魔理沙は、日がすっかり落ちた頃に帰ることになった。
「じゃ、私はそろそろ帰るぜ」
縁側で茶を飲み干した魔理沙が、帽子をかぶり直す。
「泊まっていかないの?」
ボクが聞くと、魔理沙は肩をすくめた。
「家を空けっぱなしにすると、色々まずいんだよ。本とか、茸とか、実験中のものとか」
「最後のが一番まずそう」
「まあ、爆発してなきゃ大丈夫だ」
「爆発の可能性がある時点で、大丈夫じゃない気がする」
霊夢は慣れた様子で、湯呑みを片づけながら言った。
「どうせ明日も来るんでしょ」
「気が向いたらな」
「来るわね」
「決めつけるなよ」
魔理沙は笑って、箒を手に取った。
「ナナシ、温泉で溺れるなよ」
「温泉で溺れるほど子供じゃないよ」
「さっき空で半泣きだったやつの台詞とは思えないな」
「あれは高さに対する正当な反応だよ」
「はいはい」
魔理沙は軽く手を振る。
「じゃあな。霊夢、あんまりこき使うなよ」
「こき使ってないわよ。本人が温泉目当てで勝手に働きすぎただけ」
「それは確かだな」
ボクは否定できなかった。
魔理沙は楽しそうに笑い、夜空へふわりと上がっていく。
黒い帽子と箒の影が、月明かりの中で小さくなっていった。
それを見送ってから、ボクは霊夢の方を向いた。
「霊夢」
「何?」
「温泉」
「分かってるわよ」
霊夢は呆れたように笑った。
「場所は裏手。脱衣所もあるから、ちゃんとそこで着替えなさい。桶とか手ぬぐいも置いてあるわ」
「うん」
「騒ぎすぎないこと。湯に飛び込まないこと。長湯しすぎないこと」
「分かった」
「あと、知らないやつがいても、変についていかない」
「……温泉で?」
「この神社ならあり得るのよ」
何それ怖い。
けれど、霊夢が真顔で言うので、たぶん冗談ではないのだろう。
「了解。知らない人についていかない。覚えた」
「よろしい」
霊夢から手ぬぐいを受け取り、ボクは神社の裏手へ向かった。
◇
夜の博麗神社は、昼間とは少し違う顔をしていた。
境内は静かで、木々の影が長く伸びている。
虫の声が、遠く近くから聞こえる。
掃除したばかりの参道は、月明かりを受けてうっすら白い。
その奥。
木々の向こうから、白い湯気が立ち上っていた。
「……温泉」
小さく呟く。
それだけで、疲れていた足が少し軽くなった。
裏手にある温泉施設は、思っていたよりもしっかりしていた。
簡素だけれど、屋根があり、脱衣所があり、湯へ続く木の戸がある。
湯気に混ざって、木の香りと温かい水の匂いがした。
「神社に温泉施設……」
ボクは思わず感心する。
「霊夢、意外と経営努力をしている」
失礼な感想が口から出た気がするが、今は誰も聞いていないのでよしとした。
脱衣所に入る。
置かれている籠に服を畳んで入れ、手ぬぐいを持つ。
礼儀は大事だ。
温泉というありがたい場所に対して、粗相をするわけにはいかない。
戸を開けると、ふわりと湯気が顔に触れた。
「おお……」
思わず声が漏れる。
湯船には、月明かりが淡く落ちていた。
木の囲いの向こうには夜の森が見えて、湯気が白く流れていく。
静かで、あたたかくて、少しだけ別の世界みたいだった。
まずは掛け湯。
桶で湯をすくい、足元からゆっくりかける。
「あつ……くない。ちょうどいい」
肩の力が抜ける。
身体の汚れを落としてから、そっと湯に入った。
「……はあ」
声が勝手に出た。
温かい。
足の疲れが、じわじわほどけていく。
腕の重さも、肩のこわばりも、お湯に溶けていくみたいだった。
今日一日、色々あった。
寺子屋で文字を読んだ。
子供たちと遊んだ。
慧音に先生見習いとして誘われた。
神社で働いた。
掃除をした。
参拝客に挨拶もした。
それで今、温泉に入っている。
「……なんか、生きているって感じがする」
呟いてから、自分で少し驚いた。
大げさな言い方かもしれない。
でも、湯の温かさを感じていると、そんなふうに思えた。
ここにいる。
今日は働いた。
そして今、ちゃんと報酬を受け取っている。
名前も記憶も空っぽなのに、不思議と今日は、少しだけ中身が増えた気がした。
ボクは湯船の縁に背を預け、目を細めた。
——その時だった。
脱衣所の方で、戸が開く音がした。
「あれ、霊夢?」
ボクはそちらを見る。
湯気の向こうに、人影が見えた。
けれど、その影は霊夢より少し小柄で、歩き方も違う。
ゆらゆらと気ままで、どこか酔っているような足取り。
そして、頭に。
角があった。
「……霊夢ではない」
ボクは小さく呟いた。
これまでの経験から学んだことがある。
幻想郷では、見た目で全部を判断してはいけない。
けれど、頭に角がある相手を人間の温泉利用者だと考えるのは、さすがに無理がある。
湯気の向こうから現れた少女は、にやりと笑った。
「おや。先客がいるじゃないか」
「こんばんは。角のある方」
「……ずいぶんな挨拶だね」
「あ、ごめんなさい。最初に目に入ったので」
ボクは湯に浸かったまま、ぺこりと頭を下げた。
「ナナシです。霊夢のところで雑用係見習いをしています。温泉は初利用です」
「聞いてないことまでよく喋るねえ」
「初対面だから、情報を開示して安全性を上げてるんだよ」
「ははっ、面白い」
小柄な少女だった。
けれど、雰囲気は子供ではない。
頭には立派な角。
手には立派な瓢箪。
目元は楽しげで、どこか底が知れない。
湯気の向こうで、濡れた髪が肩に貼りついている。
細い腕も、丸い肩も、見た目だけなら小さくて柔らかそうなのに、立っているだけで妙な重みがあった。
弱そうではない。
むしろ、うっかり触れたらこちらの方が壊れそうなそんな感じがする。
「私は伊吹萃香。鬼だよ」
「鬼」
やっぱり。
ボクは萃香の角を見て、それから顔を見る。
「鬼って、温泉に入るんだね」
「そこかい?」
「いやぁ、鬼についての知識が不足していて」
「じゃあ、鬼は何をすると思ってた?」
「山にいて、酒を飲んで、強くて、たまに人を攫う?」
「だいたい合ってるね」
「合ってるんだ……」
ボクは少し湯に沈んだ。
「でも、温泉に入る鬼は新鮮な情報かも」
「鬼だって湯には入るさ」
「なんだか親近感が湧いたよ」
「怖くないのかい?」
「そりゃ怖いよ。だって鬼だもん。でも温泉好きなら、話し合える余地があると思う」
「はははっ!」
萃香は豪快に笑うと、ざぶんと湯に入った。
小柄な身体なのに、湯が大きく揺れる。
波がこちらまで届いて、ボクは思わず肩をすくめた。
湯気の中で、萃香の角だけがはっきりと輪郭を持っている。
濡れた髪から落ちた滴が、湯面に小さな輪を作った。
見た目で判断してはいけない。
幻想郷に来てから何度も学んだはずのことを、ボクはまた胸に刻み直した。
「いい湯だねえ」
「うん。労働の後だから、より効果が高い気がするよ」
「労働?」
「神社の掃除をしてたの。温泉に入るために」
「なるほど。対価を払って湯を得たわけだ」
「社会の仕組みを尊重したって感じだね」
「面白い言い方をするね」
萃香は瓢箪を軽く揺らした。
中で何かがちゃぷりと音を立てる。
「それ、お酒?」
「そうだよ。飲むかい?」
「……なんだか嫌な予感がするからやめておくよ。それにしても温泉でお酒かぁ」
「最高だろう?」
「危険が近い位置にある気もするけど」
「鬼だから平気さ」
「鬼って便利なんだね」
「便利だよ」
萃香は楽しそうに笑い、しばらくボクを眺めていた。
見られている。
それも、ただ珍しいものを見る目ではない。
鼻先で、かすかに息を吸うような仕草をする。
「……ふうん。あんた、ずいぶん甘い匂いがするね」
「甘い匂い」
またそれか、と思った。
これまでにも何度か言われた。
甘い香り。
おいしそうな匂い。
自分ではよく分からない。
「自分では分からないんだよね。困った体質だよ、まったく」
「困ってるのかい?」
「だって、会う人会う人においしそうって言われるんだよ? 自己紹介より先に食レポされる身にもなってみてよ」
「ははっ、そりゃ災難だ」
「萃香さんとも、ボクは食べ物ではない方向でお話していきたいなぁ……」
「萃香でいいよ」
萃香は湯に肩まで沈み、片目を細める。
「大丈夫さ。あんたを食い物だなんて思っちゃいないさ、今のところはね」
「今のところを外してほしいなぁ」
萃香は、ひどく楽しそうに目を細めた。
「熟れた果物みたいで、炊きたての米みたいで、それでいて酒になる前の何かみたいな匂いだ」
「最後の比喩が鬼っぽいね」
「鬼だからね」
「便利な説明だなぁ」
「怖がるわりには、よく喋る」
「怖い時ほど喋るタイプなんだよ」
「じゃあ今も怖いかい?」
「うーん、少し?」
「なのに逃げない?」
「湯船から出たら寒いからね」
「はははっ!」
萃香の笑い声が、湯気の中で弾けた。
「いいねえ。気に入ったよ、ナナシ」
「ありがとう? 気に入られる理由はよく分からないけど」
「分からなくていいさ。鬼は気に入ったものを気に入るんだ」
「理屈が強引だ」
「鬼だからね」
萃香は湯に肩まで浸かり、気持ちよさそうに息を吐いた。
その姿はのんびりしているのに、不思議と隙がない。
子供のようにも見える。
けれど、たぶん、ずっと長く生きている。
魔理沙とも、霊夢とも、アリスとも違う。
慧音とも違う。
この人は、妖怪だ。
それも、紫お姉さまと同じように、かなり力のある妖怪なのだと思う。
根拠はない。
けれど、湯気越しに笑っているだけで、そういう雰囲気がひしひしと伝わってきた。
「ナナシは、霊夢のところに住むのかい?」
「今のところは。住み込み雑用係見習い」
「肩書きが長いね」
「今日、先生見習いも増えたよ」
「増えるのか」
「増えたね。あと、温泉利用者見習いにもなったね」
「それは見習うものなのかい?」
「誰しも初めての場所では、作法を覚えるまでは初心者なのさ」
「真面目なんだか変なんだか」
「柔軟って言ってほしいかな」
萃香は、腹の底から楽しそうに笑った。
「いいねえ。怖がってるくせに、こっちへ話を投げてくる」
「怖い相手ほど、会話できた方が安全だからね」
「鬼相手に安全を取りに来るか」
「うん。まずは危険要素の確認から」
「危険要素?」
「力が強い。酒を持ってる。人を攫う文化がある。あと角がある」
「角まで入るのかい」
「あ、ごめん。立派だったからつい」
「褒めてるのかい?」
「たぶん? 危険要素としても特徴としても目立つ」
「はははっ!」
萃香は湯気の向こうで、楽しそうに目を細めた。
「本当に、退屈しない子だねえ」
そして、ほとんど湯の音に溶けるような声で呟いた。
「……攫ってやろうかな」
湯気の向こうで、萃香の目が細くなる。
その声は、とても小さかった。
湯の音に混ざって、ほとんど聞こえないくらい。
ボクの耳には届かなかった。
「何か言った?」
「いや。いい湯だねって言ったのさ」
「それは完全に同意だよ」
ボクは頷いた。
その時、空間が揺れた。
湯気の向こう。
何もない場所に、すっと裂け目のようなものが開く。
そこから、見覚えのある顔が現れた。
「あら、楽しそうね」
紫お姉さまだった。
「あ、紫お姉さま。こんばんは」
「こんばんは、ナナシ」
紫お姉さまは涼しい顔で温泉へ入ってくる。
驚くほど自然だった。
まるで、最初からそこに入口があったみたいに。
湯気の向こうで、長い髪がゆるく揺れた。
白い肩に水滴が落ち、月明かりを受けて小さく光る。
立ち上る湯気のせいで、輪郭ははっきりしない。
けれど、はっきりしないからこそ、妙に目のやり場に困った。
顔を見れば、いつもの読めない笑みがある。
かといって、あまり視線を下げるのも、それはそれで不自然な気がする。
結果として、ボクは湯船の縁を見ることにした。
「どうしたの、ナナシ」
紫お姉さまが静かに聞く。
声はいつも通り穏やかだった。
それなのに、こちらが困っていることを最初から分かっているような響きがある。
「視線の安全な置き場を探してるの」
「そう」
紫お姉さまは小さく笑った。
「温泉では難しい課題ね」
「……紫お姉さまも温泉に入るんだね」
「ええ。たまにね」
「神社の温泉、思ったより利用者の幅が広い」
「そうでしょう?」
「でも人間の参拝者を増やすための施設だと聞いた気がするけど」
「……物事は、思い通りにいかないものよ」
「なんか世知辛さを感じる……」
紫お姉さまはにこりと微笑む。
その笑顔の奥で、視線だけが萃香へ向いた。
「ところで萃香。随分と楽しそうね」
「たまたま来たら、面白い子がいたんだ」
「たまたま、ね」
「そう。たまたまだよ」
……ふたりの間に、何かがある。
言葉は普通だ。
声も荒くない。
けれど、湯の温度とは違う熱が、じわりと漂っている気がした。
ボクは湯船の中で、ふたりを交互に見た。
「ええと、お二人はお知り合い?」
「ええ。古い知り合いよ」
紫お姉さまが言う。
「腐れ縁とも言うね」
萃香が笑う。
「仲良し?」
「どうかしら」
「さあね」
同時に違う答えが返ってきた。
ボクは理解した。
これは深入りしない方がいいやつだ。
紫お姉さまは、萃香の反対側、ボクの隣でゆっくり湯に浸かった。
湯が動いて、肩が少し触れそうになる。
ボクは反射的に身を引こうとして、反対側に萃香がいることを思い出した。
逃げ場がない。
紫お姉さまは、それを見て何も言わなかった。
ただ、扇子で口元を隠し、いつものように微笑んでいる。
何もしていない。
何もしていないのに、こちらの逃げ道だけが少しずつ減っている気がする。
それが紫お姉さまの怖いところだと思う。
「ナナシは、私が最初に目を付けた子なの」
「目を付けたって……」
物騒な言い方だった。
「拾ったのは魔理沙で、面倒を見てくれているのは霊夢だよ?」
「縁を結ぶよう助言したのは私よ」
「……主張の仕方が独特」
紫お姉さまは扇子で口元を隠して笑う。
「だから、抜け駆けは許さないわよ、萃香」
「抜け駆けなんて人聞きが悪いねえ」
萃香は瓢箪を揺らす。
「私はただ、面白い子と湯に浸かって話していただけさ」
「鬼が気に入った子と?」
「気に入ったね」
萃香はあっさり言った。
「甘い匂いがして、怖がってるくせに逃げなくて、口も回る。話していて退屈しない」
「でしょう?」
紫お姉さまが、なぜか少し得意げに微笑む。
「そこは紫お姉さまが得意げになるところなの?」
「見る目があると言ってほしいわね」
「紫はいつもそうやって、面白いものを自分の物みたいに言う」
「あら。鬼ほどではないわ」
「鬼は気に入ったものを気に入ったと言うだけさ」
「その後、持っていくでしょう?」
「……持っていきたくなるほど気に入ればね」
湯気が、ふたりの間でゆらりと揺れた。
ボクは少しずつ、状況を理解し始めた。
たぶん。
いや、かなりの確率で。
これはボクを挟んで何かが発生している。
「確認してもいいかな」
「どうぞ」
紫お姉さまが微笑む。
「右に萃香、左に紫お姉さま。どっちを向いても、何かしら油断できない雰囲気があるんだけれど……」
「あら、私は何もしていないわ」
「何もしていないのに油断できないところが、紫お姉さまの怖いところだね」
「失礼ねえ」
紫お姉さまは楽しそうに笑った。
「贅沢な湯じゃないか」
萃香が言う。
「贅沢と安心は別枠かな」
「安心なさい。今のところ、あなたをどうこうするつもりはないわ」
「今のところ、の部分がやっぱり湯冷めしそうなくらい怖いんだけど」
「温泉に入っているのに?」
「心が湯冷めするの!」
萃香が、愉快そうに瓢箪を傾ける。
「ナナシ、あんた本当に面白いね。鬼相手にも紫相手にも、その調子かい」
「怖いから、口を動かして心を支えているのかも?」
「いい度胸だ」
「度胸ではなく防衛反応かも」
「ますます気に入った」
「……さっきから好感度の上がり方が怖いよ」
紫お姉さまがくすりと笑う。
「ナナシはすぐ人に好かれるわね」
「人?」
ボクは萃香の角を見て、それから紫お姉さまを見る。
「……人という分類で合ってる?」
「広い意味では」
「かなり広い気がする」
「幻想郷では、色々な垣根を越えた広い考え方を持つ方が便利よ?」
それはそうかもしれない。
人間も、妖怪も、鬼も、紫お姉さまみたいなよく分からない人も、神社の温泉に入ってくる世界だ。
分類にこだわりすぎると、たぶん頭が疲れる。
——しかし、ここで問題がひとつあった。
温泉が気持ちいい。
それは間違いない。
でも、右に萃香。
小柄なのに、湯の中でも存在感がやけに大きい鬼。
笑うたびに瓢箪が揺れ、濡れた髪から滴が落ちる。
左に紫お姉さま。
湯気の奥で涼しい顔をしているのに、距離だけが妙に近い。
肩が触れそうになるたび、こちらの心臓に悪い。
会話はずっと意味深。
湯は温かい。
湯気は濃い。
……つまり、逃げるタイミングが分からない。
結果として、ボクはだんだんのぼせてきた。
「……あ、あの」
「何?」
紫お姉さまが優しく聞く。
「どうした?」
萃香も楽しそうに覗き込む。
「少し、頭がぽかぽかしてきたんだけど……」
「温泉だからね」
「温泉だからかしら」
「それ以外の要因もある気がする……」
視界が、少しふわふわする。
湯気の向こうで、紫お姉さまの笑顔と萃香の笑顔が二重に見えた気がした。
「ナナシ?」
その時、脱衣所の方から霊夢の声がした。
「様子を見に来たんだけど、ちゃんと生きてる?」
「霊夢」
ボクは助かったと思った。
戸が開く。
霊夢が温泉に入ってきて、こちらを見た。
そして、固まった。
湯船の中。
ボクを挟むようにして、右に鬼。
左に紫お姉さま。
霊夢の眉が、ゆっくり吊り上がる。
「……あんたたち、何してんのよ」
「あら、こんばんは霊夢」
紫お姉さまが平然と言う。
「いい湯だねえ」
萃香も平然と言う。
「そういうことを聞いてるんじゃないわよ」
霊夢は湯気を払うように近づいてきた。
そしてボクの顔を見る。
「ナナシ、あんた顔赤いわよ」
「温泉の効果かな」
「のぼせてるだけでしょ」
「なんかこの二人に挟まれてると、出るタイミングが分からなくて」
「でしょうね!」
霊夢はため息をつき、ボクの腕を取った。
「出るわよ」
「……うん、助かる」
「紫、萃香。ナナシで遊ばない」
「遊んでないわ。お話していただけよ」
「気に入っただけさ」
「それが一番危ないのよ」
霊夢はボクを湯船から連れ出しながら、ふたりを睨む。
「この子は今日、寺子屋行って、神社掃除して、やっと温泉に入ったばかりなの。変な妖怪の相手までさせない」
「変な妖怪とは失礼ね」
「私は鬼だよ」
「もっと悪いわ」
霊夢の返しは容赦がなかった。
ボクは手ぬぐいを頭に乗せられ、湯船の外で少し冷たい空気を吸った。
夜風が気持ちいい。
頭の中のぽかぽかが、少しずつ落ち着いていく。
「霊夢」
「何?」
「正直、助かったよ」
「本当にね」
「でも温泉は最高だった」
「それはよかったわ」
「ただし、利用者の癖が強いよ」
霊夢は深くため息をついた。
「だから言ったでしょ。この神社ならあり得るって」
湯船の方では、紫お姉さまと萃香がまだ笑っていた。
白い湯気の向こうで、鬼と、よく分からないけれど怖そうなお姉さんが並んでいる。
それを見て、ボクは思った。
博麗神社の温泉は、たしかに良い湯だった。
ただし。
これで人間の参拝者が増えるかどうかは、かなり別の問題らしい。