朝の教室、席に着いたばかりの花音のもとに、千聖はそっと近づいた。
「花音、これ」
「ん?」
千聖が差し出したのは、リボンのかかった、可愛らしい包みだった。
「わぁ、かわいー! どうしたの、これ」
花音が、目を輝かせながら包みを受け取った。
「……軽井沢に、行ってきて」
千聖は、おずおずとした様子で切り出した。
「え、軽井沢!? 誰と?」
「その……修司さんと」
「デート! いいなあ」
花音が、声を弾ませると、周りの席の生徒たちが、少しだけこちらに視線を向けた。千聖は、慌てて声を落とすように、花音に耳打ちした。
「詳しくは、また後で……」
「あ、うん。楽しみにしとく」
花音は、にんまりと笑いながら、包みを鞄にしまった。
「これ、開けるの、休み時間まで我慢する」
「大袈裟よ」
「大袈裟じゃないもん、お土産って開ける瞬間が一番楽しいんだから」
そんな軽いやり取りを交わしながら、朝のホームルームが始まるチャイムが鳴った。
*
昼休み、いつもの中庭で、花音は開口一番、身を乗り出してきた。
「さあ、約束通り、根掘り葉掘り聞かせてもらうから」
「な、なにから?」
「まず、軽井沢のどこ行ったの」
「白糸の滝と、ハルニレテラスと、旧軽井沢のカフェと……」
「涼の音でしょ!?」
「え、知ってるの?」
「雑誌で見たことある、登録有形文化財のカフェ! 前から気になってた」
「すごく素敵だったわ、建物も、中の雰囲気も」
「写真は?写真見せて」
千聖は、スマートフォンを取り出して、その日撮った写真を、次々と見せていった。
「うわ、この滝すごい」「このパフェ美味しそう」「あ、これ二人で撮ったやつ?」
花音は、一枚一枚に反応しながら、興奮気味に画面を覗き込んだ。
「それで、なんか甘い展開とかなかったの?」
「な、なかったわ、別に」
「またまたぁ、その反応、絶対なんかあったでしょ」
花音が、じとっとした目で見つめてくると、千聖は、思わず視線を逸らした。
「温泉かと思ったら、まさかの足湯だったとか……」
「はい出ました、匂わせ」
「匂わせてない!」
「顔真っ赤だけど?」
「これは、その、お母さんに変なこと言われたのを思い出しただけで……」
「お母さん、なに言ったの」
「そ、それは秘密」
千聖が、両手で顔を覆うと、花音は、ますます楽しそうに笑った。
「まあ、無理には聞かないけど。とにかく、楽しかったんだね」
「うん。すごく」
*
一通り質問攻めが落ち着いたところで、千聖は、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、花音、映画観てくれたのよね。ありがとう。」
「あ、それ、私も話したかったの」
花音は、少し姿勢を正すと、真剣な表情で言った。
「千聖ちゃんのベースのシーン、本当にすごかった。演技とか関係なく、ちゃんとやり遂げてる姿に、なんか心動かされちゃって」
「花音……」
「それで、私も、なんか始めてみたいなって、思ったんだよね」
「え?」
「何かに本気で打ち込んでる千聖ちゃんを見てたら、私も、このままでいいのかなって、ちょっと思っちゃって」
花音は、少し照れくさそうに笑った。
「それで、実はね」
「うん」
「バイト、始めたんだ」
「え、そうなの!? 初耳なんだけど」
千聖は、驚いたように目を丸くした。
「つい最近。まだ言ってなかったね」
「なんのバイト?」
「ハンバーガーショップ」
「へえ、意外」
「理由が、ちょっと不純なんだけどね」
花音は、少し恥ずかしそうに、頬をかいた。
「制服が、すごく可愛かったから」
「それが理由なの!?」
千聖が、思わず吹き出すと、花音も、照れくさそうに笑った。
「だって、可愛いは正義でしょ。エプロンスカートと白いシャツでデザインが、本当にかわいいやつで」
「花音らしいわね、それ」
「でも、ちゃんと働いてるよ。接客も、レジも、覚えること多くて大変だけど、楽しい」
「すごいわ、花音」
「あ、そうそう。まだ会ったことないんだけど、花女の生徒も働いてるらしいよ」
「え、うちの学校の子が?」
「うん、シフトが被ったことないから、まだ会えてないんだけどね」
「今度、会えたら教えて」
「うん、絶対報告する」
花音は、鞄からチョコレートの箱を取り出して、一粒口に放り込んだ。
「あ、美味しい。これ、また買ってきてね」
「はいはい」
昼休みの穏やかな光が、階段の踊り場に柔らかく差し込んでいた。二人の笑い声が、しばらくの間、そこに響いていた。
*
放課後、校門を出たところで、千聖は、明るく元気な声に呼び止められた。
「千聖さんっ!」
振り返ると、そこには、制服姿の女の子が、小走りに駆け寄ってくるところだった。人懐っこい笑顔が印象的な子だった。
「あ……」
「覚えていますかっ? 事務所の、若宮イブですっ!」
「えぇ、覚えてるわ。前に、事務所で少し話したわよね」
千聖が微笑むと、イブは、パッと表情を輝かせた。
「良かったですっ! 石の上にも三年と言いますし、いつかまたお会いできるかなって、待っていましたっ!」
「……石の上にも三年?」
千聖が、思わず聞き返すと、イブは、自信満々に頷いた。
「はい! 辛抱強く待っていれば、きっと良いことがあるという意味ですっ!」
「あ、うん、そうだね……」
前に会ったのは、そんなに昔ではなかったはずだが、千聖は、あえて訂正はせずに微笑んだ。イブの、ことわざの使い方が、時々少しずれていることには、既に気づいていた。
「今日は、どうしたの?」
「千聖さんの特番、見たんですっ! すごく感動して……それで、直接お礼が言いたくて」
「お礼?」
「はい。千聖さんが、半端者にはなりたくないって、必死に練習されてる姿を見て、私も、勇気をもらいましたっ!」
イブは、まっすぐな目で、そう言った。
「私、まだ事務所でも学校でも、色々至らないことも多いんですけど……千聖さんを見習って、もっと頑張ろうと思いましたっ! これぞ、ブシドー精神ですっ!」
その真っ直ぐな言葉に、千聖は、少し面食らいながらも、温かい気持ちになった。
「ありがとう、イブちゃん。そう言ってもらえると、私も嬉しいわ」
「はいっ!」
イブは、満面の笑みで頷いた。その様子に気づいた花音が、隣から声をかけた。
「あ、お友達?」
「あ、うん、紹介するね。こちら、若宮イブさん。事務所の後輩なの」
「私は、松原花音って言います、千聖ちゃんの親友です」
花音が、にこやかに挨拶をすると、イブは、丁寧に頭を下げた。
「初めまして、若宮イブと申しますっ! よろしくお願いしますっ!」
「わあ、元気! よろしくね、イブちゃん」
「花音さんも、どうぞよろしくお願いしますっ!」
イブは、誰に対しても敬語を崩さない様子で、丁寧に頭を下げた。花音は、その律儀さと元気さに、少し驚いたように目を丸くした。
「あ、そうだ、私、そろそろバイトの時間だ」
花音が、スマートフォンで時間を確認しながら、慌てた様子で言った。
「もう行かなきゃ。イブちゃん、また今度ね」
「はいっ、花音さんも、お仕事頑張ってくださいっ! 石の上にも三年ですっ!」
「あ、うん、ありがとう……?」
花音は、少し戸惑いながらも、笑顔で手を振り、駅の方向へと駆けていった。
「イブちゃんの、そのことわざ、面白いわね」
千聖が、くすりと笑うと、イブは、不思議そうに首を傾げた。
「面白い、ですかっ? 私、日本のことわざ、大好きなんですっ! 特に、ブシドーには、いつも憧れていて」
「ブシドー……武士道?」
「はいっ! 自分の意思を貫く強さ、仲間を思う心——私が大切にしていることと、すごく重なる気がして」
イブは、目を輝かせながら、熱心に語った。
「千聖さんも、ベースの猛特訓、まさにブシドー精神だと思いますっ! 石の上にも三年、雨垂れ石を穿つ、ですっ!」
「……その二つ、ちょっと意味、被ってない?」
千聖が、思わず突っ込むと、イブは、きょとんとした顔をした。
「そうですかっ? でも、どちらも良い言葉ですっ!」
イブの、邪気のない笑顔に、千聖は、思わず頬を緩めた。普段は少し厳しめな物言いをすることも多い千聖だったが、イブに対しては、なぜか、自然と優しい態度になってしまう。
「イブちゃんは、本当に、日本の文化が好きなのね」
「はいっ! 数年前にこっちに来た時は、お友達もいなくて、寂しい思いもしたんですけど……今は、事務所のみんなとも仲良くなれて、少しずつ、お仕事のファンの方も増えてきて。だから、日本のことも、みんなのことも、大好きなんですっ!」
イブの言葉には、飾らない、素直な想いが滲んでいた。
「イブちゃんの、そういうところ、すごくいいと思うわ」
「本当ですかっ!? ありがとうございますっ!」
イブは、感極まったように、両腕を大きく広げた。
「千聖さん、このハグは、親愛の証ですっ!」
「え、あ、ちょっ——」
イブは、勢いよく千聖に抱きついた。突然のことに、千聖は少し驚きながらも、その温かさに、思わず微笑んだ。
「もう、いきなりね」
「感情は、素直に伝えるのが一番ですっ!」
イブは、にっこりと笑いながら、千聖から離れた。
*
「そういえば、イブちゃん、今日は、事務所には寄らなくていいの?」
千聖が、ふと尋ねた。
「あ、そうでしたっ! 忘れるところでしたっ!」
イブは、急に思い出したように、目を丸くした。
「実は、今日、社長さんから、大事なお話があるらしくて。千聖さんも、呼ばれているはずですっ!」
「え、私も?」
「はいっ! さっき、マネージャーさんから連絡が来て。千聖さんに会えたら、一緒に来てほしいって、頼まれていたんですっ!」
「そうだったの……知らなかったわ」
千聖は、少し戸惑いながら、スマートフォンを確認した。確かに、マネージャーから、事務所に来るようにという連絡が入っていた。
「一体、なんの話かしら」
「わかりませんが、社長さんの雰囲気、いつもよりちょっと真剣だったらしいですっ! きっと、大事なお話ですっ!」
イブは、少し緊張した面持ちで、拳を軽く握った。
「よし、こういう時こそ、ブシドー精神ですっ! 何事にも、まっすぐ立ち向かう心構えが大事ですっ!」
「……なんの心構えかは分からないけど、とりあえず、行きましょう」
千聖は、小さく苦笑しながら、鞄を持ち直した。
「はいっ! ご一緒しますっ!」
イブは、元気よく頷くと、千聖と並んで歩き始めた。
夕暮れの街を、二人は、事務所へ向かって歩いていった。何の話をされるのか、千聖には見当もつかなかったが、イブの緊張した横顔を見ながら、少しだけ、胸がざわついているのを感じていた。