花音に話してから、千聖はまたアトリエに通い始めた。
そのままでいてみたら、という花音の言葉が、背中をそっと押していた。
会いに行って、コーヒーを飲んで、からかわれる。
それだけでいい。
それだけで、今は十分だと思うことにした。
思うことにした、のに。
アトリエのドアをノックするたびに、胸の奥が少しだけ跳ねた。
その日、修司はいつもより機嫌がよさそうだった。
仕事机の前で鼻歌でも歌いそうな気配がして、千聖はソファに座りながらそれを横目に見ていた。
「……いいことがありましたか?」
「展示の審査、通った」
「展示、というと——あのドレスの」
「そう」
修司は振り向いて、珍しくはっきりと笑った。
いつもの余裕ある笑い方ではなくて、少し子供みたいな、素直な笑い方だった。
千聖は一瞬、息を忘れた。
「……おめでとうございます」
「ありがと。お嬢ちゃんが最初に見た作品だからな、報告しとこうと思って」
さらりと言った。
千聖は胸の中で何かが、じわりと滲むのを感じた。
報告しようと思った。
その一言が、思いのほか重かった。
修司はきっと、誰にでも報告するわけではない。
千聖はそれを、受け取り方に困りながら
ただ「よかった、ですね」と返した。
「うん。まあ、これからが大変なんだけどな」
「どんなふうに大変なんですか」
修司は少し意外そうな顔をして、それから静かに話し始めた。
展示までのスケジュール、縫製の細かい調整、照明との兼ね合いで変わる布地の色味。
千聖は相槌を打ちながら、その話をひとつひとつ聞いた。
修司が自分の仕事の話を、こんなに丁寧にしてくれるのは、初めてだった。
——なんで話してくれるんだろう。
聞きながら、千聖はそれが少し不思議だった。
修司は饒舌な人間ではない。
必要なことだけ言って、あとは黙っている。
それなのに今日は、千聖が聞くたびに言葉が続く。
「……千聖」
不意に、修司が言った。
千聖は一瞬、固まった。
いつもと、違った。「お嬢ちゃん」ではなかった。
修司は自分が何と言ったか気づいていないのか、普通の顔で続けた。
「展示、来るか」
「……え」
「招待券、一枚余ってる。来たいなら」
千聖はしばらく、返事ができなかった。
修司はこちらを見ていた。
特別な意味を込めているわけでもなさそうだった。
ただ、余っているから、来たいなら。
それだけのことかもしれない。
それだけのことかもしれないのに、胸の中が急に騒がしくなった。
「……行きます」
「そう」
修司はそれだけ言って、また仕事に戻った。
千聖はカップを両手で包んで、視線を落とした。
『千聖』
さっきの呼び方が、耳の奥に残っていた。
修司は気づいていないのかもしれない。
うっかり、名前を呼んだだけかもしれない。
——でも。
でも、名前を知っていた。ちゃんと、知っていた。
帰り道、千聖はしばらく歩きながら、今日のことを整理しようとした。
展示の報告をしてくれたこと。
仕事の話を丁寧にしてくれたこと。
招待券のこと。
名前を、呼んだこと。
ひとつひとつは、たいしたことではないかもしれない。
けれど全部並べると、何かの輪郭が、うっすらと浮かんでくる気がした。
——修司さんにとって、私は特別じゃない。
千聖はそう思おうとした。
思おうとして、うまくいかなかった。
特別じゃないなら、報告しない。
特別じゃないなら、招待券を渡さない。
特別じゃないなら——名前を、呼ばない。
——でも。
でも、それは千聖の都合のいい解釈かもしれない。
修司は優しい人だ、目の前の人間に、自然と誠実になれる人だ。
千聖が特別なのではなくて、修司がそういう人なのかもしれない。
千聖は目を伏せた。
どちらでもよかった。
どちらであっても、千聖が修司のことを好きなことは、変わらない。
変わらないけれど。
——千聖、って呼んでくれた。
夜道の中で、千聖は一人、そっと息を吐いた。
それだけで、今夜は十分だと思った。