――身体が、まだ少し重い。
けれど、さっきまでの冷たさはもう残っていなかった。
布団の上に座ったまま、わたしは、そっと息を吐く。
知らない場所。知らない人。
それでも、不思議と“怖い”とは思わなかった。
ミィルの体温が、腕の中にあるからかもしれない。
「……」
そのとき、廊下の方から足音が近づいてきた。
襖の向こうで、一瞬止まる気配。
「入ってもいいか?」
男の子の声が襖越しに聞こえ、わたしは「はい、どうぞ」
と返す。
そして、すっと襖が開かれる。
「……あ」
現れたのは、ひとりの男の子だった。
金色の髪が、まだ少し湿っている。お風呂上がりなのか、湯気のようなものをまとっているようにも見えた。着ているのは、わたしと同じような浴衣。
背が高くて、少しだけ無表情。
でも、その目はまっすぐこちらを見ていた。
「……大丈夫か?」
低く、落ち着いた声。
どこか、安心させる響き。
「……はい」
自然と背筋が伸びる。
その人は、少しだけ頷いた。
「オレ、正護。さっき……その、道で見つけて家まで運んで来たんだ」
「……!」
思わず目を見開く。
あの雨の中で聞いた声が、かすかに重なった気がした。
「……そう、だったんですね」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
「……いや、別に」
ショーゴさんは頭をかき、少しだけ視線を逸らした。
その仕草が、どこか不器用で――少しだけ、安心する。
「わたしは、レイチェル・ラディーナです」
「……レイチェル、か」
名前を確かめるように、ゆっくりと口にする。
そのとき――
「……くしゅっ」
小さなくしゃみが、こぼれた。
自分でも驚いて、思わず口元を押さえる。
「……あ」
「まだ冷えてるな」
ショーゴさんがそう言った、ほとんど同時に。
「やっぱりね」
灯子さんの声が後ろから重なった。
振り向くと、いつの間にか部屋の入り口に立っている。
「お風呂、入ってきなさい。温まった方がいいわ」
「……でも」
「遠慮しなくていいの」
やわらかく、けれど迷いのない声。
「そのままだと、また体調崩すわよ?」
「……はい」
小さくうなずく。
ミィルを抱き直してから、そっと布団を降りた。
「ミィルは?」
「その子はこっちで見てるわ。まだ寝てるみたいだしね」
少しだけ迷ったあと、わたしは頷いた。
「……お願いします」
ミィルをそっと灯子さんに預ける。
手が離れる瞬間、ほんの少しだけ不安がよぎったけれど――
「大丈夫よ」
灯子さんの一言で、不思議と落ち着いた。
わたしは、そのまま部屋を後にした。
◇◆◇
お風呂の中は、静かだった。
湯気が、ゆらゆらと揺れている。
お湯に身体を沈めると、じんわりと熱が広がっていく。
「……はぁ」
思わず、息が漏れた。
温かい。
それだけで、こんなにも安心するなんて。
目を閉じると、今日の出来事が浮かんでくる。
雨。
倒れた自分。
あの声。
そして――ここ。
「……」
この家の人たちは、優しい。
それは間違いない。
灯子さんも、ショーゴさんも。
何も知らないわたしに、手を差し伸べてくれた。
でも。
「……どうしよう」
ぽつりと、呟く。
このまま黙っていていいのか。
自分のこと。
ここに来た理由。
全部。
――知られたら、どうなるだろう。
信じてもらえないかもしれない。
それどころか、怖がらせてしまうかもしれない。
「……でも」
ゆっくりと、お湯の中で指を握る。
このままお世話になるなら。
いずれは――巻き込んでしまう。
隠していられるようなことじゃない。
「……」
ミィルの顔が、浮かぶ。
守らなきゃいけない。
それだけは、絶対に変わらない。
「……いっそ」
全部、話してしまった方がいいのかもしれない。
そうすれば――
でも。
「……まだ」
すぐには、決められなかった。
湯気の向こうで、答えはぼやけたまま揺れている。
◇◆◇
「……で、しばらくうちで預かるってことか」
湯飲みを手に、オレは母さんを見る。
リビングのテーブルには、湯気の立つお茶。
外の雨音は、少しだけ弱くなっていた。
「そういうこと」
母さんは、あっさりとうなずいた。
「行くあてもなさそうだったしね」
「……まあ、そうだろうな」
オレは一口、お茶を飲む。
温かさが喉を通って、少しだけ落ち着く。
「いいのかよ」
「何が?」
「いや……連れて来たオレが言うのも何だけど、見ず知らずの相手だろ」
母さんは、少しだけ肩をすくめた。
「だからって、放っておく理由にはならないでしょ?」
「……」
確かに、その通りだ。
「オレは別にいいけど」
湯飲みをテーブルに置く。
「どうせやるなら、中途半端は嫌だし」
「へえ」
母さんが少しだけ意外そうに見る。
「ちゃんと面倒見るつもり?」
「最初からそのつもりだよ」
少しだけ眉をひそめる。
「途中で投げ出すとか、性に合わねえし」
それに――
口には出さないけど。
こういうときに手を差し伸べるのが母さんだ。
親父も、きっと同じことをする。
まだ帰ってきてないけど、反対するとは思えない。
……口にしたことはないけど、オレは、そういう両親を――
「……ま、いいや」
小さく息を吐く。
「とにかく、オレも賛成だ」
母さんは、ふっと笑った。
「頼もしいわね」
「別に」
視線を逸らす。
そのとき、母さんは立ち上がった。
「じゃあ、軽く食べられるもの作るわ。あの子、まだ本調子じゃないし」
「おかゆか?」
「ええ」
キッチンへ向かいながら、答える。
鍋に水を入れる音が、静かに響く。
オレはその背中をぼんやりと眺めながら、もう一度湯飲みを手に取った。
雨はまだ、完全には止んでいなかった。