事務所のスタジオには、四人分の機材が並んでいた。千聖のベース、彩のマイクスタンド、イブのキーボード、そして、麻弥のドラムセット。まだ慣れない空気の中、それぞれが、音を合わせ始めていた。
「じゃあ、麻弥さん、ちょっと、単体で叩いてもらえますか?」
スタジオスタッフの指示に、麻弥が、小さく頷いた。スティックを構え、静かに息を整える。
やがて、麻弥の手が動き出すと、部屋の空気が、一変した。安定したキックの重み、正確無比なハイハットの刻み、それでいて、どこか温かみのあるグルーヴ——聴いていた三人は、思わず顔を見合わせた。
「……すごい」
千聖が、思わず呟いた。
「本当に上手いね、麻弥ちゃん。安定感が、半端ない」
彩も、感嘆の声を漏らした。
「マヤさんのドラム、ずっと聴いていられますっ! これぞ、まさに、リズムの武士道ですっ!」
イブが、興奮気味に拍手すると、麻弥は、少し照れくさそうに、スティックを止めた。
「そんな、大したことないっス。基本、練習してきただけなんで」
「その基本が、なかなかできないのよ」
千聖が、笑いながら言うと、麻弥は、ますます居心地悪そうに、視線を逸らした。
「ジブン、褒められるの、慣れてなくて……」
「もっと自信持っていいと思う。本当にすごいから」
彩が、まっすぐな目で言うと、麻弥は、小さく頷いた。
「あ、ありがとうございます」
*
一通り、それぞれのパートを確認したあと、四人で簡単な曲を合わせてみることになった。イブの弾くコードに、麻弥のリズムが重なり、そこに、千聖のベースラインが加わっていく。
「いい感じだね」
彩が、マイクの前で、リズムに合わせて軽く体を揺らしながら言った。千聖も、指先の感覚を確かめるように、フレーズを繰り返していた。
——ブツンッ。
不意に、鈍い音とともに、指先に走った違和感に、千聖は、思わず手を止めた。
「あ……」
見ると、ベースの一番太い弦が、ぷつりと切れて、だらりと垂れ下がっていた。
「切れちゃった……」
千聖が、少し困ったように、ベースを見つめた。
「大丈夫、千聖ちゃん?」
彩が、心配そうに駆け寄ってくる。
「うん、ちょっと、弦が古くなってたのかも。結構、長いこと張り替えてなかったから」
「見せてもらっても、いいですか?」
麻弥が、スティックを置いて、興味深そうに近づいてきた。楽器を手に取ると、切れた弦を、丁寧に確認する。
「あ、これ、E弦っスね。太さ的に、一番負担かかりやすいところで」
麻弥は、そう言いながら、ベース全体を、しげしげと眺め回した。それから、何かに気づいたように、目を細める。
「……あれ? これ、ジャックの位置、普通のPJ-40と違いますね」
「え?」
千聖が、少し驚いたように聞き返した。
「普通、サイドについてるはずなんスけど、これ、ちょっと位置がずれてて。それに……」
麻弥は、裏側のコントロールキャビティのあたりを、指でなぞった。
「これ、プリアンプ、増設されてません? パッシブのはずなのに、なんか、回路、多いっス」
「プリアンプ……?」
千聖は、自分のベースを、改めてまじまじと見つめた。そこまで詳しい構造は、よくわかっていなかった。
「詳しいね、麻弥ちゃん」
彩が、感心したように言うと、麻弥は、少し照れくさそうにしながらも、続けた。
「これ、多分、撮影用に特注で改造されてるやつっスね。音の伸びとか、扱いやすさとか、映像映えするように、色々調整されてるんじゃないかと」
「そうなんだ……全然、知らなかった」
千聖は、改めて、自分のベースを見つめ直した。
「RESONANCEで使われてた、特別なモデルなんだね」
彩が、感慨深そうに呟いた。
「聞けば聞くほど、すごい楽器なんですねっ、それ」
イブも、興味津々にベースを覗き込んだ。
「大事にしてる理由、わかる気がします」
千聖は、少し照れながら、ベースを、そっと撫でた。
「見た目は、そんなに特別な感じしないんだけどね。でも、確かに、弾きやすくて、音も好きで」
「見えないところに、こだわりが詰まってるんスね」
麻弥が、しみじみと言った。
「直せそう?」
千聖が尋ねると、麻弥は、少し困ったような顔をした。
「張り替えられればいいんスけど……ジブンの手持ちの弦、今、切らしてて。予備、持ってきてなかったっス」
「あー、そうなんだ」
千聖は、少し残念そうにベースを見つめた。
「せっかくだし、買いに行こうよ」
彩が、明るい声で提案した。
「みんなで一緒に。近くに、楽器屋さんあるよね」
「いいですねっ! わたしも、行ってみたいですっ! 楽器屋さん、あんまり行ったことなくて」
イブが、目を輝かせて賛成した。
「いいの? みんなの時間、使わせちゃって」
千聖が、少し遠慮がちに聞くと、麻弥が、首を振った。
「全然、いいっス。ジブンも、ついでに、いくつか消耗品、見ておきたいんで」
「じゃあ、決まりだね」
彩が、にこやかに立ち上がった。
「せっかくだから、千聖ちゃんのベースのこと、もっと教えてもらいながら行こうよ」
「私のベース?」
千聖が、少し首をかしげると、彩が、興味津々に頷いた。
「うん! いつも気になってたんだ。ちょっと、レトロな雰囲気の、素敵なベースだなって」
千聖は、少し照れながら、自分のベースを、そっと撫でた。
「これ、フェンダーの、PJ-40っていう型番のベースなの。ジャズベースの細いネックに、プレシジョンベースの形のボディが組み合わさってて、ピックアップも、ジャズとプレシジョン、両方乗ってるタイプ」
「PJ……?」
イブが、興味深そうに首をかしげた。
「音を作る種類が、二つあるってことなんスよ」
麻弥が、補足するように言った。
「フロント側が、ドスンとした低音出るプレシジョンタイプ。リア側が、もうちょっと明るくて、抜けのいいジャズタイプ。組み合わせで、色んな音、作れるんス」
「詳しいね、麻弥ちゃん」
彩が、感心したように言うと、麻弥は、少し得意げに頷いた。
「機材のことなら、任せてください」
「実は、これ、RESONANCEの撮影で、ずっと使ってたベースで」
千聖が、続けて言うと、彩が、興味深そうに目を見開いた。
「あの映画の……!」
「うん。役作りのために練習始めてから、ずっとこの子と一緒にいたの。撮影終わってからも、なんとなく手放せなくて譲ってもらったの」
千聖は、そう言いながら、ベースを、大切そうに構え直した。
「だから、なるべく長く使いたくて。ちゃんとメンテナンスもしてあげたいなって」
「素敵な話だね」
彩が、優しく微笑んだ。四人は、それぞれ、荷物をまとめながら、スタジオの扉へと向かった。
「近くの楽器屋さん、案内しますねっ!」
イブが、元気よく先頭を歩き出す。四人分の足音が、廊下に、賑やかに響いていった。
*
四人は、事務所を出て、駅前の楽器店へと向かって歩き出した。夕方の街並みを、四人分の足音が、軽やかに響かせていく。
「さっきの話、もっと聞きたい」
彩が、隣を歩く麻弥に、興味津々に話しかけた。
「PJ-40って、そんなに珍しいベースなんですか?」
「珍しいっていうか……フェンダー・ジャパンが出してたモデルで、当時は、そこまで高級ラインってわけじゃなかったんスけど」
麻弥は、少し嬉しそうに、話し始めた。
「プレシジョンとジャズ、両方のいいとこ取りしたPJタイプって、実は、玄人好みで。今でも、根強いファン多いんスよ」
「そうなんだ」
「有名なところだと、ガンズ・アンド・ローゼズのダフ・マッケイガンとか、このシリーズ、愛用してたことあるって話で」
「ガンズ・アンド・ローゼズ……!」
イブが、目を輝かせた。
「名前だけは知ってますっ! すごく有名なバンドですよねっ!」
「うん、伝説的なロックバンドだね」
千聖が、頷きながら言った。
「そんなプロも使ってたベースだったんだ……なんか、余計に大事にしたくなった」
「音楽的にも、ちゃんと理由があって選ばれてるんスよ。プレシジョンの図太さと、ジャズの抜けの良さ、両方欲しい人にとっては、理想的な選択肢っていうか」
麻弥は、そこまで言うと、少し照れくさそうに、頭をかいた。
「あ、すいません、つい熱くなっちゃって」
「面白いよ! もっと聞きたいくらい」
彩が、笑顔で言うと、麻弥は、ほっとしたように表情を緩めた。
「こういう話、あんまり周りで盛り上がったことなくて。聞いてもらえると、嬉しいっス」
「これから、いくらでも聞くよ」
千聖が言うと、麻弥は、少し嬉しそうに頷いた。
「PJ-40、他にも、面白い特徴あるんスよ。ネックは、ジャズベースの薄いタイプだから、女性でも握りやすくて……」
麻弥の話は、それから、楽器店に着くまでの間、途切れることなく続いた。彩とイブは、時折、相槌を打ちながら、興味深そうに耳を傾けていた。
やがて、通りの先に、楽器店の看板が見えてくる。
「あ、着いたね」
彩が言うと、四人は、揃って足を速めた。ガラス張りのショーウィンドウには、様々な楽器が、所狭しと並んでいた。
*
店内に入ると、壁一面に、ずらりと並んだギターやベースが、四人を出迎えた。木の香りと、かすかな金属の匂いが、心地よく漂っている。
「わあ……」
彩とイブが、同時に、感嘆の声を漏らした。
「弦売り場、あっちっスね」
麻弥が、迷いのない足取りで、店の奥へと進んでいく。千聖たちも、その後を追った。
弦のコーナーには、様々なブランド、太さのパッケージが、整然と並んでいた。
「千聖さん、今まで、どのメーカーの弦、使ってたか覚えてます?」
麻弥が尋ねると、千聖は、少し考え込んだ。
「えっと……確か、この、緑のパッケージのやつだったと思う」
千聖が、棚から一つ手に取って見せると、麻弥は、頷いた。
「ああ、これ、定番のニッケルラウンドワウンドっスね。悪くない選択だと思います」
「他にも、種類あるの?」
彩が、興味深そうに棚を覗き込んだ。
「色々ありますよ。ステンレスだと、音が明るくて、耐久性も高いんスけど、フレットへの当たりが強くて。フラットワウンドだと、逆に、丸くて柔らかい音になるっス」
麻弥は、それぞれのパッケージを、丁寧に指し示しながら説明した。
「同じベースでも、弦変えるだけで、結構、印象変わるんだね」
千聖が、感心したように呟いた。
「はい。せっかくなので、今回、ちょっと違う種類、試してみます?」
「え、いいの?」
「ジブンのおすすめ、あるんスけど……試してみたい気持ち、あります?」
麻弥が、少し楽しそうに尋ねると、千聖は、興味を惹かれたように頷いた。
「うん、試してみたい。麻弥ちゃんのおすすめ、聞いてみたいな」
「じゃあ、これ、どうっスか」
麻弥は、少し考えてから、別のパッケージを手に取った。
「ステンレスの、ミディアムゲージ。今のより、ちょっと張りが強くなるんスけど、パキッとした音になって、バンドサウンドの中でも、抜けやすくなると思うっス」
「面白そう。それにする」
千聖が頷くと、麻弥は、満足げに微笑んだ。
「あ、これ見てくださいっ!」
イブが、少し離れた棚から、目を輝かせて手を振っていた。行ってみると、色とりどりのピックが、ずらりと陳列されている。
「こんなに種類あるんだ! カラフルで、可愛い」
彩も、興味津々に、ピックを一枚一枚、手に取って見ていた。
「せっかくだから、記念に、みんなで一枚ずつ買わない? お揃いの柄とかで」
彩の提案に、イブが、嬉しそうに頷いた。
「いいですねっ! わたしも、欲しいですっ」
「あ、でも……」
千聖が、少し考えるように、ピックの棚を見つめた。
「せっかくお揃いにするなら、五人揃った時に、改めて来ない? ギターの人も、一緒に選べたら、なんだか、それっぽい気がして」
「五人……」
彩が、はっとしたように、千聖の顔を見た。
「確かに。ギターの人が入ってから、みんなで選んだ方が、記念になるね」
「わたしも、賛成ですっ! その方が、絆、深まりますっ!」
イブが、元気よく同意した。麻弥も、静かに頷く。
「いいと思います。ジブンも、その方が、しっくりくるっス」
「じゃあ、ピックは、その時のお楽しみ、ってことで」
千聖が、笑顔でまとめると、四人は、名残惜しそうにピックの棚を離れながら、レジへと向かった。
「早く、五人揃うといいね」
彩が、期待に満ちた声で言うと、皆が、揃って頷いた。
弦を会計しながら、彩が、ふと思い出したように言った。
「早くギターの人、決まるといいね」
「そうね」
千聖が頷くと、彩は、少し考えるように続けた。
「他のパートがいないバンドって、時々聞くよね。ボーカルレスとか、キーボードレスとか」
「あー、確かに、ありますね」
麻弥が、相槌を打った。
「でも、ギターがいないバンドって、あんまり聞いたことないなって」
彩が言うと、イブも、大きく頷いた。
「確かにっ! わたしも、思い当たらないですっ」
「ギターって、バンドの土台みたいなところ、あるっスからね」
麻弥が、少し考えながら言った。
「リズムも刻めるし、リードも取れるし、コードも弾ける。ある意味、一番、応用が利くパートっていうか」
「なるほど……だから、いないと、成立しにくいのね」
千聖が、納得したように呟いた。
「うちのバンドも、早くその穴が埋まるといいわね」
「だね! どんな人が来るのか、楽しみ」
彩が、目を輝かせて言った。
「頼もしい人が来てくれるといいですね」
イブも、期待に満ちた表情で言うと、四人は、揃って頷き合った。
*
四人が、会計を済ませて店を出ると、彩が、時計を確認して、明るい声を上げた。
「あ、もうこんな時間。お昼、みんなで食べに行かない?」
「いいですねっ! 実は、おすすめのお店、あるんです」
イブが、待ってましたとばかりに、目を輝かせた。
「おすすめのお店?」
千聖が聞くと、イブは、嬉しそうに頷いた。
「小料理屋さんなんですけどっ、美味しいものが、たくさんあってっ」
「小料理屋……」
千聖の頭の中に、ふと、記憶がよぎった。細い路地の奥にある、あの店。修司に連れて行ってもらった、あの場所。
「もしかして、細い路地の奥にある?」
千聖が、確かめるように尋ねると、イブは、驚いたように目を丸くした。
「え、ご存知なんですかっ?」
「うん……前に、一度だけ、連れて行ってもらったことがあって」
「そうなんですね! じゃあ、話が早いですっ」
イブが、嬉しそうに笑うと、麻弥と彩も、興味深そうに顔を見合わせた。
「行こう、行こう」
彩が、弾んだ声で言うと、四人は、揃って歩き出した。
*
暖簾をくぐると懐かしい香りが、千聖の鼻をくすぐった。カウンターの向こうから、女将が、いつもの調子で顔を出す。
「おかえりなさい、イブちゃん。あら……」
お千代さんは、イブの後ろに続く三人の顔を見て、少し驚いたように目を見開いた。それから、千聖の顔に気づくと、さらに目を丸くする。
「あら、千聖ちゃん、だったかしら?」
「お久しぶりです」
千聖が、頭を下げると、お千代さんは、まじまじと二人を見比べた。
「それにしても、まさか、千聖ちゃんが、イブちゃんのお友達だったなんてね」
「実は、バンドのメンバーなんですっ。今日は、他のメンバーも一緒でっ」
イブが説明すると、お千代さんは、驚いたように、彩と麻弥にも視線を向けた。
「あら、賑やかになったこと。まあまあ、とりあえず座って座って」
お千代さんに促されて、四人は、カウンター席に並んで腰を下ろした。彩と麻弥は、この店の温かい雰囲気に、興味深そうに店内を見回している。
「イブちゃんが、こんなに立派になって、お友達も連れてきてくれるなんて」
お千代さんが、しみじみと言いながら、お茶を出してくれた。
「本当に、あっという間だったわねえ」
その言葉に、千聖は、少し不思議に思いながら、イブの方を見た。二人の間には、単なる常連客と店主、という以上の、何か親しい空気が漂っている。
「あの……お二人は、どういう……」
千聖が、控えめに尋ねると、イブが、少し照れくさそうに笑った。
「あ、言ってなかったですねっ。お千代さんは、わたしの、お父さんのお姉さんなんですっ。叔母さんなんですよっ」
「え……!」
千聖と彩、麻弥が、揃って驚きの声を上げた。
「それに、わたし、今、ここにホームステイさせてもらってましてっ」
「ホームステイ……!」
「実家がフィンランドなんですっ。こっちに来る時に、お千代さんが、住まわせてくれることになってっ。もう、三年目になりますっ」
イブが、そう説明すると、お千代さんが、目を細めて笑った。
「この子ったら、うちに来た時は、まだ中学生だったのよ。それが、今じゃ、高校一年生になって、立派にお仕事してバンドまでやって」
「お千代さんの、ご飯のおかげですっ」
イブが、にこにこと言うと、お千代さんは、嬉しそうに厨房へと戻っていった。
「そうだったんだ……知らなかった」
千聖が言うと、イブは、少し照れたように頷いた。
「あんまり、自分から言うことでもなかったのでっ。でも、お千代さんのおかげで、今のわたしがあるんですっ」
その言葉には、確かな感謝の響きが込められていた。彩と麻弥も、その温かい話に、優しく耳を傾けていた。
お千代さんが、次々と料理を運んできてくれた。贅沢に薬味をたっぷりのせた冷しゃぶ、フルーツトマトと胡瓜の土佐酢和え、冬瓜の入った赤出汁、それに、十六穀米のご飯——どれも、丁寧な仕事が伝わる、彩り豊かな献立だった。彩とイブ、麻弥も、それぞれの皿に舌鼓を打ちながら、賑やかな会話を続けていた。
「この冷しゃぶ、すごく美味しい……! お肉が柔らかくて、薬味もたっぷりで」
彩が、感激したように言うと、お千代さんが、嬉しそうに笑った。
「でしょう。夏に嬉しい、うちの人気メニューなの」
「このトマト、甘くて、瑞々しいですねっ! 土佐酢との相性も、抜群ですっ」
イブも、目を輝かせながら、フルーツトマトを口に運んだ。
「冬瓜の赤出汁、優しい味っスね。じんわり染みます」
麻弥も、しみじみと呟きながら、汁物を口にした。
「十六穀米も、香ばしくて、すごく美味しいです」
千聖が言うと、お千代さんは、満足げに頷いた。
「体にいいものを、たくさん食べてもらいたくてね。若い子たちは、特に」
厨房から戻ってきたお千代さんは、ふと、思い出したように、千聖に向き直った。
「そういえば、千聖ちゃん」
「はい?」
「修司くん、ちゃんとご飯、食べてるの? あの子、放っておくと、すぐジャンクフードばっかりになるでしょう」
「あ……」
千聖は、思わず苦笑いを浮かべた。
「最近は、なるべく気をつけるようにはしてるんですけど。この間も、こっそりハンバーガー食べようとしてたところ、止めたばかりで」
「まあ、相変わらずねえ」
お千代さんが、呆れたように、けれど、どこか嬉しそうに笑った。
「千聖ちゃんがいてくれて、本当に良かったわ。あの子、一人だと、栄養なんて全然考えないから」
「そんな……私も、まだまだですけど」
千聖が、照れくさそうに答えたところで、店の入り口の暖簾が、ふわりと揺れた。
「……ん」
低い声とともに、姿を現したのは、他でもない、修司だった。修司は、店内を見回して、思いがけない顔ぶれに、軽く目を見開いた。
「……千聖?」
「修司さん!」
千聖が、驚いて声を上げると、お千代さんが、目を輝かせて、カウンターから身を乗り出した。
「あら、修司くん、いいところに! ちょうど、あなたの話をしてたのよ」
「俺の話?」
修司が、怪訝そうに眉を寄せると、お千代さんは、にんまりと笑った。
「ちゃんとご飯、食べてるかって。千聖ちゃんが、しっかり見てくれてるみたいで、安心したわ」
「……余計なことを」
修司は、少しばつが悪そうに、視線を逸らした。それから、千聖の隣にいる彩、イブ、麻弥に目を向けると、少し不思議そうな顔をした。
「……こっちは?」
「あ、紹介しますね。バンドのメンバーで」
千聖が、順に紹介していく。
「キーボードの、若宮イブさん。ドラムの、大和麻弥さん」
「丸山さんは、もう知り合いだったな」
修司が、彩の方を見て言うと、彩が、にこやかに頷いた。
「はい、修司さん、お久しぶりです。バイト先で、いつもお世話になってます」
「丸山さんが、ボーカルに決まったのか」
「そうなんです! びっくりですよね」
彩が、少し照れくさそうに笑うと、修司は、軽く頷いた。
「あの店で見てた限り、真面目にやってたからな」
「そんな、恐縮です……!」
彩が、嬉しそうに頬を染めた。修司は、それから、イブと麻弥の方に目を向けた。
「初めまして、若宮イブですっ! チサトさんに、いつもお世話になってますっ!」
イブが、元気よく頭を下げた。
「大和麻弥です。よろしくお願いします」
麻弥も、控えめに続いた。
「鷲須修司だ。千聖が、世話になってるみたいだな」
修司が、軽く頭を下げ返すと、イブが、ぱっと目を輝かせた。
「あ、鷲須さんって、もしかして、チサトさんがよく話してる……!」
「イブちゃん、それ以上は……!」
千聖が、慌てて口を挟むと、イブは、きょとんとした顔をした。
「あれ、なんかまずかったですかっ?」
「別に、まずくはないが」
修司が、面白がるように、口の端を上げた。千聖は、頬を赤らめながら、小さくため息をついた。
「修司さんも、座りますか? ちょうど、みんなで食べてたところで」
千聖が、話題を変えるように声をかけると、修司は、少し考えるように、四人の顔ぶれを見渡した。
「……邪魔じゃないなら」
「全然、邪魔じゃないですっ! ぜひ、一緒に!」
イブが、元気よく言うと、彩と麻弥も、揃って頷いた。修司は、小さく頷いて、千聖の隣に、腰を下ろした。
「なんだ、四人揃って、いい雰囲気じゃないか」
「今日、みんなで練習してたんです。弦が切れちゃって、買いに行った帰りで」
千聖が説明すると、修司は、軽く頷いた。
「ちょうどいい時に、会えたな」
お千代さんが、そんな様子を、微笑ましそうに眺めながら、修司の前に、湯呑みを置いた。
「修司くんも、たくさん食べていきなさいよ。同じもの、用意するわね」
「……ありがたく」
修司が、素直に頷くと、千聖が、少し身を乗り出して、お千代さんに声をかけた。
「あの、お千代さん。修司さんの分、野菜、多めにしてもらえますか」
「あら、いいわね。任せて」
お千代さんが、にっこりと笑って、厨房へと戻っていった。修司が、少し呆れたような目を、千聖に向ける。
「……お前な」
「栄養、偏ってるので。仕方ないです」
千聖が、澄まし顔で言うと、修司は、小さく息をついた。それを見ていた彩とイブが、くすくすと笑いを堪えている。
しばらくして、お千代さんが、修司の前に、皿を置いた。冷しゃぶと土佐酢和え、赤出汁、十六穀米——そこに、もう一品、湯気の立つ小鉢が添えられていた。
「はい、これ、サービス。焼き茄子の生姜醤油」
「……これは?」
「野菜、多めにって、千聖ちゃんから、頼まれちゃったから」
お千代さんが、いたずらっぽく笑うと、修司は、ばつが悪そうに、千聖の方をちらりと見た。千聖は、思わず、頬が熱くなるのを感じた。
「な、なんですか」
「……何も言ってない」
修司が、そっけなく答えて、箸を手に取る。その様子を見ていたイブが、堪えきれずに、噴き出した。
「チサトさん、鷲須さんのこと、しっかりお世話してるんですねっ! 素敵ですっ!」
「お、お世話とか、そういうんじゃなくて……!」
千聖が、慌てて否定すると、彩も、にこにこと会話に加わった。
「でも、いいよね。ちゃんと気にかけてくれる人がいるって」
「彩ちゃんまで……!」
千聖の顔が、ますます赤くなっていく。麻弥も、静かに、けれど、確かに笑いを噛み殺していた。
お千代さんは、そんな一同を見渡しながら、うんうんと満足げに頷いた。
「修司くん、いい子に大事にされてるじゃないの。本当に、良かったわねえ」
「……余計なお世話だ」
修司が、そっぽを向きながら、焼き茄子に箸をつける。その耳が、わずかに赤くなっているのを、千聖は、見逃さなかった。
「美味しい」
修司が、ぽつりと呟くと、お千代さんが、嬉しそうに笑った。
「でしょう。たくさん、召し上がれ」
美味しい料理と賑やかな会話が続く中、修司が、ふと思い出したように箸を止めた。
「そういえば」
「はい?」
千聖が、修司の方を向くと、修司は、四人の顔を、順に見渡した。
「バンド名は、決まってるのか」
「あ……」
千聖は、少し言葉に詰まった。
「まだ、決まってないんです。メンバーが揃ったばかりで、そこまで話が進んでなくて」
「そうなのか」
「みんなで考えようかって話には、なってるんですけど」
彩が、補足するように言った。
「候補とか、まだ全然出てないですっ。わたしたちも、そろそろ考えないとって、話してたところでっ」
イブも、少し困ったように付け加えた。
「バンド名かあ……確かに、大事っスよね。第一印象、決まっちゃうし」
麻弥も、腕を組みながら、考え込むように呟いた。
「難しいですよね。五人全員が、しっくりくる名前じゃないと」
千聖が言うと、修司は、軽く頷いた。
「まあ、焦ることでもないだろう。ちゃんと五人揃ってから、考えればいい」
「そうですね」
千聖が、小さく微笑んだ。
「その時が、楽しみです」
彩が、目を輝かせながら言うと、皆が、それぞれの思いを込めて頷いた。カウンターには、これから始まる新しい物語への、静かな期待が満ちていた。
*
食事を終える頃には、外は、すっかり夕暮れの色に染まっていた。
「ごちそうさまでした、お千代さん。すごく美味しかったです」
千聖が言うと、お千代さんは、満足げに笑った。
「また、みんなで来てちょうだいね。今度は、五人揃って」
「はい、必ず」
彩が、元気よく答えると、お千代さんは、嬉しそうに手を振った。
暖簾をくぐって外に出ると、夕方の風が、心地よく頬を撫でた。イブと麻弥、彩は、まだ話し足りない様子で、賑やかにおしゃべりを続けている。修司と千聖は、その少し後ろを、並んで歩いていた。
「今日も、色々あったな」
修司が、ぽつりと呟いた。
「はい。まさか、お千代さんのお店で、皆と会えるとは思ってませんでした」
千聖は、そう言いながら、隣を歩く修司を、そっと見上げた。
「弦が切れたおかげで、今日は、色んなことがありました」
「悪いことばかりじゃなかったみたいだな」
「はい。おかげで、みんなのこと、もっと知れた気がします」
千聖が、そう言って微笑むと、修司も、小さく口元を緩めた。
夕陽に照らされた街を、五人分の足音が、しばらくの間、賑やかに響いていった。バンドは、まだ名前を持たない。けれど、確かな絆と、これから始まる物語への期待が、静かに芽生え始めていた。