光が、フロントガラスに柔らかく滲んでいる。

「送っていただいて、ありがとうございました」

「ああ」

車が家の前に停まっても、千聖はすぐには降りなかった。シートベルトに手をかけたまま、少しだけ、もじもじしていた。

「……どうした」

「いえ、その……」

言葉を探しているうちに、時間だけが過ぎていく。修司も、急かすことなく待っていた。

「今日、本当に楽しかったので……もう少しだけ、ここにいたいなって」

「俺もだ」

短い返事だったが、千聖には十分だった。しばらく、二人とも動かなかった。窓の外で、夜風が街路樹を揺らしていた。

「……そろそろ、行くか」

「はい」

千聖は、名残惜しさを隠しきれないまま、シートベルトを外した。

車を降りて、家の門の前に立つと、千聖は振り返った。

「今日は、本当にありがとうございました」

「楽しかったならよかった」

修司が、車の窓越しに軽く手を上げる。千聖は、少しの間、その顔を見つめていた。

——今日だけで、もう十分すぎるくらい幸せだったのに。

気づけば、千聖は爪先立ちになっていた。

「千聖……?」

修司が、怪訝そうに眉を寄せた瞬間、千聖はその頬に、軽く唇を寄せた。

一瞬の出来事だった。

「っ……お、おやすみなさい!」

千聖は、耳まで真っ赤になりながら、そのまま門の中へと駆け込んでいった。振り返る余裕もなかった。

車の中に残された修司は、しばらく、頬に手を当てたまま動かなかった。

「……不意打ちだろう、それは」

誰に言うでもなく呟いて、小さく息を吐く。口元は、隠しきれないくらい緩んでいた。

エンジンをかけ、車をゆっくりと発進させる。夜の道を走りながら、修司は何度も、頬に手をやっていた。

家に駆け込んだ千聖を、玄関で唯が出迎えた。

「おかえり。デート、どうだった?」

「た、ただいま……!」

早口で答えながら、靴を脱ごうとする千聖を、唯はにやにやしながら見つめていた。

「……ねえ、千聖」

「な、何?」

「うちの前で、ずいぶん大胆なことするのねぇ」

「……え」

千聖の顔から、音を立てて血の気が引いていくのがわかった。

「お母さん、まさか……」

「窓から、ばっちり見えたわよ。ほっぺに、ちゅーってね」

「うわあああ!」

千聖は、悲鳴のような声を上げながら、両手で顔を覆った。

「見ないでよ、恥ずかしい……!」

「隠すことないじゃない。可愛いキスだったわよ」

「お母さん!」

千聖は、真っ赤な顔のまま、逃げるように階段を駆け上がっていった。唯の笑い声が、後ろから追いかけてくる。

自分の部屋に飛び込んだ千聖は、ベッドに倒れ込みながら、枕に顔を埋めた。

「……きゃー……」

くぐもった声で、小さく叫ぶ。しばらくそうしていたが、やがて仰向けになり、天井を見上げながら、今日一日を思い返した。

校門でのサプライズ、衣装ケース、山手の洋館、庭園、アフタヌーンティー、赤レンガ倉庫、観覧車——次々と浮かんでくる場面に、千聖の頬は緩みっぱなしだった。

「……電動ママチャリ、かぁ」

思い出して、千聖はくすくすと笑った。

——勝手に、もっとかっこいい乗り物を想像してた。

正直に言うと、憧れのデザイナーで、アルピーヌなんて洒落た車を持っているくらいだから、普段からポルシェとか、そういう車で颯爽と移動しているものだと、なんとなく思い込んでいた。まさか、後ろに大きなカゴのついた電動ママチャリで坂道を上っているとは、想像もしていなかった。

「……荷物、たくさん運べるって言ってたな」

想像すると、シリアスな顔でハンドルを握る修司の後ろに、布地の入った大きな紙袋が山積みになっている絵が浮かんできて、千聖はまた笑ってしまった。

住まいのことも、意外だった。てっきり、代官山のどこかに、おしゃれな一人暮らしの部屋を持っているものだとばかり思っていた。観葉植物が置かれた、生活感のない、モデルルームみたいな部屋。

——現実は、年間契約の安いホテル。しかもモーニングのバイキング推し。

想像と現実のギャップが大きすぎて、千聖はベッドの上で足をばたつかせた。

「なんか、すごい人だと思ってたのに」

すごい人には違いなかった。ただ、思っていた「すごさ」の種類が、少し違っていただけだった。着飾らない、生活感のある修司の一面を知れたことが、千聖には、かえって嬉しかった。

「ホテル暮らしとか、後輩のお店とか……知らないこと、まだまだいっぱいあるんだ」

修司について、今日だけでたくさんのことを知った気がした。それが、なんだか嬉しかった。

「また今度、色々聞いてみよ」

千聖は、ブレスレットのついた手首をそっと撫でながら、幸せな気持ちのまま、その夜は眠りについた。

翌日、学校の空気は、いつもと少し違っていた。

「ねえ、聞いた? 千聖ちゃんの彼氏の話」

「昨日、校門にすごいイケメンが来てたんでしょ?」

「モデルだって噂もあるけど……」

すれ違う生徒たちの視線が、なんとなく千聖に集まっている気がした。

「……気のせいじゃない、よね」

千聖は、廊下を歩きながら、小さくため息をついた。

昨日の校門での出来事は、あっという間に学校中に広まっていたらしい。誰が、どこで、どんな車で待っていたのか——尾ひれのついた噂話が、あちこちで囁かれていた。

「千聖ちゃーん」

背後から、花音の声が飛んできた。

「放課後、いつものカフェね。今日は、じっくり聞かせてもらうから」

花音の目が、いつになく真剣だった。千聖は、観念したように肩を落とした。

「……わかったわ」

放課後の質問攻めを想像すると、少し気が重かったが、それでも、昨日の幸せな気持ちは、まだ胸の中に残っていた。

放課後、いつものカフェの隅の席で、花音は身を乗り出していた。テーブルの上には、まだ手をつけていないパンケーキが置かれている。

「さあ、千聖ちゃん。洗いざらい話してもらいましょうか」

「な、何から話せばいいの……」

「まず、あの車の人。修司さんで確定でいいんだよね?」

「……うん」

千聖が小さく頷くと、花音は両手で口元を覆って、声にならない悲鳴を上げた。

「やっぱり! 前から薄々思ってたけど、まさか本当に……! 昨日校門にいたの、モデルだって噂になってるの知ってる?」

「知ってる……今日一日、ずっとその話題だった」

千聖は、疲れたように息をついた。

「で、で? 昨日どこ行ったの? あの車、何て車?」

「アルピーヌ、A110っていう車、らしいよ。フランスの」

「アルピーヌ……名前もかっこいい。それで?」

「横浜の、山手にある洋館まで連れて行ってもらって。アフタヌーンティー」

「はぁーー、優雅」

花音は、うっとりとした顔でため息をついた。

「予約、全然取れない人気のところなんだって。修司さんが、知り合いにお願いしてくれたみたい」

「コネで予約とか、もうそれ漫画の世界じゃん」

「その後、赤レンガ倉庫と、観覧車にも」

「観覧車!? てっぺんで何かなかったの、何か」

花音が、目をきらきらさせながら詰め寄ってくる。千聖は、思わず視線を逸らした。

「……別に、何も」

「嘘。今、目が泳いだ」

「泳いでない」

「泳いでたって。ほら、白状しなさい」

千聖は、しばらく抵抗していたが、花音の圧に耐えきれず、小さな声で呟いた。

「……誕生日、これからも毎年、覚えてるって言ってくれた」

「うわあああ、それは反則でしょ」

花音が、テーブルに突っ伏した。

「千聖ちゃんの彼氏、事情が事情なだけに謎に包まれてる感じあったけど、意外とロマンチストなんだね」

「うん……昨日、色々知らないこと、いっぱい聞けた」

「例えば?」

「電動ママチャリ乗ってるとか」

「……は?」

花音が、真顔になった。

「あの車の人が、ママチャリ?」

「代官山、坂が多いから自転車がないと生活できないんだって」

「なにそのギャップ」

花音は、テーブルに肘をついて、笑いをこらえるように肩を震わせた。

「あと、普段はホテル暮らしなんだって。年間契約してるところがあって」

「セレブすぎる」

「違うの、なんか安いホテルらしいよ。寝るだけだからって」

「余計謎だよ、それ」

花音は、パンケーキにフォークを刺しながら、興味津々な様子で千聖を見た。

「知れば知るほど、面白い人だね、修司さんって」

「うん……」

千聖は、頬を緩めながら頷いた。

「まだまだ、知らないこと、たくさんありそうな気がする」

「それ、幸せそうな顔で言うことじゃないでしょ」

花音が、からかうように笑う。千聖も、つられて笑ってしまった。

窓の外では、夕暮れの光が、カフェのテーブルにやわらかく差し込んでいた。二人の笑い声が、しばらくの間、そこに響いていた。

 

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