砂糖二つの特等席   作:y@s

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第5話 返しに行くだけのはずだった

 

 

翌日の放課後、千聖は鞄の中のパーカーを三回確認してから、家とは反対方向の電車に乗った。

 

返しに行くだけだ。

それだけのことだ。

昨夜、自分に言い聞かせた言葉をもう一度丁寧に並べ直す。

借りたものを返す。

礼を言う。

それで終わり。

 

雑居ビルの前に立った時、千聖は一瞬だけ足が止まった。

 

古びたエントランス、錆びかけたポスト、年季の入ったエレベーター、一週間前と何も変わっていない。

千聖は息を整えて、エレベーターのボタンを押した。

 

 

ドアをノックすると、少し間があって、「開いてる」と声が返ってきた。

 

千聖は静かにドアを開けた。

 

修司はいつも通りの場所にいた。仕事机の前、スケッチに向かって、手を動かしている、こちらを見もしない。

千聖は入り口で少し迷ってから、「失礼します」と言って中に入った。

 

「来たな、お嬢ちゃん」

 

振り向かないまま、修司が言った。

 

「……パーカーを、返しに来ました」

 

「うん」

 

それだけだった。

それ以上でも、それ以下でもない。

千聖は畳んだパーカーを机の端に置いた。修司はちらりと一瞥して、「ありがと」と言って、また手を動かした。

 

返した。

礼を言う。

それで終わり。

 

「……あの」

 

「ん」

 

「お礼を、改めて言いたくて。先日は、ありがとうございました」

 

「うん」

 

素っ気ない返事だった。

けれど不思議と、それが自然だった。

修司はお礼を大げさに受け取らない。

千聖の言葉を、過不足なく、ただ受け取る。

 

これで終わりだ。帰れる。

 

「……何、作ってるんですか」

 

気づいたら、口から出ていた。

 

修司が初めて振り向いた。少し意外そうな顔をして、それからふっと目を細めた。

 

「興味あるのか?」

 

「……少し」

 

修司は椅子を引いて、千聖に机の前に来るよう顎で示した。千聖は鞄を持ったまま、おずおずと近づいた。

 

机の上には、何枚ものスケッチが広がっていた。ドレスのデザイン画だった。

線が細く、迷いがない。

シルエットが美しく、けれど装飾は華美になり過ぎないように絞られている。

余白の使い方が、どこか音楽に似ていると、千聖は思った。

 

「……きれい」

 

「まだ途中だけどな」

 

「どんな人が着るんですか」

 

「発表会用。若手デザイナーの合同展示に出す。着るのはモデルだけど、想定してる人はいる」

 

「どんな人を、想定していますか?」

 

修司は少し考えるように間を置いてから、スケッチの一点を指先でなぞった。

 

「背が高くて、芯がある人。華やかなのに、どこか寂しい顔をしてる。そういう人が着た時に、初めて完成するデザインにしたい」

 

静かな声だった。

からかいも、余裕もない。ただ、自分の仕事の話をしている顔だった。

 

千聖はそのデザイン画を見つめた。確かに、そういう人が着た時の輪郭が、すでにそこにあった。布地の流れ方、襟の角度、裾の長さ。全部が、誰かのために計算されている。

 

「……すごいですね」

 

「何が」

 

「見えてるんですね、着る人が。デザインする時から」

 

修司はしばらく千聖を見た。値踏みするのとも、からかうのとも違う目だった。

 

「お嬢ちゃん、目がいいな」

 

「……そんなことは」

 

「モデルか、女優か」

 

千聖は少し驚いた。修司は続けた。

 

「立ち姿で大体わかる。カメラの前に立ってる人間は、重心の置き方が違う」

 

「……気づくんですね、そういうこと」

 

「仕事柄」

 

さらりと言って、修司はまた机に向き直った。

千聖は自分がまだそこに立っていることに、少し遅れて気づいた。

 

帰るつもりだった。パーカーを返して、礼を言って、それで終わりのはずだった。

 

「……もう少し、見ていていいですか?」

 

声に出してから、千聖は自分でも少し驚いた。修司は振り向かないまま、短く言った。

 

「どうぞ」

 

千聖はそっとソファに腰を下ろした。修司の手が、またスケッチの上を動き始める。部屋の中に、かすかな鉛筆の音だけが続いた。

 

しばらくして、修司が立ち上がった。台所に向かう気配がして、やがてコーヒーの香りが漂ってきた。

 

千聖は黙って待った。

 

「ほら」

 

差し出されたマグカップを、千聖は両手で受け取った。口をつける。

 

甘い。砂糖が二つ。

 

「……また、子供扱いですね」

 

「そう思うなら、次は自分で砂糖の量を言えばいい」

 

次。

 

その一言が、さりげなく置かれた。

千聖はカップを両手で包んだまま、視線を落とした。

 

次があることを前提で話している。千聖が来ることを、当然のように織り込んでいる。それが、押し付けがましくなかった。ただ、そこに扉が開いているみたいだった。

 

「……意地悪ですね」

 

「何が」

 

「そういう言い方」

 

「本当のことを言っただけだろ」

 

修司は涼しい顔で自分のカップを傾けた。千聖はもう一口、コーヒーを飲んだ。

 

甘くて、温かくて、少しだけ悔しかった。

 

窓の外はもう暗くなりかけていた。

もう帰らなければならない。

わかっている。

 

けれど、もう少しだけ、ここにいたかった。

 

——この人のことが、知りたい。

 

今度は、思考を断ち切らなかった。

 

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