翌日の放課後、千聖は鞄の中のパーカーを三回確認してから、家とは反対方向の電車に乗った。
返しに行くだけだ。
それだけのことだ。
昨夜、自分に言い聞かせた言葉をもう一度丁寧に並べ直す。
借りたものを返す。
礼を言う。
それで終わり。
雑居ビルの前に立った時、千聖は一瞬だけ足が止まった。
古びたエントランス、錆びかけたポスト、年季の入ったエレベーター、一週間前と何も変わっていない。
千聖は息を整えて、エレベーターのボタンを押した。
ドアをノックすると、少し間があって、「開いてる」と声が返ってきた。
千聖は静かにドアを開けた。
修司はいつも通りの場所にいた。仕事机の前、スケッチに向かって、手を動かしている、こちらを見もしない。
千聖は入り口で少し迷ってから、「失礼します」と言って中に入った。
「来たな、お嬢ちゃん」
振り向かないまま、修司が言った。
「……パーカーを、返しに来ました」
「うん」
それだけだった。
それ以上でも、それ以下でもない。
千聖は畳んだパーカーを机の端に置いた。修司はちらりと一瞥して、「ありがと」と言って、また手を動かした。
返した。
礼を言う。
それで終わり。
「……あの」
「ん」
「お礼を、改めて言いたくて。先日は、ありがとうございました」
「うん」
素っ気ない返事だった。
けれど不思議と、それが自然だった。
修司はお礼を大げさに受け取らない。
千聖の言葉を、過不足なく、ただ受け取る。
これで終わりだ。帰れる。
「……何、作ってるんですか」
気づいたら、口から出ていた。
修司が初めて振り向いた。少し意外そうな顔をして、それからふっと目を細めた。
「興味あるのか?」
「……少し」
修司は椅子を引いて、千聖に机の前に来るよう顎で示した。千聖は鞄を持ったまま、おずおずと近づいた。
机の上には、何枚ものスケッチが広がっていた。ドレスのデザイン画だった。
線が細く、迷いがない。
シルエットが美しく、けれど装飾は華美になり過ぎないように絞られている。
余白の使い方が、どこか音楽に似ていると、千聖は思った。
「……きれい」
「まだ途中だけどな」
「どんな人が着るんですか」
「発表会用。若手デザイナーの合同展示に出す。着るのはモデルだけど、想定してる人はいる」
「どんな人を、想定していますか?」
修司は少し考えるように間を置いてから、スケッチの一点を指先でなぞった。
「背が高くて、芯がある人。華やかなのに、どこか寂しい顔をしてる。そういう人が着た時に、初めて完成するデザインにしたい」
静かな声だった。
からかいも、余裕もない。ただ、自分の仕事の話をしている顔だった。
千聖はそのデザイン画を見つめた。確かに、そういう人が着た時の輪郭が、すでにそこにあった。布地の流れ方、襟の角度、裾の長さ。全部が、誰かのために計算されている。
「……すごいですね」
「何が」
「見えてるんですね、着る人が。デザインする時から」
修司はしばらく千聖を見た。値踏みするのとも、からかうのとも違う目だった。
「お嬢ちゃん、目がいいな」
「……そんなことは」
「モデルか、女優か」
千聖は少し驚いた。修司は続けた。
「立ち姿で大体わかる。カメラの前に立ってる人間は、重心の置き方が違う」
「……気づくんですね、そういうこと」
「仕事柄」
さらりと言って、修司はまた机に向き直った。
千聖は自分がまだそこに立っていることに、少し遅れて気づいた。
帰るつもりだった。パーカーを返して、礼を言って、それで終わりのはずだった。
「……もう少し、見ていていいですか?」
声に出してから、千聖は自分でも少し驚いた。修司は振り向かないまま、短く言った。
「どうぞ」
千聖はそっとソファに腰を下ろした。修司の手が、またスケッチの上を動き始める。部屋の中に、かすかな鉛筆の音だけが続いた。
しばらくして、修司が立ち上がった。台所に向かう気配がして、やがてコーヒーの香りが漂ってきた。
千聖は黙って待った。
「ほら」
差し出されたマグカップを、千聖は両手で受け取った。口をつける。
甘い。砂糖が二つ。
「……また、子供扱いですね」
「そう思うなら、次は自分で砂糖の量を言えばいい」
次。
その一言が、さりげなく置かれた。
千聖はカップを両手で包んだまま、視線を落とした。
次があることを前提で話している。千聖が来ることを、当然のように織り込んでいる。それが、押し付けがましくなかった。ただ、そこに扉が開いているみたいだった。
「……意地悪ですね」
「何が」
「そういう言い方」
「本当のことを言っただけだろ」
修司は涼しい顔で自分のカップを傾けた。千聖はもう一口、コーヒーを飲んだ。
甘くて、温かくて、少しだけ悔しかった。
窓の外はもう暗くなりかけていた。
もう帰らなければならない。
わかっている。
けれど、もう少しだけ、ここにいたかった。
——この人のことが、知りたい。
今度は、思考を断ち切らなかった。