赤い花が、視界いっぱいに咲いていた。
最初にそう思った。
次に、土の匂いがした。
湿った草の匂い。
古い木の匂い。
雨に濡れた石のような、冷たく沈んだ匂い。
まぶたを開けたはずなのに、しばらく世界の輪郭が掴めなかった。
赤。
黒。
灰色。
揺れる草の影。
どこかで鳥が鳴いている。
けれど、その声も遠く、まるで厚い布の向こうから聞こえてくるみたいだった。
「……ここ、どこ?」
自分の声が、思ったより幼く聞こえた。
起き上がろうとして、腕に力が入らず、ぺたりと地面に手をつく。
指先に触れた土はひんやりしていた。
少し湿っていて、爪の間に入り込む感触が妙に生々しい。
周囲を見回す。
赤い花――彼岸花が、まるで道を塞ぐように咲いている。
その隙間に、古びた墓石がいくつも立っていた。
角の欠けた石塔。
文字が削れて読めない碑。
誰かの名前が刻まれていたのかもしれない石。
でも、今のボクにはそれが読めなかった。
読めない、というより。
何を読めるのかすら、よく分からなかった。
「……えっと」
もう一度、周りを見る。
墓石のそばには、壊れた道具がいくつも転がっていた。
錆びた缶。
色褪せた看板の欠片。
用途の分からない金属の箱。
古い人形の腕。
寂しい場所だ。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
寂しい。
怖い。
……なのに、なぜか懐かしい。
「……いやいやいや。懐かしいって何。ボク、こんな場所に心当たりないんだけど」
自分で口にして、固まった。
心当たりが、ない。
じゃあ、心当たりのある場所は?
家は?
家族は?
友達は?
……ボクは、どこから来た?
「……ボクは」
言葉が喉で止まった。
自分の名前を言おうとした。
でも、出てこなかった。
頭の中に、ひどく大きな空白があった。
「名前……」
分からない。
思い出せない。
自分の名前が。
急に、足元の地面が遠くなるような感覚がした。
息が浅くなる。
指先が震える。
怖い。
これは、かなり怖い。
けれど、ここで座り込んで黙っていたら、そのまま赤い花の中に埋もれてしまいそうだった。
「だ、大丈夫。落ち着こう。こういう時は状況確認だよ。うん。まず場所」
ボクは深呼吸して、辺りを見た。
「墓地っぽい。かなり墓地っぽい。できれば外れていてほしいけど、希望と現実は別物だよね」
次に、自分の手を見る。
「次に持ち物。服。……服?」
そこでようやく、自分の姿に目が向いた。
身につけているのは、白を基調とした古い衣だった。
柔らかい布で、ところどころ擦れている。
旅装束にも見える。
でも、白い布が墓石の間にあると、どうしても別のものに見えてしまう。
葬送の衣。
そう思った途端、背筋が冷えた。
「……え、縁起でもないこと考えちゃった。今のなし。なしにしよう」
袖口には、解けかけた細い紐が残っていた。
何かを結んでいたのか、縛っていたのか。
胸元には小さな麻袋が括りつけられている。
震える手で、それをほどいた。
中を覗く。
何も入っていなかった。
空っぽ。
小さな袋の中身が空だっただけなのに、それがひどく恐ろしいことのように思えた。
何かを入れるための袋。
何かを入れていたはずの袋。
けれど今は何もない。
それは、今のボクの状態とよく似ていた。
「……や、やめやめ。しんみりしてる場合じゃないよ、ボク」
ボクは震える手で、自分の頬を軽く叩いた。
ぱん、ぱん。
音は頼りなかったけれど、何もしないよりはましだった。
「……よし。大丈夫。たぶん」
自分に言い聞かせて、立ち上がろうとする。
——その時だった。
「お?」
背後から、声がした。
軽い声。
驚いているのに、どこか面白がっているような声。
振り返る。
彼岸花の向こうに、黒い服の少女が立っていた。
大きな黒い帽子をかぶり、白いエプロンのようなものをつけている。
片手には箒。
背中には妙に大きな袋を背負っていて、中から金属片や瓶のようなものが覗いていた。
少女はボクを見て、目を丸くした。
「なんだこりゃ。今日の無縁塚はずいぶん変わったもんが落ちてるな」
「……落ちてる扱い?」
思わず返してしまった。
少女は一瞬きょとんとして、それからにやっと笑った。
「喋る拾い物か。ますます珍しいぜ」
「拾い物じゃないよ……たぶん。自信はないけど」
「自信ないのかよ」
「今ちょっと、自分の人生全体に自信が持てない状況で……」
「大げさだな」
「初対面で拾い物認定された側としては、これでも控えめな表現だよ」
口にしてから、少しだけ驚いた。
怖い。
すごく怖い。
知らない場所で、知らない人に見つかって、自分の名前すら分からない。
なのに、言葉だけはぽんぽん出てくる。
まるで、こうやって軽口を叩いていないと、心が崩れてしまうのを知っているみたいに。
黒い服の少女は箒を肩に担ぎ、ボクの前まで歩いてきた。
「私は霧雨魔理沙。普通の魔法使いだ」
「魔法使い」
「そうだぜ」
「普通の?」
「普通の」
「……魔法使いって、普通にいるものなの?」
「幻想郷じゃそこまで珍しくないな」
「幻想郷」
聞いたことのない言葉だった。
少なくとも、今のボクの頭の中には引っかからない。
魔理沙と名乗った少女は、ボクの反応をじっと見た。からかうような笑みが、少しだけ薄くなる。
「お前、人間の里の子どもじゃないな」
「人間の里?」
「それも知らないか。じゃあ、博麗神社は?」
「はくれい、じんじゃ」
「知らないんだな」
「うん。ごめん、知らない」
「謝ることじゃないぜ」
魔理沙は軽く言って、それから少しだけ声を落とした。
「じゃあ、自分がどこから来たかは?」
答えようとして、また空白にぶつかった。
胸の奥が痛くなる。
「……分からない」
「名前は?」
「……それも」
魔理沙はしばらく黙った。
風が吹く。
彼岸花が揺れた。
赤い花が、ざわざわと音を立てる。
「記憶喪失ってやつか?」
「たぶん、そうだと思う。自分のことが分からない。でも、言葉は分かるし、こうして話せるし、君がボクを拾い物扱いしていることに抗議するくらいの判断力はあるよ」
「なるほど。面倒くさそうな拾い物だ」
「だから拾い物じゃないってば」
魔理沙は楽しそうに笑った。
その笑い方は、不思議と怖くなかった。
初対面だ。
完全に安心できるわけではない。
それでも、この場所の墓石や赤い花よりは、ずっと生きている感じがした。
「ここは無縁塚だ」
「むえんづか?」
「幻想郷の外れみたいな場所だな。外の世界の物が流れ着くことがある。私はそういう面白いもんを拾いに来たんだが……まさか人間っぽいのが落ちてるとは思わなかった」
「人間っぽい、って何」
「いや、見た目は人間だろ。でも無縁塚にひとりで倒れてて、名前も記憶もない。しかもその服、里の子って感じじゃない。外来人かもしれないな」
「がいらいじん?」
「外の世界から幻想郷に迷い込んできた人間のことだ。たまにいるんだよ。運が良ければ保護される。運が悪いと……まあ、色々ある」
「色々って、具体的には?」
「……聞きたいか?」
その間だけで、だいたい碌でもないことなのだと分かった。
知らない方が幸せな情報というものは、きっと世の中にある。
「やっぱ聞きたくないです」
「賢いな」
魔理沙は肩をすくめた。
外の世界。
幻想郷。
外来人。
言葉だけが目の前に並ぶ。
けれど、そのどれにも自分の記憶は反応しなかった。
もしかしたらボクは、その外の世界から来たのかもしれない。
けれどそう言われても、外の世界がどんな場所だったのか思い出せない。
自分の名前すら分からないのに、世界のことなんて分かるはずがなかった。
「無縁塚って、生きた人間がいていい場所なの?」
「長居はおすすめしないな」
「理由は?」
「色々だ」
「……さっきからその便利な言葉で怖い情報を包むのやめてくれないかな」
「じゃあ率直に言うと、妖怪に見つかったら骨までバリバリ食われるかもしれない」
「やっぱ包んで! 優しく包んで! 怖い!」
魔理沙はまた笑った。
ボクは思わず麻袋を握りしめる。
中身は空っぽなのに、何かにしがみついている気分になった。
名前がない。
記憶がない。
起きた場所は墓地みたいなところ。
出会った相手は箒を持った魔法使い。
しかも、ここにこのままいると妖怪に骨まで食べられるかもしれないらしい。
情報量が多い。
多すぎる。
訳も分からず叫び出さないだけ、かなり偉いと思う。
「で、どうするんだ?」
魔理沙が言った。
「どうする、って?」
「ここに残るか? それとも私についてくるか」
「……ついていったら、どうなるの?」
「博麗神社に連れてく。外来人とか結界絡みなら、霊夢に見せるのが早い」
「霊夢?」
「博麗霊夢。神社の巫女だ。だいたいの面倒事はあいつに投げればなんとかなる」
「今、投げるって言った?」
「押しつけるとも言う」
「言い直して悪化したよ」
「安心しろ。霊夢は面倒くさがりだが、悪いやつじゃない。……たぶん」
「最後の“たぶん”が不安なんだけど」
「だが、ここに残るよりはましだぜ」
それは、たぶん本当だった。
魔理沙を完全に信用できるわけじゃない。
そもそも、会ったばかりだ。
相手は自分を拾い物扱いする。
危ない情報を雑に包んだり開けたりする。
普通の魔法使いを名乗っている。
怪しいか怪しくないかで言えば、かなり怪しい。
けれど。
ここにひとりで残るのは、もっと怖かった。
墓石の間で、名前もなく、行き先もなく、赤い花に囲まれて座り込んでいる自分を想像する。
想像しただけで、喉の奥が詰まった。
「……行く」
ボクは小さく言った。
「君についていくよ。ここにいるよりは、きっといいと思うから」
「決まりだな」
魔理沙は満足そうに頷くと、くるりと背を向けた。
「歩けるか?」
「たぶん。……転んだら笑わないでね」
「善処する」
「笑う気だ」
「ちょっとだけな」
「正直なのは美徳だけど、使いどころは選んだ方がいいと思うよ」
膝はまだ少し震えていた。
それでも、一歩ずつ進む。
彼岸花の間の細い道を、魔理沙の後ろについて歩いた。
無縁塚の赤が、少しずつ遠ざかっていく。
その途中で、魔理沙がふと思い出したように振り返った。
「そういや、お前の名前、本当に分からないんだよな?」
「うん」
「何か呼び名がないと不便だな」
「それは、そうかも」
「じゃあ、とりあえずナナシでいいか」
「……ナナシ」
「名前なしだからナナシ。仮だ、仮。思い出したらそっちを名乗ればいい」
魔理沙は軽く笑った。
きっと、深い意味なんてなかったのだと思う。
呼びにくいから。
名前がないから。
とりあえず。
そのくらいの、軽い言葉。
けれど。
ナナシ。
その音が胸の奥に落ちた瞬間、空っぽだった場所に、小さな石がひとつ置かれたような気がした。
名前ではないのかもしれない。
本当の名前では、きっとない。
でも、目を覚ましてから初めて、それはボクを指す言葉だった。
「ナナシ……」
小さく繰り返す。
変な名前だと思う。
名前がないからナナシなんて、あまりにもそのままだ。
雑だ。
安直だ。
もう少し何かあったんじゃないかな、とも思う。
でも。
呼ばれるたびに、ボクの形が少しだけ決まっていく気がした。
「嫌だったか?」
魔理沙が尋ねる。
ボクは首を横に振った。
「ううん。今は、それでいいよ」
「そうか。じゃあ行くぞ、ナナシ」
魔理沙が歩き出す。
ナナシ。
もう一度、その名前が呼ばれた。
胸の奥が、少しだけ揺れた。
ボクは白い衣の胸元を押さえ、空っぽの麻袋を指先で握った。
中には何も入っていない。
記憶も、名前も、何もない。
それでも今、ひとつだけ持っているものがある。
ナナシ。
仮の名前。
拾われたみたいに与えられた、ボクを呼ぶための言葉。
ボクは彼岸花の咲く無縁塚を振り返った。
赤い花と古い墓石が、風の向こうで静かに揺れている。
あそこに倒れていたボクは、何者でもなかった。
でも、ここから歩き出すボクには、仮でも名前がある。
胸元の麻袋が、歩くたびに小さく揺れた。
中身は空っぽのままだ。
けれど、完全な空っぽではなくなった気がする。
ボクは小走りで魔理沙の背中を追いかけた。
「待って、魔理沙」
「ん?」
「神社って、遠い?」
「まあまあだな」
「それ、歩ける距離?」
「箒に乗れば早い」
「箒に?」
「魔法使いだからな」
「……先に言っておくけど、ボク、高いところが平気かどうかも記憶にないよ」
「大丈夫だ。落ちなきゃ平気だ」
「それは大丈夫とは言わないんだよ!」
魔理沙の笑い声が、無縁塚の空に響いた。
怖さはまだ消えない。
不安も、空白も、胸の奥に残っている。
それでもボクは、彼女の後を追った。
博麗神社へ。
幻想郷へ。
そして、まだ知らない自分自身へ向かって。
ナナシは、最初の一歩を踏み出した。