――ぽたり。
どこかで、水の落ちるような音がした気がした。
まぶたの裏に、ぼんやりとした光が滲む。重たい体を引き上げるようにして、ゆっくりと目を開けた。
「……ん、」
視界に広がったのは、知らない天井だった。
木の温もりを感じる、やわらかい色合い。見慣れた自室の天井でも、冷たい地面でもない。
体を少し動かすと、さらりとした布の感触が肌を撫でた。
「……?」
違和感に気づいて、自分の身体を見下ろす。
そこにあったのは、見覚えのない衣服――淡い色合いの、ゆったりとした浴衣だった。それを自分の身体を包んでいる。
「どうして……」
小さく呟いた声は、思ったよりもかすれていた。
頭の奥が、じんわりと痛む。記憶を辿ろうとすると、霧の中を手探りで進むような感覚に襲われる。
――雨。
冷たい空気。
そして、誰かの声。
そこまで思い出したところで、胸の奥が不安に締めつけられた。
「……っ」
勢いよく上半身を起こす。
ふらりと視界が揺れたが、どうにか持ちこたえる。
部屋は和室だった。畳の匂いがほんのりと漂っている。
けれど、そのどれもが――自分にとっては“知らないもの”だった。
「……どこ……ここ……?」
不安が、じわじわと広がっていく。
そして、次の瞬間。
もっと大事なことに気づいた。
「――ミィル」
反射的に、その名前を呼んでいた。
いつもそばにいてくれた、大切な――友達。
「ミィル……どこ?」
もう一度、少しだけ声を強めて呼ぶ。
けれど、返事はなかった。
部屋の中は静まり返っていて、雨の音すら遠い。
胸が、ぎゅっと痛くなる。
「ミィル……」
視線を彷徨わせる。
布団の上、部屋の隅、襖の前。
どこにも、その姿は見えない。
――そのとき。
す、と静かに襖が開いた。
びくりと肩が跳ねる。
視線を向けると、そこに立っていたのは一人の女性だった。
落ち着いた雰囲気をまとった、大人の女性。
そして、その腕の中には――
「ミィル……!」
思わず声が弾む。
灰色の小さな体が、女性に抱えられていた。
女性はやわらかく微笑む。
「気がついたのね」
穏やかな声だった。
「あなたのお友達は、まだ眠ってるけど……大丈夫よ」
そう言いながら、彼女はそっと近づいてくる。
そして、ミィルを優しく差し出した。
「はい」
「……!」
両手で受け取る。
ミィルの体は、ほんのりと温かかった。
胸に抱き寄せると、小さく、かすかな呼吸を感じる。
「よかった……」
思わず、声がこぼれた。
力が抜けるように、ほっと息をつく。
「ありがとうございます」
顔を上げて、女性に向き直る。
「わたしは、レイチェル・ラディーナです」
少しだけぎこちなく、それでもはっきりと名乗った。
女性は穏やかにうなずく。
「私は相馬灯子。よろしくね、レイチェルちゃん」
やさしい響きの名前。
その声だけで、少しだけ緊張がほどける。
「あなた、道で倒れていたのを息子が見つけて連れて来たんだけど……覚えている?」
「……」
その問いに、わたしは言葉を失った。
視線が自然と落ちる。
膝の上で、ミィルの毛並みを優しく撫でる。
――覚えている。
忘れるはずがない。
あの雨の中で、何があったのか。
どうして自分があそこにいたのか。
全部。
全部、わかっている。
「……はい」
小さく、うなずく。
それ以上の言葉は、続かなかった。
灯子さんは少しだけ間を置いてから、静かに尋ねる。
「どうして、あんなところにいたのか……話せる?」
「……」
沈黙。
喉の奥が、ひりつく。
言葉にしようとすると、何かが引っかかる。
言ってはいけない気がするのか、それとも――言いたくないのか。
自分でも、よくわからなかった。
ただ一つ確かなのは。
簡単に話していいことじゃない、ということ。
「……」
わたしは、何も言わなかった。
ただ、うつむいたまま、ミィルを抱きしめる。
その様子を見て、灯子さんはそれ以上言葉を重ねなかった。
問い詰めることも、急かすこともしない。
代わりに、そっと距離を詰めて――
「大丈夫よ」
やさしく、抱きしめた。
「……っ」
不意に触れた温もりに、体が強張る。
けれど、その腕はとても穏やかで、押しつけるような強さはなかった。
ただ、包み込むような優しさだけがある。
そっと頭に手が置かれ、やわらかく撫でられる。
「ゆっくりでいいから、ね?」
「……」
その言葉に。
わたしの胸の奥で、何かが小さくほどけた。
言葉にはならないまま、ただ静かに――ミィルを抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力がこもった。
灯子さんの腕の中で、わたしはしばらく身動きが取れなかった。
抱きしめられる、という行為そのものが久しぶりだったのかもしれない。戸惑いと、わずかな安心とが混ざり合って、どう反応していいのか分からない。
けれど、その手はやがてゆっくりと離れていった。
「……ごめんなさいね、びっくりしたでしょう?」
灯子さんは穏やかに微笑む。
「い、いえ……」
わたしは小さく首を振った。
胸元には、ミィル。指先が、無意識にその柔らかな毛並みを撫でている。
灯子さんはその様子を一瞬だけ見つめて――ほんのわずかに、目を細めた。
「その子、本当に大事なのね」
「……はい」
即答だった。
迷いも、濁りもない。
それを聞いた灯子さんは、何かを確かめるように小さくうなずいた。
「ミィル、って言ったわよね」
「はい」
「不思議な子ね。狐……にしては、ずいぶんまんまるだし」
「……」
わたしの手が、ぴたりと止まる。
言葉を選んでいるような沈黙。
灯子さんは、それ以上踏み込まなかった。
「まあ、元気なら何でもいいわね」
あくまで軽い調子で、話題を流す。
それから、少しだけ間を置いて。
「体の方はどう? 痛むところはない?」
「……少し、頭が……でも、大丈夫です」
「そう。無理はしないでね」
灯子さんはそう言いながら、そっと布団の端を整える。
その仕草は、ごく自然で、気負いがない。
わたしは、ほんの少しだけ視線を落とした。
「……あの」
「なあに?」
「ここは……」
言いかけて、言葉を止める。
“どこですか”と聞くべきなのか、それとも――。
灯子さんは、その迷いを察したように、柔らかく答えた。
「普通の家よ。少し古いけどね」
「……そう、ですか」
その答えは、間違っていない。
けれど、どこか核心を避けているようにも感じられた。
わたしは、それ以上は聞かなかった。
聞いてしまえば、何かが崩れてしまう気がしたから。
「レイチェルちゃん」
「はい」
「さっきの話だけど――」
“どうしてあそこにいたのか”。
その続きを聞くのかと思って、肩がわずかに強張る。
けれど灯子さんは、違う言葉を選んだ。
「帰る場所、あるの?」
「……」
静かな問いだった。
責めるでもなく、探るでもなく。
ただ事実を確認するような、まっすぐな声音。
わたしの喉が、小さく鳴る。
答えようとして――言葉が出てこない。
頭の中には、いくつもの光景が浮かんでは消えていく。
けれど、それを口にすることはできなかった。
「……」
代わりに、ミィルを抱く腕に力がこもる。
それが答えだった。
灯子さんは、ほんのわずかに息をついた。
――やっぱり、ね。
そう思ったが、口には出さない。
――この子と、この小さな“生き物”。
どれもが、少しずつ、この場所の“普通”からずれている。
けれど、それを確かめる必要は今はない。
確かめたところで、この子が安心するわけでもないのだから。
「……いいわ」
灯子さんは、あっさりと言った。
わたしは顔を上げる。
「無理に話さなくていいわ」
「……え?」
「言えない事情、あるんでしょう?」
「……」
否定も、肯定もできない。
ただ、黙るしかない。
灯子さんは、そんなわたしを見て、少しだけ口元を緩めた。
「大丈夫よ。そういうの、嫌いじゃないの」
「……?」
「女の子には秘密がつきものしょう?私にも覚えがあるもの」
冗談めいた言い方だったが、その目はやわらかいままだった。
「でもね」
ひとつだけ、と指を立てる。
「危ないことは、しないって約束して」
「……」
その言葉に、わたしは少しだけ目を見開いた。
責められているわけではない。
縛られているわけでもない。
ただ――信じようとしている。
そんな響きだった。
「……はい」
小さく、けれど確かにうなずく。
灯子さんは満足そうに微笑んだ。
「それで十分」
少しだけ間を置いてから、続ける。
「行くあてがないなら――しばらくここにいなさい」
「……!」
息が止まる。
予想していなかった言葉だった。
「空いてる部屋はあるし、食事も一人分増えたところで大差ないわ」
あくまで軽い口調。
けれど、その中身は重い。
「もちろん、その子も一緒でいいわよ」
ミィルに視線を向ける。
「……どうする?」
静かに、選択を委ねる声。
わたしは、すぐには答えられなかった。
視線を落とし、腕の中のミィルを見る。
小さな体。規則正しい寝息。
――守らなきゃいけない。
その想いだけは、はっきりしていた。
「……あの」
顔を上げる。
迷いは、まだある。
けれど、それでも。
「少しだけ……お世話になっても、いいですか」
かすかな声。
それでも、逃げなかった言葉。
灯子さんは、ふふっと笑った。
「ええ、もちろん」
やさしく、うなずく。
「歓迎するわ、レイチェルちゃん」
その言葉に。
わたしの胸の奥で、張り詰めていた何かが、ほんの少しだけほどけた。