楽屋に駆け込んだ千聖を、控えていたマネージャーが迎えた。
「千聖さん、こちらへ。もう時間ぎりぎりです」
「はい、すみません……」
「その制服、そのままで大丈夫です。むしろ、今から着替えてる時間の方がないので」
「……ですよね」
千聖は、崩れていないか鏡で前髪だけ整えると、深呼吸をした。
「さあ、出番よ。笑顔でね」
「はい」
千聖は、舞台へと足を踏み出した。
*
割れんばかりの拍手が、客席から沸き起こる。並んだ出演者たちの中央には、主演女優の姿があった。眩しいライトの中、千聖は、いつも通りの笑顔で、深く一礼した。
司会者の声が、朗らかにホールに響く。
「本日は『RESONANCE』舞台挨拶にお越しいただき、誠にありがとうございます!」
映画『RESONANCE』は、田舎町から単身上京してきた一人の少女が、バンドを組み、プロを目指していく青春サクセスストーリーだった。地方の閉塞感を抜け出し、東京で仲間と出会い、挫折を繰り返しながらも夢に向かっていく主人公の姿が、多くの若い観客の共感を呼んでいた。
千聖が演じるのは、バンドメンバーの一人であり、主人公にとって誰よりも近しい親友の役だった。不器用な主人公を陰で支え、時にぶつかりながらも、最後まで隣で音を鳴らし続ける、そんな役どころだ。
「では、まずは千聖さん。今回演じられた役どころについて、聞かせてください」
司会者からマイクを向けられ、千聖は、いつもの舞台用の微笑みを浮かべた。
「はい。私が演じたのは、主人公のバンドメンバーで、一番の親友でもある役です。不器用な主人公を、時には叱りながら支えていく、そんな役でした」
「撮影で印象に残っているシーンは?」
「バンドメンバー全員で、初めてスタジオでセッションするシーンです。最初はぎこちなかった演奏が、少しずつ息が合っていく様子を、実際に演奏しながら撮影したので、本物のバンドになっていく感覚を味わえました」
千聖の受け答えに、客席から温かい拍手が起こった。
「ところで千聖さん」
司会者が、少しいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「今日は、ずいぶんインパクトのあるご登場でしたね。制服姿で、しかもあの珍しいお車で」
その一言に、客席がどっと沸いた。すでに、会場前でのちょっとした騒ぎは、生中継を見ていた観客の間でも話題になっていたらしい。
「あ……」
千聖は、一瞬言葉に詰まった。
「実は今日、来る途中で電車が止まってしまって……本当に間に合わないかもしれない状況だったんです。制服のまま、着替える時間もなくて」
「それは大変でしたね」
「はい。それで、知り合いに、車で送ってもらうことになったんですけど……その車が、ちょっと、というか、かなり珍しい車で」
「珍しい車、というと?」
「クラシックカーだったんです。すごく綺麗な、赤い車で……正直、私も乗るまで、ちゃんとした車だとは思っていなくて」
司会者が、興味津々に身を乗り出した。
「いいですね、そのエピソード。運転してくださったのは?」
「……友人です」
千聖は、少しだけ言葉を選びながら答えた。客席から、からかうような笑い声と、温かい拍手が入り混じって起こった。
「素敵な友人ですね。おかげで、こうして無事に千聖さんにお会いできました」
「はい、本当に感謝しています」
千聖は、少し照れながらも、はっきりと頷いた。
「今日は、その方も会場の外で待っていてくださっているので……無事に終わったら、ちゃんとお礼を言おうと思います」
その言葉に、客席から、ほのぼのとした拍手が沸き起こった。司会者も、微笑ましそうに頷いている。
「それは素敵ですね。では、気を取り直して、次の質問に参りましょう」
司会が進行を続ける中、千聖はまた、あの車の中で見た修司の横顔を、そっと思い出していた。
「あ、ちょっといいですか」
主演女優が、マイクを引き寄せながら、にやりと笑った。
「私も気になってたんです、その車の話」
「え……」
千聖は、思わず身構えた。
「さっき控室でスタッフさんが話してるの聞こえたんですけど、なんか、ものすごい希少なクラシックカーだったって。詳しい人が見て、二度見してたらしいですよ」
「そ、そうなんですか……私、車に詳しくなくて、よくわからなくて」
「千聖ちゃん、あの車で颯爽と登場して、なんかもうドラマの主人公みたいだったよ。うちの映画、青春バンドものなのに、控室戻ったらみんなその話題で持ちきりだったから」
「俺も見ましたよ、あの車」
隣にいた男性共演者――バンドのドラム役を演じていた俳優――が、急に身を乗り出してきた。その目の色が、明らかに変わっていた。
「あれ、コルベットのC2ですよね!? しかもボディの感じ、絶対L88じゃないですか?」
「え……」
千聖は、突然のマニアックな質問に、目を丸くした。
「あ、すみません、俺、大の車好きで……特にアメ車、大好物なんです。あのキャンディアップルレッドの発色と、サイド出しマフラー、遠目にもわかりましたよ」
「詳しい……ですね」
「詳しいなんてもんじゃないですよ! L88なんて、世界的に見ても現存台数が本当に少ないんです。しかもあの状態の良さ、明らかに素人が維持してる車じゃない」
司会者も、共演者の急な熱の入りように、思わず笑ってしまっていた。
「ちなみに、千聖さん、あの車の持ち主って……」
「あ、それは……友人のおじいさまの車、だそうです」
「おじいさま所有!? ってことは、代替わりして大事に受け継がれてる個体ってことですよね。いや、本当にすごい。今度でいいので、ぜひ間近で拝見させてもらえないですか」
グイグイと詰め寄ってくる共演者に、千聖は思わずたじろいだ。
「そ、それは、私からは何とも……本人に、聞いてみないと」
「お願いします。俺、本当にファンなんで、ああいう個体のオーナーさんに」
主演女優が、呆れたように共演者の肩を叩いた。
「ちょっと、質疑応答中だから。車オタクぶりは、控室に戻ってから存分に語って」
「あ、すみません、つい……」
共演者は、我に返ったように咳払いをして、マイクを置いた。会場からは、微笑ましい笑いが起こっていた。
千聖は、その様子を見ながら、内心でこっそり思った。
——修司さん、絶対今、外で居心地悪そうにしてるだろうな。
そう想像すると、千聖は、こらえきれずに小さく笑ってしまった。
*
一方、ホール前のロータリーでは、修司が、思いのほか大変な状況に置かれていた。
会場入りの様子がテレビとSNSで広まったこともあり、コルベットの周りには、開演前よりもさらに多くの人だかりができていた。
「すごい……本物のC2ですよね」
「こんな綺麗な状態、初めて見ました」
「もしかしてL88ですか? サイドパイプの位置からすると……」
修司は、車に寄りかかったまま、次々と話しかけてくる車好きたちに、短く相槌を返していた。
「そうだ」
「やっぱり! すごい、実車を近くで見られるなんて」
「あの……お写真、撮らせていただいてもいいですか」
「構わない」
修司の返事はどれも簡潔だったが、無下にする様子はなかった。むしろ、慣れた様子で対応している。
「オーナーさんですか?」
「いや、預かってるだけだ」
「羨ましいです……こんな車、運転させてもらえるなんて」
「今日は事情があって、仕方なく借りた」
修司がそう答えると、周りから小さなどよめきが起こった。
「さっき中継、見ました。あの、千聖さんって……」
「その辺りは、答えられない」
「わー、意味深!」
集まった人々が、盛り上がりを見せる中、修司は、腕時計にちらりと視線を落とした。舞台挨拶が終わるまで、あとどれくらいだろうか。
車の周りは、ますます賑わいを増していた。中には、スマートフォンでこっそり動画を撮っている者もいる。
「……面倒なことになったな」
修司は、小さく呟いて、車のボンネットに、静かに腰を下ろした。それでも、集まった人々の視線から逃げることはなく、時折、車について聞かれる質問には、丁寧に答え続けていた。
その様子は、まるで誕生日デートの日、校門で女子生徒たちに囲まれていた時と、どこか似ていた。
*
舞台挨拶が終わり、拍手とともに幕が下りると、千聖はマネージャーとともに、足早に楽屋へと戻った。
「お疲れさま。今日は本当に大変だったわね」
「はい……すみません、色々とご心配おかけして」
「それより、外、すごいことになってるわよ」
「え?」
マネージャーが、スマートフォンの画面を見せてきた。SNSには、さらに投稿が増えていた。
「もう広まってるんですか……」
「早いのよ、こういうのは。悪い話じゃないから、気にしなくていいけど」
千聖は、少し複雑な気持ちで画面を見つめた。修司のことが、見知らぬ人たちの間で話題になっている。それ自体は、嫌ではなかったが、少し落ち着かない気持ちもあった。
「早く戻ってあげたら? 表、まだ人だかりみたいよ」
「はい、行ってきます」
*
裏口から外に出た千聖は、ロータリーの様子を見て、思わず足を止めた。
コルベットの周りには、依然として人だかりができていた。スタッフらしき人、車好きらしき人、そして中には、明らかにファンらしき人まで混じっている。
「あ、千聖さんだ!」
誰かの声で、視線が一斉にこちらを向いた。
「修司さん……」
人だかりの中心で、修司が、少し疲れたような顔で立っていた。千聖の姿を見つけると、わずかにほっとしたような表情を見せる。
「……終わったのか」
「はい。すみません、遅くなって」
千聖が近づくと、周囲がまたざわついた。
「本当に千聖さんの……」「なんの関係なんですか?」「サインお願いします!」
一気に人が押し寄せそうになったところで、待機していたスタッフが、慌てて間に入った。
「すみません、皆さん、少しお下がりください!」
「乗れ」
修司が、短く言って、助手席のドアを開けた。千聖は、頭を下げながら、急いで車に乗り込んだ。
「送りますので、皆さん道を開けてください!」
スタッフの誘導で、なんとか人垣が割れる。修司は、慎重にエンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させた。
窓の外では、まだスマートフォンを構えた人々が、車を見送っていた。
「……大変でしたね、外も」
「ああ。質問攻めにされた。車のことも、お前のことも」
修司は、小さくため息をついた。
「すまなかったな、目立つ真似をして」
「いえ、私こそ、巻き込んでしまって、すみません」
千聖は、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「でも……」
「でも?」
「みんな、すごく修司さんのこと褒めてました。車のこと、私のこと、ちゃんと守ってくれて」
修司は、少しだけ照れくさそうに、視線を前に戻した。
「大袈裟だ」
「大袈裟じゃないです」
千聖は、少し笑いながら、窓の外に流れる夜景を眺めた。今日一日の騒動は大変だったけれど、それでも、修司が隣にいてくれたことが、何よりも心強かった。
「……ありがとうございました、本当に」
「礼はもう聞き飽きた」
「それより腹減った、お前の弁当食い損ねたし」
「そうですね、私もお腹すきました」
「なんか食べてくか?せっかく横浜にいるんだし」
「い、いいんですか?」
「ああ」
「横浜といえば」
「中華だな」「中華ですね」
答えが重なり2人はくすりと笑った。夜のみなとみらいを、コルベットは静かに走り抜けていった。