トーコさんに連れられて、わたしの日用品を揃えるための買い物を終えた頃には、空はもう茜色に染まり始めていた。
歯ブラシ、タオル、部屋着。
「これも必要でしょう?」と自然に籠へ入れていくトーコさんに、わたしは何度も「そんな、そこまで……」と言ったけれど、トーコさんにこにこと笑うだけだった。
家へ戻り、買ってきた物を客間へ収納し終える頃には、外はかなり暗くなっていた。
その時だった。
ベッドの上で丸くなっていたミィルが、ぴくりと耳を立てる。
「……ミィル?」
ミィルは勢いよく立ち上がった。
灰色の尻尾が逆立っている。
「レイチェル、まずい事になったわ」
低い声。
いつもの軽い調子じゃない。
「ショーゴが襲われたわ」
「……え」
思考が、一瞬止まる。
「……嘘」
「朝、念のためマーキングしておいて正解だった」
ミィルの目が細くなる。
「正護が危ない」
「……っ」
胸が嫌な音を立てる。
頭が真っ白になりそうになるのを無理やり押さえ込んだ。
「……行くよ、ミィル」
「ええ、急ぐわよ」
ミィルが部屋を飛び出す。
小さな身体で階段を駆け下り、玄関を前脚でかりかりと掻いた。
わたしも慌てて後を追う。
キッチンでは、トーコさんが夕飯の支度をしていた。
味噌汁の香りがする。
いつも通りの、温かな光景。
なのに。
今はそれが、妙に遠く感じた。
「トーコさん」
声が少しだけ震える。
「ミィルが外に出たがってるから、少し散歩に行ってきます」
「そうなの?」
トーコさんが振り返る。
その目が、わたしを映す。
一瞬だけ--本当に、一瞬だけ。
表情が変わった気がした。
けれど。
「暗くなってきてるから、早めに帰ってきなさいね?」
それ以上は聞かなかった。
「……はい」
わたしは小さくうなずいて、家を飛び出した。
◇◆◇
ミィルを追って走る。
夜の住宅街。
街灯がぼんやり道を照らしている。
「こっちよ!」
ミィルが角を曲がる。
その先。
「……っ!」
ショーゴさんが倒れていた。
アスファルトの上に、うつ伏せで。
「ショーゴさん!」
駆け寄る。
周囲に人影はない。
けれど。
空気が妙だった。
冷たい。
重い。
人払いの結界が残っているから騒ぎになっていないんだ。
「……どう、ミィル?」
わたしは震える声で尋ねる。
ミィルは正護さんの側へ降り立ち、小さな前脚を身体へ触れさせた。
「かなり力を吸われてるわね……」
険しい顔。
「レイチェル、まだ本調子じゃないだろうけど、あなたの力を分けてあげて」
「……うん」
わたしは正護さんの左手を両手で包み込む。
冷たい。
ゆっくり息を吐く。
そして、自分の内側の力を流し込んでいく。
じんわりと。
染み込ませるように。
急ぎすぎないように。
少しずつ。
少しずつ。
すると。
正護さんの指先が、微かに動いた。
「……ッ」
閉じていた瞼がゆっくり開く。
「……レイチェル……?」
ぼやけた視線がこちらを向く。
「……と、ミィルか? どうした……?」
「……散歩してたら、ショーゴさんが倒れてたから」
我ながら苦しい言い訳だった。
「倒れてた……?」
ショーゴさんは眉を寄せる。
そして次の瞬間。
「――そうだ、オレ……!」
勢いよく身体を起こした。
「アイツは!?」
辺りを見回す。
呼吸が荒い。
ショーゴさんは腹を押さえて、制服をめくった。
わたしは思わず、ばっと後ろを向く。
「た、確かに貫かれたはずだ……」
困惑した声。
「傷がない……でも、妙な痛みだけ残ってる……」
「夢……じゃねぇよな……?」
ショーゴさんが頭を押さえる。
わたしは言葉に詰まった。
もう誤魔化せない。
絶対に。
ショーゴさんは、わたしたちのせいで巻き込まれた。
ミィルを見る。
ミィルは小さく首を横に振った。
“今はまだ”
そう言いたげに。
けれど。
もう限界だった。
「……ショーゴさん」
「……ん?」
「歩ける?」
少し沈黙してから、ショーゴさんは立ち上がる。
「ああ……たぶん、大丈夫だ」
まだ顔色は悪い。
でも、立てている。
わたしは小さく息を吸った。
「……帰った後で、話したいことがあるの」
「……話?」
「うん」
胸が痛い。
自分のせいで巻き込んでしまった。
隠したままでいれると思っていた。
でも。
もう無理だ。
今日のこと。
昨日のこと。
全部。
ショーゴさんにだけは話さなきゃいけない気がした。
◇◆◇
帰り道は静かだった。
街灯の明かりだけが、夜道をぼんやり照らしている。
正護さんは時折腹を気にするように押さえていた。
ミィルは少し前を歩きながら、周囲を警戒している。
誰も、ほとんど喋らなかった。
やがて家が見えてくる。
玄関の灯りが、暗い夜の中でやけに暖かかった。
扉を開いた瞬間。
「おかえり。あら、一緒だったのね?」
「ああ、そこでばったりとな」
トーコさんの声がした。
いつも通りの声。
けれど。
リビングから出てきたトーコさんは、ショーゴさんを見るなり一瞬だけ目を細めた。
「……何かあったの?」
「……」
ショーゴさんが言葉を詰まらせる。
わたしも俯いたまま黙ってしまった。
短い沈黙。
でも、トーコさんは、それ以上聞かなかった。
「とりあえず、ご飯にしましょうか」
逃げ道を作るみたいに、穏やかにそう言った。
「……はい」
その優しさが、少し苦しかった。
◇◆◇
食事を終えたあと。
わたしとミィルは、ショーゴさんの部屋へ来ていた。
机。
本棚。
無造作に置かれた教科書。
男の子の部屋だ、と思う。
正護さんはベッドへ腰掛けたまま、しばらく黙っていた。
そして。
「……あれ、なんだったんだ」
低い声で言う。
「オレ、刺されたよな」
「……」
「なんで傷がない」
部屋の空気が重くなる。
わたしは、ゆっくり口を開こうとして――
「まあ、当然の疑問よね」
ミィルが喋った。
「…………は?」
ショーゴさんが固まる。
数秒。
本当に数秒、完全に停止した。
それからぎこちなくミィルを見る。
「……今、喋った?」
「喋ったわよ」
「……」
「ちなみに最初から喋れるわ」
「……」
ショーゴさんは無言で顔を覆った。
「マジかよ……」
しばらくそのまま黙り込んでから、ゆっくり顔を上げる。
「……そういや」
「なに?」
「ミィルって何の動物なんだ?」
数秒の沈黙。
ミィルがぱちぱちと瞬きをする。
「私?」
「お前以外いねぇだろ」
「ふふん」
なぜか得意そうに胸を張った。
「私はカーバンクルよ」
「……カー、なんだって?」
「カーバンクル」
「……」
「……」
「……」
ショーゴさんが真顔になる。
「いや待て、もっと狐とかフェネックとか、そういうのじゃねぇのか」
「何よその扱い!」
ミィルが尻尾をぶわっと膨らませた。
「高貴なる幻獣に向かって失礼ね!」
「いや急に幻獣とか言われても……」
頭を押さえるショーゴさん。
完全に処理落ちしていた。
でも。
さっきまでの張り詰めた空気が、少しだけ和らいでいた。
わたしは小さく息を吸う。
そして。
「……ショーゴさん」
声をかける。
ショーゴさんがこちらを見る。
「今日……何があったの?」
「……え?」
「何で、倒れてたの?」
「あー、信じてもらえるか分かんないが、襲われたんだよ。こう、後ろからドスって腹貫いてな」
ショーゴさんは腕で突くような動作をする。
わたしは、その動作を見て嫌な予感がした。
「襲った人、どんな人だった?」
正護さんは眉を寄せた。
少し思い出すように視線を逸らしてから。
「……黒い外套着てた」
「!」
「背が高くて、帽子を深く被ってたから顔は見えなかった」
「……」
ミィルの表情が変わる。
いつもの軽い雰囲気が消えていた。
わたしも、嫌な予感が的中した事を感じた。
「……やっぱり」
小さく呟く。
「ミィル?」
「レイチェル」
ミィルは真っ直ぐわたしを見る。
「もう隠してる場合じゃなさそうよ」
胸が、きゅっと苦しくなる。
逃げられない。
もう、全部話さなきゃいけない。
わたしは震える手を握った。
「……ごめんなさい」
「本当は、巻き込みたくなかった」