芸能事務所——Wisteria Agencyのビルに着くと、イヴは少し緊張した面持ちで、エレベーターのボタンを押した。
「社長さん、会議室にいるはずですっ」
「なんか緊張してきた……」
千聖も珍しく硬い表情で小さく息を吐いた。
会議室の扉を開けるとそこには、すでに一人の男性が資料に目を通しながら座っていた。
「おお、来たか」
顔を上げたのは、藤城玲央(ふじしろれお)——Wisteria Agencyの社長だった。
三十代半ば、仕立ての良いスーツを涼しげに着こなし、物腰は柔らかいが、目の奥には、常に何かを計算しているような鋭さが光っている。外資系のコンサルタント出身で、その後、大手音楽レーベルのA&Rとして数々のアーティストを見出してきたという経歴の持ち主だった。
「座ってくれ」
促されるまま千聖とイヴは、向かいの席に腰を下ろした。
「今日、来てもらったのは他でもない。新しい企画の話だ」
藤城は手元の資料を二人の前に滑らせた。
「知っての通り、『RESONANCE』が異例の大ヒットを記録してる。それに伴って今、世間じゃちょっとしたバンドブームが来てる」
「はい、実感してます」
千聖が頷くと藤城は満足げに頷き返した。
「そこでだ」
藤城は資料の表紙を指先でとんとんと叩いた。
「うちの事務所でも本格的にガールズバンドを企画することにした」
「バンド、ですか」
「ああ。市場のタイミングとしては今が最適だ。RESONANCE効果で若年層のバンドへの関心は過去最高水準。ここで手を打たない理由がない」
藤城は淀みなくけれど熱を持った口調で語った。
数字やデータの話をしているはずなのに、その言葉にはエンターテインメントそのものへの確かな愛情が滲んでいた。
「偶像に命を吹き込むのは、徹底した戦略とリスペクトだ。俺はいつもそう思ってる」
「……格好いい言葉ですね」
千聖が思わず呟くと藤城は少し照れくさそうに笑った。
「よく言われる。だが、本気でそう思ってるんだ」
イヴは隣で緊張した面持ちのまま話に耳を傾けていた。
「それで私たちの話に、どう関係するんですか」
千聖が核心を尋ねると藤城は、二人の顔を順番に見た。
「単刀直入に言おう」
その一言に会議室の空気が少しだけ張り詰めた。
*
藤城はテーブルの上で指を軽く組んだ。
「白鷺君、若宮君。二人にはこの新バンドのメンバーとして、参加してほしい」
「……え」
千聖は思わず息を呑んだ。隣でイヴも大きく目を見開いている。
「わ、私もですかっ?」
「ああ君もだ、若宮君」
藤城は頷きながら続けた。
「白鷺君には演技以外の新しい武器を持ってほしいと思っていた。『RESONANCE』で見せたあのベースの演奏力は、素人離れしていた。あれを一過性のもので終わらせるのは、正直、もったいない」
「あれは、役のために練習しただけで……」
「だからこそ、価値がある。付け焼き刃じゃない、本物の努力の跡だ。あの映像を見た視聴者の反応も、俺は全部データで確認してる。かなりの好感度スコアだった」
藤城は手元のタブレットを軽く操作しながら、淡々とけれど熱を込めて語った。
「若宮君については」
藤城の視線がイヴへと移った。
「君のダンスと歌唱力は以前から評価してた。まだ実績は少ないが、素材としてのポテンシャルはうちの所属タレントの中でもトップクラスだ」
「そんな……光栄ですっ!」
イヴの声が感激で震えていた。
「二人とも、それぞれ違う魅力を持ってる。それを掛け合わせれば面白いバンドになる。俺はそう踏んでる」
「でも……私、演技の仕事もあります。両立できるか正直、自信ないです」
千聖が率直に不安を口にすると藤城は小さく頷いた。
「もちろん無理強いはしない。スケジュールの調整は、こっちで最大限配慮する。それに」
藤城は、少し表情を和らげた。
「これは命令じゃない。あくまで提案だ。君たちの人生だからな、最終的に決めるのは君たち自身だ」
その言葉には経営者としての合理性だけでなく、タレント一人一人への敬意が、確かに込められていた。
「メンバーは他にも声をかけてる。詳細は追って詰めるが、まずは二人の意思を聞かせてほしい」
会議室にしばらくの沈黙が流れた。
千聖は隣に座るイヴをちらりと見た。
イヴは緊張しながらも、まっすぐな目でじっと千聖を見つめ返していた。
「イヴちゃんは、どうしたい?」
「私は……やってみたい、ですっ」
イヴは拳をぎゅっと握りながら、力強く答えた。
「怖い気持ちもありますけど……千聖さんと一緒なら、頑張れる気がしますっ。それにこれも、一つのブシドーだと思うので」
「……ブシドー」
千聖は思わず小さく笑ってしまった。イヴのまっすぐな覚悟が、その一言からしっかりと伝わってきた。
「白鷺君はどうする」
藤城が静かに尋ねた。
千聖は少しの間、目を閉じて考えた。
演技の仕事、これまで積み重ねてきたもの、そして、ベースを必死に練習した、あの日々のこと——様々な思いが、頭の中を巡っていく。
「……少し、考える時間をもらえますか」
「もちろんだ。急かすつもりはない」
藤城は頷きながら穏やかに答えた。
「ただ、これだけは言っておく」
藤城はまっすぐに千聖を見た。
「君があの映像で見せた姿は、俺の中で久しぶりに『本物のスターの輝き』を見た瞬間だった。それを、また見てみたいと思ってる」
その言葉に千聖の胸の奥が静かに揺れた。
*
「ちなみに」
千聖がふと思い出したように尋ねた。
「イヴちゃんの担当パートは決まってるんですか」
「若宮君には、キーボードを考えてる」
藤城が頷きながら答えた。
「え、キーボードですかっ?」
イヴが驚いたように声を上げた。
「経歴書には幼少期、ピアノを習っていたとあった。基礎ができてるなら、キーボードへの移行は他の楽器よりスムーズなはずだ」
「た、確かに小さい頃ピアノ、弾いてましたっ! でも、もうずっと触ってなくて……」
「感覚は意外と残ってるものだ。それに若宮君の丁寧な性格は、鍵盤楽器に向いてる。俺はそう見てる」
藤城の分析にイヴは、少し驚きながらもまんざらでもなさそうな表情を浮かべた。
「頑張って、思い出しますっ! これもブシドーですっ!」
「……その使い方、合ってるのかな」
千聖が思わず小さく突っ込むと、藤城は二人のやり取りを見ながら微かに口元を緩めた。
*
コンコン、と会議室の扉がノックされた。
「入ってくれ」
藤城が声をかけると扉が静かに開いた。
「失礼します」
「ちょうどいい、紹介しよう」
藤城が千聖とイヴに向き直った。
「彼女は大和麻弥。新バンドのドラム担当だ」
「大和麻弥です。よろしくお願いします」
麻弥はぺこりと頭を下げながら、少し控えめな声で挨拶をした。
「白鷺千聖です。よろしくお願いします」
「若宮イヴですっ! よろしくお願いしますっ!」
イヴが勢いよく頭を下げると、麻弥は少し気圧されたように身体を小さくした。
「ジブン人前で喋るの、あんまり得意じゃなくて……よろしくお願いします」
「大和君はもともとスタジオミュージシャンとして、裏方で活動してた。色んなアーティストのレコーディングやライブサポートに入ってる、腕は確かなプロだ」
藤城が、補足するように言った。
「スタジオミュージシャン……! すごいですっ!」
イヴが、目を輝かせながら声を上げた。
「い、いえ、そんな、大したことは……」
麻弥は恐縮したように身体を小さくした。
「裏方の仕事が長かったので、こうやって、表に立つのは、実はまだ慣れてなくて」
「でも技術は本物だぞ。俺が保証する」
藤城が重ねて言うと、麻弥は少し照れくさそうに俯いた。
「演奏も、頑張ってるんスけど……ジブン、正直、機材の方が得意分野で」
麻弥が少しはにかみながら言うと、藤城が面白そうに目を細めた。
「詳しく話してみろ」
「いいんスか?」
その瞬間麻弥の声のトーンがすっと変わった。
「今回、スタジオに導入予定のドラムセット、シェル材が全部メイプルで統一されてるんスよ。低域の抜けが、これがまた良くて。タムのマウントもフローティング構造になってて、共鳴が最小限に抑えられるんス」
「え……」
千聖がその豹変ぶりに思わず目を丸くした。
「シンバルも、K系とA系、両方試させてもらったんスけど、K系の方が複雑な倍音出て……あ」
麻弥は自分の早口に気づいたように、はっと我に返った。
「す、すみません機材の話になると、つい止まらなくなっちゃって」
「ふへへっ」
麻弥は照れたようにそう笑った。
「すごい熱量でしたね、今の」
千聖が感心したように言うと、麻弥はまた少し赤くなった。
「変な奴だと思われたかも」
「ううん、全然。むしろなんかかっこよかったです」
「そうですか? ふへへ……」
*
「これで、ベース、キーボード、ドラムが揃った」
藤城が資料に何かを書き込みながら満足げに頷いた。
「あとは、ボーカルとギターだな」
「ボーカルもまだ決まってないんですか?」
千聖が尋ねると藤城は、そう言いながらも少し思案するような表情を浮かべた。
「まだ決まってない。ここが一番重要なポジションだからな。じっくり選定してる」
「ただ、一人、候補はいる」
「候補、ですか」
「事務所の研修生に、声の良い子がいてな。まだ経験は浅いが、素材としては悪くない」
「研修生の方なんですね」
「本人には、まだ正式には打診してない。歌唱力はあるが、人前に立つ経験が少ないからそこが課題だな」
藤城は資料に視線を落としながら、淡々と続けた。
「近いうちにオーディション形式で、正式に選定するつもりだ。その研修生も当然候補には入る」
「楽しみですね、どんな人か」
千聖が言うと、藤城は小さく頷いた。
「悪くない声をしてる。あとは経験と自信の問題だな」
「ギターの方は?」
「そっちは正直、まだ事務所の中に候補がいない」
藤城は少し考えるように、顎に手をやった。
「大々的にオーディションを開催しようかと、今、検討してる」
「オーディション、ですか」
「ああ。話題性も出るし、原石を見つける機会にもなる。RESONANCEブームに乗って、応募も相当数、見込めるはずだ」
藤城はタブレットに何か書き込みながら続けた。
「時期や規模は、まだ詰めてる段階だ。決まったら、また共有する」
「なんか、どんどん本格的になっていきますね」
千聖が少し圧倒されたように呟くと、藤城は、小さく笑った。
「中途半端にやる気はない。本気でやるからこそ、意味がある」
「という訳で、決まっているのはここまでだ」
藤城は資料を軽くまとめながら話を締めくくった。
「白鷺君には、良い返事を期待している」
そう言うと藤城は、席を立ちそのまま会議室を出て行った。扉が閉まる音とともに、部屋の空気が少しだけ和らいだ。
*
残された三人は、しばらくなんとなく顔を見合わせていた。
「なんか、緊張しましたねー」
麻弥がほっとしたように、肩の力を抜いた。
「本当ですっ。社長さんの前だと、つい気合い入っちゃいますっ」
「私もまだドキドキしてます」
千聖が小さく笑いながら言うと、麻弥は興味深そうに千聖を見た。
「そういえば、白鷺さん、映画のRESONANCE、ジブンも観に行きましたよ」
「あ、ありがとうございます」
「ライブシーンの演奏、本当にすごかったです。あれ、CGとかじゃなくて本当に弾いてるんですよね」
「ええ、全部演奏してます」
「指の動きとか、リズムの取り方とかもう、ほとんどプロって感じでした」
麻弥が真剣な表情で言うと、千聖は少し照れくさそうに頬をかいた。
「あと、あの会場入りも話題になりましたよねっ!」
イヴが興奮気味に割り込んできた。
「私、テレビで見てましたっ! あの車、すごくかっこよかったですっ!」
「あ、あれは、その色々と、事情があって……」
「詳しく聞きたいですっ!」
「ジブンも、気になってました。あの車、結構有名なやつなんですよね」
麻弥まで興味津々な様子で身を乗り出してくると、千聖は思わずたじろいだ。
「え、えっと……」
「白鷺さん、あの日、一体何があったんですかっ?」
イヴと麻弥、二人からの視線に囲まれて千聖は、観念したように小さくため息をついた。
「……長い話になるけど、いいかしら」
「もちろんですっ!」
「時間なら、たっぷりありますよ」
会議室には、先ほどまでの緊張感とは打って変わって、新しい仲間たちとの賑やかな空気が広がっていった。