第1話 無縁塚の拾い物
赤い花が、視界いっぱいに咲いていた。
最初にそう思った。
次に、土の匂いがした。
湿った草の匂い。
古い木の匂い。
まぶたを開けたはずなのに、しばらく世界の輪郭が掴めなかった。
赤。
黒。
灰色。
揺れる草の影。
どこかで鳥が鳴いている。
「……ここ、どこ?」
自分の声が、思ったより幼く聞こえた。
起き上がろうとして、腕に力が入らなかった。
ぺたりと地面に手をつく。
指先に触れた土はひんやりしていた。
少し湿っていて、爪の間に入り込む感触が妙に生々しい。
ゆっくり、周囲を見る。
赤い花――彼岸花が、道を塞ぐように咲いていた。
その隙間に、古びた墓石がいくつも立っている。
角の欠けた石塔。
文字が削れて読めない碑。
「……えっと」
もう一度、見回す。
墓石のそばには、壊れた道具が転がっていた。
どれも、ここで使われていたものには見えなかった。
どこかで捨てられて、流れ着いて、そのまま残されたもの。
そんなふうに見えた。
……寂しい場所だ。
そう思った瞬間、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
寂しい。
怖い。
……なのに、なぜか懐かしい。
「……いや、懐かしいって何。ボク、こんな場所知らないんだけど」
自分で言って、そこで固まった。
改めて言い直す。
「というか、ボクは……誰?」
……分からない。
何も……分からない。
ボクの住んでた家は?
家族は?
友達は?
昨日、何をしていた?
……いったいボクは、どこからこんなところに来た?
「……ボクは」
言葉が喉で止まった。
自分の名前を言おうとした。
でも、出てこなかった。
「名前……」
分からない。
思い出せない。
家も、家族も、友達も、昨日のことも。
ここへ来る前のことも、何ひとつ浮かんでこなかった。
言葉は分かる。
考えることもできる。
怖いと感じている自分も、たしかにいる。
なのに、その「自分」がどこの誰なのかだけ、すっぽり抜け落ちている。
……これは、かなり怖い。
「……お、落ち着け。うん。まず、ここがどこか見よう」
声に出すと、少しだけ呼吸が戻った。
ボクはもう一度、辺りを見まわした。
古い墓石。
赤い彼岸花。
辺りに所狭しと散らばる捨てられたような道具諸々。
……人の気配はない。
「……墓地、だよね。たぶん。いや、たぶんっていうか、かなり墓地だよね」
……口にした途端、改めて自分が居る場所が怖くなってきた。
「うん。ここに長くいるのは、なし。絶対なし。早く脱出しよう」
そうして立ちあがろうとして自分が着ている服に目が留まった。
「……何この服」
身につけているのは、白を基調とした古い衣だった。
柔らかい布で、ところどころ擦れているけれど、きれいな着物のようにも見える。
……でも、場所が悪かった。
白い衣。
墓地。
彼岸花。
その組み合わせを意識した途端、嫌な言葉が頭に浮かぶ。
葬送の衣。
「……え、縁起でもないこと考えちゃった。今のなし。なしにしよう」
考えた思考に慌ててかぶりをふって立ち上がって改めて自分の状態を細々と観察する。
背丈は墓石と比べると130cmくらいだろうか。
身体のあちこちを確認して分かったが、どうやらボクは小さな女の子になっているようだ。
服装はさっきも確認した白い着物のような服、髪は綺麗な銀色、そして肩には小さな巾着袋が掛かっていた。
もしかしたら何か、手がかりになるものが入っているかもしれない。
そう思って、巾着袋の袋口をほどいて中身を確認してみる。
……でも中には何も入っていなかった。
空っぽだ。
「……何もない」
……そのことが何だかひとりぼっち記憶もなく、ポツンとここにいるボクを暗示しているように見えた。
「……や、やめやめ。しんみりしてる場合じゃないよ、ボク」
ボクは思考を切り替えるために自分の頬を軽く叩いた。
ぱん、ぱん。
……というより、ぺち、ぺち。
音は頼りなかったけれど、それでも少しだけ意識がはっきりした。
「……よし。大丈夫……たぶん何とかなる!」
そう言って自分を鼓舞して膝に力を入れる。
そうしてまずは墓地から脱出しようと歩き出した。
——そのときだった。
「お?」
背後から、声がした。
驚いているようで、どこか面白がっているような声だ。
その声を聞いた瞬間、喉まで悲鳴が上がってきた。
けれど、ひとまず声に出す前に悲鳴を飲み込む。
ボクはゆっくり振り返った。
彼岸花の向こうに、白黒の服を着た少女が立っていた。
大きな黒い帽子。
白いエプロンのようなもの。
片手には箒。
背中には大きな袋を背負っていて、中から金属片や瓶のようなものが覗いている。
傍目から見ればかなり可愛らしい魔女っぽい雰囲気の少女だ。
少女はボクを見て、目を丸くした。
「なんだこりゃ。今日の無縁塚はずいぶん変わったもんが落ちてるな」
「……初対面で落ちてる扱いはやめてよ」
思わず反射的にそう返してしまった。
少女は一瞬きょとんとして、それからにやっと笑う。
「喋る拾い物か。ますます珍しいぜ」
「だから物扱いしないでよ! ……ボクは物じゃないよ……たぶん」
「そこは自信ないのかよ」
「今ちょっと、自分のこと全体に自信がないんだよね」
「大げさだな」
少女は楽しそうに笑った。
不思議なことに、その笑い声を聞いていると、少しだけ息がしやすくなった。
怖くないわけじゃない。
分からないことだらけなのも変わらない。
でも、誰かと話している間だけは、さっきより少しだけ、足元がちゃんとしている気がした。
黒い服の少女は、箒を肩に担いだまま近づいてくる。
「私は霧雨魔理沙。普通の魔法使いだ」
「魔法使い?」
「そうだぜ」
「普通の?」
「普通の」
「……魔法使いって、普通にいるものなの?」
「幻想郷じゃそこまで珍しくないな」
「……幻想郷?」
聞いたことのない場所だった。
ボクの常識ファイルをひっくり返して探しても、そんな場所の記憶は何も引っかからない。
魔理沙はぽかんと呆然とするボクの反応を見て、少しだけ目を細めた。
「……お前、里の子どもじゃないな」
「里?」
「それも知らないのか? じゃあ、博麗神社は?」
「はくれい、じんじゃ?……そんな神社知らない」
「だろうな」
魔理沙は「こいつは厄介な拾い物しちまったぜ」と困ったように頬をぽりぽり掻きながら質問を続ける。
「じゃあ、自分がどこから来たかは?」
本来ならすぐ答えられそうな、そんな質問に答えようとして、やっぱり言葉が止まる。
さっき、自分で確かめたばかりだ。
……何も思い出せない。
「……分からない」
「……名前は?」
「……それも、分からない」
魔理沙はそう聞くとしばらく黙った。
墓地に風が吹く。
彼岸花が風に揺れ、ざわざわと音を立てた。
「……つまり記憶喪失ってやつか?」
「たぶん、そうだと思う。自分のことは分からけど、言葉は分かる。こうして話せるし……魔理沙に拾い物扱いされてることには、ちゃんと文句を言えるよ?」
「なるほど。やっぱり面倒くさそうな拾い物だ」
「だから物じゃないってば」
魔理沙はまた笑った。
「ここは無縁塚だ」
「むえんづか?」
「幻想郷の外れみたいな場所だな。外の世界の物が流れ着くことがある。私はそういう面白いもんを拾いに来たんだが……まさか人間っぽいのがいるとは思わなかった」
「人間っぽい、って何さ」
「見た目は人間だろ。でも無縁塚にひとりでいて、名前も記憶もない。しかもその服、里の子って感じじゃない」
魔理沙はボクの真っ白な服を見ながら言った。
「つまるところ、お前は外来人かもしれないな」
「がいらいじん?」
「外の世界から幻想郷に迷い込んできた人間のことだ。たまにいるんだよ。運が良ければ保護される。運が悪いと……まあ、色々ある」
「色々って、具体的には?」
「……聞きたいのか?」
その言いよどみだけで、だいたい碌でもないことなのだと分かった。
知らない方が幸せな情報というものは、きっと世の中にたくさんある。
そのうちの一つがきっとこれだろう。
「……やっぱ聞きたくない」
「賢明だぜ」
魔理沙はそう言って肩をすくめた。
——そのとき、風に混じって、低い獣のようなこの鳴き声が聞こえた。
食欲によだれが垂れた喉の奥で鳴るような、湿った唸り声だ。
……そして草むらの向こうで、何かが動いた気配もした。
ボクは思わず息を止める。
魔理沙がそちらへ目を向けた。
「……ここって、安全な場所?」
今更ながら魔理沙に聞いてみる。
「……まあ、長居はおすすめしないな」
「……さっきの“色々”ってやつ?」
「まあ、その中のひとつだな」
魔理沙は揺れた草むらを凝視しながらボクを手で後ろに下がるように誘導する。
ボクは恐怖に震える身体を抑えるために肩からかかった巾着袋をぎゅっと握る。
「で、どうする?」
魔理沙が草むらから目を離さずに言った。
「どうする、って?」
「ここに残るか? それとも私についてくるか」
「……ついていったら、どうなるの?」
「そうだな……まずは博麗神社に連れてく。外来人とか結界絡みなら、霊夢に見せるのが早いからな」
「霊夢?」
「博麗霊夢。神社の巫女だ。だいたいの面倒事はあいつに投げればなんとかなる」
「……投げるって言い方悪いな」
「押しつけるとも言う」
「もっと悪くなったよ!」
「安心しろ。霊夢は面倒くさがりだが、悪いやつじゃない。……たぶん」
「最後の“たぶん”が気になるんだけど!?」
「だが、ここに残るよりはましだぜ」
魔理沙はそう言って、箒を軽く持ち直した。
その言葉は、変に飾られていなかった。
魔理沙を全部信じられるわけじゃない。
会ったばかりだし、分からないことも多い。
でも、少なくとも彼女は今、ボクをここに置いていこうとはしていない。
気遣ってくれているのも分かる。
「……行く」
ボクは小さく言った。
「君についていくよ。ここにいるよりは、きっといいと思うから」
「決まりだな」
そう言うと、何故か持っていた箒に跨った。
そして箒に跨ったまま、ふと思い出したように言った。
「そういや、お前の名前、本当に分からないんだよな?」
「うん」
「呼び名がないと不便だな」
「それは、まあ。毎回“お前”だとちょっと嫌かも」
「じゃあ、とりあえずナナシでいいか」
「……ナナシ?」
「名前なしだからナナシ。仮だ、仮。思い出したらそっちを名乗ればいい」
魔理沙は軽く言った。
きっと、その名づけに深い意味なんてなかったのだと思う。
呼びにくいから。
名前がないから。
とりあえず。
そのくらいの、軽い言葉。
けれど。
「ナナシ……」
小さく繰り返す。
変な名前だと思う。
名前がないからナナシなんて、あまりにも安直、そのままだ。
もう少し何かあったんじゃないかな、とも思う。
……でも、嫌ではなかった。
ボクはもう一度空っぽの巾着袋をぎゅっと握った。
中には何も入っていない。
記憶も、名前も、どこから来たのかも分からない。
……それでも今、ひとつだけ持っているものがある。
ナナシ。
仮の名前。
拾われたついでみたいに与えられた、ボクを呼ぶための言葉。
ボクには、仮でも名前がある。
それがなぜか、とても大切なことのように思えた。