事務所の話を聞いてから、数日が経っていた。
千聖は、バンドへの参加について、ずっと考え続けていた。演技の仕事との両立、新しい挑戦への不安、そして——藤城の言葉が、何度も頭の中で反芻されていた。
——君があの映像で見せた姿は、俺の中で、久しぶりに『本物のスターの輝き』を見た瞬間だった。
自分一人で答えを出すには、まだ気持ちが定まらない。そんな時、千聖が真っ先に思い浮かべたのは、修司の顔だった。
「相談、してみようかな」
そう呟いて、千聖は、アトリエへと向かった。
*
アトリエの扉を開けると、修司は、ちょうど上着を羽織っているところだった。
「あ、修司さん、こんにちは」
「ああ、千聖か。ちょうどいい」
「どこか行くんですか?」
「昼、食いっぱぐれた。適当に、買ってくる」
修司は、そう言いながら、財布をポケットに突っ込んだ。千聖は、少し嫌な予感がした。
「その辺って、まさか……」
「ハンバーガーだ」
「やっぱり……!」
千聖は、思わず声を上げた。
「また、そんなもの食べるつもりですか」
「腹が減ってる。文句あるか」
「あります。前にも言いましたよね、ジャンクフードばっかりだと、体に良くないって」
「たまにはいいだろう」
「たまにじゃないでしょう、絶対。私が知らないだけで」
千聖が、じとっとした目で修司を見ると、修司は、少し気まずそうに視線を逸らした。図星だった。
「……とにかく、私も行きます」
「お前は、腹減ってないだろう」
「見張りです。ちゃんと、栄養のあるもの選んでるか、確認しないと」
千聖は、腕を組んで、きっぱりと宣言した。修司は、少しの間、千聖の顔を見つめてから、小さく息をついた。
「好きにしろ」
「行きます」
*
二人並んで、アトリエ近くのハンバーガーショップへと向かった。歩きながらも、千聖の小言は止まらなかった。
「本当に、修司さん、ちゃんと食べてるのか心配なんです。この間だって、冷蔵庫の中、空っぽだったし」
「そこまで、気にしなくていい」
「気にします。大事な人が、栄養偏った食生活してるの見て、平気でいられないので」
千聖が、真面目な顔でそう言うと、修司は、少しだけ驚いたように、千聖の方を見た。
「……大事な人、か」
「な、なんですか、その反応」
「いや、別に」
修司は、そっけなく答えたが、その口元は、わずかに緩んでいた。
「今日はハンバーガーですけど、明日からはちゃんとしてくださいね」
「明日のことは、明日考える」
「そういう場当たり的なところ、直した方がいいと思います」
千聖は、隣を歩きながら、ちらりと修司を見上げた。
「だいたい、こんな食生活続けてたら、そのうち太りますよ」
「太ったことない」
「今までは、ですよね。年齢とともに、代謝って落ちていくものなんですから」
「お前、いくつだと思ってる」
「二十八ですよね。もう若くないんですから」
「一言余計だ」
修司が、じろりと千聖を見下ろすと、千聖は、悪びれもせずに肩をすくめた。
「事実を言ってるだけです」
「太ったら太ったで、別に問題ない」
「問題あります」
千聖は、少し声を強めて言ってから、はっと我に返ったように、頬を赤らめた。
「……せっかく、かっこいいんですから。それが崩れたら、もったいないじゃないですか」
「……は?」
修司が、意表を突かれたように目を見開くと、千聖は、慌てて視線を逸らした。
「べ、別に、変な意味じゃないです。ただの、感想です」
「お前な……」
修司は、何か言いかけて、やめた。ただ、その耳が、わずかに赤くなっているのを、千聖は見逃さなかった。
「な、なんですか、その顔」
「……何でもない」
修司は、そっぽを向いたまま、早足で歩き出した。千聖は、その背中を追いかけながら、自分の顔もまだ熱いのを感じていた。
「今度、ちゃんとしたお弁当、また作りますから。それまで、我慢してください」
「わかった」
千聖は、ふと思い出したように、修司を見上げた。
「そういえば、修司さんがよく行くお店って、どんなところなんですか? 私、連れて行ってもらったことなかったですよね」
「……そういえば、なかったな」
修司は、少し考えるように視線を上げた。
「『Route 66 Diner』っていう店だ。50年代のアメリカンダイナーって感じの内装で、ジュークボックスとか、ヴィンテージのバイクや車が好きな連中がよく集まってる」
「バイク?」
「店長がその手の事が好きでな。店の前にハーレーとか、アメ車が並んでる日もある」
千聖は、少し意外そうな顔をした。
「修司さん、そういうお店行くイメージなかったです」
「服の仕事してると、ああいう古いデザインは、逆に勉強になる」
「なるほど……」
千聖は、なんとなく納得したように頷きながら、少し楽しみになってきた自分に気づいた。
「なんか、楽しみになってきました」
「大した店じゃないぞ」
「それでも、修司さんがよく行く場所って、気になります」
そんな話をしているうちに、通りの先に、赤いネオンの看板が見えてきた。
*
扉を開けると、ロカビリーの音と一緒に、若い笑い声がいくつも聞こえてきた。千聖は、少し驚いて店内を見回した。
「あれ……思ったより、若い人多いですね」
「そうか?」
「修司さんの話だと、バイクとか車好きのおじさんばっかりのイメージだったんですけど」
「前はな。今は、まあ……色々あって、客層が少し変わった」
修司が、どこか気まずそうに言葉を濁すのを、千聖は不思議に思いながらも、カウンターの向こうにいるマミの制服に目を留めた。
「わあ、この制服、すごく可愛いですね! ドット柄と、このリボンの感じとか」
千聖が、素直に褒めると、マミが、カウンターから顔を出した。
「でしょう? これね、修司くんがデザインしてくれたのよ」
「え……修司さんが?」
千聖が、目を丸くして修司の方を見ると、修司は、視線を逸らした。
「大した話じゃない」
「大した話よ!」
マミが、割り込むように話し出した。
「前の制服、地味でねえ。お客さんも、あの頃はオジサンばっかりで。若い子に来てほしいなあって、修司くんに何気なく愚痴ったの。そしたら」
「その場で、適当にラフ画を描いただけだ」
「適当じゃなかったじゃない! あのデッサン一枚で、うちの制服、丸ごと変わったんだから」
マミは、懐かしそうに笑った。
「制服変えたら、若い女の子のバイトが何人も応募してくるようになってねえ。それで、お店の雰囲気もパッと明るくなって」
「そこから、制服が可愛いって、口コミで広がって……」
千聖が、話の続きを引き取るように呟くと、マミが、大きく頷いた。
「そう! 今じゃ、女の子のお客さんも、すごく増えたのよ。修司くんのおかげ」
千聖は、改めて、隣に立つ修司を見つめた。
「知らなかった……修司さんに、そんな一面が」
「別に、大したことはしてない」
「大したことです。お店、変えちゃったんですから」
修司は、居心地悪そうに、髪をかき上げた。
「……とにかく、席、座るぞ」
「そういえば……」
修司が、ふと思い出したように呟いた。
「千聖と同じ高校の子が、ここでバイトしてたな」
「え、うちの高校の子ですか?」
千聖が、興味を引かれたように身を乗り出すと、ちょうどそのタイミングで、奥の厨房から、明るい声が響いた。
「修司さん、いらっしゃいませ……あれ?」
エプロン姿の女の子が、千聖の顔を見て、ぱちくりと目を瞬かせた。ふわりとしたピンク色の髪を揺らしながら、彼女は、千聖の方に駆け寄ってくる。
「もしかして、白鷺さん!? ……!」
「あ……えっと」
千聖が記憶をたどっていると、彼女は、にこにこと自己紹介した。
「丸山彩です! クラス、違うから話したことなかったよね」
「あ、丸山さん。えっと、うん、初めまして……でいいのかな?」
ぎこちなく挨拶を交わす千聖に、彩は、屈託のない笑顔を向けた。
「私、まだ研修生なんだけど、Wisteria Agencyにいるんだ! だから、白鷺さんのことは、前から知ってて」
「え、丸山さんも、Wisteriaに……!」
千聖が、驚いたように声を上げると、彩は、嬉しそうに頷いた。
「うん! まだ全然、だけどね。バイトと研修と、両立させてもらってて」
修司が、二人のやり取りを見ながら、軽く口を挟んだ。
「真面目に頑張ってるからな、この店で」
「修司さん、それ、褒めすぎです……!」
彩は、照れたように頬を染めながら、慌てて厨房の方へ戻っていった。千聖は、その背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「同じ事務所の子が、こんなところで働いてたんですね」
「世間、狭いだろう」
「はい、なんか、不思議な気持ちです」
*
奥の席に座ると、千聖は、テーブルに置かれたメニュー表を、興味深そうに覗き込んだ。
「修司さんは、いつもどんなの食べてるんですか?」
「大体、"The Mother Road" だ」
「マザーロード……?」
「ダブルパティに、チェダーが乗った、店の看板メニューだ」
千聖は、メニューを見ながら、眉根を寄せた。
「ダブルパティって、それ、絶対カロリー高いやつじゃないですか」
「うまいんだよ、それが」
「うまいとかの問題じゃなくて……」
千聖は、メニューを、じっくりと見比べた。シカゴ・BBQバーガー、テキサス・チリバーガー、どれも見るからにボリューム満点だった。
「これとか、これとか……全部、お肉ましましじゃないですか」
「ここは、そういう店だ」
「わかってますけど……」
千聖は、少し考えてから、メニューの隅に、サラダやシェイクの表記を見つけた。
「あ、シェイクもあるんですね。サンタモニカ・サンセット・シェイク……」
「甘いやつだ。夕日の色、してる」
「綺麗そうですね」
千聖は、少し目を輝かせたが、すぐに、はっと真顔に戻った。
「じゃなくて。修司さん、今日は、マザーロードじゃなくて、こっちにしてください」
千聖が指さしたのは、比較的あっさりめの、チキンとレタスが挟まったサンドイッチだった。
「それ、ここの名物じゃないだろう」
「知ってます。でも、今日はこれで我慢してください」
「我慢て、お前……」
「お願いします。せめて、今日だけは」
千聖が、真剣な顔で見つめてくると、修司は、しばらく黙り込んでから、小さくため息をついた。
「……わかった。今日だけだぞ」
「はい! それでいいです」
千聖は、満足げに頷くと、自分の分のメニューも選び始めた。
「私は、シェイクを頼んでいいですか?」
「好きにしろ」
マミが注文を伝票に書き込んで、厨房へと戻っていった。店内には、またロカビリーのレコードが流れ始める。
千聖は、少し姿勢を正すと、テーブルの上で指を組んだ。
「……あの、修司さん」
「なんだ」
「今日、来たのは、ハンバーガーの見張りじゃなくて。ちょっと、相談したいことがあって」
千聖の声のトーンが変わったのに気づいたのか、修司は、軽く目を細めて、千聖の方に向き直った。
「相談? 珍しいな、お前が」
「はい……」
千聖は、一度、テーブルの上に視線を落としてから、意を決したように顔を上げた。
「事務所から、話があったんです。バンドの、話」
「バンド?」
「はい。歌とか、演奏とか、そういう、アイドルバンド的なグループを組む企画があるみたいで。私にも、声がかかって」
修司は、少し驚いたように、眉を上げた。
「お前が、歌うのか」
「わからないです、まだ。メンバーとか、そういう段階でもなくて……ただ、参加してみないかって、打診されてるだけで」
「それで、悩んでるのか」
千聖は、こくりと頷いた。
「演技の仕事との両立とか、そもそも歌なんて、やったことないし……不安なことばっかりで」
そこまで言って、千聖は、少し言葉を選ぶように、間を置いた。
「でも……藤城さんに、言われたことがあって」
「藤城?」
「事務所の社長です。あの映像を見て、久しぶりに『本物のスターの輝き』を見た気がした、って」
千聖は、藤城の言葉を、頭の中で反芻するように、ゆっくりと口にした。
「その言葉が、ずっと、頭から離れなくて」
修司は、黙って、千聖の話に耳を傾けていた。
「……それで、私、自分一人じゃ、答えが出せなくて。修司さんなら、どう思うかなって」
千聖は、そう言うと、少し不安そうに、修司の顔色をうかがった。
「変な相談だって、思いますよね。修司さんに、こんなこと聞いても……」
「いや」
修司は、静かに首を振った。
「話、続けろ」
その言葉に、千聖は、少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
修司は、しばらく黙って千聖を見つめてから、静かに口を開いた。
「両立とか、そういうのは、後で考えればいい話だ」
「え……?」
「聞きたいのは、そこじゃない」
修司は、テーブルに肘をつくと、まっすぐに千聖を見据えた。
「お前自身は、どうなんだ」
「私、自身……?」
「やりたいのか、やりたくないのか。それだけだ」
千聖は、一瞬、言葉に詰まった。
「仕事との兼ね合いとか、不安とか、そういうのは、全部脇に置いて考えてみろ」
修司は、続けた。
「歌うこと、演奏すること……想像して、楽しいか。楽しくないか」
千聖は、目を伏せて、しばらく考え込んだ。
「……楽しい、と思います」
千聖は、ぽつりと呟いた。
「想像しただけで、なんか、ワクワクする自分がいて。でも、それと同時に、怖いって気持ちも、すごくあって」
「怖いのは、うまくやれるかどうかの話だろう」
「……はい」
「それは、楽しいかどうかとは、別の話だ」
修司の言葉に、千聖は、はっとしたような顔をした。
「不安とか、両立の心配とか、そういうのは、後からいくらでも考えられる。でも、お前自身が、楽しいと思えるかどうかは、誰にも答えられない」
千聖は、修司の言葉を、噛み締めるように聞いていた。
「……楽しい、です。」
千聖は、もう一度、はっきりと言った。今度は、迷いのない声だった。
「それなら、答えは、もう出てるんじゃないか」
修司は、そう言うと、少しだけ、口元を緩めた。
「……それに」
修司は、少し間を置いてから、続けた。
「俺も、RESONANCE、を見た」
「え、修司さんも……?」
千聖は、驚いたように顔を上げた。
「話題になってたからな。気になって、見た」
「そう、なんですか……」
千聖は、少し照れたように、視線を落とした。
「あの映像の中で弾いてた、ベース」
修司が、静かに言った。
「正直、技術としては、荒削りだった。指の動きも、音の粒も、お世辞にも上手いとは言えなかった」
「……ですよね」
千聖は、少しばつが悪そうに、肩をすくめた。
「でも」
修司は、まっすぐに千聖を見て、続けた。
「気持ちは、伝わってきた。あの音には」
「……」
「下手だとか、上手いとか、そういう話じゃない。何かを、必死に伝えようとしてる音だった。俺は、そう感じた」
千聖は、言葉を失ったように、修司の顔を見つめていた。
「事務所の社長さんが、『本物』を見たって言ったのも……多分、そこだろうな」
修司は、そう付け加えると、コップの水を、一口飲んだ。
「技術は、これから、いくらでも磨ける。だが、その音は、今のお前にしか出せない」
千聖は、しばらく、何も言えなかった。
「……ありがとう、ございます」
千聖は、やっとのことで、そう絞り出した。
「なんか、修司さんに言われると、説得力、すごいです」
「買いかぶりすぎだ」
「買いかぶってないです」
千聖は、少しだけ、笑った。
千聖は、しばらく、じっと自分の手元を見つめていた。やがて、何かを固めるように、小さく息を吸い込む。
「……決めました」
「ん?」
「バンド、やってみます」
千聖は、顔を上げると、はっきりとした声で言った。
「怖い気持ちも、まだあります。うまくできるかも、わからないし、演技との両立だって、これから考えなきゃいけないことだらけで」
「ああ」
「でも……楽しいって思う気持ちに、嘘はつけないから」
千聖は、そう言って、少しはにかんだように笑った。
「それに、修司さんが、あの音を『本物』だって言ってくれたから。だったら、もっと、ちゃんと届けたいって、思いました」
修司は、しばらく千聖の顔を見つめてから、ゆっくりと頷いた。
「いいんじゃないか」
「はい」
「ただし」
修司は、少し声のトーンを変えて、続けた。
「無理はするなよ。両立がきつくなったら、ちゃんと言え。抱え込むな」
「わかってます」
千聖は、素直に頷いた。
「その時は、ちゃんと相談しますから。今日、みたいに」
「そうしろ」
修司は、そう言うと、ふっと表情を緩めた。テーブルの向こうから、マミが料理を運んでくる気配がした。
「よし、決まったところで、飯だ」
「あ、はい!」
千聖は、明るい声で返事をすると、運ばれてきたシェイクに目を輝かせた。窓の外では、夕暮れの光が、赤いネオン看板を、じんわりと照らし始めていた。