博麗神社の朝は、思っていたよりも早い。
というより、霊夢の朝が早い。
もっと正確に言うなら、霊夢は朝から働き者というわけではないのに、起きる時間だけは妙に早い。
……そこが少し納得いかない。
「霊夢って、朝早いよね」
「そう?」
「うん。もっと昼近くまで寝てると思ってた」
「失礼ね」
「でも、生活基準はわりと雑だよね」
「朝から口が回るわね、あんた」
縁側に座ったボクの額に、霊夢の指がぴんと触れた。
次の瞬間、淡い光が額から胸元へ、そこから手足の先まで流れていく。
ぞわぞわするような、温かいような、不思議な感覚だった。
「はい、終わり」
「これで魔除け?」
「そう。よほど変なのに絡まれなければ大丈夫」
「よほど変なのに絡まれた場合は?」
「全力で逃げなさい」
「防衛手段が急に自力!」
「変なのに絡まれたら騒ぎなさい。あんた、危なくなったらよく喋るでしょ」
「それ、防御性能として数えていいの?」
ボクは額を押さえながら聞いた。
霊夢は湯呑みを片手に、平然と答える。
「少なくとも黙って食われるよりはましでしょ」
「朝から想定が物騒なんだけど」
「幻想郷だもの」
「便利な言葉だなあ……」
ボクは小さく息を吐いた。
博麗神社に居候するようになって、1週間が経った。
最初は、知らない場所で目を覚まし、知らない人たちに囲まれ、何もかも分からないまま転がり込んだようなものだった。
でも、1週間も経つと、人間というのは案外慣れる。
いや、人間かどうかはまだ分からないけど。
そこは今、棚上げにしている。
……考え始めると朝ご飯の味が薄くなるからだ。
この1週間で、人里への道も何度か往復した。
最初は魔理沙の箒で半泣きになりながら輸送されていたけど、徒歩で神社と人里間の陸路を覚えるために慧音が道を教えてくれたりもした。
つまり、段階的な練習はした。
地面のある移動なら、ボクにも分があるほどに道をしっかり覚えた。
「本当にひとりで大丈夫?」
霊夢が聞いた。
「大丈夫。たぶん」
「その“たぶん”が不安なのよ」
「この道はもう何度か通ったし、昼間だし、人里までは比較的安全なんでしょ?」
「比較的ね」
「比較的の部分が少し気になるけどね」
「幻想郷で絶対安全なんて言ったら嘘になるわよ」
「正直で大変よろしい」
「偉そうに言わない」
霊夢は湯呑みを置く。
「いつもなら魔理沙が来るんだけど、今日は込み入った事情があるらしいから」
「今日は森で実験するって言ってた。『たぶん爆発するから行けない』って言ってた」
「相変わらずね」
「うん。魔理沙本人は一応信用してるけど、やっぱり魔理沙の安全基準は信用できないね」
「そこは正しいわ」
霊夢は当然のように頷いた。
「慧音も今日は寺子屋があるし、私は神社を空けられない。だから、今日はひとりで行って、ひとりで帰ってくる練習」
「ひとり立ち訓練だね」
「そんな大げさなものじゃないわよ。おつかい」
「初めてのおつかいってやつだね」
ボクは深く頷いた。
もちろん魔理沙の箒に乗るのは、速い。
それは認める。
けれど、速いことと安全なことは別のお話だ。
地面が遠い。
風が痛い。
本人は楽しそうにボクの悲鳴を肴にしている。
つまり怖い。
……その点、徒歩はいい。
足の裏に地面がある。
地面は裏切らない。
少なくとも、急に高度を上げたりはしない。
「やっぱり、地面と語り合いながら歩くのが一番健康的だよ」
「地面と語り合わなくていいから、ちゃんと前を見て歩きなさい」
「了解!」
「今日は人里でおつかい。それから寺子屋ね」
「うん。頼まれたもの買って、慧音先生のところに寄って、子どもたちにちょっと話してくる」
「ちょっと、で済めばいいけど」
「失礼な。ボクはいつでも適切な尺を心がけてるよ」
「前回、寺子屋の子どもたち相手に“どうして桶は転がるのか”で半刻使ったって聞いたわよ」
「あれは重要な話だよ。丸いものは転がる。これは人生にも通じる」
「通じないわよ」
霊夢は呆れた顔をした。
でも、止めはしない。
この1週間で分かったことがある。
霊夢は雑だ。
かなり雑だ。
でも、放り出しはしない。
お茶は薄いし、食事の基準は気分だし、賽銭箱の収支管理は謎に包まれているけれど、必要なところではちゃんと見ている。
今こうして、ひとりで人里に行けるように魔除けをかけてくれているのも、たぶんそういうことだ。
ボクは巾着を肩にかけた。
霊夢から渡された買い物メモを確認する。
米。
味噌。
茶葉。
油揚げ。
それと、何か安い野菜。
「最後だけ曖昧だね」
「安ければ何でもいいわ」
「献立の未来が市場価格に支配されている……」
「文句があるならちゃんと稼いできなさい」
「寺子屋の臨時講師手当、ちゃんと家計に入れてるでしょ」
「偉い偉い」
「その褒め方、子ども扱いが過ぎる」
「あんた子どもでしょ」
「見た目はね。中身は……」
そこまで言って、ボクは少し止まった。
中身は何なのか。
それが分からない。
でも、霊夢は特に突っ込まなかった。
「行ってらっしゃい」
ただ、それだけ言った。
ボクは少しだけ笑う。
「行ってきます」
神社の石段を下りる。
朝の空気は澄んでいた。
魔法の森の方は少し薄暗く、妖怪の山は遠く霞んでいる。
けれど、人里へ続く道は明るい。
……まあ、比較的に。
それでも足元には地面。
頭上には空。
背中には魔除け。
うん。
かなり安心感がある。
「徒歩、最高!」
ボクはしみじみ呟いた。
途中で妖精が一匹、草むらから顔を出した。
こちらを見て、いたずらを考えているような顔をする。
けれど、ボクにまとわりつく魔除けの気配に気づいたのか、すぐに目を丸くして草むらへ引っ込んだ。
「おお」
ボクは感心した。
「効いてる。霊夢ブランドはやっぱり信頼性が高いね」
それからは、特に大きな問題もなく人里に着いた。
◇
人里の朝は賑やかだ。
店先には野菜が並び、魚屋が声を張り上げ、通りを子どもたちが走っていく。
初めて来た時は人の多さに圧倒されたけれど、今では何人か顔見知りもいる。
「お、ナナシちゃんじゃないか」
八百屋の店主が手を振った。
「今日はひとりかい?」
「うん。魔除け付き徒歩移動だよ」
「なんだい、その偉そうな徒歩は」
「安全性と快適性を兼ね備えた最新方式」
「昔からあるだろ、徒歩は」
「完成された技術ってことだね」
店主は大きく笑った。
笑いながら、少し形の悪い大根を一本、籠に入れてくれる。
「ほら、これ持ってきな。霊夢さんによろしく」
「いいの?」
「昨日、うちの秤を直してくれただろ」
「あれは紐が絡まってただけだよ」
「それを見つけるのが助かったんだよ」
「……じゃあ、ありがたく」
ボクは大根を受け取る。
少し重い。
でも、こういう重さは嫌いじゃない。
次に寄った茶葉の店では、店主のおばあさんが笑顔で迎えてくれた。
「あら、ナナシちゃん。今日は霊夢さんのおつかい?」
「そう。茶葉を買いに来ました。できれば、霊夢の淹れ方でも味が残るくらい強いやつを」
「あらまあ」
おばあさんはころころ笑った。
「巫女様に怒られないかい?」
「怒られたら、茶葉のせいにします」
「正直でよろしい」
「いや、今の流れで正直判定になるんだ」
おばあさんは棚から茶葉を出しながら、ふと思い出したように言う。
「そうだ。前に教えてくれた布巾の干し方、よかったよ。乾きが早くなった」
「風の通り道を空けるだけでだいぶ違うからね。湿気は敵。見えないけど強敵」
「小さいのに物知りだねえ」
「小さいのは外見だけで、知識の出どころは本人にも不明です」
「不思議な子だねえ」
「それは本当にそう」
茶葉を受け取って店を出ると、今度は子どもたちが駆け寄ってきた。
「ナナシ先生!」
「先生ではないよ。臨時おもしろ説明係だよ」
「今日も来る?」
「行くよ。慧音先生に怒られない範囲でね」
「この前の、竹と水の話の続き!」
「あれはね、構造と圧力の話であって、決して竹で水を飛ばして遊ぶ授業では」
「遊んだじゃん!」
「教育的実験と言いなさい」
子どもたちは笑いながら、寺子屋の方へ走っていった。
ボクは買い物籠を抱え直す。
人里の通りを歩いていると、あちこちから声をかけられる。
壊れた戸を見てほしい。
紐の結び方を教えてほしい。
子どもが変な質問をして困っている。
霊夢に渡すなら、この漬物も持っていきなさい。
気づけば籠の中身は、買ったものと貰ったもので半々くらいになっていた。
「これは……霊夢に家計貢献として評価されるべきでは?」
そう呟きながら、ボクは寺子屋へ向かった。
◇
寺子屋では、慧音が待っていた。
「来たな、ナナシ」
「来ましたよ。臨時おもしろ説明係が」
「その肩書きは正式採用しないぞ」
「残念」
「今日は半刻だけだ。前回のように話を広げすぎないように」
「善処はします」
「その言い方は信用ならないな」
慧音先生は真面目な顔で言った。
とても正しい評価だった。
授業の題材は、道具の仕組みについてだった。
桶。
滑車。
てこ。
針と糸。
身近なものがどうして便利なのか。
ボクは慧音にもらった板へ絵を描きながら説明する。
「つまり、少ない力で重いものを動かせると、人間は嬉しい」
「なんで嬉しいの?」
「楽ができるから」
「楽していいの?」
「いい質問だね。楽をするために考えるのは、とても大事だよ。人間は楽をするために知恵を使い、その結果、なぜか仕事を増やす生き物なんだ」
「増えるの?」
「増える。不思議だね」
子どもたちが笑う。
慧音先生が咳払いをする。
「ナナシ」
「はい、ごめんなさい。今のは少し人生に踏み込みすぎました」
「少しではない」
それでも、慧音は笑っていた。
授業が終わる頃には、子どもたちが自分の家にある道具について次々に質問してきた。
壊れた独楽。
外れやすい戸。
すぐ絡まる紐。
転がりすぎる桶。
「桶は悪くないよ。丸いだけだからね。悪いのは、桶の可能性を甘く見た人間側だよ」
「ナナシ、桶の弁護はそこまでだ」
桶の話をしたら慧音から授業強制終了のお達しが出て、なぜか全員に笑われた。
解せない。
◇
寺子屋を出る頃には、日が少し傾き始めていた。
籠は朝より明らかに重い。
でも、気分は悪くない。
ボクは人里の通りを歩きながら、小さく息を吐いた。
「……なんか、ちゃんと生活してるなあ」
自分でも少し不思議だった。
名前も記憶もない。
どこから来たのかも分からない。
けれど、今日買う茶葉があって、帰る神社があって、声をかけてくれる人がいる。
それは、思っていたよりずっと大きなことのように思えた。
「まあ、まずは無事に帰るまでが徒歩移動だけど」
そう呟いて、角を曲がった時だった。
通りの向こうに、ひとりのメイドさんが立っていた。
銀色の髪。
整った姿勢。
青と白の服。
人里の雑踏の中にいるのに、そこだけ妙に空気が違う。
綺麗な人だ。
でも、それ以上に。
なんというか。
ものすごく、きちんとしている感じが伝わってくる。
メイドさんはこちらに気づくと、静かに一礼した。
「失礼。ナナシ様でいらっしゃいますね」
「……はい?」
知らない美人に名前を呼ばれた。
この時点で、かなり事件の匂いがする。
「少し、お時間をいただけますか」
メイドさんは完璧な笑顔でそう言った。
……ボクは一歩、後ろへ下がる。
「……ははぁーん」
これは。
たぶん、すごく分かりやすい誘拐の導入だ。