東方拾得録   作:まほろばのーぶる

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第2章 失せ物
第13話 甘露の残り香


 淡い記憶は、甘露に消える。

 

 紅魔館へ戻るまでの道を、フランドール・スカーレットはほとんど覚えていなかった。

 

 夜風を切って飛んだこと。

 

 月が白かったこと。

 

 館の灯りが、遠く赤く滲んで見えたこと。

 

 そのどれもが、ぼんやりと霞んでいる。

 

 ただひとつを除いて。

 

「……ナナシ」

 

 その名を口にした瞬間、喉の奥が甘く疼いた。

 

 地下へ続く廊下は、いつも通り冷えている。

 

 石造りの壁も、閉ざされた扉も、外の光が届かない暗がりも、何も変わっていない。

 

 なのに、フランドールの身体だけが熱かった。

 

 吸血鬼にとって、血は食事だ。

 

 嗜好品でもあり、力の源でもある。

 

 美味い血も知っている。

 

 上等な血も知っている。

 

 珍しい味の血も、香りの強い血も、薄くてつまらない血も知っている。

 

 だから、フランドールは血というものを理解しているつもりだった。

 

 ……けれど。

 

「あれは、違う」

 

 自室の扉を閉めて、フランドールは呟いた。

 

 あれは、ただの血ではなかった。

 

 舌に触れた瞬間、身体の奥がほどけた。

 

 喉が焼けるほど渇いて、胸の奥が甘く満たされた。

 

 飲めば飲むほど欲しくなって、止めなければならないと分かっているのに、もっと、と手が伸びた。

 

 あんな血は知らない。

 

 あんな人間は知らない。

 

 いや、本当に人間なのかも分からない。

 

 名前のない名前を持つ、白い子。

 

 怖がりながらも、条件をつけて血を差し出した子。

 

 自分の身を守るより先に、誰かが傷つくことを嫌がった子。

 

 吸われる直前まで喋って、文句を言って、怖がっていたのに、逃げなかった子。

 

 そして、腕の中で、あっけなく壊れてしまいそうになった子。

 

「……壊すつもりは、なかったのに」

 

 自分の指先を見る。

 

 まだ鮮明に覚えている。

 

 掴んだ時の軽さ。

 

 震えていた声。

 

 血が喉を通った瞬間の、あの甘さ。

 

 それが強烈なまでに記憶にこびりついている。

 

 胸元には、乾きかけた赤い染みが残っていた。

 

 ナナシの血。

 

 服にこぼれた、ほんのわずかな残り香。

 

 それを嗅ぐだけで、息が乱れる。

 

「……ふふ」

 

 笑いが漏れた。

 

 楽しいからではない。

 

 怖いからでもない。

 

 ただ、身体の奥から湧き上がるものを、うまく押さえられなかった。

 

「おかしいわね」

 

 フランドールはベッドに腰を下ろした。

 

「私、ちゃんと約束したのに」

 

 ちょっとだけ。

 

 痛くしない。

 

 壊さない。

 

 たしかに、そう言った。

 

 ——けれど、ひと口目で分からなくなった。

 

 あれは、食事ではない。

 

 あれは、毒でもない。

 

 もっと甘くて、もっと始末が悪い。

 

 極上の甘露。

 

 一度知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない味。

 

「もう一度、会いたい」

 

 言葉にすると、それはひどく自然だった。

 

 もう一度、顔を見たい。

 

 もう一度、名前を呼びたい。

 

 もう一度、あの声で文句を言われたい。

 

 そして。

 

「もう一度、飲みたい」

 

 欲求が、形を持たないまま膨れ上がった。

 

 フランドールを取り巻く力が渦を巻き、空間を軋ませる。

 

 部屋の空気が震え、棚に置かれた小物がかたかたと鳴った。

 

 壁に落ちた薄い影が、ぐにゃりと歪む。

 

 その瞬間、扉の向こうで、こつんと足音が止まった。

 

 フランドールはその音に少し正気を取り戻し、顔を上げる。

 

「入るわよ、フラン」

 

 姉の声だった。

 

 返事を待たずに、扉が開く。

 

 レミリア・スカーレットは、部屋に入るなり、まず妹の顔を見た。

 

 次に、胸元の血染みを見た。

 

 そして最後に、少しだけ呆れたように息を吐いた。

 

「無断外出は感心しないわね」

 

「聞いたら止めたでしょう?」

 

「当然よ」

 

「だから聞かなかった」

 

「悪びれないわね」

 

「お姉様だって、分かってたんでしょう?」

 

 フランドールがそう言うと、レミリアは少しだけ黙った。

 

 責めるでもなく、否定するでもなく。

 

 ただ、運命という概念を正しく理解できている者らしい、どこか面倒そうな顔をした。

 

「……そうね。あなたが今夜、外へ出ることは見えていたわ」

 

「なら、止めなかったの?」

 

「止めれば、別の形でその運命が起きたでしょうね。窓が壊れるか、扉が壊れるか、私の機嫌が壊れるかの違いよ」

 

「最後はお姉様の問題ね」

 

「大事な問題よ」

 

 レミリアはそう言って、フランドールの前まで歩いてくる。

 

 軽口はそこで途切れた。

 

 彼女の視線が、妹の胸元に残った赤に吸い寄せられる。

 

「……それが、その子の血?」

 

「うん」

 

「名前は?」

 

「ナナシ」

 

「ナナシ……ね」

 

 レミリアはその名を繰り返した。

 

 音の響きを確かめるように。

 

 まだ見ぬ少女の輪郭を、舌の上でなぞるように。

 

「変な名前ね」

 

「でも、似合ってた」

 

「名もない子に、ナナシ。……なるほど」

 

 レミリアは薄く笑う。

 

「運命が妙な絡まり方をしていたのよ。無縁塚、魔法の森、博麗神社、そしてあなた。空白みたいな子が、あちこちの糸を引っかけて歩いている」

 

「それがナナシ?」

 

「おそらくね」

 

 レミリアは言いながら、ほんの少し身を寄せた。

 

 血の染みに近づく。

 

 フランドールはそれを見て、何も言わなかった。

 

 止めたくない。

 

 けれど、見せたくもない。

 

 奇妙な感覚だった。

 

 姉ならいいと思う気持ちと、姉にも渡したくないと思う気持ちが、胸の奥で絡まる。

 

 レミリアの瞳が、微かに赤く深まった。

 

 乾きかけた血の残り香。

 

 それだけで、彼女の喉が小さく動いた。

 

「……あら」

 

 レミリアは笑った。

 

 いつもの余裕をまとった笑みだった。

 

 けれど、その指先には、ほんの少しだけ力が入っている。

 

「これは、すごいわね」

 

「……欲しい?」

 

 フランドールが尋ねる。

 

 レミリアは隠さなかった。

 

「ええ。欲しいわ」

 

「飲みたい?」

 

「吸血鬼だもの」

 

「連れてきたい?」

 

「紅魔館の主だもの」

 

「自分のものにしたい?」

 

 その問いに、レミリアはゆっくりと笑った。

 

「そんなもの、当然でしょう」

 

 その声は甘かった。

 

 可愛らしい少女の声にも聞こえる。

 

 けれど、そこにあるのは紛れもなく吸血鬼の所有欲だった。

 

「これほどの血を持つ人の子が、外をふらふら歩いているなんて不用心だわ。誰のものでもないのなら、紅魔館に置くべきよ」

 

「……今は神社にいると思う」

 

「……博麗神社ね」

 

 レミリアの眉が、わずかに寄る。

 

「よりによって、攫いにくい場所にいるのね」

 

「霊夢が怒る?」

 

「怒るわね」

 

「面倒?」

 

「とても」

 

 そう言いながらも、レミリアの声に迷いはなかった。

 

 面倒だから諦める。

 

 そんな発想は、最初からない。

 

 面倒なら、面倒でない時を選べばいい。

 

 それだけの話だった。

 

「でも、来るわ」

 

「ナナシが?」

 

「ええ」

 

 レミリアは確信を持って言った。

 

「近いうちに、あの子は人里へ出る。博麗の巫女の目が離れる一瞬がある」

 

「見えたの?」

 

「見えた、というより、そこだけ糸がほどけているのよ」

 

 レミリアはフランドールの服についた血から何とか離れようとするかのように一歩後ろへ下がった。

 

「なら、その時に拾えばいい」

 

「拾う?」

 

「連れてくる、と言ってもいいわ」

 

「攫うの?」

 

「……招待よ」

 

「本人が来たがらなくても?」

 

「後から納得してもらえばいいのよ」

 

 フランドールは瞬きをした。

 

 そして、くすりと笑う。

 

「お姉様、横暴ね」

 

「吸血鬼だもの」

 

 レミリアは当然のように言った。

 

 その言い方があまりにも自然で、フランドールはまた笑った。

 

 そうだ。

 

 自分たちは吸血鬼だ。

 

 欲しいものを欲しいと言う。

 

 美しいものを近くに置く。

 

 珍しいものを館に招く。

 

 そこに多少の強引さがあったとしても、紅魔館では大きな問題にはならない。

 

 問題にするのは、たいてい外の者たちだ。

 

「私は、ナナシが欲しい」

 

 フランドールは言った。

 

「壊したいわけじゃない。殺したいわけでもない。食べきりたいわけでもない」

 

「分かっているわ」

 

「でも、そばに置きたい。あの子が何なのか知りたい。どうしてあんな味がするのか、どうして私がこんなに欲しくなるのか、知りたい」

 

「ええ」

 

「それに」

 

 フランドールはそこで言葉を切った。

 

 ナナシの震えた声を思い出す。

 

 怖がりながらも、条件を出してきた声。

 

 痛くしないで、と言いながら、それでも誰かを守ろうとした声。

 

 最後に、また会うことへの不満を言いかけて、倒れた声。

 

「……あの子、面白いの」

 

 レミリアは目を細めた。

 

「血だけではなく?」

 

「血だけじゃない」

 

 フランドールは即答した。

 

「血が一番すごいけど」

 

「そこは正直ね」

 

「だって、すごかったもの」

 

 フランドールの声が、また甘く濁る。

 

 胸元の血染みに、自然と指が触れた。

 

 乾きかけて、布地に沈んだ赤。

 

 もう飲めるほど残ってはいない。

 

 香りも薄れている。

 

 それでも、手放すのが惜しかった。

 

 ——その時、扉の外から控えめな声がした。

 

「お嬢様。お呼びでしょうか」

 

「入って、咲夜」

 

 扉が開き、十六夜咲夜が一礼した。

 

 銀の髪。整った姿勢。隙のない所作。

 

 完全で瀟洒な従者は、二人の吸血鬼が甘い酩酊の中にいる空気にも、表情を乱さない。

 

「フランドール様、お戻りになられていたのですね。お怪我はございませんか」

 

「怪我はしてないわ」

 

「それは何よりです」

 

 咲夜の視線が、フランドールの胸元に向く。

 

 血染み。

 

 咲夜は一拍置いてから言った。

 

「お召し替えをお持ちいたします。そちらのお召し物は、洗濯いたしましょうか」

 

 フランドールの指が、服の布地を握った。

 

「……洗うの?」

 

「血は時間が経つと落ちにくくなりますので」

 

「……そう」

 

 フランドールは返事をしたが、手は離さなかった。

 

 レミリアもまた、血染みを見ていた。

 

 洗うべきだ。

 

 当然だ。

 

 服に血が残ったままでは不衛生で、匂いも残る。

 

 咲夜の判断は正しい。

 

 正しいのに、レミリアはすぐに頷けなかった。

 

 ほんの残り香だけで、喉が疼く。

 

 それを水に流してしまうのは、ひどく惜しい。

 

「……咲夜」

 

「はい」

 

「洗濯は後でいいわ」

 

 咲夜はわずかに目を伏せた。

 

「畏まりました」

 

 それ以上は尋ねない。

 

 完璧な従者は、主人が何を惜しんだのかを理解しても、表情には出さなかった。

 

 レミリアは咲夜のほうに身体を向ける。

 

「咲夜。8日後、人里へ向かいなさい」

 

「……8日後でございますか」

 

「ええ。ナナシという少女がその日人里に一人で来るわ」

 

「……ナナシ様」

 

「見た目は幼い人間の少女。名前は仮のもの。記憶も曖昧。今は博麗神社に保護されているはずよ」

 

「博麗神社から、人里へ」

 

「おつかいでしょうね。あの子ひとりになる時間がある」

 

 咲夜の目が、わずかに鋭くなる。

 

 任務の形を理解した顔だった。

 

「その隙に、紅魔館へお連れすればよろしいのですね」

 

「ええ」

 

「ご本人の了承は」

 

「取れれば取りなさい」

 

「取れなければ」

 

「連れてきなさい」

 

 レミリアは平然と言った。

 

「ただし、傷つけては駄目よ。怖がらせるのも、できれば少なく。あの子の血はもちろん魅力的だけれど、壊れてしまっては意味がないわ」

 

「畏まりました」

 

「霊夢には見つからないように」

 

「承知しております」

 

「それと、人里で騒ぎを起こさないこと。博麗の巫女に余計な口実を与えるのは面倒だわ」

 

「では、静かに」

 

「ええ。静かに、丁寧に、確実に」

 

 咲夜は一礼した。

 

「拉致でございますね」

 

「招待よ」

 

「失礼いたしました。強めの招待でございますね」

 

「……そういうことにしておきなさい」

 

 咲夜は真顔で頷いた。

 

 その返答はどこかずれていたが、今回はそれ以上ふざけた言葉は続かなかった。

 

 命じられた内容が、遊びではないと分かっているからだ。

 

「咲夜」

 

 フランドールが声をかける。

 

 咲夜は静かに視線を向けた。

 

「あの子、怖がりなの。だから、あまり乱暴にしないで」

 

「承知しました」

 

「でも、逃がさないで」

 

「承知しました」

 

「それと」

 

 フランドールは少しだけ迷った。

 

 言うべきことはたくさんある気がした。

 

 ナナシはよく喋る。

 

 怖がると余計に喋る。

 

 人間基準の安全を欲しがる。

 

 自分のことより他人の心配をする。

 

 首筋を噛むと、最初はとても怖がってた。

 

 けれど、結局出てきた言葉はひとつだった。

 

「……絶対連れてきてね?」

 

 咲夜は深く頭を下げた。

 

「必ず」

 

 フランドールの胸が、少しだけ軽くなった。

 

 そして同時に、また喉が渇いた。

 

 ナナシが来る。

 

 この館に。

 

 自分のいる場所に。

 

 そう思うだけで、身体の奥の熱が戻ってくる。

 

「お姉様」

 

「何?」

 

「ナナシが来たら、会わせてくれる?」

 

「もちろん」

 

 レミリアは当然のように答えた。

 

「あなたが見つけた子だもの。私だけで独り占めはしないわ」

 

「本当に?」

 

「ええ」

 

 レミリアは微笑む。

 

「ただし、今度は飲みすぎないこと」

 

「……努力するわ」

 

「努力では不安ね」

 

「じゃあ、約束する」

 

「その約束を破ったばかりでしょう」

 

「今度は、ナナシが倒れないようにする」

 

 レミリアは少しだけ笑った。

 

 それは呆れたようでもあり、姉らしく甘やかすようでもあり、同じ吸血鬼として理解しているようでもあった。

 

「それなら、まずは会話からね」

 

「会話」

 

「紅茶を出して、お菓子を出して、名前を呼んで、こちらのことを覚えさせる」

 

「血は?」

 

「その後」

 

「長いわ」

 

「大事なものほど、ゆっくり味わうものよ」

 

 フランドールは考える。

 

 ゆっくり。

 

 それは少し苦手だ。

 

 けれど、ナナシがこの館に来るなら。

 

 この館にいて、逃げずに、自分の声に返事をするなら。

 

 少しなら待てるかもしれない。

 

「分かった」

 

 フランドールは頷いた。

 

「でも、早く会いたい」

 

「咲夜が連れてくるわ」

 

 レミリアはそう言って、咲夜を見る。

 

「任せたわよ」

 

「はい、お嬢様」

 

 咲夜はもう一度、完璧な礼をした。

 

 その姿はいつも通り瀟洒で、静かで、隙がない。

 

 けれど、彼女の頭の中ではすでに、人里の地図と時間帯と人通り、博麗の巫女と魔法使いの行動範囲、そして幼い少女ひとりを誰にも気づかれず連れ帰る手順が組み上がり始めていた。

 

 紅魔館の夜は、いつも通り続いている。

 

 妖精メイドたちが廊下の向こうで小さく騒ぎ、どこかで美鈴がくしゃみをし、図書館の奥からは本のページをめくる微かな音が聞こえた。

 

 いつも通りの紅魔館。

 

 けれど、そう遠くないうちに。

 

 この館の空気には、とろけるような甘い香りが混ざることになる。

 

 それはもう、乾きかけた染みの残り香ではない。

 

 紅魔の館に映える美しい甘露として。

 

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