砂糖二つの特等席   作:y@s

9 / 57
第9話 特別という言葉を使わないで

 

花音に話してから千聖はまたアトリエに通い始めた。

 

そのままでいてみたら、という花音の言葉が背中をそっと押していた。

会いに行って、コーヒーを飲んで、からかわれる。

それだけでいい。

それだけで今は十分だと思うことにした。

 

思うことにしたのに。

 

アトリエのドアをノックするたびに胸の奥が少しだけ跳ねた。

 

 

その日、修司はいつもより機嫌がよさそうだった。

 

仕事机の前で鼻歌でも歌いそうな気配がして千聖はソファに座りながらそれを横目に見ていた。

 

「……いいことがありましたか?」

 

「展示の審査が通った」

 

「展示、というと——あのドレスの」

 

「そう」

 

修司は振り向いて珍しくはっきりと笑った。

いつもの余裕ある笑い方ではなく少し子供みたいな素直な笑い方だった。

千聖は一瞬、息を忘れた。

 

「……おめでとうございます」

 

「ありがとう。お嬢ちゃんが最初に見た作品だからな報告しとこうと思って」

 

さらりと言った。

千聖は胸の中で何かがじわりと滲むのを感じた。

 

報告しようと思った。

その一言が思いのほか重かった。

修司はきっと誰にでも報告するわけではない。

千聖はそれを受け取り方に困りながら

ただ「よかったですね」と返した。

 

「まあ、これからが大変なんだけどな」

 

「どんなふうに大変なんですか」

 

修司は少し意外そうな顔をして、それから静かに話し始めた。

展示までのスケジュール、縫製の細かい調整、照明との兼ね合いで変わる布地の色味。

千聖は相槌を打ちながらその話をひとつひとつ聞いた。

 

修司が自分の仕事の話をこんなに丁寧にしてくれるのは初めてだった。

 

——なんで話してくれるんだろう。

 

聞きながら千聖はそれが少し不思議だった。

修司は饒舌な人ではない。

必要なことだけ言ってあとは黙っている。

それなのに今日は千聖が聞くたびに言葉が続く。

 

「……千聖」

 

不意に修司が言った。

 

千聖は一瞬固まった。

 

いつもと違った。「お嬢ちゃん」ではなかった。

修司は自分が何と言ったか気づいていないのか普通の顔で続けた。

 

「展示、来るか」

 

「……え」

 

「招待券が一枚余ってる。来たいなら」

 

千聖はしばらく返事ができなかった。

修司はこちらを見ていた。

特別な意味を込めているわけでもなさそうだった。

ただ、余っているから来たいなら。

それだけのことかもしれない。

 

それだけのことかもしれないのに胸の中が急に騒がしくなった。

 

「……行きます」

 

「そう」

 

修司はそれだけ言ってまた仕事に戻った。

千聖はカップを両手で包んで視線を落とした。

 

『千聖』

 

さっきの呼び方が耳の奥に残っていた。

修司は気づいていないのかもしれない。

うっかり名前を呼んだだけかもしれない。

 

——でも。

 

でも、名前を知っていた。ちゃんと知っていた。

 

 

帰り道、千聖はしばらく歩きながら今日のことを整理しようとした。

 

展示の報告をしてくれたこと。

仕事の話を丁寧にしてくれたこと。

招待券のこと。

名前を呼んだこと。

 

ひとつひとつは、たいしたことではないかもしれない。

けれど全部並べると何かの輪郭がうっすらと浮かんでくる気がした。

 

——修司さんにとって私は特別じゃない。

 

千聖はそう思おうとした。

思おうとしてうまくいかなかった。

 

特別じゃないなら報告しない。

特別じゃないなら招待券を渡さない。

特別じゃないなら——名前を呼ばない。

 

——でも。

 

でも、それは千聖の都合のいい解釈かもしれない。

修司は優しい人だ目の前の人に自然と誠実になれる人だ。

千聖が特別なのではなくて修司がそういう人なのかもしれない。

 

千聖は目を伏せた。

 

どちらでもよかった。

どちらであっても千聖が修司のことを好きなことは、変わらない。

 

変わらないけれど。

 

——千聖って呼んでくれた。

 

夜道の中で千聖は一人そっと息を吐いた。

 

それだけで今夜は十分だと思った。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。