退院の日程が決まった。
その知らせを聞いた時、マシロは思わず拳を握った。
「よし」
小さく呟く。ようやく戻れる。
トレーニングに。
競技場に。
ポケスロンに。
停滞していた時間がやっと動き出すのだ。
「ただし」
目の前のヤマザキ医師が、いつものように眼鏡を押し上げる。嫌な予感がした。
「何ですか」
「分かっていますよ?」
「……何をでしょう」
「あなたが今、何を考えていたかです」
マシロは視線を逸らした。
医者という生き物はどうしてこうも人の心を読むのだろうか。いや、恐らく読んでいるわけではない。単純に分かりやすいだけだ。
ヤマザキは小さく息をはいた。
「トレーニング。それも強度の高いもの」
「……はい」
か細い声しか出なかった。
図星である。
「いや、その……軽いものなら」
「駄目です。あなたの軽いは私たちから見ると軽くはありません。今のウインディの騎乗程度が許容できる範囲で、限界ギリギリです」
即答だった。
ならばとマシロも返す。
「でも歩けます」
「歩けますね」
「ウインディにも乗れます」
「乗れますね」
「なら少しくらい」
「少しくらい、が一番危ないんです」
ヤマザキ医師はカルテを確認しながら続ける。
「ヒガさん。あなたは怪我をしてから、ずっと焦っています」
「……」
「身体は回復している。でも、心の方が先に走っている」
痛いところを突かれた。マシロは黙る。黙るしかでしか出来ない。正論を覆すだけのナニカを持ち合わせてはいない。
「アスリートにとって一番怖いのは、怪我そのものではありません」
「……」
「焦って、治りかけたものを壊すことです」
分かっている。
分かっているのだ。
頭では。
でも。
ポケスロン選手である自分が、ポケモンと一緒に走れない。飛べない。そして波に乗れない。
その事実は思った以上に重かった。
マシロにとってポケスロンは仕事である。
生活のためでもある。
しかし、それだけではない。
幼い頃からポケモンと走ってきた。
競争して。
失敗して。
笑って。
勝って。
負けて。
その時間こそが、ヒガ・マシロという人間を作ってきた。だから。走れない自分を、自分自身が認められなかった。
「……退院後もリハビリは続きます」
「はい」
「焦らないこと」
「はい」
「無茶をしないこと」
「はい」
「聞いていますか?」
「聞いています」
「本当に?」
「……善処したいと思います」
「そこは『します』と言ってください」
ヤマザキ医師は呆れたように笑った。
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退院までの数日間。マシロの日課は変わらなかった。
朝起きて、濡れたタオルで顔を拭く。
朝食を食べて、軽いストレッチ。そうしてからの散歩だ。
そう散歩。ウインディの背に乗っての散歩。
病院の中庭。池の周囲に作られた遊歩道。そこをゆっくりと歩かせる。怪我をした後初めてウインディの背に乗って遊歩道を散歩した時には、やっと背中に乗れたという、高揚感。しかし今やその高揚感は薄れ、代わりに焦りの感情が胸中を占めていた。
以前なら何とも思わなかった距離。
今はその一歩一歩を意識する。
足を置く。
体重を移す。
バランスを取る。
単純な動作なのに、以前とは全く違う。違和感がある。しかし矯正していかなければいけない。そしてそれが出来なければ波にも乗れないだろう。まして怪我の原因となった空を飛ぶことなど出来はしないだろう。
そういった弱い不安と確信があった。
「難しいなぁ」
呟く。歩いていたウインディが足を止めてマシロへ視線を向けていた。
「何?」
ウインディはじっとマシロを見る。
少しだけ不満そうな顔。腰につけているボールも揺れていた。ピジョットとカメックスの入っているボールだ。ボールを指先でなぞり、ウインディの黒目がちな瞳を覗き込む。
「……怒ってる?」
ウインディは短く鳴く。お腹に響くような低音。
恐らく肯定。
「なんで」
さらに鳴く。
「いや、分からないよ」
マシロが笑う。
腰のモンスターボールを手に取る。
二つのボールから赤色の粒子が飛び出し、形を成した。
豊かな羽毛と頭から流れる優美な羽。
どっしりとした体形に堅固な甲羅。
それぞれ、空の相棒であるピジョットと、水の相棒であるカメックスだ。
マシロはウインディの背中から降りて、三匹の相棒の表情を観察する。
ポケモンの感情は不思議だ。
もちろん表情や鳴き声、仕草からある程度は読み取れる。
長く一緒にいればなおさらだ。
でも、完全には分からない。
こちらの言葉を彼らは理解している、というのが定説ではある。しかし彼らの言葉を人間は把握することは出来ない。何とも歯がゆいものだ。
だからこそ、向き合う必要がある。
「……私、焦ってるかな」
ウインディは答えない。
ただ、ゆっくりと首を振った。
ピジョットは短く声を上げ、カメックスはただ黙ってマシロの顔を見てくる。
昔からそうだ。
この子達は、言葉ではなく行動で答える。人間に伝わる言語がないのだから当たり前だが。
走れないなら待つ。
歩けるなら歩く。
乗らないなら隣にいる。
まるで当然のことのように。
その姿を見て、ふと思う。第一回のエッセイで書いたこと。
人間とはポケモンにとって枷であり、蓋である。
あの時は本気でそう思っていた。今でもそうだ。
ポケモンはもっと強い。
もっと速い。
もっと自由だ。
人間は彼らほど早くはないし、丈夫ではない。強くもないのだ。
だから人間は、彼らの可能性を制限してしまう。全力で飛ぶことを許さず、全力で泳ぐこともさせず、全力で走ることを否定する。人間という弱い生き物を気遣う事を強制する。
ポケスロンという競技において、それは不変の真理のように思る。
そう考えていた。
でも。
今、目の前にいる彼らは。
私がいるからこそ、この場所にいる。
私がいるからこそ、海を渡り、大地を駆け、空を飛ぶ。
私がいるからこそ、見ることのできる景色がある。
それは。
それは、枷なのだろうか。
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「なんか深刻な顔してるねえ」
声に振り向くと、カレンが立っていた。
「いつからいたの?」
「五分くらい前から」
「声かけてよ」
「邪魔してはいけない雰囲気だったからねえ」
カレンはベンチに座る。そして手招き。
隣にマシロも腰かけた。
「ほら」
手渡された炭酸飲料は、とても冷たかった。
「で、どうなの?」
「なにが?」
「身体」
「順調です」
「嘘ですね」
即答された。
「……」
「ねえ、マシロ」
カレンは少し真面目な顔になる。
「マシロってさ、昔からそうだよねえ」
「何が」
「出来ないことを見る」
「……」
「出来るようになったことを見ない」
言われて、黙る。
確かにそうかもしれない。
昔からそうだ。
出来たことより、出来なかったことが気になる。
勝った試合より、失敗した一瞬が記憶に残る。
アスリートとしては悪い性格ではない。反省することは成長につながる。一つ一つの積み重ね、改善の歴史が強さだ。その改善作業にこそ楽しみを見出していた部分もあった。
でも。
「今のあなたは、それが少し悪い方向に向いているって感じるよ」
カレンは続ける。
「昔なら『もっと速く』だったよ」
単純だったよねえと言ってカレンは笑っている。
確かに。
走ること飛ぶこと波に乗ること。すべてが楽しくてもっともっとと、先を望んでいた。
「……」
「今は『早く戻らなきゃ』ってなってる」
図星だった。
「戻るんじゃないよ」
「え?」
「進むんだよ」
カレンはウインディを見る。ピジョットをカメックスを。
「ポケモンも、人間も、同じ場所には戻れない。同じ場所に進めない」
「……」
「時間は進んでいるからねえ」
マシロは黙って池を見る。水面が揺れている。
同じ池。
同じ景色。
水面を行く水鳥達、起きる波。同じようですべて一瞬前と違う。そして一瞬後も違うだろう。
「ケンゴさんもそうだよ」
カレンが突然言った。
「兄さん?」
「最近、試合を見たかな?」
「動画で少し」
「どうだった?」
マシロは少し考える。
「……楽しそうだった」
「ですよね」
カレンは笑う。
「勝つために変わったんじゃありません」
「?」
「楽しむために変わったんだと思います」
兄の姿を思い出す。以前のケンゴ。
思い通りにいかずに苦しそうだった。勝つための知識に翻弄されて、雁字搦めになっていた。
今のケンゴ。
勝敗よりも。ポケモン達と戦うことそのものを楽しんでいる。
「兄さんは先に答えに辿り着いたのかもね。何があったのかは分からないけど」
カレンはけらけらと笑った。
マシロが呟く。
「何の答え?」
「そりゃ……私には分からないよ」
「だよね。でもそっか。私も考えないといけないなあ」
炭酸飲料の口を開けて、一口飲む。
喉を刺激する炭酸に、胸のつかえが解けて流れ始めたのを感じた。
「ところで、エッセイって」
「当面です」
「まだ、最後までいってないんだけど……」
退院後も暫くは、執筆業を続ける事になりそうだった。
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その日の夜。
マシロはベッドの上で携帯端末を眺めていた。
ニュース。
ポケモンリーグ。
ポケスロン。
様々な記事が流れていく。
その中に、自分の過去の記事もあった。プロ選手として紹介されたもの。
大会で優勝した時の記事。
記録を更新した時の記事。
そこに書かれている言葉。
『最速』『天才』『期待の星』
美辞麗句が並んでいた。
自分を称賛するそんな言葉に少しだけ、いや少しではない違和感があった。自分はそんなものだっただろうか。
速かった。
強かった。
でも、それだけだっただろうか。
違う。隣にはいつもポケモンがいた。
競技場で背中を預けた。
失敗した時には励まされた。
勝った時には一緒に喜んだ。
強さは、自分一人のものではなかった。
それはきっと彼ら、ポケモン達も同じだろうと。私達がそうだったのだ。
マシロは携帯端末を置く。
そして、机の上に置いてあったノートを開いた。
いつも練習記録を書くノート。
パラパラと捲れば積み上げた練習と記録が見える。そしてこれは一人で重ねたものじゃない。
サイドボードに並ぶモンスターボール。
この記録はポケモン達との積み重ねの記録だ。
少し考えて。ノートを閉じた。
カレンから借りている執筆用のノートパソコンを開いた。
『強さって、なんでしょう』
そこから先は、まだ決まっていない。
でも。
書かなければいけない気がした。これはポケスロン選手としてではなく。一人の人間として。
そして。ポケモンと共に歩いてきた者として。
伝えたいことがある。
マシロは静かにキーボードをたたき始めた。