砂糖二つの特等席   作:y@s

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第7話 お嬢ちゃんという距離

 

自覚してから、アトリエに行くのが少し怖くなった。

 

怖い、というのは正確ではないかもしれない。

行きたくないわけではない。

むしろ行きたい。行きたいから、怖い。

修司の前に立つと、今まで通りでいられる自信が、少しだけ揺らいでいた。

 

千聖はポーカーフェイスに自信がある。

感情を隠すことには慣れている。

けれど修司は、そのポーカーフェイスを余裕で見抜く人間だ。

隠したつもりのものを、さらりと一言で拾い上げる。

 

——気づかれたら、どうしよう。

 

どうしようもない。

それはわかっている。

わかっていても、考えずにいられなかった。

 

 

それでも、一週間後にはアトリエのドアをノックしていた。

 

「来たな、お嬢ちゃん」

 

修司はいつも通りだった。

振り向かない。

手を動かしながら、ただそれだけ言う。

 

千聖はいつも通り「失礼します」と言って中に入った。

何も変わっていない。

 

ソファに腰を下ろして、静かに息を吐いた。大丈夫だ。いつも通りにしていれば、いい。

 

「今日は早いな」

 

「撮影が早く終わりまして」

 

「そう」

 

修司はそれ以上聞かなかった。

千聖の事情に、必要以上に踏み込まない。

それがいつもは心地よかったのに、今日は少しだけ、寂しかった。

 

——寂しい、だなんて。

 

千聖は内心で小さく眉を寄せた。

勝手なことを思っている。

修司は何も変わっていない。

変わったのは、自分だけだ。

 

しばらくして、修司がコーヒーを持ってきた。

 

「お嬢ちゃん」

 

カップを受け取る瞬間、指先が少し震えそうになった。

千聖は気づかれないように、両手でしっかりとカップを包んだ。

 

お嬢ちゃん。

 

その呼び方が、今日は妙に胸に刺さった。

 

 

帰り道、千聖は一人でその言葉を反芻した。

 

お嬢ちゃん。

修司はいつもそう呼ぶ。

最初からそうだった。

子供扱いのからかいが混ざっていることも、わかっている。

けれど今は、その言葉の輪郭が、少し違う形で当たる。

 

修司は今年、27歳になる。千聖はまだ中等部の三年生だ。

 

15と、27

 

数字にすると、その隔たりが妙にはっきりした。

修司にとって千聖は、本当に「お嬢ちゃん」なのだ。

子供で、庇護対象で、からかってやるくらいがちょうどいい相手。

砂糖二つのコーヒーを用意して、雨の日に傘を差し掛けて、ぶかぶかのパーカーを貸す。

そういう距離感の相手。

 

——そりゃそうだ。

 

千聖は目を伏せた。

 

わかっていた、最初からわかっていた。

修司が千聖を特別扱いしているわけではない。

ただ、目の前で困っている人間を放っておけない、それだけのことだ。

 

それなのに、傾いてしまった。

 

自分の浅さが、少し恥ずかしかった。

 

 

次にアトリエに行った日も、その次の日も、修司は変わらず「お嬢ちゃん」と呼んだ。

 

千聖はその度に、胸の中で小さく何かが揺れるのを、努めて無視した。無視できている、と思っていた。

 

「お嬢ちゃん、今日なんか違うな」

 

ある日、修司がそう言った。作業の手を止めて、千聖をまっすぐ見ていた。

 

「……どこが、ですか」

 

「うまく言えないけど。何か、抑えてる顔」

 

千聖は一瞬、心臓が跳ねた。

平静を装って、「そんなことはないですよ」と返した。

修司は少しの間、千聖を見ていた。追及はしなかった。

ただ、「そう」と言って、また手を動かした。

 

その「そう」が、優しかった。

 

優しかったから、余計に胸が痛かった。

 

——この人は、気を遣ってくれている。

 

子供に対して、気を遣ってくれている。

それが修司の誠実さだと、千聖にはわかった。

わかったうえで、どうしようもなかった。

 

「……修司さんって、年下は苦手ですか」

 

気づいたら、口をついていた。

 

修司が少し間を置いた。

千聖は後悔しかけたが、取り消せなかった。

 

「苦手じゃないけど」

 

「どう思いますか、年の差」

 

「何の年の差」

 

「……たとえば、10才以上離れてたら」

 

修司は千聖を見た。

値踏みでも、心配でも、からかいでもない目だった、何かを測っているみたいな、静かな目だった。

 

「相手によるんじゃない」

 

それだけ言って、修司は視線を手元に戻した。

 

千聖はカップを握ったまま、その答えの意味を測りかねた。

 

相手による。

それは、可能性を否定していない、けれど肯定もしていない。

修司らしい、どちらにも転ばない答え方だった。

 

——ずるい。

 

千聖は小さく息を吐いた。

 

聞いた自分も、大概ずるかった。

 

「……なんで聞くんだ、そんなこと」

 

修司の声が、低く、静かに落ちてきた。

 

千聖は一瞬だけ、修司を見た。

修司はこちらを見ていた、表情は穏やかだった。

けれどその目が、いつもより少しだけ、真剣だった。

 

「……なんとなく、です」

 

「そう」

 

修司はそれ以上、聞かなかった。

 

千聖は視線を落として、コーヒーを一口飲んだ。

甘い。

砂糖が、二つ。

 

お嬢ちゃん、か。

 

まだ、その呼び方のままだ。

それはきっと、今の正直な距離だ。

千聖にはわかっていた。

 

わかっていても、いつかその呼び方が変わる日を、胸の奥のどこかで、静かに待っていた。

 

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