花音に気づかれたのは、ある昼休みのことだった。
購買のパンを片手に、二人並んで中庭のベンチに座っていた。
他愛もない話をしていた。授業のこと、先生のこと、来週の小テストのこと。
千聖はいつも通りに相槌を打って、いつも通りに笑った。
「……千聖ちゃん、今日なんか変だよ」
花音がふと、言った。
「そうかな」
「うん。なんか、遠い顔してる」
千聖は少し間を置いた。
遠い顔。
修司と同じようなことを言う。
千聖のポーカーフェイスは、どうやら親しい人間には通じないらしい。
「……気のせいじゃない?」
「気のせいじゃないと思うけどなあ」
花音はパンをひと口かじって、千聖をじっと見た。
責めるでも、詮索するでもない、ただ、見ている。
その目が、どこか修司に似ていると、千聖は思った。
急かさない目。
「……今度、いつものカフェ行かない?」
千聖は自分から言った。花音が少し目を丸くして、それからにっこりした。
「うん、行こう。放課後でいい」
いつものカフェは、放課後の光の中で静かに息をしていた。
カウンターに二人並んで座って、花音はいつものミルクティーを、千聖は今日も紅茶を頼んだ、コーヒーの香りが漂っている。
千聖はその香りをかぐたびに、少しだけ、修司のアトリエを思い出すようになっていた。
「で、何があったの?」
花音が、カップを両手で包みながら言った。
急かす口調ではなかった。
ただ、聞く気満々の目をしていた。
「……何か、あったように見える?」
「見える。千聖ちゃんが自分から誘う時って、大体何か抱えてる時だもん」
千聖は少し驚いた。花音は笑った。
「中等部からの付き合いだよ、わかるよ」
千聖はカップを持ったまま、少しの間黙った。
どこから話せばいいのか、整理がつかなかった。
雨の日のことから話すべきか、アトリエのことから話すべきか。それとも——。
「……好きな人が、できたんだけど」
結局、一番の核心から話していた。
花音の目が、ぱっと輝いた。
「え、本当に? 誰?芸能関係?」
「……違くて」
花音が首を傾けた。千聖は一度息を吸ってから、静かに続けた。
「服飾デザイナーの人。27歳の」
花音の目が、今度は別の意味で丸くなった。
「……に、27?」
「うん」
「千聖ちゃん今15だよね」
「……わかってる」
「一回り違うよ」
「わかって、るわ」
千聖は視線を落とした。
わかっている。
全部わかっている。
だからずっと、一人で抱えていた。
花音に言ったところで、どうにかなるわけではない。
それでも、誰かに言葉にして渡さないと、胸の中がいっぱいになりそうだった。
「……出会ったのは、雨の日でね」
千聖はぽつぽつと話し始めた。
傘のこと。
アトリエのこと。
砂糖二つのコーヒーのこと。
ぶかぶかのパーカーのこと。
「よく頑張ったな」の一言のこと。
花音は途中で口を挟まなかった。
ただ、カップを傾けながら、静かに聞いていた。
全部話し終えた時、千聖は少し息が軽くなっていた。
「……なんか」
花音が、やわらかい声で言った。
「すごく、千聖ちゃんのこと見てる人なんだね」
「……そうなのよね」
「好きになるの、わかるよ」
その一言が、思いのほか胸に沁みた。千聖は目を伏せた。
「でも、向こうにとって私って『お嬢ちゃん』なのよね。子供で、からかう相手で、砂糖二つのコーヒーを用意してあげる相手」
「それって、大事にされてるってことじゃないの」
「……大事にされることと、好かれることは、違うと思う」
花音は少し黙った。
それから、困ったような、でも温かい顔で言った。
「千聖ちゃんって、たまにすごく大人だよね」
「……子供だから、余計にそう思うんだと思う」
「子供じゃないと思うけどなあ、わたしは」
千聖はその言葉を、うまく受け取れなかった。
修司も、似たようなことを言う時がある。
けれど修司はやっぱり「お嬢ちゃん」と呼ぶ。
言葉と、呼び方が、まだ一致しない。
「……どうしたらいいのかしら」
千聖は珍しく、答えのない問いを口にした。
花音はしばらく考えてから、言った。
「もう少し、そのままでいてみたら」
「そのまま?」
「うん。会いに行って、コーヒー飲んで、からかわれて。それだけでも、今は十分な気がする」
千聖は花音を見た。花音は照れたように笑った。
「わたし、恋愛とか全然わかんないけど。でも、千聖ちゃんがその人の話をする時、すごくいい顔してるよ」
「……いい顔?」
「うん。ポーカーフェイスが、ちょっとだけ崩れてる顔」
千聖は思わず、手で自分の頬に触れた。花音がくすくす笑った。
「ほら、また」
「……意地悪ね」
「千聖ちゃんもそれ、その人に言ってそう」
図星だった。千聖は小さく目を伏せて、紅茶を一口飲んだ。
温かくて、少しだけ甘かった。
砂糖二つのコーヒーとは違う甘さなのに、なぜかどこかが似ていると、千聖は思った。
大事にされている、という温度が。
「……花音」
「なに?」
「話して、よかった」
花音は何も言わずに、にっこりと笑った。
窓の外に、夕方の光が傾いていた。
千聖はそれを見ながら、胸の中がずいぶん軽くなっていることに、静かに気づいた。