砂糖二つの特等席   作:y@s

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第49話 旧軽井沢のカフェへ

 

 

映画『RESONANCE』は、公開されるや否や、異例の大ヒットとなった。連日、興行成績のニュースが流れ、千聖の名前も、あちこちのメディアで取り上げられるようになっていた。

そんな慌ただしい日々の合間、千聖はアトリエで、少し照れながら修司に切り出した。

「あの……お願い、聞いてもらえますか」

「なんだ」

「映画の撮影、ベースの練習、すごく頑張ったので……そのご褒美に、ドライブに連れて行ってほしいです」

千聖は、上目遣いに修司を見た。修司は、少しの間、千聖の顔を見つめてから、小さく口角を上げた。

「行きたい場所は、決まってるのか」

「はい。軽井沢の……『旧軽井沢Cafe 涼の音』ってところに、行ってみたくて」

「調べたのか」

「はい、ずっと気になってて」

千聖の熱心な様子に、修司は、小さく頷いた。

「わかった、楽しみにしとけ」

 

 

デートの数日前、千聖は自室のクローゼットを前に、唯に相談していた。

「軽井沢かぁ、いいわね」

唯は、いくつかの服を取り出しながら、楽しそうに言った。

「歩きやすさと、可愛さ、どっちを優先する?」

「歩きやすさ、優先で……多分、修司さんのことだから、軽井沢の色んなところに連れて行ってくれると思うの」

「あら、もう分かってるのね」

唯が、くすりと笑った。

「なんとなく、だけど。予定、詰め込みそうな気がして」

「じゃあ、これなんてどう?」

唯が差し出したのは、動きやすいフレアスカートと、涼しげな半袖のブラウスだった。

「歩き回っても疲れにくいし、カフェに入っても浮かない感じよ」

「いいかも……ありがとう、お母さん」

「それと」

唯は、クローゼットの奥から、薄手のカーディガンを取り出した。

「これも、一枚持って行きなさい」

「カーディガン? でも、初夏だし、暑くない?」

「この時期の軽井沢は、冷えることもあるのよ。朝晩は特にね。都内の感覚でいると、びっくりするくらい肌寒いこと、たまにあるから」

「そうなんだ、知らなかった」

「避暑地って言われるくらいだもの。念のため、持って行った方が安心よ」

千聖は、素直に頷きながら、カーディガンを鞄に詰めた。

「さすが、お母さん。詳しいね」

「昔、お父さんとよく行ってたのよ」

唯は、少し懐かしそうに目を細めながら、そう言った。

「それと、もう一つ、大事なこと」

唯が、急に真剣な顔つきになった。

「な、何?」

「軽井沢は、温泉も多いから。もし、見られても大丈夫なように、新しい下着で行きなさい」

「……え」

「ちゃんと、可愛いやつよ」

唯が、にっこりと微笑みながら言った瞬間、千聖の顔が、一気に真っ赤に染まった。

「お、お母さん! 何言って——」

「大事なことでしょう。備えあれば憂いなしって言うじゃない」

「そういう予定は、ないから……! 多分……」

千聖は、しどろもどろになりながら、両手で顔を覆った。

「あら、そう? でも、念のためよ、念のため」

唯は、まるで動じることなく、鼻歌交じりに、新品の下着を数枚、鞄の中にそっと忍ばせた。

「お、お母さん……」

「はいはい、これで準備は万端ね」

千聖は、真っ赤な顔のまま、それ以上何も言えなくなってしまった。

「あと、そうね」

唯は、千聖の髪を、後ろから軽く持ち上げながら言った。

「たまには、髪型も変えてみたら?」

「髪型?」

「いつも下ろしてるでしょう。編み込みとか、ハーフアップとか、そういうのも似合うと思うのよ」

「そんなの、自分じゃうまくできないよ」

「お母さんがやってあげる。ちょっと座って」

千聖は、鏡の前の椅子に座らされた。唯は、手際よく千聖の髪を編み込んでいき、耳のあたりで、小さくまとめていった。

「わあ……」

鏡に映る自分の姿に、千聖は思わず声を上げた。いつもと違う、少し大人びた雰囲気になっている。

「可愛いじゃない」

「うん……なんか、新鮮」

「たまにはイメチェンも大事よ。きっと、修司くんも驚くわ」

唯が、悪戯っぽく笑うと、千聖は、少し照れくさそうに頬を緩めた。

「当日も、こんな風にしてみようかな」

 

母娘の穏やかな時間が、出発前の準備を、より一層楽しいものにしていった。

 

 

デート当日は、まだ空が白み始めたばかりの、早朝だった。

千聖は、唯に教わった通りに髪を編み込み、薄手のカーディガンを羽織って、玄関先で修司を待っていた。

車が停まり、修司が降りてくると、千聖は少し緊張しながら、その場でくるりと一回転してみせた。

「……どうですか?」

修司は、しばらくの間、千聖をまじまじと見つめた。

「髪、いつもと違うな」

「母に、編んでもらったんです。似合いますか?」

「似合ってる」

修司は、迷いのない口調で、はっきりと言った。

「服も、いい。今日みたいな日には、ちょうどいい格好だ」

「……ありがとうございます」

千聖は、頬を赤らめながら、嬉しそうに微笑んだ。褒められることに慣れているはずなのに、修司からの一言は、いつも特別な響きを持っていた。

「よし、乗れ。早く出るぞ」

「はい!」

千聖は、あくびを堪えながら、助手席に乗り込んだ。

 

 

「この時期の週末は混む。早めに出た方が、快適に回れる」

修司は、慣れた様子でハンドルを握った。アルピーヌのエンジン音が、静かな朝の街に響く。

「今日は、アルなんですね」

「そう何度もあの車は持ち出せない」

「それに山道もあるからな。今日は、こっちの方が合ってる」

車は、都内を抜け、高速道路へと入っていった。朝焼けの空が、次第に明るさを増していく。

「今日、どこ回るんですか?」

「白糸の滝、ハルニレテラス、それから、お前が行きたがってたカフェ」

「涼の音、ですね」

「ああ。あとは、その時の気分次第だな」

「なんか、修司さんがちゃんと計画立ててくれてるの、嬉しいです」

「行き当たりばったりより、効率がいいだけだ」

そっけない返事だったが、千聖には、その裏にある心遣いが、しっかりと伝わっていた。

「そういえば、母が言ってたんですけど、軽井沢って、朝晩冷えるんですね」

「標高高いからな。都内の感覚でいると、痛い目に遭う」

「カーディガン持ってきて正解でした」

「賢明な判断だ」

「そういえば、修司さんは、軽井沢、行ったことあるんですか?」

千聖が、ふと尋ねた。

「いや」

「え、そうなんですか? 意外です」

「仕事で近くまで行ったことはあるが、観光したことはない」

修司は、前を見たまま、淡々と答えた。

「じゃあ、今日が初めてなんですね」

「そうなるな」

「なんか、緊張します。案内する立場でもないのに」

千聖が、少し照れくさそうに言うと、修司は、わずかに口角を上げた。

「だから、楽しみだ」

「え?」

「初めての場所を、お前と一緒に回れるんだ。悪くないだろう」

その一言に、千聖の胸が、じんわりと温かくなった。

「……はい、悪くないです」

千聖は、はにかむように微笑みながら、窓の外に視線を戻した。

 

 

最初に立ち寄ったのは、白糸の滝だった。

朝一番の澄んだ空気の中、新緑に囲まれた遊歩道を、二人はゆっくりと歩いた。

「わあ……」

滝が見えてくると、千聖は思わず声を上げた。扇状に広がる白い流れが、朝日を受けてきらきらと輝いている。

「綺麗ですね」

「この時間だからこそだな。昼になると、観光客でごった返す」

「早起きした甲斐がありました」

千聖は、深く息を吸い込んだ。新緑の香りが、身体中に染み渡るようだった。

滝の周りを囲む遊歩道を、二人はゆっくりと歩いた。朝露に濡れた葉が、日差しを受けてきらきらと光っている。

「涼しいですね」

「マイナスイオンってやつか」

「効果、信じてます?」

「さあな。だが、気持ちがいいのは事実だ」

修司の答えに、千聖は小さく笑った。

しばらく歩くと、滝の全景が見渡せる場所に出た。無数の細い水流が、岩肌を伝って幾筋にも分かれ落ちる様は、まるで白い糸を垂らしたようだった。

「本当に、糸みたいですね」

「ほんとだな、名前の通りだ」

「見てるだけで、なんか、心が洗われる感じがします」

千聖は、両手を広げて、深呼吸をした。

「舞台挨拶とか、撮影とか、色々忙しかったから……こういう時間、久しぶりです」

「たまには、こういうのもいいだろう」

修司は、千聖の隣に立ちながら、静かに滝を眺めていた。

「修司さんは、こういう自然の風景、好きなんですか?」

「嫌いじゃない。落ち着く」

「意外です。もっと、街中とか、都会派なイメージだったので」

「アトリエに籠ってばかりだからな。たまには、こういう場所も悪くない」

千聖は、そんな修司の横顔を、そっと見つめた。普段の、少し忙しなく動き回っている姿とは違う、穏やかな表情だった。

「写真、撮りましょうか」

「珍しいな、お前がそれを言うのは」

「今日は、記念に残しておきたい気分なので」

千聖がスマートフォンを取り出すと、修司は、少し戸惑いながらも、素直に隣に並んだ。

「はい、撮りますよ」

シャッター音が、静かな滝の音に紛れて、小さく響いた。

画面に映る二人の後ろで、白い糸のような滝が、朝日を受けて輝いていた。

 

 

次に向かったのは、ハルニレテラスだった。楡の木々に囲まれた、ウッドデッキのテラスが印象的な施設で、いくつものカフェやレストランが軒を連ねている。

「どこに入ります?」

「お前が選べ」

千聖は、しばらく店を見て回った末、地元野菜を使ったビストロを選んだ。

案内されたテラス席は、木漏れ日が心地よく差し込む場所だった。爽やかな風が、木々の葉を揺らしている。

「わあ、雰囲気いいですね」

千聖は、メニューを開きながら、目を輝かせた。

しばらくして運ばれてきたのは、信州サーモンのカルパッチョ、地元野菜のグリル、そして石窯で焼いたピザだった。彩り豊かな野菜が、皿の上で瑞々しく輝いている。

「わあ……美味しそう」

「ここの野菜、朝採れらしいな」

「道理で、みずみずしいわけですね」

千聖は、まずカルパッチョを一口食べて、目を丸くした。

「美味しい……! サーモンとろとろです」

「そうか」

修司も、ピザに手を伸ばしながら、静かに頷いた。もちもちの生地に、地元産のチーズと季節の野菜がたっぷりとのっている。

「修司さんも、感想言ってください」

「美味い」

「一言で終わらせないでください」

千聖が、少し不満そうに口を尖らせると、修司は、小さく笑った。

「生地がもちもちしてて、チーズの塩加減もちょうどいい。野菜も新鮮で、それぞれの味がちゃんと立ってる」

「……急に饒舌ですね」

「言えって言ったのはお前だろう」

そんなやり取りに、千聖は思わず吹き出した。

食事の合間、木々の間から差し込む光が、テーブルの上で揺らめいていた。時折、小鳥のさえずりも聞こえてくる。

「こういう時間、いいですね」

「静かでいい場所だ」

「東京だと、こんなにゆっくり食事する時間、なかなか取れないので」

千聖は、グラスに入った地元産のアップルジュースを一口飲みながら、満足そうに息をついた。

「せっかくなので、また写真、撮ってもいいですか」

「好きにしろ」

千聖は、料理の写真を何枚か撮った後、少し悩んだ様子で、修司の方にスマートフォンを向けた。

「今度は、修司さんも一緒に」

「さっき撮っただろう」

「あれは滝バックです。今度は、ここの雰囲気で」

千聖に促されて、修司は、仕方なさそうに、けれど嫌がる素振りもなく、隣に並んだ。

木漏れ日の下、二人の笑顔が、画面の中に収められていった。

 

 

昼を過ぎた頃、二人が向かったのは、旧軽井沢にある、登録有形文化財のカフェ——「旧軽井沢Cafe 涼の音」だった。

石畳の小道の先に現れたのは、大正時代を思わせる、洋風建築の建物だった。蔦の絡まる外壁と、深い緑の屋根が、周囲の木々に美しく溶け込んでいる。

「わあ、素敵な建物……」

千聖は、足を止めて、しばらく見入っていた。

「写真、撮っておくか」

「はい!」

千聖は、建物の全景を、スマートフォンに何枚か収めた。木漏れ日が、古い窓ガラスに柔らかく反射している。

店内に足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のように、静かな空気に包まれた。

高い天井、年季の入った木の梁、アンティークの家具の数々。柱時計の音だけが、ゆっくりと時を刻んでいる。

「時間が止まったみたいな場所ですね」

千聖は、店内をぐるりと見回しながら、感嘆したように呟いた。

壁には、古い写真や絵画が飾られ、窓辺には、季節の花が生けられていた。案内された席は、大きな窓に面した一角で、庭の緑が、絵画のように切り取られて見えた。

「ここも、撮っておこう」

千聖は、店内の様子を、何枚か写真に収めた。アンティークのランプ、木漏れ日の差し込む窓辺、静かに佇む古い家具——どれも、絵になる光景だった。

しばらくして、注文していたものが運ばれてきた。

千聖が頼んだのは、季節のフルーツをふんだんに使ったパフェと、ハーブティー。修司は、自家製のチーズケーキと、コーヒーを選んでいた。

「わあ、綺麗……」

パフェには、色とりどりのベリーと、軽井沢産という桃が、丁寧に飾り付けられていた。生クリームの上に、小さなミントの葉が添えられている。

「食べるのがもったいないくらいです」

「写真、先に撮っておけ」

「はい」

千聖は、パフェとチーズケーキ、それぞれの写真を丁寧に撮った後、ようやくスプーンを手に取った。

「いただきます」

一口食べると、フルーツの甘みと、なめらかなクリームが、口いっぱいに広がった。

「美味しい……! 桃、すごくジューシーです」

「そっちも味見していいか」

「あ、はい、どうぞ」

修司が、パフェから一口分けてもらうと、小さく頷いた。

「甘さがくどくないな。さっぱりしていて悪くないな」

「修司さんのチーズケーキも、気になります」

「食うか」

修司が、皿ごと千聖の方に寄せた。千聖は、フォークで小さく切り分けて、口に運んだ。

「濃厚……! でも、後味はさっぱりしてますね」

「気に入ったなら、また来るか」

「はい、ぜひ」

食後、二人はしばらく、お茶を片手に、ゆったりとした時間を過ごした。ハーブティーの優しい香りが、店内にほのかに漂っている。

「今日、ここまでですごく充実してますね」

千聖が、カップを両手で包みながら、満足そうに言った。

「まだ半分も終わってないぞ」

「え、そうなんですか」

「この後も、予定がある」

「楽しみです」

千聖は、窓の外の庭に視線を向けた。木々の緑が、風に揺れている。

「修司さんは、こういう場所に来ると、どんなこと考えるんですか」

「特に、何も」

「そんな……」

「強いて言うなら、こういう建物の意匠は、参考になる」

「デザインの仕事にも繋がるんですね」

「ふとした瞬間に、思わぬ発見があったりする。この店の建具の細工とか、悪くない」

修司は、窓枠の装飾を、興味深そうに眺めていた。

「私には、そういう視点、なかなか持てないです」

「意識してるかどうかの違いだけだ。お前も、演技の中で、似たようなことしてるだろう」

「演技で、ですか?」

「役の細かい仕草とか、表情とか。普段から観察して、蓄積してるはずだ」

言われてみて、千聖は、少し驚いたように瞬きをした。

「……そうかもしれません。無意識に、色んな人の仕草とか、見ちゃってるかも」

「同じことだ」

修司が、コーヒーを一口飲みながら、そっけなく言った。その言葉に、千聖は、なんだか誇らしいような、くすぐったいような気持ちになった。

「もう少し、ここにいたいです」

「時間はある。ゆっくりしていこう」

窓の外で、鳥の声が響いた。

柱時計の秒針の音だけが、静かに時を刻んでいた。

二人は、それからしばらく、言葉少なに、穏やかな時間を分かち合った。

「連れてきてくれて、ありがとうございます」

「礼を言うのは早い。まだ予定は残ってる」

修司が、そう言うと、千聖は少し首を傾げた。

千聖は、最後に、窓辺の光と、テーブルに並んだ空になった器を、記念に一枚、写真に収めた。

 

 

カフェを出た後、修司が向かったのは、ホテルグリーンプラザ軽井沢だった。

「ここは……?」

「せっかくだから、温泉入って行くか」

「え、温泉、ですか」

千聖の頭の中で、一瞬、様々な想像が駆け巡った。

——お、温泉って、まさか……。

千聖の顔が、みるみる赤くなっていく。

「な、な、なんでもないです、その、心の準備が……」

しどろもどろになりながら、千聖の脳裏に、出発前の唯の言葉が、鮮明によみがえった。

——軽井沢は、温泉も多いから。もし、見られても大丈夫なように、新しい下着で行きなさい。ちゃんと、可愛いやつよ。

まさか、本当にそんな展開になるなんて——千聖の頭の中は、一瞬でパニックに陥っていた。鞄の中に入っている、あの新しい下着のことが、いやに存在感を増して感じられる。

——お母さん、まさか、こうなるって見越してたの……?

「おい、大丈夫か。顔、赤いぞ」

修司が、心配そうに千聖の顔を覗き込んだ。

「だ、大丈夫です! 本当に、なんでもないので……!」

千聖は、必死に平静を装いながら、内心では、唯の妙な勘の良さに、複雑な気持ちを抱いていた。

しどろもどろになる千聖を見て、修司は、不思議そうに首を傾げた。

「なんだ、その反応は」

「い、いえ……」

「何を勘違いしてたんだ」

修司が、からかうような目つきで、千聖の顔を覗き込んだ。

「べ、別に、勘違いなんて……」

「顔真っ赤にして、心の準備とか言ってたじゃないか」

「そ、それは……」

千聖が、しどろもどろに答えを探していると、修司は、何かに気づいたように、小さく笑った。

「まさか、混浴でも想像したのか」

「なっ……! ち、違います!」

千聖の顔が、耳まで真っ赤になった。

「図星みたいだな」

「違いますってば……!」

「残念だったな、足湯で」

修司は、まったく悪びれた様子もなく、愉快そうに千聖をからかい続けた。

「もう、からかわないでください……」

案内された先は、ホテル敷地内にある、無料開放されている足湯だった。「チューダーの湯」と書かれた看板の下、湯気の立つ足湯に、何組かの観光客がゆったりと足を浸けている。

「な、なんでもありません……!」

千聖は、真っ赤になった顔を隠すように、慌てて靴を脱ぎ始めた。修司は、その様子を見ながら、珍しく声を出して笑った。

「ドライブがてら、足だけでもリフレッシュできる。悪くないだろう」

「……はい」

足湯に浸かると、じんわりとした温かさが、歩き疲れた足に染み渡っていった。

「気持ちいいです」

「だろうな」

千聖は、足先から伝わる温もりに、思わず息をついた。

「歩き疲れた足には、これくらいがちょうどいいですね」

「贅沢な温泉より、これくらいの方が、気軽でいい」

「修司さんも、疲れました?」

「多少はな。運転もしてたし」

「運転、代わってあげたいけど、免許持ってないので」

「持ってても、任せない」

「ひどい」

千聖が、少し口を尖らせると、修司は、小さく笑った。

「軽井沢の道、慣れてないやつに任せるのは怖い。俺が運転する方が安全だ」

「そういうことにしておきます」

並んで足湯に浸かりながら、二人はしばらく、他愛のない会話を続けた。湯気の向こうに見える木々の緑が、午後の柔らかな光を受けて、穏やかに揺れていた。

 

 

しばらく足湯を堪能した後、千聖がふと思い出したように言った。

「せっかくなので、お土産、買って行きたいです」

「プリンスショッピングプラザ、行くつもりだった。ちょうどいい」

夕方の涼しい時間になると、二人は、軽井沢・プリンスショッピングプラザへと向かった。

「お土産、選ばないと」

「誰にだ」

「花音と、母に」

千聖は、店を巡りながら、真剣な表情でお土産を選んでいった。

まず立ち寄ったのは、老舗ジャム店の沢屋(SAWAYA)。色とりどりの瓶が並ぶ店内で、千聖は、しばらく悩んだ末、定番のいちごジャムと、季節限定のルバーブジャムを選んだ。

「お母さん、パン食べる時、ジャムよく使うから」

続いて向かったのは、アトリエ・ド・フロマージュ。ショーケースに並んだチーズケーキを見て、千聖は、思わず目を輝かせた。

「わあ、美味しそう……これも、お母さんに」

「二つとも、母親用か」

「美味しいものは、いくつあってもいいんです」

千聖は、そう言いながら、チーズケーキを一箱、丁寧に選んだ。

花音への土産には、Bon Okawa 軽井沢チョコレートファクトリーのチョコレート菓子を選んだ。

「花音、こういう可愛いパッケージ、好きそうだから」

「花音?」

修司が、聞き慣れない名前に、軽く首を傾げた。

「あ、話した事、ありませんでしたっけ?私の親友です、学校の」

「ああ、いつも一緒にいる子か?」

「話したこと、ありましたっけ」

「前に、少し聞いた覚えがある」

「なんか、意外と覚えてるんですね」

千聖が、少し驚いたように言うと、修司は、そっけなく答えた。

「お前が話すことは、大体覚えてる」

その一言に、千聖の頬が、じんわりと熱くなった。

「……そういうこと、さらっと言うの、ずるいです」

「事実を言っただけだ」

修司は、涼しい顔でそう返すと、また商品棚に視線を戻した。千聖は、赤くなった顔を隠すように、慌ててチョコレートの箱に視線を落とした。

「よく分かってるな」

「長い付き合いなので」

千聖は、リボンのかかった箱を、嬉しそうに手に取った。

一方、修司は、少し離れた酒屋の前で足を止めていた。

「じいさんには、これでいいか」

修司が選んだのは、軽井沢ビールの飲み比べセットだった。何種類かのクラフトビールが、洒落た箱に詰められている。

「興山さん、お酒好きですもんね」

「それと、こっちも」

修司は、軽井沢工房のソーセージの詰め合わせも、カゴに追加した。

「つまみも、必要だろう」

「お酒とおつまみのセット、興山さん、喜びそうです」

「単純だからな、あの人は」

修司の言葉に、千聖は、思わず笑ってしまった。

両手に紙袋を提げながら、二人は、駐車場へと向かって歩いた。

「今日一日で、結構な荷物になりましたね」

「みんな、喜ぶだろう」

「はい、きっと」

千聖は、少し重くなった紙袋を見つめながら、満足そうに微笑んだ。今日一日の思い出が、そのまま形になったようで、なんだか嬉しかった。

 

 

軽井沢を出発する頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。

上信越道を走り始めてしばらく、修司が、ふと思い出したように言った。

「そういえば、横川SA、寄っていくか」

「横川SA?」

「峠の釜めし、これは外せないだろ」

「あ、聞いたことあります! 陶器の器に入ってるやつですよね」

「せっかく近くを通るんだ、寄らない手はない」

横川サービスエリアに着くと、あたりには、夕方の柔らかな光が差し込んでいた。売店には、峠の釜めしの陶器の器が、ずらりと並んでいる。

「わあ、本当に器が可愛い……」

千聖は、並べられた釜めしを見て、思わず声を上げた。

「二つ買うか」

「はい!」

購入した釜めしを、二人はサービスエリア内のベンチに座って開いた。素焼きの陶器の蓋を開けると、ほかほかと湯気が立ち上る。

「写真、撮っておきますね」

千聖は、湯気の立つ釜めしを、スマートフォンで一枚収めた。栗、鶏肉、椎茸、うずらの卵——彩り豊かな具材が、丁寧に敷き詰められている。

「いただきます」

一口食べると、出汁の効いた優しい味わいが、口いっぱいに広がった。

「美味しい……! お米、しっかり出汁の味が染みてます」

「悪くないな」

修司も、黙々と箸を進めていた。

「サービスエリアのご飯って、意外と侮れないですね」

「ここは、名物になるだけの理由があるな」

二人は、しばらく無言で、釜めしを味わった。夕暮れの空の下、行き交う旅行者たちの声が、遠くから賑やかに聞こえてくる。

釜めしを食べ終えると、二人は、腹ごなしにサービスエリア内を、少し歩くことにした。

「あ、あそこ、峠の力餅、売ってますね」

「食うか」

「もうお腹いっぱいですけど……味見だけ」

二人は、力餅を一つ買って、半分こにした。もちもちとした食感と、優しい甘さのきな粉が、口の中に広がる。

「美味しい」

「甘いもの、好きだな、お前」

「修司さんだって、甘いの好きじゃないですか。コーヒーの砂糖とか」

「あれは、お前のためのコーヒーだ」

「屁理屈です」

千聖が、くすくす笑いながら言うと、修司も、小さく口角を上げた。

売店を一通り見て回った後、二人は、缶コーヒーを片手に、駐車場へと戻る道を歩いた。

「今日一日、本当に盛りだくさんでした」

「まだ帰るまでが、旅のうちだ」

「そうですね」

千聖は、缶コーヒーを一口飲みながら、夕暮れの空を見上げた。

「なんか、日常に戻るのが、ちょっと惜しいくらいです」

「また、どこか行こうな」

「はい、絶対」

二人は、そんな会話を交わしながら、駐車場に停めたアルピーヌへと向かって、ゆっくりと歩いていった。

 

 

車に乗り込むと、修司は、缶コーヒーをドリンクホルダーに置きながら、エンジンをかけた。

「あとは、家まで一直線だな」

「はい」

車が走り出すと、窓の外の景色は、次第に山道から、見慣れた都会の明かりへと変わっていった。

「今日、一日振り返ってみると、本当に色々ありましたね」

千聖が、シートに深く身を預けながら、しみじみと言った。

「滝、テラス、カフェ、足湯、買い物、釜めし……よく詰め込んだな」

「修司さんが、うまく計画立ててくれたおかげです」

「行き当たりばったりより、効率がいいだけだ」

「またそれ言う」

千聖が、くすりと笑うと、修司も、わずかに口元を緩めた。

「一番、印象に残ったのはどれだ」

「え、選べないです。全部、楽しかったので」

「無難な答えだな」

「じゃあ……強いて言うなら、涼の音での、ゆっくりお茶した時間、かもしれません」

千聖は、少し考えてから、そう答えた。

「静かで、修司さんと、色んな話できたので」

「俺は」

修司が、前を見たまま、ぽつりと言った。

「白糸の滝、かもしれない」

「え、意外です」

「お前が、無邪気に喜んでる顔、初めて見た気がした」

その言葉に、千聖の頬が、じんわりと熱くなった。

「……そういうこと、不意打ちで言うの、ずるいです」

「事実を言っただけだ」

「さっきも、同じこと言ってましたよ」

「本当のことだからな」

修司の、いつも通りの淡々とした口調に、千聖は、また小さく笑ってしまった。

車内には、しばらくの間、心地よい沈黙が流れた。窓の外を流れる夜景を眺めながら、千聖は、今日一日の記憶を、大切にしまい込むように、ゆっくりと目を閉じた。

「……疲れたなら、寝てていいぞ」

「いえ、大丈夫です。まだ、この時間、味わっていたいので」

千聖は、目を開けて、隣の修司を見つめた。

「送ってくれる、この時間も、好きなので」

修司は、それに対して何も言わなかったが、その口元には、確かな微笑みが浮かんでいた。

 

 

千聖の家の前に到着すると、修司は、いつも通り、静かに車を停めた。

「今日は、お疲れ様でした」

「ああ、お疲れ」

「本当に、楽しかったです。連れて行ってくれて、ありがとうございました」

「また、行きたい場所があれば言え」

「はい」

千聖は、名残惜しそうにしながらも、笑顔で車を降りた。

「おやすみなさい」

「おやすみ」

アルピーヌのテールランプが、夜の道に静かに消えていくのを、千聖はしばらく見送っていた。

「ただいまー」

玄関を開けると、リビングから、唯が顔を出した。

「おかえりなさい。楽しかった?」

「うん、すっごく」

千聖は、両手に提げていた紙袋を、リビングのテーブルに並べた。

「はい、お土産。沢屋のジャムと、アトリエ・ド・フロマージュのチーズケーキ」

「わあ、嬉しい! どっちも美味しそうじゃない」

唯は、袋の中身を確認しながら、目を輝かせた。

「せっかくだから、今からお茶にしましょうか」

「うん!」

キッチンで紅茶を淹れながら、唯は、千聖の話に耳を傾けていた。

「それで、白糸の滝も綺麗だったし、ハルニレテラスのご飯も美味しかったし……あ、旧軽井沢のカフェも、すごく素敵な建物で」

「盛りだくさんだったのね」

「うん。あと、温泉かと思ったら、まさかの足湯で、私すっかり勘違いしちゃって」

「あら」

唯が、意味ありげに笑った。

「もしかして、お母さんの言ったこと、思い出しちゃった?」

「お、お母さん……!」

千聖の顔が、一気に赤くなった。

「やっぱりね。顔に書いてあるわよ」

「もう、からかわないで……」

千聖が、恥ずかしそうに顔を覆うと、唯は、楽しそうに笑いながら、テーブルにチーズケーキを切り分けていった。

「はい、召し上がれ」

「いただきます」

一口食べると、濃厚でありながら、後味はさっぱりとした味わいが、口の中に広がった。

「美味しい……! 」

「チーズが濃厚でいいわね」

「うん」

千聖は、頬を緩めながら、紅茶を一口飲んだ。

「今日、一番印象に残ったのはどこだったの?」

唯の問いに、千聖は、少し考えてから、微笑んだ。

「涼の音での、お茶した時間、かな。静かで、色んな話できて」

「良かったじゃない」

「修司さんは、白糸の滝が一番だったみたい」

「あら、意外」

「私が、無邪気に喜んでる顔、初めて見たって言われて……なんか、照れちゃった」

千聖が、頬を赤らめながら言うと、唯は、優しく目を細めた。

「本当に、いい人ね、修司くん」

「うん……そう思う」

母娘の穏やかな会話が、夜のリビングに、いつまでも続いていった。窓の外では、月明かりが、静かに家々を照らしていた。

 

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