「……ははぁーん」
ボクは、通りの向こうに立つ銀髪のメイドさんを見て、一歩後ろへ下がった。
夕暮れの人里。
寺子屋で子どもたちに話し込み、店の人たちに声をかけられ、気づけば空は茜色から紫へ変わりかけていた。
本当なら、そろそろ神社へ帰らなければならない時間だ。
そこへ、突然こちらの名前を呼んでくる知らない美人。
しかも、完璧すぎる笑顔。
条件は揃っている。
これは、たぶん事件だ。
いや、もっと具体的に言おう。
——誘拐の導入だ。
「少し、お時間をいただけますか」
銀髪のメイドさんは、まるでお茶の時間を尋ねるような声で言った。
背筋はまっすぐ。
服にはしわひとつない。
青と白の衣装は、薄暗くなり始めた通りの中で妙に目立っているのに、不思議と場違いではない。
綺麗な人だ。
ものすごく綺麗な人だ。
でも、美人だからといって油断してはいけない。
霊夢は言っていた。
知らない相手についていくな。
変だと思ったら逃げろ。
危ないと思ったら大声を出せ。
うん。
今のボクは、その教えを完璧に思い出している。
えらい。
「……えっと」
ボクは買い物籠を抱え直した。
「どちら様でしょう」
「メイドでございます」
「職業?」
「はい」
「……職業じゃなくて、名前とか所属とか、そういう情報がほしいです」
「失礼いたしました」
メイドさんは静かに一礼する。
「十六夜咲夜と申します」
「十六夜さん」
「咲夜で結構です」
「じゃあ咲夜さん。ボクに何か用ですか?」
「はい。お嬢様がお呼びです」
「お嬢様?」
「はい」
「どこの?」
「館の」
「……説明が一歩も進んでない」
ボクは役者じみた仕草で目を細めた。
……怪しい。
ものすごく怪しい。
お嬢様。
館。
メイドさん。
知らない美人。
ボクの名前を知っている。
まるで絵に描いたような怪しさ満載の導入だ。
ここでついていったら、たぶん霊夢にものすごく怒られることになりそうな予感がする。
……いや、怒られるだけで済めばいい方だ。
魔理沙には……まぁ十中八九笑われる。
慧音には危機管理の教材にされそう。
子どもたちには「ナナシ先生、知らない人について行ったの?」と純粋な目で聞かれる。
……それはつらい。
「すみません」
ボクはきっぱり言った。
「ボク、霊夢のおつかい中なので帰ります」
「左様でございますか」
咲夜さんは、あっさり頷いた。
「あれ?」
「はい」
「引き下がるんですか?」
「はい。無理にお引き止めするのは、瀟洒ではありませんので」
「瀟洒?」
「瀟洒です」
「便利な言葉ですね」
「ありがとうございます」
「褒めたわけではないです」
咲夜さんはまた一礼した。
「では、本日はこれで」
「あ、はい。どうも」
ボクも軽く頭を下げる。
なんだ。
ちゃんと断れた。
完全勝利だ。
ボクは危機を見抜き、誘惑を退け、安全な帰路を選択した。
えらいぞ、ボク。
これは霊夢に報告していいやつだ。
……いや、報告したら「当たり前でしょ」と言われる気もする。
でも、その当たり前をできたことが大事なのだ。
——そう思って踵を返そうとした時。
「残念です」
咲夜さんが、静かに呟いた。
「……残念?」
「はい。少しお話を聞いてくだされば、謝礼もご用意しておりましたのに」
ちらり。
咲夜さんの手元で、小さな布袋が揺れた。
じゃらり、と。
……重い音がした。
とても、重い音がした。
ボクの足がガクンと止まる。
「……謝礼」
「はい」
「今、謝礼と言いました?」
「申しました」
「そ、それは、具体的にどのような?」
「お嬢様より、失礼のないようにと」
咲夜さんは布袋の口を少しだけ開いた。
中で、貨幣が光った。
ひとつではない。
ふたつでもない。
たくさん。
かなりたくさん。
……目がくらむ、という言葉がある。
なるほど。
こういう時に使うのか。
「……咲夜さん」
「はい」
「これは、話を聞くだけで?」
「はい」
「話を聞く」
「はい」
「それだけ?」
「はい。お茶を飲みながら」
「お茶まで出る」
「もちろんでございます」
ボクは考えた。
知らない人についていくのは危険。
これは間違いない。
しかし、話を聞くだけで謝礼が出る。
しかも、お茶も出る。
そして目の前の人は、少なくとも礼儀正しい。
美人でもある。
服もきれい。
姿勢もいい。
所作も美しい。
……悪い人かもしれない。
でも、悪い人がこんなに丁寧に謝礼をちらつかせるだろうか。
うん、ちらつかせるかもしれない。
……いや、でも。
ボクは霊夢の賽銭箱を思い出した。
あの、いつ見ても中身の気配が薄い箱。
神社の茶葉。
米。
味噌。
修繕費。
居候費。
それから、今朝の霊夢の言葉。
文句があるなら稼いできなさい。
……稼ぎ。
これは、稼ぎでは?
いや、違う。
違う気はする。
でも、かなり近いところにはある。
「……ちなみに」
ボクはゆっくり聞いた。
「これを受け取った場合、ボクはどれくらい拘束されますか?」
「……お茶が冷めない程度でございます」
「お茶の保温性に依存する説明だ!」
「当館の茶器は優秀です」
「時間が伸びそうな情報!?」
「失礼いたしました」
咲夜さんは本当に申し訳なさそうに頭を下げる。
その態度がまた、判断を鈍らせる。
完璧に怪しいのに、完璧に礼儀正しい。
危険なのか、丁寧なのか、どちらかにしてほしい。
「でも、ボクは知らない人についていかない方針なので」
「賢明でございます」
「でしょう?」
「では、知り合いになるところから始めましょうか」
「発想がやわらかい……」
「十六夜咲夜でございます」
「それはもう聞いたよ?」
「好きな仕事は掃除です。得意な仕事は掃除です。心配事は厨房の管理です」
「自己紹介が仕事に偏りすぎてる……」
「これで少しは知っていただけたかと」
「知れたのは、咲夜さんがかなり仕事寄りの人だということだけだよ?」
「恐れ入ります」
「いや褒めてないです」
……ボクはもう一度布袋を見た。
布袋は重そうだった。
危機感と天秤にかけるには、あまりにも具体的な重さだった。
「……こ、これは」
ボクは小さく咳払いをした。
「ボクが個人的に釣られたわけではありません」
「はい」
「博麗神社の財政状況を鑑みた、戦略的な聞き取り協力です」
「たいへん立派なご判断かと」
「でしょう?」
「では、こちらを」
咲夜さんが布袋を差し出す。
受け取った。
重い。
現実の重さだ。
いや、現実はいつだって重い。
でも今日の現実は特に幸せな金属音がする。
「じゃ、じゃあ、少しだけ」
「ありがとうございます」
「本当に少しだけですからね」
「はい。少しだけ」
「人目のないところには行きません」
「承知いたしました」
「怪しいこともしません」
「承知いたしました」
「ボクが帰ると言ったら帰ります」
「……できる限り尊重いたします」
「今、少し言い方が弱かった!」
「お気のせいかと」
「気のせいかなあ……」
咲夜さんは微笑んだ。
綺麗な微笑みだった。
でも今、その綺麗さが少し怖い。
「では、参りましょう」
「どこへ?」
「お茶の席へ」
「場所の説明がふんわりしてる……」
「大丈夫です。すぐですので」
「すぐ?」
「はい。瞬きほどに」
「比喩?」
「いいえ」
「……いいえ?」
その瞬間。
世界から、音が消えた。
風が止まる。
通りのざわめきが途切れる。
遠くで跳ねていた子どもの声も、荷車の車輪の軋みも、鳥の羽ばたきも、全部がぴたりと止まった。
落ちかけていた木の葉が、空中に浮いたまま動かない。
「……え?」
ボクの声だけが、妙に大きく聞こえた。
いや、聞こえた気がした。
咲夜さんが、一歩近づく。
あまりにも自然に。
あまりにも丁寧に。
「失礼いたします」
「ちょっと待って今のすぐってそういう――」
言い終える前に、視界がずれた。
身体が浮く。
買い物籠を抱えた腕に、咲夜さんの手が添えられる。
乱暴ではない。
むしろ、壊れ物を運ぶみたいに丁寧だった。
だからこそ怖い。
人里の景色が、一瞬で遠ざかった。
いや、遠ざかったのかどうかすら分からない。
時間が止まっている。
音がない。
足場の感覚も曖昧。
——そして次の瞬間。
足元が、石畳に変わった。
「……はい?」
ボクは瞬きをした。
目の前には、大きな館があった。
湖のほとりに建つ、赤い洋館。
高い窓。
尖った屋根。
重厚な扉。
人里ではまず見ないような、異国めいた造り。
背後には門。
周囲には広い庭。
空気はひんやりとしていて、お花のような良い匂いがする。
空は、いつの間にか夜に沈んでいた。
人里の夕暮れはまだ明るさを残していたはずなのに、ここではもう、湖の向こうに細い月が浮かんでいる。
世界ごと、夜の側へ連れてこられたみたいだった。
「到着いたしました」
咲夜さんが、何事もなかったように一礼した。
「……ど、どこに!?」
「紅魔館でございます」
紅魔館。
その単語を聞いた瞬間、首筋がじわりと疼いた。
赤い瞳。
奇妙な羽。
甘い声。
牙が沈む感覚。
フランドール。
「……あっ」
ボクは、ようやく理解した。
遅い。
圧倒的に遅い。
これは誘拐の導入どころではない。
誘拐は、もう終わっていた。
「咲夜さん」
「はい」
「紅魔館って、あの紅魔館ですか?」
「どの紅魔館を想定されているかは分かりかねますが、こちらが紅魔館でございます」
「フランドールがいる?」
「妹様でございますね。いらっしゃいます」
「あっ」
「お嬢様もお待ちです」
「……お嬢様?」
「はい」
「もしかしてフランドールとは違う吸血鬼の?」
「はい。お嬢様は妹様の姉に当たります」
「あっ」
ボクは布袋を握りしめたまま、ゆっくり空を見上げた。
今日の空は暗い。
地面もある。
でも、今はどちらもあまり信用できない。
時間を止めるっぽいメイドさんがいるからだ。
「……やられた」
「何がでしょう」
「ボクは謝礼に釣られた。美人メイドさんの甘い言葉にほだされた。特には霊夢の賽銭箱を思い出したのが敗因だった」
「博麗神社を思う、お優しい判断だったかと」
「慰め方が上手いのかズレてるのか分からないよ!」
——その時、館の大きな扉が開いた。
重そうな扉なのに、開く音は不思議と静かだった。
奥から、小さな影が現れる。
青みがかった髪。
白い肌。
紅い瞳。
可愛らしい帽子。
背中には、蝙蝠のような羽。
フランドールとは違う。
でも、似ている。
同じ種類の美少女が、そこに立っていた。
「ご苦労だったわ、咲夜」
「はい、お嬢様」
「ずいぶん早かったわね」
「お断りされましたので、予定より少しだけ手順を簡略化いたしまして強めの招待といたしました」
「そう」
「いや、強めの招待じゃなくて拉致だよね!?」
思わず叫んだ。
階段の上の少女は、怒るどころか愉快そうに目を細めた。
「そのくらい元気なら、道中で壊れてはいないようね」
「道中で壊れる招待って何、怖っ!?」
「咲夜は丁寧だったでしょう?」
「丁寧なら何でも許されると思わないでほしい!」
「ふふ。あなたが、ナナシね」
「……はい。ボクがナナシです。今、人生の帰宅経路に重大な不具合が発生してプチパニックになっています」
「面白い挨拶ね」
「かなり切実だよ!?」
「私はレミリア・スカーレット。紅魔館の主よ」
「こ、紅魔館の主」
改めて聞くと、胃のあたりがきゅっとなる。
吸血鬼。
フランドールの姉。
この館の主。
つまり、この強めの招待……もとい拉致の依頼主。
レミリアは階段を下り、ボクの前まで来た。
夜闇の中で、彼女の紅い瞳だけが妙にはっきりしている。
見た目は幼い。
けれど、近づくほど空気が重くなる。
品定めするように。
珍しい菓子を見るように。
それから、喉が渇いた獣のように。
レミリアは、じっとボクを見ていた。
……いや。
見ている、だけではなかった。
ほんの少し、彼女の鼻先が動いた気がした。
吸い込むように。
確かめるように。
そしてレミリアの赤い瞳が、わずかに細くなる。
「……へえ」
小さな声だった。
けれど、妙に艶のある声だった。
ボクは反射的に一歩下がる。
「な、何?」
「いいえ」
レミリアは微笑んだ。
けれど、その視線は一瞬だけ、ボクの顔ではなく首筋に落ちた。
喉が、こくりと動く。
……ボクはぞくりとしてすかさず首を押さえた。
「……ちょっと待って」
「何かしら」
「今、ボクの首を見て、分かりやすくごくりってしなかった?」
「……気のせいよ」
「気のせいじゃないと思うんだけど!?」
「……失礼ね。淑女でも喉くらい鳴るわ」
「喉が鳴るか鳴らないかを疑ってるんじゃなくて、その理由を心配してるんだよ!?」
咲夜さんは、背後で静かに目を伏せていた。
否定してほしい。
今、すごく否定してほしい。
でも咲夜さんは何も言わなかった。
つまり、たぶん否定材料がない。
「ようこそ、ナナシ」
レミリアは優雅に微笑んだ。
さっきまでの、ほんの一瞬だけ獣みたいに見えた気配は、もうない。
そこにいるのは、紅魔館の主だった。
……いや、そう見せているだけかもしれない。
ボクは首筋を押さえたまま、半歩だけ咲夜さんの方へ寄った。
……咲夜さんは、すっと半歩ずれた。
「逃げ道を塞ぐ動きが自然!」
「メイドですので」
「メイドって何者なの!?」
レミリアがくすりと笑う。
「紅魔館は、あなたを歓迎するわ」
歓迎。
きれいな言葉だった。
でも、門は遠い。
咲夜さんは背後にいる。
館の奥は薄暗い。
ボクは買い物籠と布袋を抱え直した。
「……確認なんだけど」
「何かしら」
「歓迎って、本人が帰りたいと言った場合にも適用されるのかな?」
レミリアは微笑んだまま、咲夜さんを見る。
「咲夜、紅茶の準備を」
「かしこまりました」
「質問を紅茶で流された!」
咲夜さんは一礼する。
その視線が、ボクの買い物籠に向いた。
「お荷物は丁重にお預かりいたします」
「……それ、返してもらえるんですよね?」
「もちろんでございます。茶葉と野菜に罪はございませんので」
「荷物の無実を保証されても、ボクの立場が保証されてないんだけど」
「ナナシ様も、丁重にお迎えいたします」
「丁重に扱えば何をしてもいいわけじゃないよ?」
「心得ております」
「本当に?」
「できる限り」
「また少し弱い!」
咲夜さんは、真面目な顔で買い物籠を受け取った。
所作は完璧だった。
だからこそ、何もかもが余計にややこしい。
レミリアは、こちらを見てくすりと笑う。
「安心なさい。悪いようにはしないわ」
「その台詞、悪いことする人も言うんだよ?」
「なら、良いことをする人も言う台詞ね」
「うぐぐ、言い返しが強い」
「吸血鬼だもの」
「理由になるの?それ」
「なるわ」
当然のように言われてしまうと、少しだけ返しに困る。
紅魔館の扉は開いている。
中から、冷たい空気が流れてきた。
紅茶の香り。
古い木の匂い。
どこか甘い、夜の気配。
フランドールの名前を思い出したせいか、首筋がまた少し疼いた。
あの子も、この中にいる。
たぶん。
いや、間違いなく。
「まずはお茶にしましょう」
レミリアが言った。
「話はそれからよ」
「お茶の後に帰宅相談はできるかな?」
「相談なら聞いてあげるわ」
「実現性が低そうな返事!」
「聞くのは本当よ」
「そこだけ本当でも困るんだよ!」
レミリアは笑った。
からかうように。
楽しむように。
でも、どこか逃がさないという確信を含んで。
ボクは一度だけ後ろを振り返った。
門は閉じている。
その向こうに、人里へ続く道は見えない。
霊夢の魔除けはまだ身体に残っているはずなのに、紅魔館の夜気の中では、少し頼りなく感じた。
霊夢に怒られる。
きっと怒られる。
絶対怒られる。
慧音には、たぶん本当に教材にされる。
——知らない相手について行ってはいけません。
——謝礼を見せられても。
……うん。
返す言葉がない。
「……慧音の危機管理の授業、受けとくんだった」
小さく呟くと、咲夜さんが静かに首を傾げた。
「寺子屋でございますか?」
「今のボクの状況からして危機管理能力の欠如が壊滅的だからね……」
「では、次回に活かせますね」
「今回を無事に終えてから言いたい台詞だよ」
「ごもっともでございます」
咲夜さんは、あくまで丁寧に頷いた。
丁寧。
完璧。
そして、どこかずれている。
ボクは深く息を吐いた。
知らない美人メイドさんにはついていってはいけない。
たとえ謝礼が出ても。
たとえお茶が出ても。
たとえ博麗神社の財政が心配でも。
危機感より重い布袋を持ってはいけない。
「では、参りましょう」
咲夜さんが言った。
レミリアが館の奥へ振り返る。
開かれた扉の向こうには、赤い絨毯と、長い廊下と、燭台の明かりが続いていた。
外の夜よりも、館の中の方がずっと暗い。
それなのに、なぜか奥からは甘い香りがする。
紅茶か。
菓子か。
それとも、もっと別のものか。
そう思った時、前を歩くレミリアが、ふと足を止めた。
「……どうしたの?」
「いいえ」
レミリアは振り返らない。
けれど、ほんの少しだけ肩が揺れた。
「今日は少し、夜の空気が甘いと思っただけよ」
「空気って甘くなるの?」
「なるわ」
「吸血鬼基準?」
「ええ」
「……その甘さの原因がボクだったりしない?」
レミリアはその言葉に楽しそうに振り返った。
紅い瞳が、暗い廊下の中で細く笑う。
「知りたい?」
「やっぱりいいです!」
「賢明ね」
「今の返事でだいたい察したからね!?」
ボクは買い物籠を手放した両手を、ぎゅっと握った。
そして、紅魔館の中へ足を踏み入れる。
強めに招待された先で、何が待っているのか。
まだ何もわからない。
できれば説明がほしい。
切実に。
安全に。