その日の夜正阿弥興山は上機嫌だった。
個展が予想を上回る大成功を収めたのだ。会場に詰めかけた客の数も、売り上げも、これまでの記録を塗り替えた。祝杯を上げるべく、興山はいつものメンバーを引き連れて、馴染みのクラブへと繰り出していた。
「先生、今日は本当におめでとうございます!」
「うむ、うむ。今日は飲め、みんな飲め!」
興山は、上機嫌でボトルを次々と開けさせながら、店の女の子たちに囲まれていた。
「先生、白鷺千聖ちゃんって知ってますか?」
一人の女の子が興奮気味に言った。
「知っとるぞ」
「え、本当ですか!? 今日、その千聖ちゃんの舞台挨拶があるんですよ。テレビ、つけてもいいですか?」
「構わん、構わん」
女の子が、店の隅のテレビをつけた。ちょうど、生中継が始まったところだった。
*
画面には、レッドカーペットに次々と乗りつける、高級車の列が映し出されていた。フェラーリ、ベンツ、レンジローバー——豪華な車列の最後尾に見覚えのある一台が滑り込んでくる。
「あら」
クラブのママが画面を覗き込んで首を傾げた。
「あれ、先生の車じゃないかしら」
「……なに?」
興山はグラスを持つ手を止めた。
画面にはキャンディレッドのボディが大写しになっていた。見間違えようもない。自分の、あのスティングレイだった。
「ブフゥーーーゴホッゴホッ」
「なんじゃと!?」
「もう、先生きたなーい」
「それどころじゃない」
興山は、勢いよく立ち上がった。
「わしの電話持ってこい!」
店の子が慌てて携帯を持ってくると、興山はすぐさま太一に電話をかけた。
「おいっ太一! お前、なにか知っとるか! テレビに、わしのスティングレイが映っとるぞ!」
電話の向こうで、太一が慌てて事情を説明する声が聞こえてくる。地震のこと、電車が止まったこと、修司が急遽車を持ち出したこと——太一の早口な説明を聞きながら、興山は画面の中の光景を食い入るように見つめていた。
助手席から降りてきたのは制服姿の千聖だった。運転席には修司の姿もはっきりと映っている。
そして車列に並んだコルベットが他の現行車を差し置いて一際大きなエンジン音を響かせるのが、テレビ越しにも伝わってきた。
「くはっ、はっはっは! 」
「見ろ!わしの車が一番目立っとるぞ」
興山は腹を抱えて笑い出した。周りの女の子たちも事情はよくわからないながらも興山のあまりの喜びように、つられて笑い始めていた。
「先生、面白いお孫さんですね」
「ああ、愉快、愉快。実に愉快!」
興山はまだ電話を繋いだままの太一に向かって、上機嫌に言った。
「太一、お前も来い」
「え、今からですか?」
「なにをぐずぐずしとる。お前の好物、寿司だったな。銀座で一番高い寿司を腹いっぱい食わせてやる。腹空かせて、今すぐ来い。タクシー呼べ」
「い、いいんですか、そんな……」
「ついでに、いい酒も飲ませてやる。さあ、みんなも食うだろう!」
興山の号令に、店の子たちが歓声を上げた。宴はさらに勢いを増していった。
*
一方、試写会を終えた千聖と修司はコルベットで中華街へ向かう途中だった。修司のスマートフォンが鳴ったのはみなとみらいを抜けた頃だった。
「……じいさんか」
修司は少し身構えながら通話に出た。
「もしもし」
「修司、お前ずいぶん楽しいことやっとるな。なんでわしを呼ばん」
「見てたのか」
「見た見た、店のテレビでばっちりな。事の真相をここで説明しろ。それで、わしのスティングレイを勝手に使ったことは、チャラにしてやる」
「……好都合な取引だな」
「それからお前の女も連れてこい。そこにいるのは、わかっとるぞ」
興山の声は電話越しでも上機嫌さが伝わってくるほど弾んでいた。修司は小さくため息をついてから、電話を切った。
「……千聖」
「はい?」
「悪い、今日の中華はなしだ。多分、寿司になる」
「え?」
「じいさんが、話を聞きたいらしい。今から銀座に呼び出された」
千聖は目を丸くした。
「唯さんにかなり遅くなるって連絡入れておけ」
「はい、すぐ電話します」
千聖は、慌てて唯に電話をかけた。
「もしもしお母さん? あの今日少し遅くなりそうで……」
「あらいいわよ、いいわよ。デート、楽しんでらっしゃい」
唯は、電話の向こうで、明るい声で答えた。
「今日のあなたたちの勇姿、ちゃんと録画してあるから。あとでゆっくり見ましょうね」
「ろ、録画……!?」
千聖は思わず頬を赤くした。
「じゃあね、気をつけてね」
唯は楽しそうに笑いながら電話を切った。
「……なんて言ってた」
「録画してあるから後で一緒に見ましょうって……」
千聖は恥ずかしさに顔を覆いながら小さく呟いた。修司はそれを聞いて珍しく口元を緩めた。
「賑やかな一日だな」
「本当に……」
コルベットはみなとみらいの夜景を背に銀座へと向かって走り出した。興山が待つ賑やかな夜が二人を待っていた。
*
高速に乗ると車内は少しの間、静かになった。
「……興山さんのいるお店、行ったことあるんですか」
千聖が、ふと尋ねた。
「何度かな。じいさんの個展の打ち上げは大体あそこだ」
「どんな人が集まるんですか」
「じいさんの取引先とか、画商とか。あとは、単純にじいさんの飲み仲間だ」
修司は前を見たまま淡々と答えた。
「緊張しなくていい。じいさんの機嫌が良ければ大したことにはならない」
「機嫌が良ければ、って……」
「今日はいいだろう。個展成功で、上機嫌なはずだ。おまけに、面白い見世物まで見られたんだからな」
「見世物って、私たちのことですか……」
千聖が恨めしそうに呟くと修司は、珍しく小さく笑った。
「まあ、そう気負うな」
そう言われても千聖の緊張は少しも解けなかった。
*
銀座の裏通りにある重厚な扉のクラブに着くと、二人を出迎えたのは上品な着物姿の女性だった。
「あら、修司くん」
その声には親しみのこもった響きがあった。
「お久しぶりです」
「本当に久しぶりね。何年ぶりかしら」
ママは修司の顔をまじまじと見つめてからゆっくりと微笑んだ。
「ずいぶん、いい男になったわね」
そう言うとママは修司の胸元に軽く手を添えた。
「昔はまだあどけない顔してたのに」
「……あんまり、からかわないでくださいよ」
修司は少し困ったようにママの手をやんわりと外した。
「今日は、連れがいるので」
「あら」
ママの視線が修司の隣に立つ千聖へと移った。
「これはこれは。可愛らしいお嬢さんじゃない」
千聖は慌てて頭を下げた。
「は、はじめまして」
「修司くんがねぇ……昔は、私にべったりだったのよ。まだ高校生の頃、興山先生に連れられてよくここに来てたの。生意気な顔してお酒の相手なんかさせられて」
「じいさんが勝手に連れてきてただけだろ」
「あら、嫌がってなかったじゃない。私にお酌してもらうの、好きだったくせに」
ママが悪戯っぽく笑いながら言うと、千聖の表情がわずかに強張った。
「……そう、なんですか」
「あら、可愛い。もしかして、妬いてる?」
ママは目ざとく千聖の様子に気づいたらしい。にんまりと笑いながら、千聖の顔を覗き込んだ。
「い、いえ、そんな……」
千聖は、赤くなった顔を隠すように俯いた。
ママはそんな千聖の様子を実に楽しそうに眺めていた。
「安心して。今の修司くんの目にはあなたしか映ってないみたいだから」
「……ママ」
修司が少し呆れたような声を出した。
ママはくすくすと笑いながら二人を店の奥へと促した。
「さあ、こちらへどうぞ。先生が首を長くして待ってるわよ」
*
奥の座敷に足を踏み入れると、興山が上機嫌な様子で手を挙げた。
「おお、ようやくきたか! 待ちわびたぞ!」
「じいさん、呼び出しておいて機嫌がいいな」
「機嫌がいいに決まっとるだろう。個展は成功するわ、面白い見世物は見られるわで、今日は最高の一日じゃ」
興山は豪快に笑いながら二人に座るよう促した。
周りには、すでに酒盛りの跡が広がっている。太一の姿はまだ見当たらなかった。
「さて」
興山はグラスを置くと修司と千聖を交互に見た。
「事の真相を、聞かせてもらおうか」
その目には好奇心と愉快さが、隠しきれないほど溢れていた。
修司は小さく息をつくと覚悟を決めたように、地震の日の出来事を順を追って話し始めた。
「——というわけで、電車が止まって千聖が舞台挨拶に間に合わなくなりそうだったんだ。それで太一に連絡して点検中だったスティングレイを持ってこさせた」
「ほう」
「じいさんに無断で悪かった。だが他に手段がなかった」
興山は腕を組みながらふむふむと頷いていた。
「なるほどな。それであの派手な会場入りに繋がったわけか」
「それは、たまたまだ」
「たまたまだぁ。たまたまで、あんなにエンジンを吹かすか? わしはテレビでしっかり見たぞ。他のお上品な車達を差し置いて一番目立っとったでわないか」
興山がにやにやしながら突っ込むと修司は、わずかに視線を逸らした。
「……多少はな」
「多少どころではなかったろう」
千聖が思わず口を挟んだ。
「本当にわざとやってたんです。私も驚きました」
「はっはっは! やっぱりか!」
「あの車は目立ってなんぼだろ」修司は悪びれもせずむしろ、堂々と言った。
興山は、膝を叩いて大笑いした。
「ハァーッハッハッハ。よぉわかっとるではないか」
「もぅ、興山さんまで」
そんなやり取りに千聖も思わず笑ってしまった。緊張していた気持ちがいつの間にか和らいでいるのに気づく。
「しかし、驚いたのはお前じゃよお嬢ちゃん」
興山が千聖に向き直った。
「地震で電車が止まって慌てふためくかと思いきや、あの制服姿のまま堂々とレッドカーペットを歩いておったな。肝が据わっとる」
「そんな、堂々となんて……内心ずっと焦ってました」
「それでいい。焦りながらもちゃんとやり遂げる。それが一番大したことじゃ」
「流石は唯の娘だな」
興山の言葉に千聖は少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
*
そうこうしているうちに座敷の襖が慌ただしく開いた。
「勝義さん……! タクシー飛ばしてきました……!」
息を切らせて現れたのは、太一だった。まだ作業着に近い服装のままで髪も少し乱れている。
「おお、太一、遅いぞ」
「電話が急すぎるんですよ……あと、先輩もいるじゃないですか、なんで銀座に……」
太一は、部屋の中を見回して修司と千聖の姿に気づくと、目を丸くした。
「し、白鷺さんまで……」
「太一、よく来た。ほら、座れ」
興山は、上機嫌に太一を手招きした。
「今日は、お前の好物、ちゃんと用意してある。腹一杯食っていけ」
しばらくして座敷には次々と大皿に盛られた寿司が運ばれてきた。大トロ、うに、いくら——見るからに上等な、豪華な盛り合わせだった。
「う、うわあ……」
太一は、目の前に並んだ寿司を見て思わず声を漏らした。
「一番の功労者だからな。遠慮するな、食え食え」
「い、いただきます……!」
太一が、目を輝かせながら箸を伸ばすのを見て興山は満足げに頷いた。
「今日は無礼講じゃ。修司も、お嬢ちゃんも、たんと食べていけ」
座敷は一気に賑やかさを増していった。太一の感激する様子、興山の上機嫌な笑い声、そして時折挟まれる、修司と千聖をからかうような会話——夜はまだまだ、これから続きそうだった。
*
宴もたけなわになる頃、店の女の子たちが、興味津々な様子で修司の周りに集まってきていた。
「修司さんって、本当にデザイナーさんなんですか? かっこいい……」
「先生のお孫さんなんですよね。今度、お洋服作ってもらえたりします?」
「連絡先、交換してもらってもいいですか?」
女の子たちが次々と修司に話しかけては、隣に座ろうと詰め寄っていた。
修司はいつも通りの淡々とした態度で相槌を打っていたが、明らかに囲まれてしまっている。
「あ、それは……」
「連絡先はちょっと」
そっけない返事を繰り返しながらも、女の子たちの勢いは止まらなかった。
千聖は少し離れた席からその様子を眺めていた。
——なんか、面白くない。
膨れっ面を堪えきれず千聖は料理をつつく箸の動きが、次第に荒くなっていった。
それに気づいた興山が面白そうに千聖の顔を覗き込んだ。
「お嬢ちゃん、拗ねとるのか」
「拗ねてなんか、いません」
「顔に書いてあるぞ」
興山がからかうように笑う。千聖は慌てて表情を取り繕おうとしたがうまくいかなかった。
*
しばらく我慢していた千聖だったが、女の子の一人が、修司の腕にしなだれかかるようにするのを見て、とうとう我慢の限界を迎えた。
千聖はすっと立ち上がると、修司の隣に座っていた女の子の反対側にするりと腰を下ろした。
「あの、失礼しますね」
「え……あ、はい」
千聖はにこりと微笑みながら修司の腕に、そっと自分の腕を絡めた。
「修司さん、こっちも見てください」
「……千聖?」
修司が驚いたように千聖を見た。千聖はいつもより幾分か強気な笑顔を浮かべていた。
「今日、私、隣にいたいです」
その一言に周りの女の子たちが一斉に「え〜」と声を上げた。
「なんだ、彼女さんいたの?」
「もー、水くさいですよー、修司さん」
女の子たちは口々にそう言いながらも、あっさりと引き下がっていった。修司は少し困ったような、けれどまんざらでもなさそうな表情を浮かべていた。
「……珍しいな、お前がそんなことするのは」
「たまには、いいじゃないですか」
千聖は少しだけ頬を赤くしながら腕を絡めたまま、修司を見上げた。
その様子を興山が、実に愉快そうに眺めていた。
「はっはっは! いいぞ、いいぞ! もっとやれ!」
「じいさん、面白がるな」
「面白いから面白がっとるんじゃ」
賑やかな笑い声が座敷いっぱいに広がっていった。太一はその光景を横目に見ながら黙々と寿司を頬張り続けていた。
*
その様子を見ていたママが扇子を口元に当てながら、にんまりと笑った。
「あら、いいわねぇ、そういうの。修司くん、大事にされてるじゃない」
「ママまで、からかわないでください」
「からかってないわよ。本当に、良かったわねって思ってるの」
ママは、千聖の方を向くと悪戯っぽく目を細めた。
「お嬢さん、修司くんのことちゃんと独り占めしておかないと。この子昔から妙にモテるのよ」
「独り占め、ですか……」
千聖は少し戸惑いながらも勢いのまま口を開いた。
「しゅ、修司さんのお世話は私がします」
言った瞬間座敷がしん、と静まり返った。
「……お、お世話?」
千聖自身も自分の口から出た言葉に遅れて動揺し始めた。
「あ、あの、違くて……お世話っていうか、その……」
言葉を続けようとすればするほど、うまく説明できず、千聖は完全に自分の発言の迷路にはまり込んでいった。
「え、え、なんて言えば……その、つまり」
顔が真っ赤になり視線があちこちに泳ぐ。周りの女の子たちは、ニヤニヤしながらその様子を見守っていた。
「可愛いわねぇ」
ママがうっとりとした声で言うと興山も、腹を抱えて笑い出した。
「はっはっは! こりゃたまらん! 続きを聞かせてくれ!」
「じ、じいさんまで……!」
千聖は、もうどうしていいかわからず、真っ赤な顔のまま、俯くしかなかった。
見かねた修司が小さくため息をついて口を開いた。
「——もう、その辺にしとけ」
修司は千聖の肩にそっと手を置いた。
「みんな、からかいすぎだ。千聖が困ってる」
その一言で座敷の空気が、少しだけ落ち着きを取り戻した。
「あら、つまらない」
ママが、残念そうに肩をすくめる。
「じいさんも、いい加減にしてくれ」
「わかった、わかった。悪かったな」
興山も笑いを収めながら千聖に軽く手を上げた。
修司は千聖の方を向くと少しだけ声のトーンを落として言った。
「大丈夫か」
「……はい、なんとか」
千聖はまだ赤い顔のまま小さく頷いた。修司の手が、まだ肩に乗ったままだったことに気づいてまた頬が熱くなる。
「……ありがとうございます、助けてくれて」
「これくらい、大したことじゃない」
そっけない返事だったが千聖には、それで十分だった。座敷には、また賑やかな笑い声が戻ってきていた。
*
宴はその後もしばらく賑やかに続いた。太一は寿司を食べ尽くし、興山は上機嫌に飲み続け、女の子たちの笑い声が絶えることはなかった。
そろそろ日付が変わろうかという頃、興山が満足げに手を叩いた。
「よし、今日はこの辺にしておこう。いい酒だった」
「先生、お開きですか?」
「わしらは、もう少しこのまま二次会じゃ。太一、お前も付き合え」
「え、まだ飲むんですか……」
太一が少し疲れた顔で呟いたが、興山は聞く耳を持たなかった。
「修司、お前は千聖ちゃんを送ってやれ。もう遅い」
「ああ、そのつもりだ」
「気をつけて帰るのよ、二人とも」
ママが店の入り口まで見送りに出てくれた。
「今日は、本当にありがとうございました」
千聖が頭を下げるとママは、にこやかに手を振った。
「また来てね、お嬢さん。今度は、もっとゆっくり話しましょう」
「はい……ぜひ」
修司と千聖は興山たちを店に残したまま外に出た。夜風が火照った頬に心地よかった。
*
コルベットに乗り込むと、修司はいつも通り落ち着いた様子でエンジンをかけた。
「お酒、大丈夫だったんですか」
「飲んでない。運転するとわかってたからな」
「そうだったんですね」
千聖は少し安心したように息をついた。
車が走り出すとしばらくの間、心地よい沈黙が続いた。
「……今日は、色々ありましたね」
千聖がぽつりと呟いた。
「そうだな。予想外の一日だった」
「興山さんにも、ママさんにも、驚かされっぱなしでした」
「あの二人はいつもああだ。慣れるしかない」
修司が少し呆れたように言うと、千聖は小さく笑った。
「でも……楽しかったです。賑やかで」
「そうか」
修司は前を見たまま、わずかに口元を緩めた。
「あの……さっきは、すみませんでした。変なこと言っちゃって」
千聖が恥ずかしそうに切り出すと、修司はちらりと視線を向けた。
「別に謝ることじゃない」
「でも、お世話とか、その……」
「気にするな。悪い気はしなかった」
修司の素っ気ない返事に千聖は、また頬を赤くした。それ以上、何も言えなくなってしまった。
窓の外を流れる夜景を見つめながら千聖は、今日一日の出来事をゆっくりと胸の中で反芻していた。
*
千聖の家の前に着くと玄関先には、すでに唯が待っていた。
「おかえりなさい、二人とも」
「唯さん、遅くなってすみません」
修司が車を降りて挨拶をすると唯は、にこやかに首を振った。
「いいのよ、連絡もらってたし。今日は大変だったみたいね」
「色々ありました」
「本当に」
「今日はもう遅いので、俺はこれで」
「修司さん……おやすみなさい」
「おやすみ」
「気をつけて帰ってね」
修司は軽く会釈をすると車に戻っていった。
千聖は遠ざかっていくコルベットのテールランプを見送ってから玄関へと向かった。
「さ、入って。お茶淹れるから」
「うん」
*
リビングのソファに腰を下ろすと千聖は、堰を切ったように今日あった出来事を話し始めた。地震のこと、コルベットのこと、舞台挨拶での質問攻め、そして銀座での騒動——。
唯は、お茶を淹れながら時折相槌を打ちつつ、千聖の話に耳を傾けていた。
「——それで、つい『お世話します』なんて言っちゃって、もうどうしていいかわからなくなって……」
千聖が恥ずかしそうに顔を覆いながら話すのを唯は、いつになく真剣な表情で聞いていた。
「千聖がそんなに積極的になるなんてね」
「自分でも、びっくりした……なんであんなこと言っちゃったのか」
「それだけ、大事な人なんでしょう」
唯の言葉に千聖は少し照れくさそうに頷いた。
「うん……そうだと思う」
唯は湯呑みを千聖の前に置きながら優しく微笑んだ。
「良かったじゃない。周りに、そんなに応援してくれる人たちがいて」
「うん」
千聖は温かいお茶を一口飲みながら、今日一日の疲れがじんわりとほぐれていくのを感じた。
賑やかで、慌ただしくて、でもどこか幸せな一日だった。
*
舞台挨拶の翌日、千聖のスマートフォンには、朝から通知が鳴りやまなかった。
『#千聖ちゃん制服会場入り』
そのハッシュタグが、いつの間にかトレンド入りしていた。
「……え」
千聖は、恐る恐るタイムラインを開いた。
『昨日の舞台挨拶、千聖ちゃんの登場の仕方エモすぎ』
『あのクラシックカー、車詳しい人によるとかなりヤバい車らしい』
『運転してたイケメン誰?彼氏?マネージャー?』
『L88って調べたら本当に激レア車だった、、、千聖ちゃん一体何者と付き合ってるの』
投稿には、遠目から撮られたキャンディレッドの車の写真や、動画までいくつか添えられていた。ボンネットに寄りかかる修司の後ろ姿が写り込んでいるものもある。
「……こんなに広まってるなんて」
千聖は頭を抱えながらベッドに突っ伏した。
*
白鷺家の食卓では、唯が昨日の録画を見ながら、興味津々な様子で千聖に詰め寄っていた。
「千聖、これ見た? すごいじゃない、トレンド入りだって」
「お母さんお願いだからその画面、しまって……」
「だって、こんなにみんなが気にしてるのよ。『修司さんの正体は?』なんて、コメント欄で予想大会になってる」
唯は楽しそうにスマートフォンをスクロールしながら、千聖の顔を覗き込んだ。
「デザイナーって書いてる人もいるし、実業家って書いてる人もいるし……中には、車のディーラーだって言ってる人もいるわね」
「本人は、ただの服飾デザイナーなのに……」
「ただの、じゃないでしょ。あんな車、颯爽と乗り回せる、ただのデザイナーなんていないわよ」
唯はくすくすと笑いながら千聖の頬をつついた。
「良かったじゃない、頼りになる彼氏で」
「もう、お母さんまで……」
千聖は赤くなった顔を両手で覆いながら小さく唸った。
*
数日後、千聖はアトリエに太一への贈り物を持って訪れていた。中身は千聖のサイン入り帽子と、映画『RESONANCE』のグッズ一式だった。
「これ、太一さんに渡してもらえますか」
「ああ、預かっておく」
修司が荷物を受け取りながら答えた。
数日後、修司から届いた話によると太一は、包みを開けた瞬間その場で崩れ落ちたという。
「サイン入り帽子……一生飾ります……」「グッズも全部……ありがとうございます。先輩の彼女さん、天使ですか……」
そう繰り返しながらしばらく仕事にならなかったらしい。
「彼女、とは言ってないんだがな」
修司が少し呆れたように呟くのを聞いて千聖は、思わず頬を緩めた。
「否定は、しなかったんですね」
「面倒だっただけだ」
そっけない返事だったが千聖には、それで十分だった。トレンド入りの騒動も、興山の大笑いも、唯のからかいも——すべてひっくるめてなんだか幸せな数日間だった。