自覚してから、アトリエに行くのが少し怖くなった。
怖い、というのは正確ではないかもしれない。
行きたくないわけではない。
むしろ行きたい。行きたいから、怖い。
修司の前に立つと、今まで通りでいられる自信が、少しだけ揺らいでいた。
千聖はポーカーフェイスに自信がある。
感情を隠すことには慣れている。
けれど修司は、そのポーカーフェイスを余裕で見抜く人間だ。
隠したつもりのものを、さらりと一言で拾い上げる。
——気づかれたら、どうしよう。
どうしようもない。
それはわかっている。
わかっていても、考えずにいられなかった。
それでも、一週間後にはアトリエのドアをノックしていた。
「来たな、お嬢ちゃん」
修司はいつも通りだった。
振り向かない。
手を動かしながら、ただそれだけ言う。
千聖はいつも通り「失礼します」と言って中に入った。
何も変わっていない。
ソファに腰を下ろして、静かに息を吐いた。大丈夫だ。いつも通りにしていれば、いい。
「今日は早いな」
「撮影が早く終わりまして」
「そう」
修司はそれ以上聞かなかった。
千聖の事情に、必要以上に踏み込まない。
それがいつもは心地よかったのに、今日は少しだけ、寂しかった。
——寂しい、だなんて。
千聖は内心で小さく眉を寄せた。
勝手なことを思っている。
修司は何も変わっていない。
変わったのは、自分だけだ。
しばらくして、修司がコーヒーを持ってきた。
「お嬢ちゃん」
カップを受け取る瞬間、指先が少し震えそうになった。
千聖は気づかれないように、両手でしっかりとカップを包んだ。
お嬢ちゃん。
その呼び方が、今日は妙に胸に刺さった。
帰り道、千聖は一人でその言葉を反芻した。
お嬢ちゃん。
修司はいつもそう呼ぶ。
最初からそうだった。
子供扱いのからかいが混ざっていることも、わかっている。
けれど今は、その言葉の輪郭が、少し違う形で当たる。
修司は今年、27歳になる。千聖はまだ中等部の三年生だ。
15と、27
数字にすると、その隔たりが妙にはっきりした。
修司にとって千聖は、本当に「お嬢ちゃん」なのだ。
子供で、庇護対象で、からかってやるくらいがちょうどいい相手。
砂糖二つのコーヒーを用意して、雨の日に傘を差し掛けて、ぶかぶかのパーカーを貸す。
そういう距離感の相手。
——そりゃそうだ。
千聖は目を伏せた。
わかっていた、最初からわかっていた。
修司が千聖を特別扱いしているわけではない。
ただ、目の前で困っている人間を放っておけない、それだけのことだ。
それなのに、傾いてしまった。
自分の浅さが、少し恥ずかしかった。
次にアトリエに行った日も、その次の日も、修司は変わらず「お嬢ちゃん」と呼んだ。
千聖はその度に、胸の中で小さく何かが揺れるのを、努めて無視した。無視できている、と思っていた。
「お嬢ちゃん、今日なんか違うな」
ある日、修司がそう言った。作業の手を止めて、千聖をまっすぐ見ていた。
「……どこが、ですか」
「うまく言えないけど。何か、抑えてる顔」
千聖は一瞬、心臓が跳ねた。
平静を装って、「そんなことはないですよ」と返した。
修司は少しの間、千聖を見ていた。追及はしなかった。
ただ、「そう」と言って、また手を動かした。
その「そう」が、優しかった。
優しかったから、余計に胸が痛かった。
——この人は、気を遣ってくれている。
子供に対して、気を遣ってくれている。
それが修司の誠実さだと、千聖にはわかった。
わかったうえで、どうしようもなかった。
「……修司さんって、年下は苦手ですか」
気づいたら、口をついていた。
修司が少し間を置いた。
千聖は後悔しかけたが、取り消せなかった。
「苦手じゃないけど」
「どう思いますか、年の差」
「何の年の差」
「……たとえば、10才以上離れてたら」
修司は千聖を見た。
値踏みでも、心配でも、からかいでもない目だった、何かを測っているみたいな、静かな目だった。
「相手によるんじゃない」
それだけ言って、修司は視線を手元に戻した。
千聖はカップを握ったまま、その答えの意味を測りかねた。
相手による。
それは、可能性を否定していない、けれど肯定もしていない。
修司らしい、どちらにも転ばない答え方だった。
——ずるい。
千聖は小さく息を吐いた。
聞いた自分も、大概ずるかった。
「……なんで聞くんだ、そんなこと」
修司の声が、低く、静かに落ちてきた。
千聖は一瞬だけ、修司を見た。
修司はこちらを見ていた、表情は穏やかだった。
けれどその目が、いつもより少しだけ、真剣だった。
「……なんとなく、です」
「そう」
修司はそれ以上、聞かなかった。
千聖は視線を落として、コーヒーを一口飲んだ。
甘い。
砂糖が、二つ。
お嬢ちゃん、か。
まだ、その呼び方のままだ。
それはきっと、今の正直な距離だ。
千聖にはわかっていた。
わかっていても、いつかその呼び方が変わる日を、胸の奥のどこかで、静かに待っていた。