― 忘却 ―
静寂に包まれた森。
木々の隙間から差し込む月明かりだけが、
夜の道を淡く照らしていた。
その中を、一人の男がゆっくりと歩く。
黒いローブを深く被り、顔を隠した旅人。
レイカだった。
目的地はない。
行き先もない。
ただ、止まれば何かを考えてしまうから。
足だけが前へ進み続けていた。
黒いローブの袖口から、黒炎が静かに揺らめく。
まるで生き物のように。
押さえ込もうとしても、その炎は消えない。
レイカは虚ろな瞳で、揺れる黒炎を見つめた。
「……疲れた。」
静かな声が夜に溶ける。
「ただ死ぬくらいなら。」
「世の中の悪を消し去る。」
「全てを灰にする。」
「……もう、それでいい。」
その言葉には怒りも憎しみもなかった。
ただ、心が壊れかけた人間の諦めだけがあった。
自暴自棄。
まさに、その一言だった。
大切な人を守るために戦い続けた。
仲間のために命を懸けた。
その果てに残ったのは、誰もいない未来。
ユリは人間になった。
その代わりに、自分との記憶を失った。
あの笑顔も。
あの時間も。
自分だけのものだった。
「あいつらのためなら……。」
レイカはゆっくりと拳を握る。
「俺は、化け物になる。」
その瞬間。
森を吹き抜ける風が、黒いローブを大きく揺らした。
翌朝。
一睡もできないまま歩き続けたレイカは、
森を抜け、
小さな村を見下ろす丘へと辿り着いていた。
朝日を浴びる穏やかな村。
子どもたちの笑い声。
煙突から立ち上る白い煙。
平和な景色だった。
レイカはその光景を見つめる。
そして静かに目を閉じた。
「行けないな……。」
今の自分が近づけば、何が起きるか分からない。
黒炎は以前よりも不安定だった。
もし暴走すれば——。
レイカは村へ背を向ける。
その時だった。
「うわあああああぁっ!!」
悲鳴。
レイカの足が止まる。
身体が勝手に村へ向こうとする。
『……行くのか?』
頭の奥から声が響いた。
「!」
炎の神。
炎の加護と共に宿る、もう一つの意思。
『行けよ。』
『俺が暴れてやる。』
『全部燃やして、灰にしてやろう。』
「……うるさい。」
レイカは歯を食いしばる。
「俺には……関係ない。」
『そんなことを言いながら。』
『身体はもう、村へ向かってるじゃねぇか。』
「……っ!」
その瞬間。
全身から黒炎が噴き上がった。
「がぁぁぁぁっ!!」
焼かれる。
違う。
皮膚を、一枚一枚剥がされていくような激痛。
骨の奥まで熱が突き刺さる。
「やめ……ろ……!」
『お前が望んだことだ。』
『全てを灰にする。』
『俺は、それを叶えるだけ。』
『もう疲れただろ?』
『俺に任せろ。』
『全部燃やしてやる。』
『……お前自身もな。』
痛みがさらに増す。
息ができない。
膝をつく。
村は目の前なのに、一歩も動けない。
「はぁ……。」
「はぁ……。」
視界が霞む。
足が勝手に前へ出る。
刀を握っている感覚も、指先の感覚も消えていく。
「……もう。」
「好きにしろ……。」
「……疲れた。」
本来のレイカなら、決して口にしない言葉だった。
だが。
大切な人を失った。
大切な仲間と別れた。
誰にも何も告げず、一人旅立った。
心は、とっくに限界を迎えていた。
考えることさえ苦しかった。
抵抗することにも疲れてしまった。
レイカの意識は、ゆっくりと深い闇へ沈んでいく。
『……やっと自由に動ける。』
『研究だか何だか知らんが。』
『よくも、この俺を閉じ込めてくれた。』
『ここからは好きにさせてもらう。』
黒炎が静かに揺れる。
『人間は醜い。』
『欲に溺れ。』
『罪を重ね。』
『争いを繰り返す。』
『ならば裁きを下そう。』
『俺が全て灰にする。』
『……多少の犠牲など、必要経費だ。』
その言葉と共に。
レイカの身体がゆっくりと動き出した。
もう、自分の意思ではない。
炎の神が、その身体を支配していた。
一歩。
また一歩。
村へ近づいていく。
村の入口。
見張りの盗賊たちがレイカを取り囲んだ。
「おい、てめぇ。」
「何しに来た。」
「殺されてぇのか?」
返事はない。
盗賊は苛立ち、レイカの胸ぐらを乱暴に掴み上げる。
「聞いてんのか!!」
その瞬間。
レイカの口元が、ゆっくりと吊り上がった。
その笑みは、レイカのものではなかった。
『——燃え尽きよ。』
ゴオオオオオオオォォォッ!!
黒炎が天へと噴き上がる。
盗賊たちは悲鳴を上げる暇もなく、一瞬で灰となった。
炎は村全体を包み込む。
隠れていた村人たちが、慌てて飛び出してくる。
そこへ、盗賊の残党が襲い掛かった。
だが——。
黒炎の方が速かった。
盗賊たちは次々と焼き尽くされていく。
『燃えろ。』
『灰となれ。』
黒炎だけが、静かに揺れていた。
レイカはその光景を、空っぽになった瞳で見つめ続ける。
そこに感情はない。
怒りも。
悲しみも。
優しさも。
もう、何も残ってはいなかった。
その場に立っていたのは、レイカの姿をした”何か”だった。