持ってきたはずの傘がない。
昇降口の傘立てに確かに置いたはずなのに、放課後、そこにあったのは見覚えのないビニール傘ばかりだった。名前も書いてあったし、間違えられるはずはないのに――まあ、持っていかれたんだろう。
「……ま、いっか」
腹は立たなかった。
こういうこともある、で済ませられる程度の出来事だ。誰かが間違えたのか、あるいは確信犯かもしれないけど、今さら考えても仕方ない。
傘の代わりに、オレは詰襟を頭からかぶって、雨の中を走る羽目になっている。
ばしゃばしゃと水たまりを蹴りながら、家までの道を急ぐ。冷たい雨粒が首筋から入り込んできて、ぞわりと背筋が震えた。
「……つめてぇな」
誰に言うでもなく呟く。
視界は悪いし、靴の中までじわじわ濡れてくる。正直、快適とは程遠い。でも――まあ、こういう日もある。
昔から雨の日は嫌いじゃない。雨音が妙に落ち着くからだ。
――だからこそ、最初は気づかなかった。
いつもなら流れていくはずの景色の中に、違和感が混じっていたことに。
「……ん?」
視界の端に、妙な色が引っかかった。
灰色。いや、ただの灰色じゃない。どこか銀がかっているような、不自然に目を引く色。
俺は足を止める。
雨音が一瞬、やけに大きく聞こえた。
ゆっくりと視線を向けると――そこには、人影があった。
「おい……!」
道路脇、植え込みのそばに、一人の女の子が倒れている。
背中まで伸びた銀灰色の髪は、雨に濡れて重く張り付き、顔の半分を隠していた。着ているのは、柔らかい色合いのワンピース。こんな天気には不釣り合いなほど、どこか可愛らしい雰囲気の服だ。
けれど今は、泥と水で汚れ見る影もない。
そして、そのすぐ隣に――
「……なんだ、これ」
小さな黒っぽい灰色の塊が転がっていた。
ぬいぐるみ……に見える。けど、違う。
耳はウサギ程ではないがやや長く、ふくらんだ尻尾は狐っぽい。でも妙に丸くて、現実味が薄い。なのに、かすかに上下しているのが見えた。
「……生きてる、のか?」
思わず呟く。
俺はすぐに女の子のそばへ駆け寄った。
「おい、大丈夫か!」
肩に手をかけて、軽く揺らす。
反応はない。
顔色は青白く、額や破れた袖や膝と至るところに小さな擦り傷。流れた血は雨で薄まり、頬を伝っていた。
「……意識、ねえのかよ」
心臓が嫌な音を立てる。
どうする。救急車を呼ぶべきだ。
ポケットからスマホを取り出す。
――けど。
指が、止まった。
帰り道で倒れてる女の子を見つけた。それだけならいい。でもこの状況、なんて説明する?
人気のない雨の中、怪我だらけの見知らぬ女の子。隣には謎の生き物。
第一発見者の俺が、疑われる可能性だってある。
「……だからって」
小さく、息を吐く。
そんな理由で見捨てるのか?
無理だ。
目の前に倒れてるやつがいるのに、何もしないなんて選択肢は――最初からない。
数秒の迷いのあと、俺は通話履歴を開いた。
「……母さん」
コール音が鳴る。
すぐに繋がった。
『もしもし? 正護?』
「母さん、今いいか」
『ええ、どうしたの?』
「帰り道で女の子が倒れてる。ひき逃げにでもあったみたいな怪我してて、意識ない」
『……え?』
オレの言葉に母さんが呆けたように言う。
「で、なんか……狐みたいなのも一緒に倒れてる」
『狐?』
「ぬいぐるみっぽいけど、動いてる気がする」
『……、…、…、…』
一瞬の沈黙。そこから何か呟いていたが雨音にかき消されオレには聞こえなかった。
けど、すぐに答えが返ってきた。
『とりあえず、その子たち連れて帰ってきなさい』
「は?」
意外な言葉に今度はオレが呆けたように返してしまう。
『私も急いで帰るから。応急処置くらいはできるし、外に置いておくわけにもいかないでしょう』
「いや、でも……」
『正護が見つけたんでしょう?』
「……ああ」
『なら、放っておけないって顔してるはずよ』
「……」
否定できなかった。
『いいから連れてきなさい。私が対応するから』
「……わかった、ありがとう」
通話が切れる。
オレはスマホをしまって、女の子をそっと抱き上げる。
軽い。
思っていたよりずっと。
雨で冷えきった体温が、腕に伝わってくる。
「……もう、大丈夫だからな」
返事はない。
もう片方の腕で、灰色の狐を女の子の腹の上に乗せ、脱いでいた詰襟をかける。
やっぱり妙な感触だった。軽すぎるのに、確かに温かい。
小さく呟いて、俺は走り出した。
雨は、まだ強いままだった。
◇◆◇
玄関のドアを開けた瞬間、温かい空気が流れ込んできた。
「ただいま!」
母さんが、すでに帰宅していたらしく、すぐに顔を出した。
オレの腕の中の女の子を見ると、表情が一瞬だけ引き締まる。
「客間に運んで。すぐに手当てするから」
「わかった」
オレは靴もそこそこに脱いで、廊下を進む。
客間の何枚か敷かれたバスタオルの上に、女の子をそっと寝かせた。
「ありがとう。あとは私がやるわ」
母さんが手際よくタオルや救急箱を準備しながら言う。
「……頼む」
「正護はその子の方、お願いできる?」
視線は、オレが抱えていた狐に向けられていた。
「ああ」
オレはうなずいて、リビングへ移動する。
ソファに座り、狐を膝の上に乗せる。
タオルを手に取り、濡れた体を優しく拭いていく。
「……ほんと、なんなんだよお前」
近くで見ると、やっぱり変だ。
外見はぬいぐるみみたいなのに、“生きている”のが伝わる。
時折ぴくっと耳が動く。
「……生きてる、よな?」
小さく息をしているのがわかる。
オレはタオルを絞り直しながら、慎重に水気を取っていった。
こういうの、嫌いじゃない。
なんとなく、落ち着く作業だ。
しばらくすると、足音が近づいてきた。
「正護」
母さんがリビングに戻ってくる。
「そっちはどう?」
「なんとか。こっちも生きてるっぽい」
「そう」
母さんは軽くうなずくと、ソファの向かいに腰を下ろした。
「で、詳しく聞かせて」
「ああ」
オレは、さっきの出来事を一から説明した。
帰り道、倒れているのを見つけたこと。通報を迷ったこと。
母さんに連絡した理由。
全部話し終えると、母さんはふふっと小さく笑った。
「……なに笑ってんだよ」
「別に。ただ、あんたらしいなって思って」
「は?」
「損な性格よね。放っておけないのに、ちゃんとリスクも考えちゃうあたり」
「……うるせえ」
図星を突かれて、思わず目を逸らす。
母さんは小さくため息をついた。
「でもまあ、今回はそれで正解よ」
「そうか?」
「ええ。あの子、結構冷えてたし、あのままだと危なかったかもしれない」
「……そっか」
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ軽くなる。
「目を覚ましたら、ちゃんと話を聞かないとね」
母さんは立ち上がりながら言った。
「どこの子なのか、どうしてあんなところにいたのか」
「……ああ」
「それまでは、うちで保護。いいわね?」
「……ああ」
「正護も、そのままじゃ風邪ひくからお風呂入っちゃいなさい」
母さんはオレの膝に乗っていた狐を抱き抱え、そのまま客間へ戻っていった。
「……お前ら、何者なんだよ」
雨音は、まだ止まない。
この出会いが始まりで――いつも通りの帰り道は、もうどこにもなかった事をこの時のオレはまだ知らなかった。