千聖は、Wisteria Agencyのエントランスに足を踏み入れた。いつもの見慣れた光景のはずなのに、今日は少しだけ緊張感が違って感じられた。
エレベーターを降りると、廊下の奥から賑やかな声が漏れ聞こえてきた。
オーディション用に使われているらしいスタジオの方向から、ピアノの音や誰かの発声練習の声が響いている。
「あ、白鷺さん」
受付のスタッフが千聖に気づいて声をかけた。
「藤城は今、少し立て込んでいて。ボーカルオーディションの真っ最中なんです」
「ボーカルの……もう、始まってるんですね」
千聖は少し驚いたようにスタジオの方向を見やった。
まさかこんなに早く動き出しているとは、思っていなかった。
「待合スペースで少しお待ちいただいても大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
千聖は、案内された待合スペースのソファーに腰を下ろした。
緊張した面持ちの候補生たちが、何人か順番を待っている。誰もが真剣な表情で、譜面や台本らしきものに目を落としていた。
「……白鷺さん?」
不意に聞き覚えのある声がした。振り返ると緊張気味の表情をした彩がそこに立っていた。
「彩さん、やっぱり……」
千聖は思わず声を漏らした。
あの日、店で聞いた「事務所内のボーカルオーディション」——それが彩のことだったのだと今、はっきりと確信した。
「白鷺さんが、なんでここに……」
彩の方も驚いた様子で千聖に近づいてきた。
「今日は藤城さんに話があって。彩さんは、これから?」
「はい……もうすぐ、私の番で」
彩はそう言いながら、膝の上で手をぎゅっと握りしめた。いつもの明るい笑顔が心なしか強張って見える。
「緊張、してる?」
千聖がそっと尋ねると彩はこくりと頷いた。
「めちゃくちゃしてます。ずっと夢見てきたことなのに、いざ本番だと思うと足が震えて」
「わかる、その気持ち」
千聖は隣のソファーにそっと腰を下ろした。
「私もこの間、修司さんに相談するまで、ずっと不安ばっかりだった」
「白鷺さんでも、そうなんですか」
「うん。でも、彩さんがあの日、言ってたよね。楽しみの方が大きいって、迷いなく」
千聖はあの日の彩の言葉を思い出しながら言った。
「その気持ち忘れないで。今日のためにずっと頑張ってきたんでしょう?」
彩はしばらく黙って、千聖の顔を見つめていた。それから少しずつ表情が和らいでいく。
「……そうですね。ずっと、練習してきました。誰にも負けないくらい」
「なら、大丈夫」
千聖は彩の手をそっと握った。
「彩さんの声、本当に良いと思う。だから自信持って」
「白鷺さん……」
彩の目にじわりと涙が滲んだ。
「ありがとうございます。すごく、勇気もらえました」
そこへスタジオの扉が開きスタッフの声が響いた。
「次の方、どうぞ」
「あ……私です」
彩は深呼吸を一つすると、すっと立ち上がった。振り返って千聖に向かって力強く笑いかける。
「行ってきます」
「頑張って!」
千聖はその背中を精一杯の思いで見送った。
*
スタジオの扉越しに、伴奏のイントロが流れ始めるのが聞こえた。
千聖は廊下のソファーで、両手を組んで祈るような気持ちで待っていた。
やがて彩の声が扉の向こうから響いてくる。最初は少し硬さを感じさせる声だったが、サビに差し掛かる頃には迷いのない、伸びやかな歌声へと変わっていった。感情のこもった真っ直ぐな歌声——そこには、これまでの努力の跡が確かに滲んでいた。
千聖は扉越しにその歌を聴きながら、胸が熱くなるのを感じていた。
歌が終わるとしばらくの静寂のあと、スタジオの中から拍手の音が響いてきた。
やがて扉が開き、彩が少し放心したような表情で出てきた。
「彩さん!」
千聖が駆け寄ると、彩はまだ信じられないといった様子で千聖を見た。
「……合格、いただきました」
「本当に!?」
「はい……その場で、即決だって」
彩の目から堪えきれなかった涙がぽろりとこぼれた。
「ずっと、頑張ってきて、良かったです」
「おめでとう、彩さん!」
千聖は彩をぎゅっと抱きしめた。
「本当に良かった。夢、叶えたんだね」
「白鷺さんのおかげです。さっき、勇気もらえたから」
彩は涙を拭いながら、それでも満面の笑みを浮かべていた。二人の間に 言葉にならない、温かい空気が流れていた。
*
彩を見送ったあと、千聖は藤城のオフィスへと案内された。
「待たせたな」
藤城は少し疲れた様子を見せながらも、満足げな表情を浮かべていた。
「ボーカル決まったよ。今、審査していた研修生だ」
「はい、廊下で偶然会って……実は知り合いだったんです」
「そうだったのか、それは奇遇だな」
藤城は興味深そうに軽く目を細めた。
「それで今日はどうした」
千聖は姿勢を正してまっすぐに藤城を見た。
「バンドの件、お返事しに来ました」
「……聞かせてくれ」
「参加させてください。よろしくお願いします」
千聖が深く頭を下げると、藤城はしばらくの間、黙って千聖を見つめていた。それから静かに確かな笑みを浮かべた。
「いい返事だ。歓迎する」
「ありがとうございます」
「これで、ベース、キーボード、ドラム、ボーカルと、四人が揃ったことになる」
藤城は資料に何かを書き込みながら続けた。
「あとはギターだけだな」
「ギターは、まだ公募のオーディションを?」
「ああ近いうちに大々的に開催する予定だ。話題性も出るし、良い人材を発掘する機会にもなる」
*
数日後、事務所の会議室に四人のメンバーが顔を揃えた。
千聖、イヴ、麻弥、そして正式にメンバーとなった彩。
「では改めてメンバー紹介といこう」
藤城が皆を見渡しながら言った。
「白鷺千聖、ベース担当。もう皆知ってるな」
「よろしくお願いします」
「若宮イヴ、キーボード担当」
「よろしくお願いしますっ! これも、一つのブシドーです!」
イヴが元気よく頭を下げると、彩が少し驚いたように目を丸くした。
「ブシドー……?」
「気にしないで、いつものことだから」
千聖が小声でそっと耳打ちすると、彩はくすっと笑った。
「大和麻弥、ドラム担当」
「よろしくお願いします……ジブン、あんまり喋るの得意じゃないんスけど」
麻弥が控えめに頭を下げた。
「そして丸山彩、ボーカル担当だ」
「丸山彩です! よろしくお願いします!」
彩が元気いっぱいに挨拶するとイヴが目を輝かせて拍手した。
「素敵な声でしたっ! 私、廊下で聞いてて感動しましたっ!」
「あ、ありがとうございます……!」
彩が照れくさそうに頬を染めた。四人の間に早くも和やかな空気が流れ始めていた。
「これで四人が揃った」
藤城が満足げに頷きながら話を続けた。
「次はいよいよ、ギターのオーディションだ」
「本当に公募でやるんですね」
千聖が言うと藤城は頷いた。
「ああ。規模はまだ調整中だが、応募は相当数、見込んでる。RESONANCEブームもあって注目度は高いはずだ」
「私たちも審査に関わったりするんですか?」
イブが興味津々に尋ねると、藤城は少し考えるように顎に手をやった。
「最終選考にはメンバーの意見も取り入れるつもりだ。一緒にやっていく相手だからな」
「責任重大ですね」
麻弥がぽつりと呟いた。
「そこは心配するな。俺もしっかり見極める」
藤城はそう言うと資料をまとめながら四人を見渡した。
「これから忙しくなるぞ。覚悟しておけ」
「はい!」
四人の声が揃って会議室に響いた。
それぞれの表情には緊張と、それ以上の期待が確かに滲んでいた。
*
藤城が資料を抱えて席を立った。
「俺はギターオーディションの会議があるから、これで失礼する。あとは四人でゆっくり話しててくれ」
「はい、お疲れ様です」
千聖が言うと藤城は、軽く手を挙げて会議室を出て行った。扉が閉まる音とともに部屋の空気がふっと和らいだ。
「……なんか、緊張しましたね」
彩がほっとしたように椅子の背にもたれかかった。
「わかります。社長さんの前だとつい姿勢正しちゃって」
麻弥も肩の力を抜きながら頷いた。
「私も、まだドキドキしてますっ」
イブが胸に手を当てながら言うと千聖がくすりと笑った。
「みんな同じだったのね」
四人の間に自然な笑い声が広がった。
「改めて、よろしくお願いします」
彩がぺこりと頭を下げると、他の三人もそれぞれ頭を下げ返した。
「せっかくだし、もう少しお互いのこと話しましょうか」
千聖が提案するとイヴが勢いよく手を挙げた。
「賛成ですっ! 私、皆さんのこともっと知りたいですっ」
「いいですね。丸山さんはダンスと歌のレッスン中心に受けてるんですよね」
麻弥が興味深そうに彩に尋ねた。
「あ、はい。演技の方はやってなくてずっとアイドル一筋です」
「彩さんの夢この前、聞いたばかりだったからなんだか感慨深いです」
千聖がしみじみと言うと、彩は照れくさそうに頷いた。
「あの時はまさか、本当に合格すると思ってなくて。本当にまだ信じられなくて」
「私も演技のお仕事以外で、こういうのは初めてで」
千聖が続けるとイヴが興味津々に身を乗り出した。
「千聖さんは、いつも堂々としてる印象だったので、意外ですっ」
「全然、堂々となんてしてないんです。ここに来るまで、ずっと迷ってましたし」
千聖が正直に言うと彩が優しく微笑んだ。
「でも白鷺さんが背中押してくれたから頑張れました」
「私こそ彩さんの覚悟に勇気をもらってたので」
二人が目を合わせて微笑み合うのを麻弥が微笑ましそうに眺めていた。
「なんか、いいチームになりそうな予感がしますね」
「私も、そう思いますっ! みんな、いい人ばっかりで」
イヴが元気よく同意した。
「あ、そういえば」
彩がふと思い出したように麻弥の方を向いた。
「大和さんって、スタジオミュージシャンだったんですよね? どんな感じの現場が多かったんですか?」
「あ、それ聞きます? ジブン、話し出すと止まらなくなっちゃうんスけど……」
麻弥が少し照れくさそうに前置きすると、彩とイヴが興味深そうに顔を寄せた。
「聞きたいです、聞きたいですっ!」
「じゃあ、少しだけ……」
麻弥の目の色がわずかに変わった。
機材やレコーディングの話になると途端に饒舌になる——その様子を千聖は微笑ましく見守っていた。
「ドラムのシェル材の話とか、めちゃくちゃマニアックなんですけど、聞くと結構面白いですよ」
千聖がこっそり耳打ちすると彩とイヴは期待に満ちた表情で頷いた。
麻弥の機材トークがひとしきり盛り上がったあと、ふと彩が思いついたように言った。
「あの、提案なんですけど。もう少し呼び方、砕けた感じにしませんか? せっかく同じバンドになるわけですし」
「確かにいつまでも苗字にさん付けだと他人行儀な感じもしますし」
千聖が言うと麻弥も控えめに頷いた。
「ジブンも賛成です」
「じゃあ決まりですね」
彩がにこにこと皆を見回した。
「千聖ちゃん、イヴちゃん、麻弥ちゃん。わたしのことも、名前で呼んでくださいね」
「えぇ、彩ちゃん」
千聖が笑いながら答えた。
「麻弥ちゃんも、呼びやすい呼び方でいいわよ」
千聖が続けて言うと麻弥は少し照れくさそうに頷いた。
「あ、ありがとうございます。じゃあジブンは、千聖さん、彩さん、イヴさんって呼ばせてもらいます」
「わたしも、皆さんのこと、チサトさん、アヤさん、マヤさんって呼ばせてもらいますっ!これから、よろしくお願いしますっ! これも絆を深めるブシドーです!」
「その使い方たぶん違うと思うけど……まあ、いいか」
千聖が小さく突っ込みながらも笑って受け入れた。
新しく呼び合う名前には、まだ少しぎこちなさが残っていたが、それでもその響きには確かな親しみが込められていた。
「なんだか、一気に距離が縮まった気がしますね」
彩が言うと皆が揃って頷いた。会議室の中にこれまでよりも一段と和やかな空気が満ちていく。
「これから、よろしくお願いします。四人で」
千聖が言うと、彩、イブ、麻弥が、それぞれの声で明るく応えた。
「よろしくお願いします!」
窓の外はすっかり夕暮れの色に染まっていた。
四人の笑い声が会議室にしばらくの間、賑やかに響き続けていた。