-キリエ-憐れみの賛歌   作:yasuteru

72 / 90
第一章

 

 

 

― 忘却 ―

 

 

 

静寂に包まれた森。

 

木々の隙間から差し込む月明かりだけが、

 

夜の道を淡く照らしていた。

 

その中を、一人の男がゆっくりと歩く。

 

黒いローブを深く被り、顔を隠した旅人。

 

レイカだった。

 

 

 

目的地はない。

 

行き先もない。

 

ただ、止まれば何かを考えてしまうから。

 

足だけが前へ進み続けていた。

 

黒いローブの袖口から、黒炎が静かに揺らめく。

 

まるで生き物のように。

 

押さえ込もうとしても、その炎は消えない。

 

レイカは虚ろな瞳で、揺れる黒炎を見つめた。

 

「……疲れた。」

 

静かな声が夜に溶ける。

 

「ただ死ぬくらいなら。」

 

「世の中の悪を消し去る。」

 

「全てを灰にする。」

 

「……もう、それでいい。」

 

その言葉には怒りも憎しみもなかった。

 

ただ、心が壊れかけた人間の諦めだけがあった。

 

自暴自棄。

 

まさに、その一言だった。

 

大切な人を守るために戦い続けた。

 

仲間のために命を懸けた。

 

その果てに残ったのは、誰もいない未来。

 

ユリは人間になった。

 

その代わりに、自分との記憶を失った。

 

あの笑顔も。

 

あの時間も。

 

自分だけのものだった。

 

「あいつらのためなら……。」

 

レイカはゆっくりと拳を握る。

 

 

 

「俺は、化け物になる。」

 

 

 

その瞬間。

 

森を吹き抜ける風が、黒いローブを大きく揺らした。

 

 

 

翌朝。

 

一睡もできないまま歩き続けたレイカは、

 

森を抜け、

 

小さな村を見下ろす丘へと辿り着いていた。

 

朝日を浴びる穏やかな村。

 

子どもたちの笑い声。

 

煙突から立ち上る白い煙。

 

平和な景色だった。

 

レイカはその光景を見つめる。

 

そして静かに目を閉じた。

 

「行けないな……。」

 

今の自分が近づけば、何が起きるか分からない。

 

黒炎は以前よりも不安定だった。

 

もし暴走すれば——。

 

レイカは村へ背を向ける。

 

その時だった。

 

 

「うわあああああぁっ!!」

 

 

悲鳴。

 

レイカの足が止まる。

 

身体が勝手に村へ向こうとする。

 

『……行くのか?』

 

頭の奥から声が響いた。

 

「!」

 

炎の神。

 

炎の加護と共に宿る、もう一つの意思。

 

『行けよ。』

 

『俺が暴れてやる。』

 

『全部燃やして、灰にしてやろう。』

 

「……うるさい。」

 

レイカは歯を食いしばる。

 

「俺には……関係ない。」

 

『そんなことを言いながら。』

 

『身体はもう、村へ向かってるじゃねぇか。』

 

「……っ!」

 

その瞬間。

 

全身から黒炎が噴き上がった。

 

「がぁぁぁぁっ!!」

 

焼かれる。

 

違う。

 

皮膚を、一枚一枚剥がされていくような激痛。

 

骨の奥まで熱が突き刺さる。

 

「やめ……ろ……!」

 

『お前が望んだことだ。』

 

『全てを灰にする。』

 

『俺は、それを叶えるだけ。』

 

『もう疲れただろ?』

 

『俺に任せろ。』

 

『全部燃やしてやる。』

 

『……お前自身もな。』

 

痛みがさらに増す。

 

息ができない。

 

膝をつく。

 

村は目の前なのに、一歩も動けない。

 

「はぁ……。」

 

「はぁ……。」

 

視界が霞む。

 

足が勝手に前へ出る。

 

刀を握っている感覚も、指先の感覚も消えていく。

 

「……もう。」

 

「好きにしろ……。」

 

「……疲れた。」

 

本来のレイカなら、決して口にしない言葉だった。

 

だが。

 

大切な人を失った。

 

大切な仲間と別れた。

 

誰にも何も告げず、一人旅立った。

 

心は、とっくに限界を迎えていた。

 

考えることさえ苦しかった。

 

抵抗することにも疲れてしまった。

 

レイカの意識は、ゆっくりと深い闇へ沈んでいく。

 

 

 

『……やっと自由に動ける。』

 

『研究だか何だか知らんが。』

 

『よくも、この俺を閉じ込めてくれた。』

 

『ここからは好きにさせてもらう。』

 

黒炎が静かに揺れる。

 

『人間は醜い。』

 

『欲に溺れ。』

 

『罪を重ね。』

 

『争いを繰り返す。』

 

『ならば裁きを下そう。』

 

『俺が全て灰にする。』

 

『……多少の犠牲など、必要経費だ。』

 

その言葉と共に。

 

レイカの身体がゆっくりと動き出した。

 

もう、自分の意思ではない。

 

炎の神が、その身体を支配していた。

 

 

一歩。

 

また一歩。

 

村へ近づいていく。

 

村の入口。

 

見張りの盗賊たちがレイカを取り囲んだ。

 

「おい、てめぇ。」

 

「何しに来た。」

 

「殺されてぇのか?」

 

返事はない。

 

盗賊は苛立ち、レイカの胸ぐらを乱暴に掴み上げる。

 

「聞いてんのか!!」

 

 

 

その瞬間。

 

レイカの口元が、ゆっくりと吊り上がった。

 

その笑みは、レイカのものではなかった。

 

 

 

『——燃え尽きよ。』

 

 

 

ゴオオオオオオオォォォッ!!

 

 

 

黒炎が天へと噴き上がる。

 

盗賊たちは悲鳴を上げる暇もなく、一瞬で灰となった。

 

炎は村全体を包み込む。

 

隠れていた村人たちが、慌てて飛び出してくる。

 

そこへ、盗賊の残党が襲い掛かった。

 

だが——。

 

黒炎の方が速かった。

 

盗賊たちは次々と焼き尽くされていく。

 

『燃えろ。』

 

『灰となれ。』

 

黒炎だけが、静かに揺れていた。

 

レイカはその光景を、空っぽになった瞳で見つめ続ける。

 

そこに感情はない。

 

怒りも。

 

悲しみも。

 

優しさも。

 

もう、何も残ってはいなかった。

 

その場に立っていたのは、レイカの姿をした”何か”だった。

 

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。