リビングの空気は、さっきまでより少しだけ柔らかくなっていた。
オレはソファに座って、スマホをいじりながらちらりと向かいを見る。
レイチェルは少し緊張した様子で座っていて、その膝の上には――ミィル。
あの灰色のやつは、いつの間にか目を覚ましていて、今はおとなしく丸くなっている。
……最初はどうなるかと思ったけど。
こいつ、意外と人懐っこい。
さっきも母さんの手に鼻先を寄せたりしてたし、オレが近づいても逃げなかった。
「……ほんと、なんなんだよ」
小さく呟きながら、スマホの画面をスクロールする。
検索欄には“耳が長い キツネ”
出てきた画像は――
「フェネック、ねぇ……」
確かに耳は似てる。けど、ミィルの耳の方が少し長い気がする。
「……いや、違うだろ」
画面の中のそれは、ちゃんと“現実の動物”だ。
対してミィルは――なんというか。
二頭身の、ぬいぐるみみたいなフォルム。
リアルとデフォルメの中間みたいな、妙な存在感。
オレはしばらく画面とミィルを見比べていたが、やがてため息をついてスマホをテーブルに置いた。
「……わかるわけねえか」
そういう問題じゃない気がする。
頭の中で一応そう結論づけたところで――
ガチャ、と玄関の音がした。
「ただいまー」
聞き慣れた声。
「お、帰ってきたか」
オレは立ち上がりかけて、母さんを見る。
母さんも小さくうなずいた。
「いいタイミングね」
廊下の方から、足音が近づいてくる。
やがて、リビングの戸が開いた。
「おう、ただ……お?」
親父は、室内の様子を見て一瞬だけ止まった。
視線が、レイチェルとミィルに向く。
でも、驚きは一瞬だけだった。
「……お客さんか?」
「ええ、ちょっとね」
母さんが自然に答える。
「事情はあとで話すわ」
「おう」
親父はそれ以上突っ込まずそのまま中に入ってくる。
いつも通りの調子だ。
オレは軽く肩をすくめた。
「実はさ――」
そこから、オレと母さんで簡単に説明した。
帰り道で見つけたこと。
倒れていたこと。
しばらくうちで面倒を見るつもりだってこと。
親父は腕を組んで、静かに聞いていた。
「……なるほどな」
話を聞き終えると、ぽつりとそう言う。
それから、レイチェルに視線を向けて。
「大変だったな」
短い一言。
それだけで、十分だった。
「うちはまあ、気にするな。ゆっくりしていけ」
あっさりした口調。
でも、拒む気配は一切ない。
やっぱりな、と思う。
親父はこういう人だ。
「……あ、ありがとうございます」
レイチェルが少し緊張しながら頭を下げる。
「レイチェル・ラディーナです」
「おう。俺は
「はい……よろしくお願いします」
そのやり取りを見て、オレはなんとなく肩の力が抜けた。
問題なさそうだ。
◇◆◇
食卓には、湯気の立つおかゆが並んでいた。
オレと母さん、それにレイチェルは同じもの。
ミィルの前にも、小さな器が置かれている。かなり薄味で、しっかり冷ましたやつだ。
親父だけは、缶ビールと簡単なつまみ。
これもいつも通り。
「いただきます」
軽く手を合わせる。
レイチェルも少し遅れて真似した。
スプーンでおかゆをすくって口に運ぶ。
「……おいしい」
レイチェルがぽつりと呟く。
その声は、少しだけ安心したようだった。
フローリングの床では、ミィルが器に顔を近づけている。
ちまちまと食べてる様子は、なんというか――妙にかわいい。
「そういえば」
親父がビールを一口飲んでから言った。
「レイチェルちゃん、学校はどうするんだ?」
「……あ」
「……あ」
オレとレイチェルの声が、同時に重なった。
そうだ。完全に頭から抜けてた。
母さんが小さく笑う。
「そうね。その辺りは私が何とかしてみるわ」
「え、でも……」
レイチェルが戸惑ったように顔を上げる。
「ご迷惑じゃ……」
「言ったでしょう?」
母さんは、穏やかに言った。
「面倒を見るって決めた以上、最後までやるわ」
「……」
レイチェルは、少しだけ目を見開いて。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「……ありがとうございます」
小さく、でもはっきりとした声だった。
◇◆◇
――夜は、静かに更けていく。
そして。
その静けさの中で。
もうひとつの“会話”が、始まろうとしていた。
――やっと、静かになった。
わたしは、布団の上に座ったまま、小さく息を吐く。
腕の中には、ミィル。
さっきまで、おとなしくしていたけれど――
「……やっとしゃべれるわ」
ふわりと。
ミィルの体が、浮かび上がった。
「……!」
慌てて周囲を見る。
誰もいない。
扉も閉まっている。
それを確認してから、わたしは小さく笑った。
「……そうだね」
ほっとしたように、肩の力が抜ける。
「……大丈夫だった?」
「なんとかね」
ミィルは、くるりと空中で回る。
「あのトーコ、だったかしら?」
少しだけ目を細めるような仕草。
「私たちに向ける視線が、なーんか気になるのよね」
「……うん」
わたしも、小さくうなずく。
あの優しさの中に。
ほんのわずかに混じっていた“何か”。
「……わたしも、それは感じてた」
完全に気づかれているわけじゃない。
でも、まったく気づいていないわけでもない。
そんな――曖昧な距離。
ミィルは、ふわりとわたしの目の前に降りてきた。
「さて」
小さく首をかしげる。
「どうするの? この先」
「……」
答えは、まだ出ていない。
けれど。
もう、あまり時間はない気がしていた。