東方拾得録   作:まほろばのーぶる

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第12話 名を呼ぶものと名を呼ばぬもの

 温泉から神社の母屋へ戻るころには、ボクの体はすっかり温まっていた。

 

 というより、温まりすぎていた。

 

 足元が少しふわふわする。

 

 夜風は冷たいはずなのに、頬はまだ熱い。

 

 頭の中では、白い湯気と、鬼の角と、紫お姉さまの笑顔がぐるぐる回っている。

 

 良い湯だった。

 

 それは間違いない。

 

 ただ、良い湯であることと、安心して入れる湯であることは、どうやら別の問題らしい。

 

「歩ける?」

 

 霊夢が振り返る。

 

「歩ける。たぶん」

 

「たぶんって何よ」

 

「湯あたりっていうか、人あたりっていうか……人外あたり?」

 

「新しい言葉を作らない」

 

「でも右に鬼、左に紫お姉さまだよ。普通の温泉より酔いやすくなっちゃうよね」

 

「……まあ、分からなくはないわ」

 

「まだここに来て2日目だけど、この神社が魔境か何かに思えてきたよ」

 

「それはまあ、否定しないけど」

 

「否定してほしかった……」

 

 どうやら、博麗神社は本当に魔境寄りの場所らしい。

 

 背後では、湯船の方からまだ楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

 

 萃香の声は分かりやすい。

 

 紫お姉さまの声は、聞こえているのに、どこから聞こえているのかよく分からない。

 

 ボクは振り返らないことにした。

 

 温泉は最高だった。

 

 けれど今夜これ以上、何かに巻き込まれる体力は残っていない。

 

「ほら、湯冷めする前に中に入りなさい」

 

「うん」

 

 霊夢に促されて、ボクは神社の母屋へ上がった。

 

 板張りの廊下が、足の裏にひんやりと触れる。

 

 温泉で温まった体には、その冷たさが少し気持ちよかった。

 

「今日はもう寝なさい」

 

「え、もう?」

 

「もう、じゃないわよ。朝から人里に行って、雑用で働いて、温泉に入って、鬼と紫に挟まれたんでしょ」

 

「こうして並べると、改めて大変な1日だったっぽいね」

 

「だから寝るの」

 

「……納得しかない」

 

 霊夢は廊下の奥へ進み、ひとつの部屋の前で立ち止まった。

 

「ここ使いなさい」

 

 障子が開く。

 

 部屋は広くなかった。

 

 畳が敷かれていて、壁際に古い棚がある。

 

 隅には小さな行灯が置かれていて、淡い明かりが部屋の中をぼんやり照らしていた。

 

 特別なものは何もない。

 

 ただ、部屋の真ん中には布団が敷いてあった。

 

 たぶん、ボクが温泉に行っている間に用意してくれたのだろう。

 

「……用意してくれたの?」

 

「他にどう見えるのよ」

 

「……罠?」

 

「失礼なやつね。寝床の罠って何よ」

 

「布団に入った瞬間、明日の仕事が倍になるとか?」

 

「……いい案ね」

 

「はっ。言わなきゃよかった」

 

 霊夢は呆れたように、布団の端を軽く叩いた。

 

「安心しなさい。今日は寝るだけ」

 

「……今日は?」

 

「明日からはきびきび働く」

 

「やっぱり罠だった!」

 

「住み込み雑用係でしょ」

 

「肩書きが労働から逃がしてくれない……」

 

 そう言いながら、ボクは部屋へ入った。

 

 畳の匂いがする。

 

 古い木の匂いもする。

 

 外からは、虫の声が聞こえていた。

 

 無縁塚で目を覚ました時、ボクには何もなかった。

 

 名前も。

 

 帰る場所も。

 

 自分が誰なのかも。

 

 今も、分からないことは多い。

 

 けれど、今夜眠る場所はある。

 

 それだけ分かれば、今は十分な気がした。

 

「霊夢」

 

「何?」

 

「……ありがと」

 

「……はいはい」

 

 霊夢は少しだけ目をそらした。

 

「礼は明日の働きで返しなさい」

 

「感謝の換金が早い」

 

「感謝でご飯は食べられないわよ」

 

「現実的だなぁ」

 

 でも、その現実的な言い方が、なぜか少し嬉しかった。

 

 霊夢は部屋の入口に立ったまま、何かを思い出したように言った。

 

「あと、今夜は勝手に外へ出ないこと」

 

「出ないよ。もう体力がない」

 

「紫が来てもついていかない」

 

「……それは本当にありそうで怖い」

 

 霊夢は少し考えてから、もうひとつ付け加えた。

 

「萃香に酒をすすめられても飲まないこと」

 

「飲まないよ」

 

「勝負もしないこと」

 

「勝てる要素がない」

 

「宴会にも混ざらないこと」

 

「寝る前に宴会が発生する前提なの?」

 

「萃香がいると、そういうこともあるのよ」

 

「鬼ってすごい……」

 

「すごいけど面倒なのよ」

 

 霊夢は短く息を吐いた。

 

「まあ、今夜は大丈夫でしょ……たぶん」

 

「そこは強く言ってほしい」

 

「言ってるでしょ」

 

「たぶんって聞こえた」

 

「気のせいよ」

 

 霊夢はそう言って、部屋の外へ一歩下がった。

 

「とにかく寝なさい」

 

「うん」

 

 布団に入る。

 

 少し重くて、少し古い匂いがした。

 

 けれど、温かかった。

 

 体が布団に沈むと、急に疲れが押し寄せてきた。

 

 今日は、本当に色々あった。

 

 朝から人里へ行って。

 

 慧音に会って。

 

 子供たちに囲まれて。

 

 神社で雑用を頑張って。

 

 ご褒美に温泉に入って。

 

 温泉で萃香に会って。

 

 紫お姉さまにも会った。

 

 ……最後のふたつは、できれば明日以降に分けてほしかった。

 

 でも、もう考える力も残っていない。

 

「おやすみ」

 

 霊夢の声がした。

 

「……おやすみぃ」

 

 そう返したつもりだったけれど、ちゃんと声になったかどうかは分からない。

 

 障子が静かに閉まる音がした。

 

 その音を最後に、ボクの意識はすとんと落ちた。

 

 眠りは、思ったよりずっと早くやってきた。

 

 

 

 

 

 

 博麗神社の夜は静かだった。

 

 温泉の方から聞こえていた笑い声も、いつの間にか消えている。

 

 境内には虫の声が満ち、月明かりが石畳の上に白く落ちていた。

 

 霊夢は障子の前で、しばらく立ち止まっていた。

 

 中からは、もう小さな寝息が聞こえている。

 

「……よくしゃべる癖に、寝つきはいいのね」

 

 呟いてから、霊夢はわずかに目を細めた。

 

 厄介な子を預かった。

 

 それは、たぶん間違いない。

 

 外の世界から来た子。

 

 記憶のない子。

 

 名を持たない子。

 

 妖怪を惹きつける血を持ち、無縁塚で拾われ、目を離せばすぐ面倒ごとに巻き込まれる子。

 

 何者なのか。

 

 どうして幻想郷に流れ着いたのか。

 

 誰が、何のためにあんな大掛かりな術まで使って隠そうとしたのか。

 

 何ひとつ、はっきりとは分からない。

 

 それでも、布団の中で丸くなって眠る姿だけを見れば、ただの子供だった。

 

 少なくとも今は霊夢には、そう見えた。

 

「……まったく」

 

 霊夢は小さく息を吐く。

 

 拾ったのは魔理沙だ。

 

 名前をつけたのも魔理沙だ。

 

 血の匂いに引き寄せられた吸血鬼が騒ぎを起こし、人形遣いが気に病み、胡散臭い妖怪の賢者が意味ありげに笑い、鬼まで面白がって顔を出した。

 

 たった2日で、この幻想郷にずいぶん大きな輪ができたものだと思う。

 

 けれど、その中心にいる本人は、何も知らない顔でぐっすり眠っている。

 

 いや。

 

 知らないからこそ、眠れるのかもしれない。

 

「……考えることが増えたわね」

 

 霊夢は障子から手を離した。

 

 そのまま廊下を歩こうとして、ふと足を止める。

 

 月明かりの差す縁側に、ひとつ影があった。

 

 いつからそこにいたのか。

 

 胡散臭い笑みを浮かべた八雲紫が立っていた。

 

「あら。怖い顔」

 

「怖い顔にもなるわよ」

 

 霊夢は眉をひそめる。

 

「覗き見?」

 

「見守りよ」

 

「どっちも同じでしょ」

 

「同じではないわ。見守りの方が、少し善良に聞こえるもの」

 

「……聞こえるだけね」

 

 紫は扇で口元を隠し、くすりと笑った。

 

 いつもの笑みだった。

 

 柔らかくて、つかみどころがなくて、その奥が見えない笑み。

 

 霊夢は縁側へ出る。

 

 夜風が頬を撫でた。

 

「あの子、眠ったわよ」

 

「ええ。よく眠っているわね」

 

 霊夢は腕を組んだ。

 

「で、何か分かったの?」

 

「色々と」

 

「言いなさいよ」

 

「あら、今日はずいぶん素直に聞くのね」

 

「回りくどい話を聞く気力がないだけ」

 

「それは残念」

 

 紫は少し楽しそうに目を細めた。

 

 けれど、すぐにその笑みを薄くする。

 

「ナナシは、やはり普通の外来人ではないわ」

 

「……それはもう分かってる」

 

「ええ。分かっているでしょうね」

 

 紫は境内の方へ視線を向けた。

 

 月明かりに照らされた賽銭箱。

 

 鳥居。

 

 石畳。

 

 その先に広がる夜の幻想郷。

 

「外の世界から流れ着いたものではある。けれど、ただ迷い込んだ普通の人間とは違う」

 

「……人間じゃないってこと?」

 

「一応、人間の形はしているわね」

 

「答えになってない」

 

「今は、それで十分よ」

 

 霊夢は紫を睨む。

 

 紫は涼しい顔で受け流した。

 

「相変わらず、肝心なところで濁すわね」

 

「断言できるほど、まだ整っていないのよ。あの子は不思議なくらい、輪郭が曖昧だもの」

 

「輪郭?」

 

「名前。記憶。縁。由来。意味。そういうものが薄いの」

 

 紫の声が、少しだけ低くなる。

 

「あの子は、ここにいる。けれど、どこにも強く結ばれていない。だから見失われやすい」

 

「……厄介ね」

 

「ええ。とても」

 

「他人事みたいに言わないで」

 

「他人事ではないわ。だから見に来たの」

 

 紫は扇を閉じる。

 

 ぱちん、という小さな音が、夜に落ちた。

 

「霊夢。あなたは、あの子をどうするつもり?」

 

「どうするって?」

 

「元の場所へ帰すのかしら。幻想郷に置くのかしら。それとも……異変の原因として祓う?」

 

 霊夢の目が細くなる。

 

「紫」

 

「ただの確認よ」

 

「趣味が悪い確認ね」

 

「否定はしないわ」

 

 紫は微笑んでいる。

 

 けれど、霊夢はその言葉を冗談として受け取らなかった。

 

 博麗の巫女としてなら。

 

 幻想郷の均衡を守る者としてなら。

 

 危険なものは、見極める必要がある。

 

 ナナシの血は妖怪を呼び寄せる。

 

 放っておけば、また騒ぎになるかもしれない。

 

 それこそ、大きな異変になるかもしれない。

 

 ……それでも。

 

 霊夢は、閉じられた障子をちらりと見た。

 

 その向こうには、疲れ切って眠る子供がいる。

 

 今日、初めて人里へ行き。

 

 慣れない仕事をして。

 

 それでも笑い、はしゃぎ、最後には布団で眠った子がいる。

 

「……別に、どうもしないわよ」

 

 霊夢は言った。

 

「今は、ここで預かる。それだけ」

 

「危険でも?」

 

「危険なら見張る」

 

「手に負えなくなったら?」

 

「その時はその時考える」

 

「……ずいぶん雑ね」

 

 霊夢は肩をすくめた。

 

「それに、あの子はまだ何もしてない。勝手に拾われて、勝手に狙われて、勝手に騒ぎの中心に置かれてるだけ。厄介者扱いするのは、さすがに早いでしょ」

 

 紫はしばらく霊夢を見ていた。

 

 それから、楽しそうに笑う。

 

「あなたらしいわ」

 

「褒めてる?」

 

「もちろん」

 

「信用できない」

 

「あら」

 

 紫は扇を開き、口元を隠した。

 

「でも、ひとつだけ忠告しておくわ」

 

「また?」

 

「ええ。また」

 

 夜風が止まった。

 

 虫の声が、少し遠のいたように感じた。

 

「あの子を呼んでいるものがいる」

 

 霊夢の表情が変わる。

 

「妖怪?」

 

「いいえ」

 

「吸血鬼?」

 

「いいえ」

 

「じゃあ何よ」

 

 紫はすぐには答えなかった。

 

 境内の端、闇の濃い方を見つめる。

 

「……おそらく、古いものよ」

 

「古いもの?」

 

「名前を失っても、まだ消えきれないもの。祀られなくなっても、まだ自分を神だと思っているもの。誰かの祈りと、誰かの犠牲を、同じものだと信じているもの」

 

 霊夢は黙った。

 

 その言葉だけで、十分に嫌な予感がした。

 

「それが、例の神隠しの黒幕?」

 

「ええ」

 

「何のために」

 

「取り戻すために」

 

 紫の声は静かだった。

 

 けれど、その静けさがかえって不穏だった。

 

「ナナシは、まだその声を聞いていない。少なくとも、はっきりとはね。けれど、縁が薄い子ほど、外からの呼び声には引かれやすい」

 

「だから縁を作れって言ったわけ?」

 

「ええ。人里へ行かせたのは正解だったわ。歴史を守る半獣に会い、子供たちに会い、あなたの神社で働き、鬼にまで名を呼ばれた。あの子は少しずつ、こちら側に結ばれ始めている」

 

「物みたいに言わないで」

 

「失礼。けれど、あながち間違いでもないのよ」

 

 霊夢は顔をしかめた。

 

「嫌な言い方ね」

 

「嫌な話だもの」

 

 紫は月を見上げた。

 

「名前を呼ばれること。帰る場所があること。誰かに心配されること。そういう小さな縁が、あの子をあの子にしていく」

 

「ナナシを、ナナシに、ね」

 

「ええ」

 

 紫は静かに頷いた。

 

「だから、霊夢」

 

「何」

 

「あの子に、帰る場所をたくさん作ってあげなさい」

 

「もう布団は貸したわよ」

 

「そういう意味ではないわ」

 

「……分かってるわよ」

 

 霊夢は不機嫌そうに言った。

 

「でも、勘違いしないで。私は別に、あの子を甘やかすつもりはないから」

 

「ええ」

 

「働かせるし」

 

「ええ」

 

「変なことをしたら怒るし」

 

「ええ」

 

「勝手に自分を差し出そうとしたら、ひっぱたくわ」

 

 紫はそこで、少しだけ目を細めた。

 

 笑っているような、安心したような顔だった。

 

「それでいいのよ」

 

「何よ、その言い方」

 

「いえ。ただ、あの子にはそういう人が必要だと思っただけ」

 

 霊夢は答えなかった。

 

 ただ、障子の向こうへもう一度視線を向ける。

 

 小さな寝息は、まだ続いている。

 

 ナナシ。

 

 魔理沙がつけた、ひどく安直な名前。

 

 名前がないから、ナナシ。

 

 それなのに、その名前はもう、ただの仮の呼び名ではなくなり始めている。

 

 霊夢が呼ぶ。

 

 魔理沙が呼ぶ。

 

 アリスが呼ぶ。

 

 慧音が呼び、里の子供たちが呼び、萃香が面白がって呼ぶ。

 

 呼ばれるたびに、あの子は少しずつ、この幻想郷に結ばれていく。

 

 それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。

 

 でも少なくとも、今の霊夢には、それを悪いことだとは思えなかった。

 

「……紫」

 

「何かしら」

 

「その古いものっていうのは、幻想郷にはすぐ来るの?」

 

「……いいえ。まだ遠いわ」

 

「なら、当分の間は大丈夫なわけね」

 

「ええ。当分の間は」

 

 紫はくすりと笑う。

 

 足元に、黒い隙間がゆっくりと開いた。

 

 無数の目が、夜の中で瞬く。

 

「では、私はそろそろ失礼するわ」

 

「最初から来なくてよかったのに」

 

「あら。そんなことを言って、本当は話せて安心したのではなくて?」

 

「するわけないでしょ」

 

「ふふふ。そういうことにしておきましょう」

 

 紫の姿が、隙間の向こうへ消えていく。

 

 最後に残った声だけが、夜にほどけた。

 

「おやすみなさい。よい夢を」

 

 隙間が閉じる。

 

 境内に、虫の声が戻った。

 

 霊夢はしばらくその場に立っていた。

 

 やがて、小さく息を吐く。

 

「まったく」

 

 今日、何度目か分からない言葉だった。

 

 厄介な子を預かった。

 

 厄介なものに狙われている。

 

 厄介な妖怪の賢者は、相変わらず肝心なことを全部は言わない。

 

 それでも。

 

 霊夢は障子の前まで戻ると、ほんの少しだけ戸を開けた。

 

 中を覗く。

 

 ナナシは布団の中で、小さく丸まってぐっすり眠っていた。

 

 胸元には、あの巾着袋を抱えている。

 

 何も持っていないようで、手放せないものだけはしっかり抱えている。

 

 その姿を見て、霊夢は少しだけ表情を緩めた。

 

「……仕方ないわね」

 

 小さく言って、障子を閉める。

 

 返事はない。

 

 代わりに、穏やかな寝息だけが聞こえた。

 

 霊夢はそれを確認してから、自分の部屋へ歩いていった。

 

 博麗神社の夜は、再び静かになった。

 

 

 

 

 

 

 そのころ。

 

 どことも知れない、暗い場所で。

 

 水の落ちる音がしていた。

 

 一滴。

 

 また一滴。

 

 それは雨の音にも聞こえた。

 

 血の音にも聞こえた。

 

 朽ちた社の奥。

 

 名を刻んだはずの板は腐り、注連縄は黒く変色し、供物台には何も残っていない。

 

 祈る者はいない。

 

 捧げる者もいない。

 

 ただ、長い時間だけが過ぎていた。

 

 その闇の中で、何かが目を開ける。

 

 それは人の形をしているようにも見えた。

 

 それは獣の形をしているようにも見えた。

 

 それは、眠っていた。

 

 忘れられたまま。

 

 呼ばれないまま。

 

 祀られないまま。

 

 けれど、完全には消えていない。

 

 なぜなら、まだ残っている。

 

 最後の供物が。

 

 最後の祈りが。

 

 最後の証が。

 

 闇の奥で、古い声がこぼれた。

 

「どこへ行ったの?」

 

 その声は、優しかった。

 

 どこまでも穏やかで、慈しみに満ちていた。

 

 だからこそ、ひどく冷たかった。

 

 水音が止まる。

 

 朽ちた社の床に、淡い白の影が揺れた。

 

 小さな少女の形。

 

 白い衣。

 

 胸に抱えた巾着袋。

 

 眠る横顔。

 

 けれどその幻は、すぐに薄れて消える。

 

「名を呼ばれているの?」

 

 それは静かに囁いた。

 

「縁を結ばれているの?」

 

 闇が、わずかに震える。

 

 怒りではない。

 

 憎しみでもない。

 

 それは、悲しみに似ていた。

 

 愛し子が道を誤ったことを嘆くような。

 

「かわいそうに」

 

 声が言う。

 

「忘れてしまったのね」

 

 腐った注連縄が、音もなく揺れた。

 

「お前は、そこにいるものではないのに」

 

 闇の奥から、黒い手のようなものが伸びる。

 

 何かを撫でるように。

 

 何かを抱き寄せるように。

 

 けれど、その手が触れるものは何もない。

 

「お前は、私の物だ」

 

 その言葉は呪いではなかった。

 

 少なくとも、それを口にしたものにとっては。

 

 それは祝福だった。

 

 

 

 

 

 

 夜は深くなる。

 

 幻想郷の空に、月が白く浮かんでいた。

 

 ナナシはまだ、何も知らない。

 

 けれど、ナナシをめぐる縁は、もう動き始めている。

 

 拾われた子は名を呼ばれ、結ばれた縁は小さな居場所になる。

 

 そして、遠い闇の奥で。

 

 ほどけたはずの古い縁が、もう一度、ナナシへ手を伸ばそうとしていた。

 

 

 

 第1章 拾い物 了

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