温泉から神社の母屋へ戻るころには、ボクの体はすっかり温まっていた。
というより、温まりすぎていた。
足元が少しふわふわする。
夜風は冷たいはずなのに、頬はまだ熱い。
頭の中では、白い湯気と、鬼の角と、紫お姉さまの笑顔がぐるぐる回っている。
良い湯だった。
それは間違いない。
ただ、良い湯であることと、安心して入れる湯であることは、どうやら別の問題らしい。
「歩ける?」
霊夢が振り返る。
「歩ける。たぶん」
「たぶんって何よ」
「湯あたりっていうか、人あたりっていうか……人外あたり?」
「新しい言葉を作らない」
「でも右に鬼、左に紫お姉さまだよ。普通の温泉より酔いやすくなっちゃうよね」
「……まあ、分からなくはないわ」
「まだここに来て2日目だけど、この神社が魔境か何かに思えてきたよ」
「それはまあ、否定しないけど」
「否定してほしかった……」
どうやら、博麗神社は本当に魔境寄りの場所らしい。
背後では、湯船の方からまだ楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
萃香の声は分かりやすい。
紫お姉さまの声は、聞こえているのに、どこから聞こえているのかよく分からない。
ボクは振り返らないことにした。
温泉は最高だった。
けれど今夜これ以上、何かに巻き込まれる体力は残っていない。
「ほら、湯冷めする前に中に入りなさい」
「うん」
霊夢に促されて、ボクは神社の母屋へ上がった。
板張りの廊下が、足の裏にひんやりと触れる。
温泉で温まった体には、その冷たさが少し気持ちよかった。
「今日はもう寝なさい」
「え、もう?」
「もう、じゃないわよ。朝から人里に行って、雑用で働いて、温泉に入って、鬼と紫に挟まれたんでしょ」
「こうして並べると、改めて大変な1日だったっぽいね」
「だから寝るの」
「……納得しかない」
霊夢は廊下の奥へ進み、ひとつの部屋の前で立ち止まった。
「ここ使いなさい」
障子が開く。
部屋は広くなかった。
畳が敷かれていて、壁際に古い棚がある。
隅には小さな行灯が置かれていて、淡い明かりが部屋の中をぼんやり照らしていた。
特別なものは何もない。
ただ、部屋の真ん中には布団が敷いてあった。
たぶん、ボクが温泉に行っている間に用意してくれたのだろう。
「……用意してくれたの?」
「他にどう見えるのよ」
「……罠?」
「失礼なやつね。寝床の罠って何よ」
「布団に入った瞬間、明日の仕事が倍になるとか?」
「……いい案ね」
「はっ。言わなきゃよかった」
霊夢は呆れたように、布団の端を軽く叩いた。
「安心しなさい。今日は寝るだけ」
「……今日は?」
「明日からはきびきび働く」
「やっぱり罠だった!」
「住み込み雑用係でしょ」
「肩書きが労働から逃がしてくれない……」
そう言いながら、ボクは部屋へ入った。
畳の匂いがする。
古い木の匂いもする。
外からは、虫の声が聞こえていた。
無縁塚で目を覚ました時、ボクには何もなかった。
名前も。
帰る場所も。
自分が誰なのかも。
今も、分からないことは多い。
けれど、今夜眠る場所はある。
それだけ分かれば、今は十分な気がした。
「霊夢」
「何?」
「……ありがと」
「……はいはい」
霊夢は少しだけ目をそらした。
「礼は明日の働きで返しなさい」
「感謝の換金が早い」
「感謝でご飯は食べられないわよ」
「現実的だなぁ」
でも、その現実的な言い方が、なぜか少し嬉しかった。
霊夢は部屋の入口に立ったまま、何かを思い出したように言った。
「あと、今夜は勝手に外へ出ないこと」
「出ないよ。もう体力がない」
「紫が来てもついていかない」
「……それは本当にありそうで怖い」
霊夢は少し考えてから、もうひとつ付け加えた。
「萃香に酒をすすめられても飲まないこと」
「飲まないよ」
「勝負もしないこと」
「勝てる要素がない」
「宴会にも混ざらないこと」
「寝る前に宴会が発生する前提なの?」
「萃香がいると、そういうこともあるのよ」
「鬼ってすごい……」
「すごいけど面倒なのよ」
霊夢は短く息を吐いた。
「まあ、今夜は大丈夫でしょ……たぶん」
「そこは強く言ってほしい」
「言ってるでしょ」
「たぶんって聞こえた」
「気のせいよ」
霊夢はそう言って、部屋の外へ一歩下がった。
「とにかく寝なさい」
「うん」
布団に入る。
少し重くて、少し古い匂いがした。
けれど、温かかった。
体が布団に沈むと、急に疲れが押し寄せてきた。
今日は、本当に色々あった。
朝から人里へ行って。
慧音に会って。
子供たちに囲まれて。
神社で雑用を頑張って。
ご褒美に温泉に入って。
温泉で萃香に会って。
紫お姉さまにも会った。
……最後のふたつは、できれば明日以降に分けてほしかった。
でも、もう考える力も残っていない。
「おやすみ」
霊夢の声がした。
「……おやすみぃ」
そう返したつもりだったけれど、ちゃんと声になったかどうかは分からない。
障子が静かに閉まる音がした。
その音を最後に、ボクの意識はすとんと落ちた。
眠りは、思ったよりずっと早くやってきた。
◇
博麗神社の夜は静かだった。
温泉の方から聞こえていた笑い声も、いつの間にか消えている。
境内には虫の声が満ち、月明かりが石畳の上に白く落ちていた。
霊夢は障子の前で、しばらく立ち止まっていた。
中からは、もう小さな寝息が聞こえている。
「……よくしゃべる癖に、寝つきはいいのね」
呟いてから、霊夢はわずかに目を細めた。
厄介な子を預かった。
それは、たぶん間違いない。
外の世界から来た子。
記憶のない子。
名を持たない子。
妖怪を惹きつける血を持ち、無縁塚で拾われ、目を離せばすぐ面倒ごとに巻き込まれる子。
何者なのか。
どうして幻想郷に流れ着いたのか。
誰が、何のためにあんな大掛かりな術まで使って隠そうとしたのか。
何ひとつ、はっきりとは分からない。
それでも、布団の中で丸くなって眠る姿だけを見れば、ただの子供だった。
少なくとも今は霊夢には、そう見えた。
「……まったく」
霊夢は小さく息を吐く。
拾ったのは魔理沙だ。
名前をつけたのも魔理沙だ。
血の匂いに引き寄せられた吸血鬼が騒ぎを起こし、人形遣いが気に病み、胡散臭い妖怪の賢者が意味ありげに笑い、鬼まで面白がって顔を出した。
たった2日で、この幻想郷にずいぶん大きな輪ができたものだと思う。
けれど、その中心にいる本人は、何も知らない顔でぐっすり眠っている。
いや。
知らないからこそ、眠れるのかもしれない。
「……考えることが増えたわね」
霊夢は障子から手を離した。
そのまま廊下を歩こうとして、ふと足を止める。
月明かりの差す縁側に、ひとつ影があった。
いつからそこにいたのか。
胡散臭い笑みを浮かべた八雲紫が立っていた。
「あら。怖い顔」
「怖い顔にもなるわよ」
霊夢は眉をひそめる。
「覗き見?」
「見守りよ」
「どっちも同じでしょ」
「同じではないわ。見守りの方が、少し善良に聞こえるもの」
「……聞こえるだけね」
紫は扇で口元を隠し、くすりと笑った。
いつもの笑みだった。
柔らかくて、つかみどころがなくて、その奥が見えない笑み。
霊夢は縁側へ出る。
夜風が頬を撫でた。
「あの子、眠ったわよ」
「ええ。よく眠っているわね」
霊夢は腕を組んだ。
「で、何か分かったの?」
「色々と」
「言いなさいよ」
「あら、今日はずいぶん素直に聞くのね」
「回りくどい話を聞く気力がないだけ」
「それは残念」
紫は少し楽しそうに目を細めた。
けれど、すぐにその笑みを薄くする。
「ナナシは、やはり普通の外来人ではないわ」
「……それはもう分かってる」
「ええ。分かっているでしょうね」
紫は境内の方へ視線を向けた。
月明かりに照らされた賽銭箱。
鳥居。
石畳。
その先に広がる夜の幻想郷。
「外の世界から流れ着いたものではある。けれど、ただ迷い込んだ普通の人間とは違う」
「……人間じゃないってこと?」
「一応、人間の形はしているわね」
「答えになってない」
「今は、それで十分よ」
霊夢は紫を睨む。
紫は涼しい顔で受け流した。
「相変わらず、肝心なところで濁すわね」
「断言できるほど、まだ整っていないのよ。あの子は不思議なくらい、輪郭が曖昧だもの」
「輪郭?」
「名前。記憶。縁。由来。意味。そういうものが薄いの」
紫の声が、少しだけ低くなる。
「あの子は、ここにいる。けれど、どこにも強く結ばれていない。だから見失われやすい」
「……厄介ね」
「ええ。とても」
「他人事みたいに言わないで」
「他人事ではないわ。だから見に来たの」
紫は扇を閉じる。
ぱちん、という小さな音が、夜に落ちた。
「霊夢。あなたは、あの子をどうするつもり?」
「どうするって?」
「元の場所へ帰すのかしら。幻想郷に置くのかしら。それとも……異変の原因として祓う?」
霊夢の目が細くなる。
「紫」
「ただの確認よ」
「趣味が悪い確認ね」
「否定はしないわ」
紫は微笑んでいる。
けれど、霊夢はその言葉を冗談として受け取らなかった。
博麗の巫女としてなら。
幻想郷の均衡を守る者としてなら。
危険なものは、見極める必要がある。
ナナシの血は妖怪を呼び寄せる。
放っておけば、また騒ぎになるかもしれない。
それこそ、大きな異変になるかもしれない。
……それでも。
霊夢は、閉じられた障子をちらりと見た。
その向こうには、疲れ切って眠る子供がいる。
今日、初めて人里へ行き。
慣れない仕事をして。
それでも笑い、はしゃぎ、最後には布団で眠った子がいる。
「……別に、どうもしないわよ」
霊夢は言った。
「今は、ここで預かる。それだけ」
「危険でも?」
「危険なら見張る」
「手に負えなくなったら?」
「その時はその時考える」
「……ずいぶん雑ね」
霊夢は肩をすくめた。
「それに、あの子はまだ何もしてない。勝手に拾われて、勝手に狙われて、勝手に騒ぎの中心に置かれてるだけ。厄介者扱いするのは、さすがに早いでしょ」
紫はしばらく霊夢を見ていた。
それから、楽しそうに笑う。
「あなたらしいわ」
「褒めてる?」
「もちろん」
「信用できない」
「あら」
紫は扇を開き、口元を隠した。
「でも、ひとつだけ忠告しておくわ」
「また?」
「ええ。また」
夜風が止まった。
虫の声が、少し遠のいたように感じた。
「あの子を呼んでいるものがいる」
霊夢の表情が変わる。
「妖怪?」
「いいえ」
「吸血鬼?」
「いいえ」
「じゃあ何よ」
紫はすぐには答えなかった。
境内の端、闇の濃い方を見つめる。
「……おそらく、古いものよ」
「古いもの?」
「名前を失っても、まだ消えきれないもの。祀られなくなっても、まだ自分を神だと思っているもの。誰かの祈りと、誰かの犠牲を、同じものだと信じているもの」
霊夢は黙った。
その言葉だけで、十分に嫌な予感がした。
「それが、例の神隠しの黒幕?」
「ええ」
「何のために」
「取り戻すために」
紫の声は静かだった。
けれど、その静けさがかえって不穏だった。
「ナナシは、まだその声を聞いていない。少なくとも、はっきりとはね。けれど、縁が薄い子ほど、外からの呼び声には引かれやすい」
「だから縁を作れって言ったわけ?」
「ええ。人里へ行かせたのは正解だったわ。歴史を守る半獣に会い、子供たちに会い、あなたの神社で働き、鬼にまで名を呼ばれた。あの子は少しずつ、こちら側に結ばれ始めている」
「物みたいに言わないで」
「失礼。けれど、あながち間違いでもないのよ」
霊夢は顔をしかめた。
「嫌な言い方ね」
「嫌な話だもの」
紫は月を見上げた。
「名前を呼ばれること。帰る場所があること。誰かに心配されること。そういう小さな縁が、あの子をあの子にしていく」
「ナナシを、ナナシに、ね」
「ええ」
紫は静かに頷いた。
「だから、霊夢」
「何」
「あの子に、帰る場所をたくさん作ってあげなさい」
「もう布団は貸したわよ」
「そういう意味ではないわ」
「……分かってるわよ」
霊夢は不機嫌そうに言った。
「でも、勘違いしないで。私は別に、あの子を甘やかすつもりはないから」
「ええ」
「働かせるし」
「ええ」
「変なことをしたら怒るし」
「ええ」
「勝手に自分を差し出そうとしたら、ひっぱたくわ」
紫はそこで、少しだけ目を細めた。
笑っているような、安心したような顔だった。
「それでいいのよ」
「何よ、その言い方」
「いえ。ただ、あの子にはそういう人が必要だと思っただけ」
霊夢は答えなかった。
ただ、障子の向こうへもう一度視線を向ける。
小さな寝息は、まだ続いている。
ナナシ。
魔理沙がつけた、ひどく安直な名前。
名前がないから、ナナシ。
それなのに、その名前はもう、ただの仮の呼び名ではなくなり始めている。
霊夢が呼ぶ。
魔理沙が呼ぶ。
アリスが呼ぶ。
慧音が呼び、里の子供たちが呼び、萃香が面白がって呼ぶ。
呼ばれるたびに、あの子は少しずつ、この幻想郷に結ばれていく。
それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
でも少なくとも、今の霊夢には、それを悪いことだとは思えなかった。
「……紫」
「何かしら」
「その古いものっていうのは、幻想郷にはすぐ来るの?」
「……いいえ。まだ遠いわ」
「なら、当分の間は大丈夫なわけね」
「ええ。当分の間は」
紫はくすりと笑う。
足元に、黒い隙間がゆっくりと開いた。
無数の目が、夜の中で瞬く。
「では、私はそろそろ失礼するわ」
「最初から来なくてよかったのに」
「あら。そんなことを言って、本当は話せて安心したのではなくて?」
「するわけないでしょ」
「ふふふ。そういうことにしておきましょう」
紫の姿が、隙間の向こうへ消えていく。
最後に残った声だけが、夜にほどけた。
「おやすみなさい。よい夢を」
隙間が閉じる。
境内に、虫の声が戻った。
霊夢はしばらくその場に立っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「まったく」
今日、何度目か分からない言葉だった。
厄介な子を預かった。
厄介なものに狙われている。
厄介な妖怪の賢者は、相変わらず肝心なことを全部は言わない。
それでも。
霊夢は障子の前まで戻ると、ほんの少しだけ戸を開けた。
中を覗く。
ナナシは布団の中で、小さく丸まってぐっすり眠っていた。
胸元には、あの巾着袋を抱えている。
何も持っていないようで、手放せないものだけはしっかり抱えている。
その姿を見て、霊夢は少しだけ表情を緩めた。
「……仕方ないわね」
小さく言って、障子を閉める。
返事はない。
代わりに、穏やかな寝息だけが聞こえた。
霊夢はそれを確認してから、自分の部屋へ歩いていった。
博麗神社の夜は、再び静かになった。
◇
そのころ。
どことも知れない、暗い場所で。
水の落ちる音がしていた。
一滴。
また一滴。
それは雨の音にも聞こえた。
血の音にも聞こえた。
朽ちた社の奥。
名を刻んだはずの板は腐り、注連縄は黒く変色し、供物台には何も残っていない。
祈る者はいない。
捧げる者もいない。
ただ、長い時間だけが過ぎていた。
その闇の中で、何かが目を開ける。
それは人の形をしているようにも見えた。
それは獣の形をしているようにも見えた。
それは、眠っていた。
忘れられたまま。
呼ばれないまま。
祀られないまま。
けれど、完全には消えていない。
なぜなら、まだ残っている。
最後の供物が。
最後の祈りが。
最後の証が。
闇の奥で、古い声がこぼれた。
「どこへ行ったの?」
その声は、優しかった。
どこまでも穏やかで、慈しみに満ちていた。
だからこそ、ひどく冷たかった。
水音が止まる。
朽ちた社の床に、淡い白の影が揺れた。
小さな少女の形。
白い衣。
胸に抱えた巾着袋。
眠る横顔。
けれどその幻は、すぐに薄れて消える。
「名を呼ばれているの?」
それは静かに囁いた。
「縁を結ばれているの?」
闇が、わずかに震える。
怒りではない。
憎しみでもない。
それは、悲しみに似ていた。
愛し子が道を誤ったことを嘆くような。
「かわいそうに」
声が言う。
「忘れてしまったのね」
腐った注連縄が、音もなく揺れた。
「お前は、そこにいるものではないのに」
闇の奥から、黒い手のようなものが伸びる。
何かを撫でるように。
何かを抱き寄せるように。
けれど、その手が触れるものは何もない。
「お前は、私の物だ」
その言葉は呪いではなかった。
少なくとも、それを口にしたものにとっては。
それは祝福だった。
◇
夜は深くなる。
幻想郷の空に、月が白く浮かんでいた。
ナナシはまだ、何も知らない。
けれど、ナナシをめぐる縁は、もう動き始めている。
拾われた子は名を呼ばれ、結ばれた縁は小さな居場所になる。
そして、遠い闇の奥で。
ほどけたはずの古い縁が、もう一度、ナナシへ手を伸ばそうとしていた。
第1章 拾い物 了