映画『RESONANCE』は、公開されるや否や、異例の大ヒットとなった。連日、興行成績のニュースが流れ、千聖の名前も、あちこちのメディアで取り上げられるようになっていた。
そんな慌ただしい日々の合間、千聖はアトリエで、少し照れながら修司に切り出した。
「あの……お願い、聞いてもらえますか」
「なんだ」
「映画の撮影、ベースの練習、すごく頑張ったので……そのご褒美に、ドライブに連れて行ってほしいです」
千聖は、上目遣いに修司を見た。修司は、少しの間、千聖の顔を見つめてから、小さく口角を上げた。
「行きたい場所は、決まってるのか」
「はい。軽井沢の……『旧軽井沢Cafe 涼の音』ってところに、行ってみたくて」
「調べたのか」
「はい、ずっと気になってて」
千聖の熱心な様子に、修司は、小さく頷いた。
「わかった、楽しみにしとけ」
*
デートの数日前、千聖は自室のクローゼットを前に、唯に相談していた。
「軽井沢かぁ、いいわね」
唯は、いくつかの服を取り出しながら、楽しそうに言った。
「歩きやすさと、可愛さ、どっちを優先する?」
「歩きやすさ、優先で……多分、修司さんのことだから、軽井沢の色んなところに連れて行ってくれると思うの」
「あら、もう分かってるのね」
唯が、くすりと笑った。
「なんとなく、だけど。予定、詰め込みそうな気がして」
「じゃあ、これなんてどう?」
唯が差し出したのは、動きやすいフレアスカートと、涼しげな半袖のブラウスだった。
「歩き回っても疲れにくいし、カフェに入っても浮かない感じよ」
「いいかも……ありがとう、お母さん」
「それと」
唯は、クローゼットの奥から、薄手のカーディガンを取り出した。
「これも、一枚持って行きなさい」
「カーディガン? でも、初夏だし、暑くない?」
「この時期の軽井沢は、冷えることもあるのよ。朝晩は特にね。都内の感覚でいると、びっくりするくらい肌寒いこと、たまにあるから」
「そうなんだ、知らなかった」
「避暑地って言われるくらいだもの。念のため、持って行った方が安心よ」
千聖は、素直に頷きながら、カーディガンを鞄に詰めた。
「さすが、お母さん。詳しいね」
「昔、お父さんとよく行ってたのよ」
唯は、少し懐かしそうに目を細めながら、そう言った。
「それと、もう一つ、大事なこと」
唯が、急に真剣な顔つきになった。
「な、何?」
「軽井沢は、温泉も多いから。もし、見られても大丈夫なように、新しい下着で行きなさい」
「……え」
「ちゃんと、可愛いやつよ」
唯が、にっこりと微笑みながら言った瞬間、千聖の顔が、一気に真っ赤に染まった。
「お、お母さん! 何言って——」
「大事なことでしょう。備えあれば憂いなしって言うじゃない」
「そういう予定は、ないから……! 多分……」
千聖は、しどろもどろになりながら、両手で顔を覆った。
「あら、そう? でも、念のためよ、念のため」
唯は、まるで動じることなく、鼻歌交じりに、新品の下着を数枚、鞄の中にそっと忍ばせた。
「お、お母さん……」
「はいはい、これで準備は万端ね」
千聖は、真っ赤な顔のまま、それ以上何も言えなくなってしまった。
「あと、そうね」
唯は、千聖の髪を、後ろから軽く持ち上げながら言った。
「たまには、髪型も変えてみたら?」
「髪型?」
「いつも下ろしてるでしょう。編み込みとか、ハーフアップとか、そういうのも似合うと思うのよ」
「そんなの、自分じゃうまくできないよ」
「お母さんがやってあげる。ちょっと座って」
千聖は、鏡の前の椅子に座らされた。唯は、手際よく千聖の髪を編み込んでいき、耳のあたりで、小さくまとめていった。
「わあ……」
鏡に映る自分の姿に、千聖は思わず声を上げた。いつもと違う、少し大人びた雰囲気になっている。
「可愛いじゃない」
「うん……なんか、新鮮」
「たまにはイメチェンも大事よ。きっと、修司くんも驚くわ」
唯が、悪戯っぽく笑うと、千聖は、少し照れくさそうに頬を緩めた。
「当日も、こんな風にしてみようかな」
母娘の穏やかな時間が、出発前の準備を、より一層楽しいものにしていった。
*
デート当日は、まだ空が白み始めたばかりの、早朝だった。
千聖は、唯に教わった通りに髪を編み込み、薄手のカーディガンを羽織って、玄関先で修司を待っていた。
車が停まり、修司が降りてくると、千聖は少し緊張しながら、その場でくるりと一回転してみせた。
「……どうですか?」
修司は、しばらくの間、千聖をまじまじと見つめた。
「髪、いつもと違うな」
「母に、編んでもらったんです。似合いますか?」
「似合ってる」
修司は、迷いのない口調で、はっきりと言った。
「服も、いい。今日みたいな日には、ちょうどいい格好だ」
「……ありがとうございます」
千聖は、頬を赤らめながら、嬉しそうに微笑んだ。褒められることに慣れているはずなのに、修司からの一言は、いつも特別な響きを持っていた。
「よし、乗れ。早く出るぞ」
「はい!」
千聖は、あくびを堪えながら、助手席に乗り込んだ。
*
「この時期の週末は混む。早めに出た方が、快適に回れる」
修司は、慣れた様子でハンドルを握った。アルピーヌのエンジン音が、静かな朝の街に響く。
「今日は、アルなんですね」
「そう何度もあの車は持ち出せない」
「それに山道もあるからな。今日は、こっちの方が合ってる」
車は、都内を抜け、高速道路へと入っていった。朝焼けの空が、次第に明るさを増していく。
「今日、どこ回るんですか?」
「白糸の滝、ハルニレテラス、それから、お前が行きたがってたカフェ」
「涼の音、ですね」
「ああ。あとは、その時の気分次第だな」
「なんか、修司さんがちゃんと計画立ててくれてるの、嬉しいです」
「行き当たりばったりより、効率がいいだけだ」
そっけない返事だったが、千聖には、その裏にある心遣いが、しっかりと伝わっていた。
「そういえば、母が言ってたんですけど、軽井沢って、朝晩冷えるんですね」
「標高高いからな。都内の感覚でいると、痛い目に遭う」
「カーディガン持ってきて正解でした」
「賢明な判断だ」
「そういえば、修司さんは、軽井沢、行ったことあるんですか?」
千聖が、ふと尋ねた。
「いや」
「え、そうなんですか? 意外です」
「仕事で近くまで行ったことはあるが、観光したことはない」
修司は、前を見たまま、淡々と答えた。
「じゃあ、今日が初めてなんですね」
「そうなるな」
「なんか、緊張します。案内する立場でもないのに」
千聖が、少し照れくさそうに言うと、修司は、わずかに口角を上げた。
「だから、楽しみだ」
「え?」
「初めての場所を、お前と一緒に回れるんだ。悪くないだろう」
その一言に、千聖の胸が、じんわりと温かくなった。
「……はい、悪くないです」
千聖は、はにかむように微笑みながら、窓の外に視線を戻した。
*
最初に立ち寄ったのは、白糸の滝だった。
朝一番の澄んだ空気の中、新緑に囲まれた遊歩道を、二人はゆっくりと歩いた。
「わあ……」
滝が見えてくると、千聖は思わず声を上げた。扇状に広がる白い流れが、朝日を受けてきらきらと輝いている。
「綺麗ですね」
「この時間だからこそだな。昼になると、観光客でごった返す」
「早起きした甲斐がありました」
千聖は、深く息を吸い込んだ。新緑の香りが、身体中に染み渡るようだった。
滝の周りを囲む遊歩道を、二人はゆっくりと歩いた。朝露に濡れた葉が、日差しを受けてきらきらと光っている。
「涼しいですね」
「マイナスイオンってやつか」
「効果、信じてます?」
「さあな。だが、気持ちがいいのは事実だ」
修司の答えに、千聖は小さく笑った。
しばらく歩くと、滝の全景が見渡せる場所に出た。無数の細い水流が、岩肌を伝って幾筋にも分かれ落ちる様は、まるで白い糸を垂らしたようだった。
「本当に、糸みたいですね」
「ほんとだな、名前の通りだ」
「見てるだけで、なんか、心が洗われる感じがします」
千聖は、両手を広げて、深呼吸をした。
「舞台挨拶とか、撮影とか、色々忙しかったから……こういう時間、久しぶりです」
「たまには、こういうのもいいだろう」
修司は、千聖の隣に立ちながら、静かに滝を眺めていた。
「修司さんは、こういう自然の風景、好きなんですか?」
「嫌いじゃない。落ち着く」
「意外です。もっと、街中とか、都会派なイメージだったので」
「アトリエに籠ってばかりだからな。たまには、こういう場所も悪くない」
千聖は、そんな修司の横顔を、そっと見つめた。普段の、少し忙しなく動き回っている姿とは違う、穏やかな表情だった。
「写真、撮りましょうか」
「珍しいな、お前がそれを言うのは」
「今日は、記念に残しておきたい気分なので」
千聖がスマートフォンを取り出すと、修司は、少し戸惑いながらも、素直に隣に並んだ。
「はい、撮りますよ」
シャッター音が、静かな滝の音に紛れて、小さく響いた。
画面に映る二人の後ろで、白い糸のような滝が、朝日を受けて輝いていた。
*
次に向かったのは、ハルニレテラスだった。楡の木々に囲まれた、ウッドデッキのテラスが印象的な施設で、いくつものカフェやレストランが軒を連ねている。
「どこに入ります?」
「お前が選べ」
千聖は、しばらく店を見て回った末、地元野菜を使ったビストロを選んだ。
案内されたテラス席は、木漏れ日が心地よく差し込む場所だった。爽やかな風が、木々の葉を揺らしている。
「わあ、雰囲気いいですね」
千聖は、メニューを開きながら、目を輝かせた。
しばらくして運ばれてきたのは、信州サーモンのカルパッチョ、地元野菜のグリル、そして石窯で焼いたピザだった。彩り豊かな野菜が、皿の上で瑞々しく輝いている。
「わあ……美味しそう」
「ここの野菜、朝採れらしいな」
「道理で、みずみずしいわけですね」
千聖は、まずカルパッチョを一口食べて、目を丸くした。
「美味しい……! サーモンとろとろです」
「そうか」
修司も、ピザに手を伸ばしながら、静かに頷いた。もちもちの生地に、地元産のチーズと季節の野菜がたっぷりとのっている。
「修司さんも、感想言ってください」
「美味い」
「一言で終わらせないでください」
千聖が、少し不満そうに口を尖らせると、修司は、小さく笑った。
「生地がもちもちしてて、チーズの塩加減もちょうどいい。野菜も新鮮で、それぞれの味がちゃんと立ってる」
「……急に饒舌ですね」
「言えって言ったのはお前だろう」
そんなやり取りに、千聖は思わず吹き出した。
食事の合間、木々の間から差し込む光が、テーブルの上で揺らめいていた。時折、小鳥のさえずりも聞こえてくる。
「こういう時間、いいですね」
「静かでいい場所だ」
「東京だと、こんなにゆっくり食事する時間、なかなか取れないので」
千聖は、グラスに入った地元産のアップルジュースを一口飲みながら、満足そうに息をついた。
「せっかくなので、また写真、撮ってもいいですか」
「好きにしろ」
千聖は、料理の写真を何枚か撮った後、少し悩んだ様子で、修司の方にスマートフォンを向けた。
「今度は、修司さんも一緒に」
「さっき撮っただろう」
「あれは滝バックです。今度は、ここの雰囲気で」
千聖に促されて、修司は、仕方なさそうに、けれど嫌がる素振りもなく、隣に並んだ。
木漏れ日の下、二人の笑顔が、画面の中に収められていった。
*
昼を過ぎた頃、二人が向かったのは、旧軽井沢にある、登録有形文化財のカフェ——「旧軽井沢Cafe 涼の音」だった。
石畳の小道の先に現れたのは、大正時代を思わせる、洋風建築の建物だった。蔦の絡まる外壁と、深い緑の屋根が、周囲の木々に美しく溶け込んでいる。
「わあ、素敵な建物……」
千聖は、足を止めて、しばらく見入っていた。
「写真、撮っておくか」
「はい!」
千聖は、建物の全景を、スマートフォンに何枚か収めた。木漏れ日が、古い窓ガラスに柔らかく反射している。
店内に足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のように、静かな空気に包まれた。
高い天井、年季の入った木の梁、アンティークの家具の数々。柱時計の音だけが、ゆっくりと時を刻んでいる。
「時間が止まったみたいな場所ですね」
千聖は、店内をぐるりと見回しながら、感嘆したように呟いた。
壁には、古い写真や絵画が飾られ、窓辺には、季節の花が生けられていた。案内された席は、大きな窓に面した一角で、庭の緑が、絵画のように切り取られて見えた。
「ここも、撮っておこう」
千聖は、店内の様子を、何枚か写真に収めた。アンティークのランプ、木漏れ日の差し込む窓辺、静かに佇む古い家具——どれも、絵になる光景だった。
しばらくして、注文していたものが運ばれてきた。
千聖が頼んだのは、季節のフルーツをふんだんに使ったパフェと、ハーブティー。修司は、自家製のチーズケーキと、コーヒーを選んでいた。
「わあ、綺麗……」
パフェには、色とりどりのベリーと、軽井沢産という桃が、丁寧に飾り付けられていた。生クリームの上に、小さなミントの葉が添えられている。
「食べるのがもったいないくらいです」
「写真、先に撮っておけ」
「はい」
千聖は、パフェとチーズケーキ、それぞれの写真を丁寧に撮った後、ようやくスプーンを手に取った。
「いただきます」
一口食べると、フルーツの甘みと、なめらかなクリームが、口いっぱいに広がった。
「美味しい……! 桃、すごくジューシーです」
「そっちも味見していいか」
「あ、はい、どうぞ」
修司が、パフェから一口分けてもらうと、小さく頷いた。
「甘さがくどくないな。さっぱりしていて悪くないな」
「修司さんのチーズケーキも、気になります」
「食うか」
修司が、皿ごと千聖の方に寄せた。千聖は、フォークで小さく切り分けて、口に運んだ。
「濃厚……! でも、後味はさっぱりしてますね」
「気に入ったなら、また来るか」
「はい、ぜひ」
食後、二人はしばらく、お茶を片手に、ゆったりとした時間を過ごした。ハーブティーの優しい香りが、店内にほのかに漂っている。
「今日、ここまでですごく充実してますね」
千聖が、カップを両手で包みながら、満足そうに言った。
「まだ半分も終わってないぞ」
「え、そうなんですか」
「この後も、予定がある」
「楽しみです」
千聖は、窓の外の庭に視線を向けた。木々の緑が、風に揺れている。
「修司さんは、こういう場所に来ると、どんなこと考えるんですか」
「特に、何も」
「そんな……」
「強いて言うなら、こういう建物の意匠は、参考になる」
「デザインの仕事にも繋がるんですね」
「ふとした瞬間に、思わぬ発見があったりする。この店の建具の細工とか、悪くない」
修司は、窓枠の装飾を、興味深そうに眺めていた。
「私には、そういう視点、なかなか持てないです」
「意識してるかどうかの違いだけだ。お前も、演技の中で、似たようなことしてるだろう」
「演技で、ですか?」
「役の細かい仕草とか、表情とか。普段から観察して、蓄積してるはずだ」
言われてみて、千聖は、少し驚いたように瞬きをした。
「……そうかもしれません。無意識に、色んな人の仕草とか、見ちゃってるかも」
「同じことだ」
修司が、コーヒーを一口飲みながら、そっけなく言った。その言葉に、千聖は、なんだか誇らしいような、くすぐったいような気持ちになった。
「もう少し、ここにいたいです」
「時間はある。ゆっくりしていこう」
窓の外で、鳥の声が響いた。
柱時計の秒針の音だけが、静かに時を刻んでいた。
二人は、それからしばらく、言葉少なに、穏やかな時間を分かち合った。
「連れてきてくれて、ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。まだ予定は残ってる」
修司が、そう言うと、千聖は少し首を傾げた。
千聖は、最後に、窓辺の光と、テーブルに並んだ空になった器を、記念に一枚、写真に収めた。
*
カフェを出た後、修司が向かったのは、ホテルグリーンプラザ軽井沢だった。
「ここは……?」
「せっかくだから、温泉入って行くか」
「え、温泉、ですか」
千聖の頭の中で、一瞬、様々な想像が駆け巡った。
——お、温泉って、まさか……。
千聖の顔が、みるみる赤くなっていく。
「な、な、なんでもないです、その、心の準備が……」
しどろもどろになりながら、千聖の脳裏に、出発前の唯の言葉が、鮮明によみがえった。
——軽井沢は、温泉も多いから。もし、見られても大丈夫なように、新しい下着で行きなさい。ちゃんと、可愛いやつよ。
まさか、本当にそんな展開になるなんて——千聖の頭の中は、一瞬でパニックに陥っていた。鞄の中に入っている、あの新しい下着のことが、いやに存在感を増して感じられる。
——お母さん、まさか、こうなるって見越してたの……?
「おい、大丈夫か。顔、赤いぞ」
修司が、心配そうに千聖の顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫です! 本当に、なんでもないので……!」
千聖は、必死に平静を装いながら、内心では、唯の妙な勘の良さに、複雑な気持ちを抱いていた。
しどろもどろになる千聖を見て、修司は、不思議そうに首を傾げた。
「なんだ、その反応は」
「い、いえ……」
「何を勘違いしてたんだ」
修司が、からかうような目つきで、千聖の顔を覗き込んだ。
「べ、別に、勘違いなんて……」
「顔真っ赤にして、心の準備とか言ってたじゃないか」
「そ、それは……」
千聖が、しどろもどろに答えを探していると、修司は、何かに気づいたように、小さく笑った。
「まさか、混浴でも想像したのか」
「なっ……! ち、違います!」
千聖の顔が、耳まで真っ赤になった。
「図星みたいだな」
「違いますってば……!」
「残念だったな、足湯で」
修司は、まったく悪びれた様子もなく、愉快そうに千聖をからかい続けた。
「もう、からかわないでください……」
案内された先は、ホテル敷地内にある、無料開放されている足湯だった。「チューダーの湯」と書かれた看板の下、湯気の立つ足湯に、何組かの観光客がゆったりと足を浸けている。
「な、なんでもありません……!」
千聖は、真っ赤になった顔を隠すように、慌てて靴を脱ぎ始めた。修司は、その様子を見ながら、珍しく声を出して笑った。
「ドライブがてら、足だけでもリフレッシュできる。悪くないだろう」
「……はい」
足湯に浸かると、じんわりとした温かさが、歩き疲れた足に染み渡っていった。
「気持ちいいです」
「だろうな」
千聖は、足先から伝わる温もりに、思わず息をついた。
「歩き疲れた足には、これくらいがちょうどいいですね」
「贅沢な温泉より、これくらいの方が、気軽でいい」
「修司さんも、疲れました?」
「多少はな。運転もしてたし」
「運転、代わってあげたいけど、免許持ってないので」
「持ってても、任せない」
「ひどい」
千聖が、少し口を尖らせると、修司は、小さく笑った。
「軽井沢の道、慣れてないやつに任せるのは怖い。俺が運転する方が安全だ」
「そういうことにしておきます」
並んで足湯に浸かりながら、二人はしばらく、他愛のない会話を続けた。湯気の向こうに見える木々の緑が、午後の柔らかな光を受けて、穏やかに揺れていた。
*
しばらく足湯を堪能した後、千聖がふと思い出したように言った。
「せっかくなので、お土産、買って行きたいです」
「プリンスショッピングプラザ、行くつもりだった。ちょうどいい」
夕方の涼しい時間になると、二人は、軽井沢・プリンスショッピングプラザへと向かった。
「お土産、選ばないと」
「誰にだ」
「花音と、母に」
千聖は、店を巡りながら、真剣な表情でお土産を選んでいった。
まず立ち寄ったのは、老舗ジャム店の沢屋(SAWAYA)。色とりどりの瓶が並ぶ店内で、千聖は、しばらく悩んだ末、定番のいちごジャムと、季節限定のルバーブジャムを選んだ。
「お母さん、パン食べる時、ジャムよく使うから」
続いて向かったのは、アトリエ・ド・フロマージュ。ショーケースに並んだチーズケーキを見て、千聖は、思わず目を輝かせた。
「わあ、美味しそう……これも、お母さんに」
「二つとも、母親用か」
「美味しいものは、いくつあってもいいんです」
千聖は、そう言いながら、チーズケーキを一箱、丁寧に選んだ。
花音への土産には、Bon Okawa 軽井沢チョコレートファクトリーのチョコレート菓子を選んだ。
「花音、こういう可愛いパッケージ、好きそうだから」
「花音?」
修司が、聞き慣れない名前に、軽く首を傾げた。
「あ、話した事、ありませんでしたっけ?私の親友です、学校の」
「ああ、いつも一緒にいる子か?」
「話したこと、ありましたっけ」
「前に、少し聞いた覚えがある」
「なんか、意外と覚えてるんですね」
千聖が、少し驚いたように言うと、修司は、そっけなく答えた。
「お前が話すことは、大体覚えてる」
その一言に、千聖の頬が、じんわりと熱くなった。
「……そういうこと、さらっと言うの、ずるいです」
「事実を言っただけだ」
修司は、涼しい顔でそう返すと、また商品棚に視線を戻した。千聖は、赤くなった顔を隠すように、慌ててチョコレートの箱に視線を落とした。
「よく分かってるな」
「長い付き合いなので」
千聖は、リボンのかかった箱を、嬉しそうに手に取った。
一方、修司は、少し離れた酒屋の前で足を止めていた。
「じいさんには、これでいいか」
修司が選んだのは、軽井沢ビールの飲み比べセットだった。何種類かのクラフトビールが、洒落た箱に詰められている。
「興山さん、お酒好きですもんね」
「それと、こっちも」
修司は、軽井沢工房のソーセージの詰め合わせも、カゴに追加した。
「つまみも、必要だろう」
「お酒とおつまみのセット、興山さん、喜びそうです」
「単純だからな、あの人は」
修司の言葉に、千聖は、思わず笑ってしまった。
両手に紙袋を提げながら、二人は、駐車場へと向かって歩いた。
「今日一日で、結構な荷物になりましたね」
「みんな、喜ぶだろう」
「はい、きっと」
千聖は、少し重くなった紙袋を見つめながら、満足そうに微笑んだ。今日一日の思い出が、そのまま形になったようで、なんだか嬉しかった。
*
軽井沢を出発する頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。
上信越道を走り始めてしばらく、修司が、ふと思い出したように言った。
「そういえば、横川SA、寄っていくか」
「横川SA?」
「峠の釜めし、これは外せないだろ」
「あ、聞いたことあります! 陶器の器に入ってるやつですよね」
「せっかく近くを通るんだ、寄らない手はない」
横川サービスエリアに着くと、あたりには、夕方の柔らかな光が差し込んでいた。売店には、峠の釜めしの陶器の器が、ずらりと並んでいる。
「わあ、本当に器が可愛い……」
千聖は、並べられた釜めしを見て、思わず声を上げた。
「二つ買うか」
「はい!」
購入した釜めしを、二人はサービスエリア内のベンチに座って開いた。素焼きの陶器の蓋を開けると、ほかほかと湯気が立ち上る。
「写真、撮っておきますね」
千聖は、湯気の立つ釜めしを、スマートフォンで一枚収めた。栗、鶏肉、椎茸、うずらの卵——彩り豊かな具材が、丁寧に敷き詰められている。
「いただきます」
一口食べると、出汁の効いた優しい味わいが、口いっぱいに広がった。
「美味しい……! お米、しっかり出汁の味が染みてます」
「悪くないな」
修司も、黙々と箸を進めていた。
「サービスエリアのご飯って、意外と侮れないですね」
「ここは、名物になるだけの理由があるな」
二人は、しばらく無言で、釜めしを味わった。夕暮れの空の下、行き交う旅行者たちの声が、遠くから賑やかに聞こえてくる。
釜めしを食べ終えると、二人は、腹ごなしにサービスエリア内を、少し歩くことにした。
「あ、あそこ、峠の力餅、売ってますね」
「食うか」
「もうお腹いっぱいですけど……味見だけ」
二人は、力餅を一つ買って、半分こにした。もちもちとした食感と、優しい甘さのきな粉が、口の中に広がる。
「美味しい」
「甘いもの、好きだな、お前」
「修司さんだって、甘いの好きじゃないですか。コーヒーの砂糖とか」
「あれは、お前のためのコーヒーだ」
「屁理屈です」
千聖が、くすくす笑いながら言うと、修司も、小さく口角を上げた。
売店を一通り見て回った後、二人は、缶コーヒーを片手に、駐車場へと戻る道を歩いた。
「今日一日、本当に盛りだくさんでした」
「まだ帰るまでが、旅のうちだ」
「そうですね」
千聖は、缶コーヒーを一口飲みながら、夕暮れの空を見上げた。
「なんか、日常に戻るのが、ちょっと惜しいくらいです」
「また、どこか行こうな」
「はい、絶対」
二人は、そんな会話を交わしながら、駐車場に停めたアルピーヌへと向かって、ゆっくりと歩いていった。
*
車に乗り込むと、修司は、缶コーヒーをドリンクホルダーに置きながら、エンジンをかけた。
「あとは、家まで一直線だな」
「はい」
車が走り出すと、窓の外の景色は、次第に山道から、見慣れた都会の明かりへと変わっていった。
「今日、一日振り返ってみると、本当に色々ありましたね」
千聖が、シートに深く身を預けながら、しみじみと言った。
「滝、テラス、カフェ、足湯、買い物、釜めし……よく詰め込んだな」
「修司さんが、うまく計画立ててくれたおかげです」
「行き当たりばったりより、効率がいいだけだ」
「またそれ言う」
千聖が、くすりと笑うと、修司も、わずかに口元を緩めた。
「一番、印象に残ったのはどれだ」
「え、選べないです。全部、楽しかったので」
「無難な答えだな」
「じゃあ……強いて言うなら、涼の音での、ゆっくりお茶した時間、かもしれません」
千聖は、少し考えてから、そう答えた。
「静かで、修司さんと、色んな話できたので」
「俺は」
修司が、前を見たまま、ぽつりと言った。
「白糸の滝、かもしれない」
「え、意外です」
「お前が、無邪気に喜んでる顔、初めて見た気がした」
その言葉に、千聖の頬が、じんわりと熱くなった。
「……そういうこと、不意打ちで言うの、ずるいです」
「事実を言っただけだ」
「さっきも、同じこと言ってましたよ」
「本当のことだからな」
修司の、いつも通りの淡々とした口調に、千聖は、また小さく笑ってしまった。
車内には、しばらくの間、心地よい沈黙が流れた。窓の外を流れる夜景を眺めながら、千聖は、今日一日の記憶を、大切にしまい込むように、ゆっくりと目を閉じた。
「……疲れたなら、寝てていいぞ」
「いえ、大丈夫です。まだ、この時間、味わっていたいので」
千聖は、目を開けて、隣の修司を見つめた。
「送ってくれる、この時間も、好きなので」
修司は、それに対して何も言わなかったが、その口元には、確かな微笑みが浮かんでいた。
*
千聖の家の前に到着すると、修司は、いつも通り、静かに車を停めた。
「今日は、お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ」
「本当に、楽しかったです。連れて行ってくれて、ありがとうございました」
「また、行きたい場所があれば言え」
「はい」
千聖は、名残惜しそうにしながらも、笑顔で車を降りた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
アルピーヌのテールランプが、夜の道に静かに消えていくのを、千聖はしばらく見送っていた。
「ただいまー」
玄関を開けると、リビングから、唯が顔を出した。
「おかえりなさい。楽しかった?」
「うん、すっごく」
千聖は、両手に提げていた紙袋を、リビングのテーブルに並べた。
「はい、お土産。沢屋のジャムと、アトリエ・ド・フロマージュのチーズケーキ」
「わあ、嬉しい! どっちも美味しそうじゃない」
唯は、袋の中身を確認しながら、目を輝かせた。
「せっかくだから、今からお茶にしましょうか」
「うん!」
キッチンで紅茶を淹れながら、唯は、千聖の話に耳を傾けていた。
「それで、白糸の滝も綺麗だったし、ハルニレテラスのご飯も美味しかったし……あ、旧軽井沢のカフェも、すごく素敵な建物で」
「盛りだくさんだったのね」
「うん。あと、温泉かと思ったら、まさかの足湯で、私すっかり勘違いしちゃって」
「あら」
唯が、意味ありげに笑った。
「もしかして、お母さんの言ったこと、思い出しちゃった?」
「お、お母さん……!」
千聖の顔が、一気に赤くなった。
「やっぱりね。顔に書いてあるわよ」
「もう、からかわないで……」
千聖が、恥ずかしそうに顔を覆うと、唯は、楽しそうに笑いながら、テーブルにチーズケーキを切り分けていった。
「はい、召し上がれ」
「いただきます」
一口食べると、濃厚でありながら、後味はさっぱりとした味わいが、口の中に広がった。
「美味しい……! 」
「チーズが濃厚でいいわね」
「うん」
千聖は、頬を緩めながら、紅茶を一口飲んだ。
「今日、一番印象に残ったのはどこだったの?」
唯の問いに、千聖は、少し考えてから、微笑んだ。
「涼の音での、お茶した時間、かな。静かで、色んな話できて」
「良かったじゃない」
「修司さんは、白糸の滝が一番だったみたい」
「あら、意外」
「私が、無邪気に喜んでる顔、初めて見たって言われて……なんか、照れちゃった」
千聖が、頬を赤らめながら言うと、唯は、優しく目を細めた。
「本当に、いい人ね、修司くん」
「うん……そう思う」
母娘の穏やかな会話が、夜のリビングに、いつまでも続いていった。窓の外では、月明かりが、静かに家々を照らしていた。