レイチェルとミィルが家で暮らすようになって、数週間が経った。
最初の頃は、レイチェルも遠慮ばかりしていた。
食事のたびに「手伝います」と立ち上がるくせに、いざ母さんに何か頼まれると、失敗しないようにひどく慎重になる。親父に話しかけられると、少し背筋を伸ばして、丁寧すぎるくらい丁寧に返事をする。
けれど、最近は少しずつ変わってきた。
朝は母さんと一緒に味噌汁を作ったり、洗濯物を畳んだりするようになった。親父がニュースを見ていると、隣で首を傾げながら質問することもある。
ミィルもすっかり馴染んでいた。
見た目だけなら、灰色の小さなマスコットみたいな生き物だ。近所の子供に見つかるたびに「かわいい」と撫でられている。
本人――いや、本獣は喋れないふりをしているので、撫でられても大人しく尻尾を揺らしているだけだ。
まあ、後で部屋に戻ると文句を言ってるらしいけど。
そんな日々の中で、ようやくレイチェルの手続きが一通り終わった。
明日からオレと同じ中高一貫校に通う。
ただ、オレは高等部二年で、レイチェルは中等部二年だ。
夕食を終えた後、リビングには少し妙な緊張感があった。
「……えっと」
廊下の向こうから、レイチェルの声がする。
「入っても、大丈夫ですか?」
「もちろんよ」
母さんが笑って答える。
少しして、リビングの扉がゆっくり開いた。
入ってきたレイチェルは、うちの学校の制服を着ていた。
白い襟のセーラー服。
濃い色のスカート。
胸元には歪んだ三角タイ。
普段の柔らかい服装とは雰囲気が変わって、少し大人びて見える。
「……どう、でしょうか」
レイチェルは照れくさそうに、両手でスカートの端を軽く押さえていた。
「似合ってるぞ」
親父が即答した。
「かわいいじゃない」
母さんも満足そうに頷く。
足元では、ミィルが尻尾をふりふり揺らしていた。
喋れないふりをしているから何も言わない。
でも、ものすごく嬉しそうだ。
「セーラー服にしたんだな」
オレが言うと、レイチェルはこくりと頷いた。
「はい。ブレザーも素敵だったんですけど……こっちの方が、少し憧れていた感じに近くて」
「うち、変わってるよな。女子はセーラーかブレザー選べるし、男子も詰襟かブレザー選べるし」
「ショーゴさんは、詰襟なんですよね」
「まあな。なんとなく」
本当は、ネクタイを結ぶのが面倒なだけだっただけだ。
そんなことを思っていると、レイチェルが胸元の三角タイに手をやった。
「でも、これが少し難しくて……」
「あら、まだ不安?」
母さんが近づく。
「はい。えっと……こう?」
レイチェルが鏡の前で結び直そうとする。
けれど、タイは妙な形で更にねじれてしまった。
「あ、違う違う。そこはこっちに通すの」
「こっち……ですか?」
「そう。そこに通して、軽く整える」
「……こう?」
「そうそう。上手」
レイチェルの表情がぱっと明るくなる。
「できた……!」
その顔が妙に嬉しそうで、親父が小さく笑った。
「明日は早いからな。忘れ物しないようにしろよ」
「はい」
レイチェルは真面目に頷く。
その視線が、ふとオレに向いた。
「ショーゴさんは……どう思いますか?」
「ん?」
「制服……変じゃないですか?」
少し不安そうな顔。
オレは改めてレイチェルを見る。
銀がかった灰色の髪に、セーラー服はよく似合っていた。
少し現実離れしているのに、ちゃんとこの家のリビングに馴染んでいる。
「似合ってると思うぞ」
自然にそう言った。
レイチェルは一瞬だけ目を丸くして、それから照れくさそうに笑った。
「……ありがとうございます」
母さんがにこにこしている。
なんだよ、その顔。
「学校、楽しみかい?」
親父が聞く。
「……はい」
レイチェルは少し迷ってから、はっきり頷いた。
「少し緊張もしています。でも……楽しみです」
「まあ、」
オレはソファの背にもたれながら言う。
「下級生にも何人か知り合いいるから、困ったら声かけられるようにしとく」
「え?」
「女子同士じゃなきゃ分かんねぇこともあるだろ」
レイチェルは少し驚いたように瞬きをした。
「……いいんですか?」
「別に。顔が広いの、こういう時くらい使わないとな」
「ありがとうございます」
レイチェルは小さく頭を下げた。
「助かります」
「おう」
母さんが時計を見る。
「さて、明日は早いんだから、そろそろ休みなさい」
「はい」
レイチェルは制服の裾を少し気にしながら、自分の部屋へ戻っていった。
ミィルもその後を、とてとてと追いかける。
リビングの扉が閉まる直前、ミィルがこちらを振り返って、尻尾を一度だけ振った。
まるで、「任せなさい」とでも言っているみたいだった。
◇◆◇
部屋に戻って、わたしは制服からパジャマに着替えた。
丁寧に畳もうとして、少し迷う。
明日また着るものだから、トーコさんに教わった通り、ハンガーに掛けることにした。
セーラー服が、部屋の壁際で静かに揺れている。
それを見ていると、胸が少しだけ熱くなった。
明日になれば。
わたしは学校へ行く。
友達ができるかもしれない。
知らない景色が見られるかもしれない。
お母さんが話してくれた外の世界を。
今度は、自分の目で見られる。
「楽しみ?」
ベッドの上で丸くなっていたミィルが、小さな声で聞いてきた。
「……うん」
「不安じゃなくて?」
「……少しは」
わたしは布団に入りながら、制服を見つめる。
「……でも、楽しみの方が大きいかな」
「そう」
ミィルは少しだけ笑ったように見えた。
「昔からそうなんだから」
「……そうかな?」
「そうよ。思い立ったら止まらないんだから」
「……それは、ちょっと反省してる」
「ちょっと?」
「……ちゃんと」
ミィルは満足そうに尻尾を揺らした。
「ならよろしい」
わたしは小さく笑って、布団を肩まで引き上げる。
明日が来る。
新しい場所。
新しい人たち。
新しい一日。
「さ、もう寝ましょ?」
「うん」
部屋の灯りを消す。
暗くなった部屋の中で、ハンガーに掛かった制服だけが、窓から入る淡い光にぼんやり浮かんで見えた。
「おやすみ、ミィル」
「おやすみ、レイチェル」
目を閉じる。
胸の奥に残っている不安ごと、明日への楽しみが静かに膨らんでいく。
眠りに落ちる直前。
わたしはもう一度だけ、明日の自分を想像した。