朝は、いつも早い。
まだ日も昇りきらない薄暗い時間に、オレは自然と目を覚ました。
枕元の時計を見る。
……いつもの時間だ。
布団から起き上がり、軽く目をこする。
家の中はまだ静かだった。
制服ではなく、棚からジャージを引っ張り出して着替える。寝癖のついた金髪を適当にかき上げながら部屋を出た。
廊下を歩き、階段を下りる。
下からは、微かに包丁の音が聞こえていた。
「あ、起きた?」
キッチンに立っていた母さんが振り返る。
エプロン姿で、すでに朝食の準備を始めていた。
「ああ、おはよ」
オレは軽く返事をしながら、冷蔵庫から水を取り出す。
「走ってくる」
「はいはい。朝ごはんまでには戻ってきなさいよ」
「わかってる」
短く返して、水を一気に飲み干す。
そのまま玄関へ向かい、ランニングシューズを履いた。
ドアを開ける。
ひやり、とした空気が頬を撫でた。
雨上がりの匂いが、まだ残っている。
湿った土と、冷えた風の混ざった匂い。
「……さて」
軽く首を回す。
肩を鳴らしてから、オレは走り出した。
一定のリズムで地面を蹴る。
タッ、タッ、と規則的な足音が静かな住宅街に響く。
朝の町は、まだ眠っていた。
新聞配達のバイクが通り過ぎる。
遠くで車の走る音。
信号機だけが、誰もいない交差点を律儀に照らしている。
空気は冷たく、雨上がりの匂いがまだ残っていた。
まだ眠っている家々。
その中を走っていると、頭の中が整理されていく。
昨日のことも、自然と思い出した。
レイチェル。
ミィル。
異様なくらい整った銀色の髪。
ぬいぐるみみたいな謎の生き物。
「……変なことになったな」
ぽつりと呟く。
でも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ――少しだけ。
退屈じゃなくなった、と思ってる自分がいる。
走り続けるうちに、空は少しずつ白み始めていた。
帰る頃には、もう朝になっていた。
帰宅し、シャワーで汗を流し、身支度を整える。まだ乾いていないから予備の詰め襟に袖を通す。
リビングダイニングには親父が新聞を読んでいて、レイチェルは母さんの手伝いをしていた。
朝食は白米、ネギの味噌汁、焼き鮭、卵焼き、ひじき煮
「いただきます」オレは言い、レイチェルも真似て言う。
「正護帰りは何時になりそう?」
味噌汁をよそいながら、母さんが聞いてくる。
「昨日と同じくらいだな」
オレは味噌汁を受け取りながら答えた。
今日は部活もある。なんだかんだで、帰る頃にはまた夕方を回るだろう。
「そう」
母さんは小さくうなずいて、それからちらりとレイチェルを見る。
「レイチェルちゃんは今日はどうする?」
「え……?」
急に話を振られて、レイチェルが少し目を丸くした。
エプロン姿のまま、手にしていた小皿をそっと置く。
「とりあえず今日は家でゆっくりしてなさい。まだ本調子じゃないでしょう?」
「でも……お手伝いくらいなら」
「十分してもらってるわ」
母さんは笑う。
実際、オレがランニングから帰ってきたときには、レイチェルはすでに朝食の準備を手伝っていた。
皿を並べたり、箸を置いたり。
慣れないながらも、一生懸命やってる感じだった。
「それに、学校のことも考えないとね」
「あ……」
昨日の話を思い出したのか、レイチェルが少しだけ視線を落とす。
親父は新聞をめくりながら口を開いた。
「転校手続きって、すぐできるもんなのか?」
「どうかしらねぇ……」
母さんは少し考えるように首を傾げる。
「まあ、その辺りは後で市役所とか学校に聞いてみるわ」
「……すみません」
レイチェルが申し訳なさそうに言った。
「迷惑、かけてばかりで……」
「気にしないの」
母さんはあっさり返す。
「うちが勝手にやってることなんだから」
「でも――」
「レイチェルちゃん」
母さんは、やわらかい声で言葉を重ねた。
「頼られるの、嫌いじゃないのよ」
「……」
レイチェルは少しだけ目を見開いて、それから小さく口を閉じた。
なんて返せばいいかわからない、って顔。
その横で、ミィルはテーブルの端にちょこんと座っている。
今は完全に“ちょっと変わったペット”みたいな扱いになっていた。
親父なんか、さっきから普通に煮干しちぎって与えてるし。
「しかし、ほんと不思議なやつだな」
親父がミィルを見る。
ミィルは煮干しをもぐもぐ食べながら、ふんす、と鼻を鳴らした。
「賢いよな、こいつ」
「……まあな」
オレも焼き鮭をほぐしながら頷く。
というか。
“賢い”どころじゃない気がするんだけど。
昨日の夜の様子を思い出す。
あの目。
妙に人間っぽい反応。
「……」
けど、それを口には出さなかった。
なんとなく。
まだ、その辺りに踏み込むタイミングじゃない気がしたからだ。
レイチェルも、どこか慎重だったし。
「ショーゴさん」
不意に、レイチェルがオレを見る。
「ん?」
まだ少し敬語っぽい。
「昨日は……本当にありがとうございました」
真面目な顔で、ぺこりと頭を下げる。
「助けてくれて」
「オレが好きでやった事だからな。どういたしましてってやつだ」
なんか真正面から礼を言われると、妙に落ち着かない。
「オレだけじゃないし。母さんも親父もいるだろ」
「それでも、です」
レイチェルはそう言って、小さく笑った。
昨日より、少しだけ表情が柔らかい。
その瞬間。
ミィルがぴょこんとレイチェルの膝に飛び移った。
「わっ」
レイチェルが慌てて受け止める。
その様子に、母さんがくすっと笑った。
「ほんと懐いてるわねぇ」
「……家族だから」
レイチェルが自然にそう答える。
その言葉に、少しだけ空気が静かになった。
家族。
その響きに込められたものを、なんとなく感じた気がした。
でも、誰もそこには触れない。
代わりに親父が、味噌汁をすすりながら言った。
「まあ、しばらくは賑やかになりそうだな」
「そうね」
母さんが笑う。
朝の光が、窓から差し込んでいた。
昨日までと同じ朝のはずなのに。
なんとなく。
少しだけ、世界が変わった気がした。
「ごちそうさま」
オレは箸を置いて、湯飲みのお茶を飲み干す。
「はい、お粗末さま」
母さんが空いた皿をまとめ始める。
レイチェルも慌てて立ち上がった。
「あ、わたしも手伝います」
「ありがとう。それじゃあ、レイチェルちゃんは食器を拭いてくれる?」
「はい」
母さんとレイチェルのやりとりを見ながら、オレは椅子の背にかけていた通学鞄を手に取った。
玄関へ向かいながら、ふと後ろを振り返る。
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
母さんが答える。
親父は新聞を読みながら片手を軽く上げた。
「気をつけてな」
「ん」
それから。
少し遅れて、レイチェルも小さく口を開く。
「……いってらっしゃい」
まだ少し遠慮がちな声。
けれど昨日より自然だった。
オレは一瞬だけ目を丸くして、それから軽く頷く。
「おう、行ってきます」
玄関でローファーを履く。
制服の感触にも、朝の空気にも、もう慣れているはずなのに。
今日はなんとなく、家の中を意識してしまう。
後ろでは、ミィルがちょこちょこと廊下までついてきていた。
「……お前、見送りか?」
しゃがみ込んで頭を軽く撫でる。
ミィルは「くるる」と小さく喉を鳴らし、オレの腕に頭を擦りつけるてきた。こうやって擦りつけてくるのって、何の意味あるんだったか?
「かわいいやつだな。じゃ、行って来る」
撫でるのを止めドアを開ける。
オレは肩に鞄をかけ直して、一歩外へ出た。
「……さて」
いつも通りの一日のはずなのに。
家には、銀髪の少女と謎生物がいる。
今までとは違う日常が始まったと改めて思う。
「……ほんと、変なことになったな」
苦笑しながら、オレは歩き出した。