砂糖二つの特等席   作:y@s

6 / 13
第6話 名前のない気持ちに名前がついた日

 

 

それからも、千聖はアトリエに通った。

 

週に一度、多い時は二度。

いつも理由を用意した。

近くで撮影があったから、この辺りで買い物をしていたから、ただの通り道だから。

理由はいくらでも作れた。

修司は毎回、特に何も言わずドアを開けた。「来たな」か「どうぞ」か、それだけ言って、また仕事に戻る。

 

その無頓着さが、不思議と居心地がよかった。

 

 

その日も、千聖はソファに腰を下ろして、修司の仕事を眺めていた。

 

修司は今日、布地を選んでいた。何種類もの生地を机の上に広げて、光の当たり方を確かめながら、一枚ずつ手に取って触れている。その手つきが、いつもと少し違った。丁寧で、ゆっくりで、まるで何かを聞いているみたいだった。

 

「……布地に、話しかけてるんですか?」

 

思わず口をついた。修司が振り向いて、おかしそうに目を細めた。

 

「そう見える?」

 

「なんとなく」

 

「まあ、そんなもんかもな。素材によって、向いてる形が違う。無理に曲げたら、着てる人間が窮屈になる」

 

「布地に合わせるんですね、デザインを」

 

「逆もある。でも、素材の声を無視したら、いいものはできない」

 

千聖はその言葉を、静かに飲み込んだ。素材の声。修司はそういう言い方をする。大げさでもなく、詩的ぶるでもなく、ただそれが当たり前のことみたいに。

 

「……修司さんって」

 

「ん」

 

「ものを作る時、何を一番大切にしてるんですか?」

 

修司は少し考えてから、布地を畳みながら言った。

 

「着た人間が、自分らしくいられること」

 

「自分らしく」

 

「飾るためじゃなくて、その人がその人でいるための服。そういうのを作りたい」

 

千聖は黙った。

 

その人がその人でいるための服。

千聖には、そういうものがなかった。衣装はいつも誰かに選ばれて、誰かのイメージに合わせて着る。白鷺千聖というキャラクターのための服。自分のための服を、考えたことがなかった。

 

「……難しいですね」

 

「何が」

 

「自分らしくいること」

 

修司が手を止めた。

千聖の方を見た。

からかう顔でも、心配する顔でもなかった。ただ、聞いている顔だった。

 

千聖は少し慌てて、「でも、素敵だと思います」と付け加えた。修司はしばらく千聖を見てから、静かに言った。

 

「お嬢ちゃんは、自分らしい顔してる時の方が、きれいだぞ」

 

「……今は、していないということですか?」

 

「今もしてる。さっきの顔の方が、もっとしてた」

 

千聖は言い返せなかった。さっきの顔。自分でも気づかないうちに、何かが滲み出ていたらしい。

修司にはいつも、そういうものが見えている。

 

「……意地悪ですね」

 

「本当のことを言っただけ」

 

修司はそれだけ言って、また布地に向き直った。

千聖はカップを両手で包んで、視線を落とした。

 

胸の中で、何かがじわりと熱かった。

 

 

帰り道、千聖はいつもより歩くのが遅かった。

 

夜の街が、静かに流れていく。修司のアトリエの灯りが、どこかまだ背中にある気がした。

 

その人がその人でいるための服。

 

修司の声が、耳の奥で繰り返した。

千聖はそれを聞きながら、今日のことを順番に辿った。

布地に話しかける手つき、静かな横顔、千聖の言葉を、急かさずに聞く間の取り方。

 

お嬢ちゃんは、自分らしい顔してる時の方が、きれいだぞ。

 

胸が、また熱くなった。

 

千聖は足を止めた。

 

駅の手前、人通りの少ない路地だった。千聖はそこで一度、息を吐いた。

 

おかしい。

何かがおかしい。

修司のことを考えると、胸の奥が落ち着かなくなる。

声を思い出すと、熱くなる。

姿を思い浮かべると、また会いたくなる。

 

また、会いたい。

 

その思考が、ひどく自然に出てきた。

 

千聖は目を伏せた。

芸能界に長くいると、感情に名前をつけるのが上手くなる。

カメラの前で、必要な感情を呼び出す練習を、ずっとしてきた。

だから今、胸の中にあるこの感情にも、千聖はちゃんと名前を知っていた。

 

知っていたのに、認めたくなかった。

 

——好き、だ。

 

夜の路地で、誰にも聞こえないくらい小さく、千聖は息を呑んだ。

 

好き。

修司さんのことが、好き。

 

言葉にした途端、胸の中がいっぺんに静かになった。嵐の目の中みたいに。ずっと落ち着かなかった何かが、名前を得た瞬間にすとんと収まった。

 

それが余計に、困った。

 

——どうしよう。

 

どうしようもなかった。修司はからかい上手で、千聖のポーカーフェイスを余裕で見抜いて、砂糖二つのコーヒーをさりげなく用意する。急かさず、放っておかず、ただそこにいる。

 

そういう人に、気づいたら傾いていた。

 

千聖はしばらく、その場に立ったままだった。

冷たい夜気が頬に触れた。

今日も修司のアトリエの温もりが残っている気がした。

 

やがて千聖は、ゆっくりと歩き出した。

 

どうしようもない気持ちを、胸の中にそっとしまいながら。

 

それでも、次にアトリエに向かう足取りが、少しだけ速くなることは、この時の千聖にはまだわからなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。