東方拾得録   作:まほろばのーぶる

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第10話 博麗神社の福利厚生

 寺子屋の門を出る時、子供たちはまだ手を振っていた。

 

「ナナシ、またね!」

 

「次は石のやつ、続きやろうね!」

 

「なぞなぞも!」

 

 振り返ると、庭の向こうからいくつもの声が飛んでくる。

 

「うん。またね。次までに、ボクも新しい遊びを仕入れておくよ」

 

「仕入れるの?」

 

「遊びにも在庫管理があるんだよ」

 

「あるの!?」

 

「たぶん」

 

 子供たちが笑った。

 

 その笑い声に見送られながら、ボクたちは寺子屋を後にした。

 

 門の前で、アリスが足を止める。

 

「私はここで一度帰るわ」

 

「アリス?」

 

「家の様子も気になるし、人形の調整もしたいの。ナナシ、無理はしないようにね」

 

「うん。ありがとう、アリス」

 

「また何かあったら、魔法の森に来なさい。道に迷わなければ、だけど」

 

「そこが一番の難所だね」

 

 ボクがそう言うと、アリスは小さく笑った。

 

 アリスの人形たちが、そろって小さなお辞儀をする。

 

 ボクも慌てて手を振った。

 

「またね」

 

「ええ。また」

 

 アリスは静かに空へ上がり、魔法の森の方へ飛んでいった。

 

 そして残されたのは、霊夢と魔理沙とボク。

 

 つまり、帰りの空の旅である。

 

「……魔理沙」

 

「なんだ?」

 

「帰りは飛ばしすぎないでね」

 

 少しばかり、じとっとした目で言ってみる。

 

「分かってるぜ」

 

「返事が軽いよ」

 

「信用ってどうやったら増えるんだ?」

 

「実績だね」

 

「厳しいな」

 

「命を預ける話だからね?」

 

 そこで一応、霊夢に向き直って聞いてみる。

 

「……徒歩という選択肢は」

 

「ないわ」

 

「即答」

 

「今から歩いて帰ったら、日が暮れるでしょ」

 

「合理的だけど、心に優しくない」

 

「慣れなさい」

 

「地面から離れることに?」

 

「幻想郷に」

 

「範囲が急に広い」

 

 結局、帰り道も空だった。

 

 それでも行きより少しだけ慣れた気がした。

 

 ……いや、気のせいかもしれない。

 

 少なくとも、地面が遠いという事実は何ひとつ改善されていなかった。

 

 ボクは変わらず魔理沙の背中にしがみつきながら、時々ちらりと下を見る。

 

 木々の上を流れる風。

 

 遠くに見える里の屋根。

 

 山の輪郭。

 

 夕方に傾き始めた空。

 

 怖い。

 

 怖いけれど、少しだけ綺麗だとも思った。

 

 それが困る。

 

 怖いものは、怖いだけでいてくれた方が整理しやすいのに。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 博麗神社に戻る頃には、足が少しふらついていた。

 

 魔理沙の箒から降りると、ボクはしばらく地面を見つめた。

 

「地面……今日も支えてくれてありがとう」

 

「また言ってる」

 

 霊夢が呆れたように言う。

 

「再確認は大事だよ。支えてくれるものへの感謝を忘れると、人は足元をすくわれる」

 

「今の、微妙にうまいこと言ったつもり?」

 

「言いながらちょっと思った」

 

「仕事に入る前から疲れるわね」

 

 霊夢はそう言って、神社の方へ歩き出した。

 

「戻ったら着替えなさい。さっそく仕事を教えるわ」

 

「了解」

 

「お、いよいよ雑用係見習いの初仕事か」

 

 魔理沙が面白そうに言う。

 

「見守る気?」

 

「もちろんだぜ」

 

「手伝う気は?」

 

「必要になったらな」

 

「それ、だいたい必要にならないやつだ」

 

「よく分かってるじゃないか」

 

 

 

 

 

 

 ボクは買ってもらった古着に着替えた。

 

 白い衣とは違う、里の子供が着ていそうな動きやすい服。

 

 少し色あせた布。

 

 柔らかくなった袖口。

 

 誰かが前に使っていたらしい、膝のあたりの小さな繕い跡。

 

 新品ではない。

 

 けれど、その分だけ暮らしに近い感じがした。

 

 袖を通すと、少しだけ自分がこの場所の日常に混ざった気がする。

 

「……どうかな?」

 

 霊夢に聞くと、霊夢は一度、上から下まで見る。

 

「……まあ、いいんじゃない」

 

「霊夢の“まあ”は合格?」

 

「合格」

 

「やったね」

 

 魔理沙も頷いた。

 

「お、ちゃんと里の子供っぽいぜ」

 

「中身は? 今日で幻想郷に順応できた?」

 

「それは知らん」

 

「外見だけ先に現地適応していく……」

 

「いいじゃない。見た目が浮かないのは大事よ」

 

 霊夢はそう言って、ほうきを1本、ボクに渡した。

 

 受け取った瞬間、手に少し重みが乗る。

 

 魔法の箒ではない。

 

 飛ばない方の箒だ。

 

 今のボクにとっては、たぶんこちらの方が信用できる。

 

「まずは境内の掃除」

 

 霊夢が指を折りながら説明する。

 

「落ち葉を集めて、参道を掃いて、賽銭箱周りも綺麗にする。手水舎の水も見ること。拝殿の中は私が確認してからね」

 

「了解。境内、参道、賽銭箱、手水舎。拝殿は霊夢確認後」

 

「覚えるの早いわね」

 

「仕事の指示は復唱すると事故が減るんだよね」

 

「妙にしっかりしてる……」

 

「ちなみに、この仕事の優先順位は?」

 

「優先順位?」

 

「参拝客が来る場所から先に綺麗にするのか、目につくところからか、危ないところからか」

 

 霊夢は少しだけ考える。

 

「……参道と賽銭箱周り」

 

「理由は?」

 

「参拝客が来るところだし、賽銭箱周りが汚いと印象が悪いでしょ」

 

「なるほど。神社運営上、重要地点」

 

「変な言い方しない」

 

「でも大事だよ。賽銭箱周りは神社の顔、ということだね」

 

「まあ、そうね」

 

 ボクはほうきを握り直した。

 

「了解。まずは神社の顔面を整えるね」

 

「やっぱり変な言い方するじゃない」

 

 魔理沙が縁側に腰を下ろしながら笑う。

 

「いいじゃないか。やる気はあるみたいだぜ」

 

「やる気はあるよ。住む場所を提供されているからね。労働で返すのは社会的に妥当」

 

「急に固いわね」

 

「あと、神社の設備と待遇を正しく把握しておきたい」

 

「そっちが本音かしら」

 

「働く場所の環境確認は大事だよ」

 

 そうして、ボクの神社での仕事が始まった。

 

 ほうきで参道を掃く。

 

 落ち葉を集め、石段の隅に溜まった砂を払う。

 

 賽銭箱の周りを拭き、手水舎の桶を整える。

 

 やることは多い。

 

 けれど、ひとつずつ片づいていくのは嫌いではなかった。

 

 掃けば道が見える。

 

 拭けば木目が光る。

 

 整えれば、そこに誰かが来られる。

 

 何かを綺麗にすると、そこに人を迎える準備ができる。

 

 途中で、参拝客がひとりやって来た。

 

 里から来たらしい年配の女性だった。

 

 ボクはほうきを抱えたまま、ぺこりと頭を下げる。

 

「ようこそ博麗神社へ」

 

「あら、新しい子かい?」

 

「はい。住み込み雑用係見習いのナナシです」

 

「まあ、しっかりしてるねえ」

 

「ありがとうございます。参拝でしたら、賽銭箱はこちらですよ」

 

 そう言って、ボクは自然に賽銭箱の方を示した。

 

「お気持ちのある方はぜひ。お気持ちが形になると、神社が助かります」

 

「あらあら」

 

「……主に、誰かの生活が」

 

「余計なこと言わない」

 

 霊夢が縁側からこちらに聞こえるくらい大きい声ですぐに言った。

 

 参拝客はくすくす笑いながら、賽銭箱に小銭を入れてくれた。

 

 からん、と音がする。

 

 その音が、境内に小さく響いた。

 

 霊夢の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 

「……まあ、悪くないわね」

 

「霊夢、今ちょっと嬉しそうだった」

 

「仕事に戻りなさい」

 

「はい」

 

 返事をして、ボクはまた掃除に戻った。

 

 縁側では、魔理沙が茶を飲みながら感心したように言う。

 

「あいつ、客あしらいもできるのか」

 

「妙に愛想がいいのよね」

 

「賽銭箱の場所を案内する子供。これは強いぜ」

 

「変な商売みたいに言わないで」

 

「でも実際、賽銭は入っただろ」

 

「……それはそう」

 

 霊夢は少し複雑そうだった。

 

 けれど、完全に悪い気はしていないように見える。

 

 その後も、ボクは掃除を続けた。

 

 縁側の埃を払う。

 

 使った桶を洗う。

 

 参道の端に残った落ち葉を集める。

 

 動いているうちに、だんだん身体が温まってくる。

 

 手も足も疲れてきた。

 

 けれど、綺麗になっていく神社を見ると、不思議と力が出た。

 

 今朝まで、ボクはこの場所に置かれているだけだった。

 

 けれど今は、ほんの少しだけ、この場所のために手を動かしている。

 

 居候。

 

 雑用係見習い。

 

 先生見習い。

 

 肩書きだけは増えていく。

 

 名前はまだナナシのままだけれど、何をするかが増えると、少しだけ自分の形が分かる気がした。

 

 ……その考えも、雑巾を絞ったところで一度横に置いた。

 

 考えるのは大事。

 

 でも、床の汚れは考えても落ちない。

 

 手を動かす必要がある。

 

「ナナシ」

 

「うん?なに?」

 

「それが終わったら、少し休みなさい」

 

 霊夢が縁側から言った。

 

「……まだ大丈夫だよ?」

 

「大丈夫でも休むの」

 

「大丈夫なのに?」

 

「倒れてからじゃ遅いでしょ」

 

「なるほど。予防保全」

 

「また変な言葉を」

 

「壊れる前に手入れするって意味」

 

「あんたは道具じゃないんだから」

 

 霊夢はそう言ってから、少しだけ言葉を切った。

 

 ボクは雑巾を持ったまま瞬きをする。

 

「……うん」

 

「分かったなら、少し水を飲みなさい」

 

「了解」

 

 手水舎の水を使うわけにもいかないので、霊夢が出してくれた水を飲む。

 

 喉を通る冷たさが、思ったより身体に染みた。

 

 休むと、疲れていることが分かる。

 

 動いている間はごまかせていた腕の重さが、急に存在を主張してくる。

 

「……休憩って、疲れを発見する作業でもあるんだね」

 

「何でも作業にするわね」

 

 あきれたように言う霊夢。

 

 休憩を挟んでから、ボクはまた掃除に戻る。

 

 夕方の光が、境内の石畳を横から照らしていた。

 

 影が長く伸びる。

 

 空の色が少しずつ変わっていく。

 

 ——そんな時だった。

 

 神社の裏手の方から、かすかに湯気のようなものが見えた。

 

「……霊夢」

 

「何?」

 

「あれ、煙?」

 

「ああ、裏の温泉ね」

 

「お、温泉……」

 

 ボクはほうきを持ったまま固まった。

 

「温泉って、あの、あったかいお湯に入るやつ?」

 

「他に何があるのよ」

 

「この神社、温泉があるの?」

 

「裏手にね」

 

「神社に温泉」

 

「正確には裏手」

 

「誤差だよ。これは雑用係見習いの福利厚生として強すぎる」

 

 魔理沙が笑う。

 

「よかったな、ナナシ」

 

「よかったどころではないよ。ボクはいま、神社という施設の可能性を見直している」

 

「大げさね」

 

 霊夢はそう言ってから、少しだけ視線をそらした。

 

「この前、神社の裏に間欠泉が沸いてね。温泉施設があれば人間の参拝者が増えると思ったんだけど……」

 

 そこで言葉が止まる。

 

「まあ、色々あったのよ」

 

「色々」

 

「そう。色々」

 

 霊夢の顔を見る限り、そこには聞いていい色々と、聞かない方がいい色々が混ざっていそうだった。

 

 ボクは賢明にも深追いしないことにした。

 

「入ってもいい?」

 

「掃除が終わったらね」

 

 霊夢は何でもないように言った。

 

「今日の分がちゃんと終わったら、自由に入っていいわよ」

 

 その瞬間、世界が少し輝いた。

 

「霊夢」

 

「何よ」

 

「今日で一番労働意欲が湧いたよ」

 

「分かりやすいわね」

 

「温泉が待っているなら、このほうきの重さにも意味が生まれる」

 

「急に大げさ」

 

 ボクはほうきを握り直した。

 

「見ていて。ここからのボクは、温泉を目指す超雑用係だよ」

 

「倒れるまでやるんじゃないわよ」

 

「倒れる前に入浴するよ」

 

「そういう意味じゃない」

 

 それからの掃除は早かった。

 

 参道を掃き直し、石段の端まで払う。

 

 賽銭箱の周りを磨き、手水舎の桶を揃える。

 

 最後に、霊夢の確認を受けながら拝殿の床を拭いた。

 

 魔理沙は縁側で茶を飲みながら、その様子を眺めている。

 

「よく動くなあ」

 

「手伝う気はないの?」

 

 霊夢が聞く。

 

「私は応援担当だぜ」

 

「便利な担当ね」

 

「ナナシ、頑張れー」

 

「その応援、かなり省エネだね」

 

「心は込めてるぜ」

 

「心の消費量も少なそうだ」

 

 魔理沙が楽しそうに笑う。

 

 ボクはそのぬるい応援を背中に受けながら、雑巾を絞った。

 

 夕方が過ぎ、空が少しずつ暗くなる。

 

 灯りが必要になる頃には、腕がずっしりと重くなっていた。

 

 

 

 

 

 

「……霊夢」

 

 ボクはふらふらしながら立ち上がった。

 

「境内、参道、賽銭箱周り、手水舎、拝殿。今日の分、終わったよ」

 

 息が切れている。

 

 足もだるい。

 

 でも、声は少し弾んでいた。

 

 霊夢は少し驚いた顔で立ち上がる。

 

 魔理沙も縁側から腰を上げた。

 

 ふたりは境内を見て回る。

 

 参道には落ち葉がほとんどない。

 

 賽銭箱の周りも綺麗になっている。

 

 手水舎の桶も整っている。

 

 拝殿の床は、灯りを受けてうっすら光っていた。

 

「……こんなに綺麗になるのね」

 

 霊夢がぽつりと言った。

 

「霊夢、それ自分で言うことか?」

 

 魔理沙が笑う。

 

「いや、でも本当にすごいぜ。ナナシ、お前よくやったな」

 

「その言葉、温泉前のボクには沁みるよ」

 

 ボクはほうきを杖のようにして、なんとか立っていた。

 

「温泉のために、ボクは労働と一時的な友好関係を結んだからね。これくらいへっちゃらだよ」

 

「一時的なのね」

 

「明日以降は要相談だね」

 

 霊夢は呆れたように笑った。

 

 それから、少しだけ真面目な顔になる。

 

「頑張るのはいいけど、無理しすぎないこと。倒れられたら困るわ」

 

「そうだね」

 

「返事だけじゃなくて、本当にね」

 

「うん。気をつけるよ」

 

「休憩も仕事のうちよ」

 

「それは今日学んだ」

 

「ならよし」

 

 霊夢は小さく頷いた。

 

「入ってきなさい」

 

 ボクは顔を上げた。

 

「温泉に?」

 

「温泉に」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

 疲れた身体に、最後の力が戻ってくる。

 

「ありがとう! 霊夢」

 

 その返事は、今日いちばん元気だったと思う。

 

「分かったから、転ばないように行きなさい」

 

「了解。入浴までが労働ってことだね」

 

「違うわよ」

 

「労働後の報酬受け取り手続きだね」

 

「もっと違う」

 

 魔理沙が腹を抱えて笑っている。

 

 ボクはほうきを片づけ、裏手の方を見た。

 

 暗くなり始めた神社の奥で、白い湯気がふわりと上がっている。

 

 労働の果てに待つ、あたたかいお湯。

 

 それはきっと、今日のボクに許された最高のご褒美だった。

 

 足元はまだ少しふらつく。

 

 腕も重い。

 

 けれど、湯気の向こうへ向かう足取りだけは、不思議と軽かった。

 

 こうしてボクは、博麗神社の雑用係見習いとしての初仕事を終えた。

 

 そして同時に、ひとつ重要なことを学んだ。

 

 博麗神社の労働には、温泉がついてくる。

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