朝は、驚くほど静かだった。
まだ夜の名残を残した空は薄い藍色をしていて、病室へ差し込む光もどこか遠慮がちだ。
マシロは目を覚ますと、しばらく天井を眺めていた。もう何度見上げただろう。
真っ白な天井。
点滴を吊るすフック。
エアコンの吹き出し口。
この部屋で意識を取り戻した日のことを思い出す。
何も考えられなかった。
身体は痛くて。
悔しくて。
情けなくて。
ただ天井だけを見ていた。
あれから、どれくらい経ったのだろう。
病室に差し込む朝日は、あの日と何も変わらない。変わったのは、自分だった。
「……よし」
布団をめくり、ゆっくりと身体を起こす。
右腕を回す。
肩。腰。脚。
一つひとつ動きを確かめる。もう癖になっていた。怪我をしてからというもの、朝一番に自分の身体へ問いかける。今日はどこまで動ける?痛みはある?違和感は?身体は正直だ。調子が悪ければ、必ずどこか教えてくれる。幸い今日は悪くない。
ベッドから立ち上がり、カーテンを開ける。
窓の外には、見慣れた中庭があった。
池の周りを囲む遊歩道。白鳥が一羽、水面をゆっくり滑っている。
あの遊歩道を、何周歩いただろう。
最初はただ乗れたことが嬉しかった。
それだけで胸がいっぱいだった。けれど数日もすると、焦りが顔を出した。
もっと走りたい。
もっと速く。もっと――。
その度に、ヤマザキ医師やカレンに止められた。いや。止められたというより、気付かされたのだ。
戻るのではない。
進むのだと。
窓ガラスに映る自分へ向かって、小さく笑う。
「今日は退院ですよ」
誰へ言うでもなく呟いた。
その時。コンコン、と控えめなノックが聞こえた。
「起きてる?」
「どうぞ」
扉が開き、カレンがひょいと顔を覗かせる。片手には紙袋。もう片方には缶コーヒー。
見慣れた親友の顔に思わず笑顔がこぼれる。
「おはよう」
「おっはよう。早いね」
「嬉しくて」
「子供じゃないんだから」
「子供みたいなものだよ」
そう言ってマシロは笑った。
「退院の日って、みんな浮かれてるねぇ」
「私は浮かれてません」
「そう?」
「そうです」
「いや、浮かれてるでしょ」
図星だった。頬が自然と緩んでいる。隠そうとしても隠せない。
隠すものでもないのだが。
カレンは手にもっていた紙袋を差し出した。
「はい」
「何これ」
「退院祝い」
中を見る。サンドイッチだった。多分彼女の実家で作っているタマゴサンド。
「先生には内緒ね」
「食べたら、怒られない?」
「マシロは今日まで患者だから、食べたら怒られるかも」
「じゃあ後で食べる」
「賢い」
二人で笑った。
こんな何気ないやり取りも、今日で病院では最後になる。少しだけ寂しい。
そんなことを思っていると、カレンが荷物へ目を向けた。
「まとめ終わった?」
「うん」
病院生活は長かったはずなのに、荷物は驚くほど少ない。
着替え。洗面用具。数冊の本。
そしてノート。
サイドボードには六つのモンスターボール。
マシロは一つずつ手に取る。
ウインディ。ピジョット。カメックス。
ポケスロンの相棒達。
腰へ取り付けるたび、不思議と心が落ち着いていく。
そして残りの三つも。
バトルをしていた頃。フルバトルでの相棒達。ポケスロン向きの子達ではないが、今でも大事な相棒達だ。
ベルトに感じる六つの重み。それは、日常の重みだ。
もう何年も感じ続けてきた感覚。
彼らが隣にいる。
それだけで前を向ける。
「準備できた?」
「うん」
「じゃあ最後の診察だね」
病室を出る。廊下を歩く。この廊下も何度歩いただろう。
リハビリへ向かう時。検査へ向かう時。夜眠れなくて歩いた時。
一つひとつが思い出になっていた。
診察室の扉をノックする。
「失礼します」
「どうぞ」
ヤマザキ医師はいつものようにレントゲン写真へ目を通していた。顔を上げる。
「おはようございます」
「おはようございます」
「いよいよですね」
「はい」
関節の可動域の確認。
患部の触診。
一通り終えると、ヤマザキはカルテを閉じた。
「問題ありません」
その一言だけで十分だった。胸の奥がじんわり熱くなる。
「ありがとうございます」
「ただし」
来た。
マシロは思わず姿勢を正した。
ヤマザキは眼鏡を押し上げる。
「分かっていますね?」
「はい」
「言ってみましょう」
マシロはヤマザキに言われていたことを一つずつ思い出し、噛み締めるように言葉にしていく。
「焦りません」
「はい」
「無茶をしません」
「はい」
「身体の声を聞きます」
「はい」
「痛みをごまかしません」
「はい」
「調子が良い日ほど慎重に」
「はい」
ヤマザキはカルテをファイルに閉じると、とんとんと音を鳴らして軽く整理する。
「競技人生は長い」
その声色は、いつもの医師ではなかった。一人の年長者として。一人の人生の先輩として。自分の経験を少しでも若年者に届けたいという思いが込められている。
「一年後に勝つために今日を休むことは、決して遠回りではありません」
マシロは黙って聞く。
「怪我を経験した選手は、弱くなる人もいます」
少し間を置いて。
「ですが」
ヤマザキは笑った。
「強くなる人もいます」
その言葉を、マシロは胸の奥へゆっくりとしまい込んだ。
「……はい」
「期待しています」
診察室を出る。扉が静かに閉まった。カレンが横を見る。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「ちょっとだけ?」
「……ちょっとだけ」
鼻をすすりながら笑う。
病院という場所は、不思議だ。
早く出たいと思っていた。
でも今は。
去るのが少しだけ惜しい。
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早朝。
マシロが訪れたのは、所属チームが管理するポケスロン練習場だった。
一周するだけでも数キロある広大な敷地。
草原を駆けるランコース。湖にあるスイムコース。起伏ある地形を利用したエアコース。
それぞれが緩やかにつながり、一つの練習場の中で三競技を行えるよう整備されている。プロ選手達が日々汗を流す場所であり、マシロにとってはもう一つの帰る場所だった。
一つ一つの選手は比較的多いが、三つの競技を横断的に行うポケスロンの選手は数が少ない。所属するチームにおいても、ポケスロンを行う選手はマシロともう一人だけだ。
誰もいない早朝のホームグラウンド。薄暗く見通しのきかないコースを眺めながら、チームメイトの事をぼんやりと考えた。
「……帰ってきた」
誰に言うでもなく呟く。
返事をしたのは、隣を歩くウインディだった。
低く一声鳴き、尻尾をゆっくりと揺らす。彼の背中には鞍がしっかりと固定されている。
「みんなも嬉しい?」
六つのボールを軽く叩く。まるで答えるように、一度揺れた。
「おーい!」
遠くから聞き慣れた声が飛ぶ。
「早いよー!」
カレンだった。ジャージ姿で手を振っている。
「ゆっくり来たつもりなんだけど」
「マシロ基準だからねえ」
苦笑しながら近づいてくる。
「復帰一日目なんだから、今日は私も見るよ」
「監視?」
「監視」
「なにそれ」
「いや、取材でしょうかね。私こう見えても雑誌の編集なんて仕事をしているんで」
カレンはそう言ってけらけら笑う。
「そっか。そうだね」
準備運動。ストレッチ。身体を温める。
競技場の土を踏むだけで、不思議と身体が軽くなる気がした。
「錯覚」
自分に言い聞かせる。
焦るな。
昨日まで何度も言われた言葉。今日からも言われる言葉。
「今日は流すだけかな?」
カレンの言葉に頷きを返す。
まだ完治ではない。エアやスイムは体の負担が大きい。だから今日はランだけ。それもコースを軽く流すだけ。
「まずは歩こうか」
ウインディの背に乗る。鐙に足を乗せ、鞍にまたがる。ただこんな動作が楽しい。
深呼吸。
「よろしく」
ウインディが一歩踏み出す。
ゆっくり。本当にゆっくり。
病院と変わらない速度。
違うのは景色だけだった。
起伏のある地形に、日の元で6番目の大きさの湖。
どれもまだ使えない。見えるだけ。近づけるだけ。それだけなのに。
「……」
少しだけ胸が苦しくなる。
前なら当たり前に走っていた。
風を切っていた。
笑っていた。
でも今日は違う。
「マシロー」
カレンがどこからか持ち出してきた拡声器で声を掛けてくる。
「前見てー」
「え?」
視線を前へ向ける。コースの先。
眩しいくらいに朝日が差していた。
「戻りたい場所を見るより、進む方向を見なきゃだよぉ」
またその言葉だ。
戻るじゃない。進む。
やっぱり焦る気持ちはなくならない。でも、今日踏み出した。焦りにじりじりと焼かれていた胸の裡は、朝日を浴びて希望へと変わりつつある。
ここからだ。
マシロは影を焼き尽くすような朝日を目を細めて眺めていた。
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三十分ほど歩いたところで休憩になった。歩くといっても病院とは違う。
アップダウンがあり、舗装もされていない。そして速度も徐々にではあるが上げていった。おそらく怪我の前の六割程度。それがキツイ。
カレンから渡されたタオルで汗を拭く。タオルにはハリテヤマの絵がプリントされていた。どこから入手してくるんだろうか。
「疲れた?」
マシロの疑問を切り裂くように、カレンが聞いてくる。
「……悔しい」
「うん」
「これくらいで息が上がる」
「うん」
「でも、やっぱり楽しいや」
マシロはベンチへと腰かけた。
ウインディは芝生へと腰を落ち着ける。
ピジョットは近くの柵に止まり。
カメックスは芝生へどっかりと腰を下ろす。
騎乗訓練はしないが、ピジョットとカメックスには久しぶりのコースを堪能してもらっていた。
一匹一匹の顔を見回す。
誰も急かさない。
誰も続きを要求しない。
「優しいね」
三匹を見る。
以前なら、もっと走ろう。
もっと飛ぼう。
そう催促してきた。そんな気がしていた。
でも違う。
焦っていたのは。置いていかれると思っていたのは。自分だけだった。
彼らはいつでも寄り添ってくれていた。
いつでも待ってくれている。
「ねえ」
カレンが缶コーヒーを飲みながら言う。
「覚えてる?」
「何を?」
「中学の時」
「……」
「ウインディに振り落とされて泣いてた」
「忘れて」
「毎日泣いてた」
「忘れて」
「三日連続」
「忘れて!」
笑い声が響く。ウインディも短く鳴いた。たぶん笑っている。
「でも」
カレンは少しだけ真面目な顔になる。
「あの頃は毎日出来ることが増えてた」
「……うん」
「今日は?」
考える。出来ること。いや出来た事を、今日出来た事だ。
「コースを走れた」
「そう」
「病院より長かった」
「そう」
「最後までバランス崩さなかった。」
「そう」
「……」
「増えてるじゃん」
言われて改めて気が付く。そうだ。増えているのだ出来ることが。
出来る事、やれたことに視線を向ける事で実感できる。私は前に向かって進んでいる。
昨日出来なかったことが、今日は出来ている。
僅かな自信を取り戻し、午後。
ランコースを走るマシロとウインディの姿があった。
ウインディへ合図する。
マシロの送った合図に応えてウインディは本当に少しだけ、歩幅を広くする。
それまでは優しく頬を撫でるだけだった風が、物理的な圧をもってマシロの体を叩く。それは本気の速度では無い。到底記録を狙える速度でもない。
ただ、病院では感じられなかった風だった。
「……楽しい」
自然と笑っていた。
速さじゃなくて、順位でもない。ましてや記録でもない。
ただ、また一緒に走れている。
それが嬉しかった。ウインディも嬉しそうだった。きっとそうだ。
練習を終え、夕暮れ。
帰る前に、マシロは一度だけ振り返る。
まだ今は飛べない。そして波には乗れない。
まだ以前の自分には届かない。
でも。
昨日の自分よりは少しだけ前へ進めた。
それでいい。そう思えた。
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「いいじゃーん。その調子でエッセイの方もよろしくお願いしますよぉ」
「いや、あの……やっぱいいや」
「当面です!」
「聞いてないし」