寺子屋の門を出る時、子供たちはまだ手を振っていた。
「ナナシ、またね!」
「次は石のやつ、続きやろうね!」
「なぞなぞも!」
振り返ると、庭の向こうからいくつもの声が飛んでくる。
「うん。またね。次までに、ボクも新しい遊びを仕入れておくよ」
「仕入れるの?」
「遊びにも在庫管理があるんだよ」
「あるの!?」
「たぶん」
子供たちが笑った。
その笑い声に見送られながら、ボクたちは寺子屋を後にした。
門の前で、アリスが足を止める。
「私はここで一度帰るわ」
「アリス?」
「家の様子も気になるし、人形の調整もしたいの。ナナシ、無理はしないようにね」
「うん。ありがとう、アリス」
「また何かあったら、魔法の森に来なさい。道に迷わなければ、だけど」
「そこが一番の難所だね」
ボクがそう言うと、アリスは小さく笑った。
アリスの人形たちが、そろって小さなお辞儀をする。
ボクも慌てて手を振った。
「またね」
「ええ。また」
アリスは静かに空へ上がり、魔法の森の方へ飛んでいった。
そして残されたのは、霊夢と魔理沙とボク。
つまり、帰りの空の旅である。
「……魔理沙」
「なんだ?」
「帰りは飛ばしすぎないでね」
少しばかり、じとっとした目で言ってみる。
「分かってるぜ」
「返事が軽いよ」
「信用ってどうやったら増えるんだ?」
「実績だね」
「厳しいな」
「命を預ける話だからね?」
そこで一応、霊夢に向き直って聞いてみる。
「……徒歩という選択肢は」
「ないわ」
「即答」
「今から歩いて帰ったら、日が暮れるでしょ」
「合理的だけど、心に優しくない」
「慣れなさい」
「地面から離れることに?」
「幻想郷に」
「範囲が急に広い」
結局、帰り道も空だった。
それでも行きより少しだけ慣れた気がした。
……いや、気のせいかもしれない。
少なくとも、地面が遠いという事実は何ひとつ改善されていなかった。
ボクは変わらず魔理沙の背中にしがみつきながら、時々ちらりと下を見る。
木々の上を流れる風。
遠くに見える里の屋根。
山の輪郭。
夕方に傾き始めた空。
怖い。
怖いけれど、少しだけ綺麗だとも思った。
それが困る。
怖いものは、怖いだけでいてくれた方が整理しやすいのに。
◇
博麗神社に戻る頃には、足が少しふらついていた。
魔理沙の箒から降りると、ボクはしばらく地面を見つめた。
「地面……今日も支えてくれてありがとう」
「また言ってる」
霊夢が呆れたように言う。
「再確認は大事だよ。支えてくれるものへの感謝を忘れると、人は足元をすくわれる」
「今の、微妙にうまいこと言ったつもり?」
「言いながらちょっと思った」
「仕事に入る前から疲れるわね」
霊夢はそう言って、神社の方へ歩き出した。
「戻ったら着替えなさい。さっそく仕事を教えるわ」
「了解」
「お、いよいよ雑用係見習いの初仕事か」
魔理沙が面白そうに言う。
「見守る気?」
「もちろんだぜ」
「手伝う気は?」
「必要になったらな」
「それ、だいたい必要にならないやつだ」
「よく分かってるじゃないか」
◇
ボクは買ってもらった古着に着替えた。
白い衣とは違う、里の子供が着ていそうな動きやすい服。
少し色あせた布。
柔らかくなった袖口。
誰かが前に使っていたらしい、膝のあたりの小さな繕い跡。
新品ではない。
けれど、その分だけ暮らしに近い感じがした。
袖を通すと、少しだけ自分がこの場所の日常に混ざった気がする。
「……どうかな?」
霊夢に聞くと、霊夢は一度、上から下まで見る。
「……まあ、いいんじゃない」
「霊夢の“まあ”は合格?」
「合格」
「やったね」
魔理沙も頷いた。
「お、ちゃんと里の子供っぽいぜ」
「中身は? 今日で幻想郷に順応できた?」
「それは知らん」
「外見だけ先に現地適応していく……」
「いいじゃない。見た目が浮かないのは大事よ」
霊夢はそう言って、ほうきを1本、ボクに渡した。
受け取った瞬間、手に少し重みが乗る。
魔法の箒ではない。
飛ばない方の箒だ。
今のボクにとっては、たぶんこちらの方が信用できる。
「まずは境内の掃除」
霊夢が指を折りながら説明する。
「落ち葉を集めて、参道を掃いて、賽銭箱周りも綺麗にする。手水舎の水も見ること。拝殿の中は私が確認してからね」
「了解。境内、参道、賽銭箱、手水舎。拝殿は霊夢確認後」
「覚えるの早いわね」
「仕事の指示は復唱すると事故が減るんだよね」
「妙にしっかりしてる……」
「ちなみに、この仕事の優先順位は?」
「優先順位?」
「参拝客が来る場所から先に綺麗にするのか、目につくところからか、危ないところからか」
霊夢は少しだけ考える。
「……参道と賽銭箱周り」
「理由は?」
「参拝客が来るところだし、賽銭箱周りが汚いと印象が悪いでしょ」
「なるほど。神社運営上、重要地点」
「変な言い方しない」
「でも大事だよ。賽銭箱周りは神社の顔、ということだね」
「まあ、そうね」
ボクはほうきを握り直した。
「了解。まずは神社の顔面を整えるね」
「やっぱり変な言い方するじゃない」
魔理沙が縁側に腰を下ろしながら笑う。
「いいじゃないか。やる気はあるみたいだぜ」
「やる気はあるよ。住む場所を提供されているからね。労働で返すのは社会的に妥当」
「急に固いわね」
「あと、神社の設備と待遇を正しく把握しておきたい」
「そっちが本音かしら」
「働く場所の環境確認は大事だよ」
そうして、ボクの神社での仕事が始まった。
ほうきで参道を掃く。
落ち葉を集め、石段の隅に溜まった砂を払う。
賽銭箱の周りを拭き、手水舎の桶を整える。
やることは多い。
けれど、ひとつずつ片づいていくのは嫌いではなかった。
掃けば道が見える。
拭けば木目が光る。
整えれば、そこに誰かが来られる。
何かを綺麗にすると、そこに人を迎える準備ができる。
途中で、参拝客がひとりやって来た。
里から来たらしい年配の女性だった。
ボクはほうきを抱えたまま、ぺこりと頭を下げる。
「ようこそ博麗神社へ」
「あら、新しい子かい?」
「はい。住み込み雑用係見習いのナナシです」
「まあ、しっかりしてるねえ」
「ありがとうございます。参拝でしたら、賽銭箱はこちらですよ」
そう言って、ボクは自然に賽銭箱の方を示した。
「お気持ちのある方はぜひ。お気持ちが形になると、神社が助かります」
「あらあら」
「……主に、誰かの生活が」
「余計なこと言わない」
霊夢が縁側からこちらに聞こえるくらい大きい声ですぐに言った。
参拝客はくすくす笑いながら、賽銭箱に小銭を入れてくれた。
からん、と音がする。
その音が、境内に小さく響いた。
霊夢の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「……まあ、悪くないわね」
「霊夢、今ちょっと嬉しそうだった」
「仕事に戻りなさい」
「はい」
返事をして、ボクはまた掃除に戻った。
縁側では、魔理沙が茶を飲みながら感心したように言う。
「あいつ、客あしらいもできるのか」
「妙に愛想がいいのよね」
「賽銭箱の場所を案内する子供。これは強いぜ」
「変な商売みたいに言わないで」
「でも実際、賽銭は入っただろ」
「……それはそう」
霊夢は少し複雑そうだった。
けれど、完全に悪い気はしていないように見える。
その後も、ボクは掃除を続けた。
縁側の埃を払う。
使った桶を洗う。
参道の端に残った落ち葉を集める。
動いているうちに、だんだん身体が温まってくる。
手も足も疲れてきた。
けれど、綺麗になっていく神社を見ると、不思議と力が出た。
今朝まで、ボクはこの場所に置かれているだけだった。
けれど今は、ほんの少しだけ、この場所のために手を動かしている。
居候。
雑用係見習い。
先生見習い。
肩書きだけは増えていく。
名前はまだナナシのままだけれど、何をするかが増えると、少しだけ自分の形が分かる気がした。
……その考えも、雑巾を絞ったところで一度横に置いた。
考えるのは大事。
でも、床の汚れは考えても落ちない。
手を動かす必要がある。
「ナナシ」
「うん?なに?」
「それが終わったら、少し休みなさい」
霊夢が縁側から言った。
「……まだ大丈夫だよ?」
「大丈夫でも休むの」
「大丈夫なのに?」
「倒れてからじゃ遅いでしょ」
「なるほど。予防保全」
「また変な言葉を」
「壊れる前に手入れするって意味」
「あんたは道具じゃないんだから」
霊夢はそう言ってから、少しだけ言葉を切った。
ボクは雑巾を持ったまま瞬きをする。
「……うん」
「分かったなら、少し水を飲みなさい」
「了解」
手水舎の水を使うわけにもいかないので、霊夢が出してくれた水を飲む。
喉を通る冷たさが、思ったより身体に染みた。
休むと、疲れていることが分かる。
動いている間はごまかせていた腕の重さが、急に存在を主張してくる。
「……休憩って、疲れを発見する作業でもあるんだね」
「何でも作業にするわね」
あきれたように言う霊夢。
休憩を挟んでから、ボクはまた掃除に戻る。
夕方の光が、境内の石畳を横から照らしていた。
影が長く伸びる。
空の色が少しずつ変わっていく。
——そんな時だった。
神社の裏手の方から、かすかに湯気のようなものが見えた。
「……霊夢」
「何?」
「あれ、煙?」
「ああ、裏の温泉ね」
「お、温泉……」
ボクはほうきを持ったまま固まった。
「温泉って、あの、あったかいお湯に入るやつ?」
「他に何があるのよ」
「この神社、温泉があるの?」
「裏手にね」
「神社に温泉」
「正確には裏手」
「誤差だよ。これは雑用係見習いの福利厚生として強すぎる」
魔理沙が笑う。
「よかったな、ナナシ」
「よかったどころではないよ。ボクはいま、神社という施設の可能性を見直している」
「大げさね」
霊夢はそう言ってから、少しだけ視線をそらした。
「この前、神社の裏に間欠泉が沸いてね。温泉施設があれば人間の参拝者が増えると思ったんだけど……」
そこで言葉が止まる。
「まあ、色々あったのよ」
「色々」
「そう。色々」
霊夢の顔を見る限り、そこには聞いていい色々と、聞かない方がいい色々が混ざっていそうだった。
ボクは賢明にも深追いしないことにした。
「入ってもいい?」
「掃除が終わったらね」
霊夢は何でもないように言った。
「今日の分がちゃんと終わったら、自由に入っていいわよ」
その瞬間、世界が少し輝いた。
「霊夢」
「何よ」
「今日で一番労働意欲が湧いたよ」
「分かりやすいわね」
「温泉が待っているなら、このほうきの重さにも意味が生まれる」
「急に大げさ」
ボクはほうきを握り直した。
「見ていて。ここからのボクは、温泉を目指す超雑用係だよ」
「倒れるまでやるんじゃないわよ」
「倒れる前に入浴するよ」
「そういう意味じゃない」
それからの掃除は早かった。
参道を掃き直し、石段の端まで払う。
賽銭箱の周りを磨き、手水舎の桶を揃える。
最後に、霊夢の確認を受けながら拝殿の床を拭いた。
魔理沙は縁側で茶を飲みながら、その様子を眺めている。
「よく動くなあ」
「手伝う気はないの?」
霊夢が聞く。
「私は応援担当だぜ」
「便利な担当ね」
「ナナシ、頑張れー」
「その応援、かなり省エネだね」
「心は込めてるぜ」
「心の消費量も少なそうだ」
魔理沙が楽しそうに笑う。
ボクはそのぬるい応援を背中に受けながら、雑巾を絞った。
夕方が過ぎ、空が少しずつ暗くなる。
灯りが必要になる頃には、腕がずっしりと重くなっていた。
◇
「……霊夢」
ボクはふらふらしながら立ち上がった。
「境内、参道、賽銭箱周り、手水舎、拝殿。今日の分、終わったよ」
息が切れている。
足もだるい。
でも、声は少し弾んでいた。
霊夢は少し驚いた顔で立ち上がる。
魔理沙も縁側から腰を上げた。
ふたりは境内を見て回る。
参道には落ち葉がほとんどない。
賽銭箱の周りも綺麗になっている。
手水舎の桶も整っている。
拝殿の床は、灯りを受けてうっすら光っていた。
「……こんなに綺麗になるのね」
霊夢がぽつりと言った。
「霊夢、それ自分で言うことか?」
魔理沙が笑う。
「いや、でも本当にすごいぜ。ナナシ、お前よくやったな」
「その言葉、温泉前のボクには沁みるよ」
ボクはほうきを杖のようにして、なんとか立っていた。
「温泉のために、ボクは労働と一時的な友好関係を結んだからね。これくらいへっちゃらだよ」
「一時的なのね」
「明日以降は要相談だね」
霊夢は呆れたように笑った。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「頑張るのはいいけど、無理しすぎないこと。倒れられたら困るわ」
「そうだね」
「返事だけじゃなくて、本当にね」
「うん。気をつけるよ」
「休憩も仕事のうちよ」
「それは今日学んだ」
「ならよし」
霊夢は小さく頷いた。
「入ってきなさい」
ボクは顔を上げた。
「温泉に?」
「温泉に」
「本当に?」
「本当に」
疲れた身体に、最後の力が戻ってくる。
「ありがとう! 霊夢」
その返事は、今日いちばん元気だったと思う。
「分かったから、転ばないように行きなさい」
「了解。入浴までが労働ってことだね」
「違うわよ」
「労働後の報酬受け取り手続きだね」
「もっと違う」
魔理沙が腹を抱えて笑っている。
ボクはほうきを片づけ、裏手の方を見た。
暗くなり始めた神社の奥で、白い湯気がふわりと上がっている。
労働の果てに待つ、あたたかいお湯。
それはきっと、今日のボクに許された最高のご褒美だった。
足元はまだ少しふらつく。
腕も重い。
けれど、湯気の向こうへ向かう足取りだけは、不思議と軽かった。
こうしてボクは、博麗神社の雑用係見習いとしての初仕事を終えた。
そして同時に、ひとつ重要なことを学んだ。
博麗神社の労働には、温泉がついてくる。