わたしのはなむこさん。   作:たけのこ教徒

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第2話

 ――ぽたり。

 どこかで、水の落ちるような音がした気がした。

 まぶたの裏に、ぼんやりとした光が滲む。重たい体を引き上げるようにして、ゆっくりと目を開けた。

 

「……ん、」

 

 視界に広がったのは、知らない天井だった。

 木の温もりを感じる、やわらかい色合い。見慣れた自室の天井でも、冷たい地面でもない。

 体を少し動かすと、さらりとした布の感触が肌を撫でた。

 

「……?」

 

 違和感に気づいて、自分の身体を見下ろす。

 そこにあったのは、見覚えのない衣服――淡い色合いの、ゆったりとした浴衣だった。それを自分の身体を包んでいる。

 

「どうして……」

 

 小さく呟いた声は、思ったよりもかすれていた。

 頭の奥が、じんわりと痛む。記憶を辿ろうとすると、霧の中を手探りで進むような感覚に襲われる。

 ――雨。

 冷たい空気。

 そして、誰かの声。

 そこまで思い出したところで、胸の奥が不安に締めつけられた。

 

「……っ」

 

 勢いよく上半身を起こす。

 ふらりと視界が揺れたが、どうにか持ちこたえる。

 部屋は和室だった。畳の匂いがほんのりと漂っている。

 けれど、そのどれもが――自分にとっては“知らないもの”だった。

 

「……どこ……ここ……?」

 

 不安が、じわじわと広がっていく。

 そして、次の瞬間。

 もっと大事なことに気づいた。

 

「――ミィル」

 

 反射的に、その名前を呼んでいた。

 いつもそばにいてくれた、大切な――友達。

 

「ミィル……どこ?」

 

 もう一度、少しだけ声を強めて呼ぶ。

 けれど、返事はなかった。

 部屋の中は静まり返っていて、雨の音すら遠い。

 胸が、ぎゅっと痛くなる。

 

「ミィル……」

 

 視線を彷徨わせる。

 布団の上、部屋の隅、襖の前。

 どこにも、その姿は見えない。

 ――そのとき。

 す、と静かに襖が開いた。

 びくりと肩が跳ねる。

 視線を向けると、そこに立っていたのは一人の女性だった。

 落ち着いた雰囲気をまとった、大人の女性。

 そして、その腕の中には――

 

「ミィル……!」

 

 思わず声が弾む。

 灰色の小さな体が、女性に抱えられていた。

 女性はやわらかく微笑む。

 

「気がついたのね」

 

 穏やかな声だった。

 

「あなたのお友達は、まだ眠ってるけど……大丈夫よ」

 

 そう言いながら、彼女はそっと近づいてくる。

 そして、ミィルを優しく差し出した。

 

「はい」

「……!」

 

 両手で受け取る。

 ミィルの体は、ほんのりと温かかった。

 胸に抱き寄せると、小さく、かすかな呼吸を感じる。

 

「よかった……」

 

 思わず、声がこぼれた。

 力が抜けるように、ほっと息をつく。

 

「ありがとうございます」

 

 顔を上げて、女性に向き直る。

 

「わたしは、レイチェル・ラディーナです」

 

 少しだけぎこちなく、それでもはっきりと名乗った。

 女性は穏やかにうなずく。

 

「私は相馬灯子。よろしくね、レイチェルちゃん」

 

 やさしい響きの名前。

 その声だけで、少しだけ緊張がほどける。

 

「あなた、道で倒れていたのを息子が見つけて連れて来たんだけど……覚えている?」

「……」

 

 その問いに、わたしは言葉を失った。

 視線が自然と落ちる。

 膝の上で、ミィルの毛並みを優しく撫でる。

 ――覚えている。

 忘れるはずがない。

 あの雨の中で、何があったのか。

 どうして自分があそこにいたのか。

 全部。

 全部、わかっている。

 

「……はい」

 

 小さく、うなずく。

 それ以上の言葉は、続かなかった。

 灯子さんは少しだけ間を置いてから、静かに尋ねる。

 

「どうして、あんなところにいたのか……話せる?」

「……」

 

 沈黙。

 喉の奥が、ひりつく。

 言葉にしようとすると、何かが引っかかる。

 言ってはいけない気がするのか、それとも――言いたくないのか。

 自分でも、よくわからなかった。

 ただ一つ確かなのは。

 簡単に話していいことじゃない、ということ。

 

「……」

 

 わたしは、何も言わなかった。

 ただ、うつむいたまま、ミィルを抱きしめる。

 その様子を見て、灯子さんはそれ以上言葉を重ねなかった。

 問い詰めることも、急かすこともしない。

 代わりに、そっと距離を詰めて――

 

「大丈夫よ」

 

 やさしく、抱きしめた。

 

「……っ」

 

 不意に触れた温もりに、体が強張る。

 けれど、その腕はとても穏やかで、押しつけるような強さはなかった。

 ただ、包み込むような優しさだけがある。

 そっと頭に手が置かれ、やわらかく撫でられる。

 

「ゆっくりでいいから、ね?」

「……」

 

 その言葉に。

 わたしの胸の奥で、何かが小さくほどけた。

 言葉にはならないまま、ただ静かに――ミィルを抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力がこもった。

 灯子さんの腕の中で、わたしはしばらく身動きが取れなかった。

 抱きしめられる、という行為そのものが久しぶりだったのかもしれない。戸惑いと、わずかな安心とが混ざり合って、どう反応していいのか分からない。

 けれど、その手はやがてゆっくりと離れていった。

 

「……ごめんなさいね、びっくりしたでしょう?」

 

 灯子さんは穏やかに微笑む。

 

「い、いえ……」

 

 わたしは小さく首を振った。

 胸元には、ミィル。指先が、無意識にその柔らかな毛並みを撫でている。

 灯子さんはその様子を一瞬だけ見つめて――ほんのわずかに、目を細めた。

 

「その子、本当に大事なのね」

「……はい」

 

 即答だった。

 迷いも、濁りもない。

 それを聞いた灯子さんは、何かを確かめるように小さくうなずいた。

 

「ミィル、って言ったわよね」

「はい」

「不思議な子ね。狐……にしては、ずいぶんまんまるだし」

「……」

 

 わたしの手が、ぴたりと止まる。

 言葉を選んでいるような沈黙。

 灯子さんは、それ以上踏み込まなかった。

 

「まあ、元気なら何でもいいわね」

 

 あくまで軽い調子で、話題を流す。

 それから、少しだけ間を置いて。

 

「体の方はどう? 痛むところはない?」

「……少し、頭が……でも、大丈夫です」

「そう。無理はしないでね」

 

 灯子さんはそう言いながら、そっと布団の端を整える。

 その仕草は、ごく自然で、気負いがない。

 わたしは、ほんの少しだけ視線を落とした。

 

「……あの」

「なあに?」

「ここは……」

 

 言いかけて、言葉を止める。

 “どこですか”と聞くべきなのか、それとも――。

 灯子さんは、その迷いを察したように、柔らかく答えた。

 

「普通の家よ。少し古いけどね」

「……そう、ですか」

 

 その答えは、間違っていない。

 けれど、どこか核心を避けているようにも感じられた。

 わたしは、それ以上は聞かなかった。

 聞いてしまえば、何かが崩れてしまう気がしたから。

 

「レイチェルちゃん」

「はい」

「さっきの話だけど――」

 

 “どうしてあそこにいたのか”。

 その続きを聞くのかと思って、肩がわずかに強張る。

 けれど灯子さんは、違う言葉を選んだ。

 

「帰る場所、あるの?」

「……」

 

 静かな問いだった。

 責めるでもなく、探るでもなく。

 ただ事実を確認するような、まっすぐな声音。

 わたしの喉が、小さく鳴る。

 答えようとして――言葉が出てこない。

 頭の中には、いくつもの光景が浮かんでは消えていく。

 けれど、それを口にすることはできなかった。

 

「……」

 

 代わりに、ミィルを抱く腕に力がこもる。

 それが答えだった。

 灯子さんは、ほんのわずかに息をついた。

 ――やっぱり、ね。

 そう思ったが、口には出さない。

 ――この子と、この小さな“生き物”。

 どれもが、少しずつ、この場所の“普通”からずれている。

 けれど、それを確かめる必要は今はない。

 確かめたところで、この子が安心するわけでもないのだから。

 

「……いいわ」

 

 灯子さんは、あっさりと言った。

 わたしは顔を上げる。

 

「無理に話さなくていいわ」

「……え?」

「言えない事情、あるんでしょう?」

「……」

 

 否定も、肯定もできない。

 ただ、黙るしかない。

 灯子さんは、そんなわたしを見て、少しだけ口元を緩めた。

 

「大丈夫よ。そういうの、嫌いじゃないの」

「……?」

「女の子には秘密がつきものしょう?私にも覚えがあるもの」

 

 冗談めいた言い方だったが、その目はやわらかいままだった。

 

「でもね」

 

 ひとつだけ、と指を立てる。

 

「危ないことは、しないって約束して」

「……」

 

 その言葉に、わたしは少しだけ目を見開いた。

 責められているわけではない。

 縛られているわけでもない。

 ただ――信じようとしている。

 そんな響きだった。

 

「……はい」

 

 小さく、けれど確かにうなずく。

 灯子さんは満足そうに微笑んだ。

 

「それで十分」

 

 少しだけ間を置いてから、続ける。

 

「行くあてがないなら――しばらくここにいなさい」

「……!」

 

 息が止まる。

 予想していなかった言葉だった。

 

「空いてる部屋はあるし、食事も一人分増えたところで大差ないわ」

 

 あくまで軽い口調。

 けれど、その中身は重い。

 

「もちろん、その子も一緒でいいわよ」

 

 ミィルに視線を向ける。

 

「……どうする?」

 

 静かに、選択を委ねる声。

 わたしは、すぐには答えられなかった。

 視線を落とし、腕の中のミィルを見る。

 小さな体。規則正しい寝息。

 ――守らなきゃいけない。

 その想いだけは、はっきりしていた。

 

「……あの」

 

 顔を上げる。

 迷いは、まだある。

 けれど、それでも。

 

「少しだけ……お世話になっても、いいですか」

 

 かすかな声。

 それでも、逃げなかった言葉。

 灯子さんは、ふふっと笑った。

 

「ええ、もちろん」

 

 やさしく、うなずく。

 

「歓迎するわ、レイチェルちゃん」

 

 その言葉に。

 わたしの胸の奥で、張り詰めていた何かが、ほんの少しだけほどけた。

 

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