それからも、千聖はアトリエに通った。
週に一度、多い時は二度。
いつも理由を用意した。
近くで撮影があったから、この辺りで買い物をしていたから、ただの通り道だから。
理由はいくらでも作れた。
修司は毎回、特に何も言わずドアを開けた。「来たな」か「どうぞ」か、それだけ言って、また仕事に戻る。
その無頓着さが、不思議と居心地がよかった。
その日も、千聖はソファに腰を下ろして、修司の仕事を眺めていた。
修司は今日、布地を選んでいた。何種類もの生地を机の上に広げて、光の当たり方を確かめながら、一枚ずつ手に取って触れている。その手つきが、いつもと少し違った。丁寧で、ゆっくりで、まるで何かを聞いているみたいだった。
「……布地に、話しかけてるんですか?」
思わず口をついた。修司が振り向いて、おかしそうに目を細めた。
「そう見える?」
「なんとなく」
「まあ、そんなもんかもな。素材によって、向いてる形が違う。無理に曲げたら、着てる人間が窮屈になる」
「布地に合わせるんですね、デザインを」
「逆もある。でも、素材の声を無視したら、いいものはできない」
千聖はその言葉を、静かに飲み込んだ。素材の声。修司はそういう言い方をする。大げさでもなく、詩的ぶるでもなく、ただそれが当たり前のことみたいに。
「……修司さんって」
「ん」
「ものを作る時、何を一番大切にしてるんですか?」
修司は少し考えてから、布地を畳みながら言った。
「着た人間が、自分らしくいられること」
「自分らしく」
「飾るためじゃなくて、その人がその人でいるための服。そういうのを作りたい」
千聖は黙った。
その人がその人でいるための服。
千聖には、そういうものがなかった。衣装はいつも誰かに選ばれて、誰かのイメージに合わせて着る。白鷺千聖というキャラクターのための服。自分のための服を、考えたことがなかった。
「……難しいですね」
「何が」
「自分らしくいること」
修司が手を止めた。
千聖の方を見た。
からかう顔でも、心配する顔でもなかった。ただ、聞いている顔だった。
千聖は少し慌てて、「でも、素敵だと思います」と付け加えた。修司はしばらく千聖を見てから、静かに言った。
「お嬢ちゃんは、自分らしい顔してる時の方が、きれいだぞ」
「……今は、していないということですか?」
「今もしてる。さっきの顔の方が、もっとしてた」
千聖は言い返せなかった。さっきの顔。自分でも気づかないうちに、何かが滲み出ていたらしい。
修司にはいつも、そういうものが見えている。
「……意地悪ですね」
「本当のことを言っただけ」
修司はそれだけ言って、また布地に向き直った。
千聖はカップを両手で包んで、視線を落とした。
胸の中で、何かがじわりと熱かった。
帰り道、千聖はいつもより歩くのが遅かった。
夜の街が、静かに流れていく。修司のアトリエの灯りが、どこかまだ背中にある気がした。
その人がその人でいるための服。
修司の声が、耳の奥で繰り返した。
千聖はそれを聞きながら、今日のことを順番に辿った。
布地に話しかける手つき、静かな横顔、千聖の言葉を、急かさずに聞く間の取り方。
お嬢ちゃんは、自分らしい顔してる時の方が、きれいだぞ。
胸が、また熱くなった。
千聖は足を止めた。
駅の手前、人通りの少ない路地だった。千聖はそこで一度、息を吐いた。
おかしい。
何かがおかしい。
修司のことを考えると、胸の奥が落ち着かなくなる。
声を思い出すと、熱くなる。
姿を思い浮かべると、また会いたくなる。
また、会いたい。
その思考が、ひどく自然に出てきた。
千聖は目を伏せた。
芸能界に長くいると、感情に名前をつけるのが上手くなる。
カメラの前で、必要な感情を呼び出す練習を、ずっとしてきた。
だから今、胸の中にあるこの感情にも、千聖はちゃんと名前を知っていた。
知っていたのに、認めたくなかった。
——好き、だ。
夜の路地で、誰にも聞こえないくらい小さく、千聖は息を呑んだ。
好き。
修司さんのことが、好き。
言葉にした途端、胸の中がいっぺんに静かになった。嵐の目の中みたいに。ずっと落ち着かなかった何かが、名前を得た瞬間にすとんと収まった。
それが余計に、困った。
——どうしよう。
どうしようもなかった。修司はからかい上手で、千聖のポーカーフェイスを余裕で見抜いて、砂糖二つのコーヒーをさりげなく用意する。急かさず、放っておかず、ただそこにいる。
そういう人に、気づいたら傾いていた。
千聖はしばらく、その場に立ったままだった。
冷たい夜気が頬に触れた。
今日も修司のアトリエの温もりが残っている気がした。
やがて千聖は、ゆっくりと歩き出した。
どうしようもない気持ちを、胸の中にそっとしまいながら。
それでも、次にアトリエに向かう足取りが、少しだけ速くなることは、この時の千聖にはまだわからなかった。