「……遅い」
霊夢は、湯呑みを置いた。
博麗神社の境内は、もうすっかり夕闇に沈んでいた。
昼間は好き勝手に鳴いていた鳥の声も遠くなり、賽銭箱の影だけが、妙に長く伸びている。
ナナシが人里へ向かったのは昼過ぎだった。
買い物をして、寺子屋に顔を出す。
子どもたちに捕まって少し話し込んだとしても、夕方には戻る。
そういう話だった。
「また子どもに捕まってるのかしら」
口ではそう言った。
けれど、霊夢はもう立ち上がっていた。
ナナシは危なっかしい。
記憶がないくせに、妙なところで理屈っぽく、妙なところで押しに弱い。
知らない相手についていくな、と言えば一応うなずく。
危ないと思ったら逃げろ、と言えば、たぶん逃げようとはする。
ただし、相手が逃げる隙をくれるとは限らない。
「……面倒ね」
霊夢は札を数枚、袖に入れた。
それは、心配ではない。
少なくとも、霊夢本人はそう思っている。
ただ、居候が帰ってこない。
それだけだ。
それだけのことを確かめるために、霊夢は人里へ向かった。
◇
人里に着くころには、店先の行灯や軒先の提灯に、ぽつぽつと火が入り始めていた。
昼間の賑わいは引き、店じまいをする者、家路を急ぐ者、夕飯の匂いに釣られて走る子どもたちの声が、薄い夜気の中に混じっている。
霊夢は迷わず寺子屋へ向かった。
戸口の近くで、慧音が片づけをしていた。
霊夢の姿を見るなり、慧音はわずかに眉を上げる。
「霊夢? こんな時間にどうした」
「ナナシ、来てた?」
「ああ。来ていたぞ。買い物を済ませたあと、子どもたちと少し話していた」
「いつ出たの?」
「夕方前だ。神社に戻ると言っていたから、もう帰っているものだとばかり思っていたが」
霊夢は黙った。
その沈黙で、慧音の顔つきも変わる。
「戻っていないのか?」
「ええ」
「人里で迷うような子ではないだろう」
「そこまで器用じゃないけど、道順くらいは覚えてるわ」
霊夢は短く答えて、周囲を見回した。
ちょうどその時、寺子屋の奥から数人の子どもが顔を出した。
霊夢の姿に気づくと、ひそひそと声を交わし、そのうち一人が「あ」と声を上げる。
「ナナシ先生なら、きれいなメイドの人と話してたよ」
霊夢の目が、すっと細くなった。
「メイド?」
「うん。銀色の髪で、青と白の服の人」
「すっごくきれいだった」
「でもナナシ先生、なんか困った顔してた」
「手を引かれてたよ」
子どもたちは口々に言った。
慧音の表情が険しくなる。
「銀髪のメイド……まさか」
「十六夜咲夜ね」
霊夢は、吐き捨てるように言った。
紅魔館。
湖のほとりに建つ、赤い悪魔の館。
その主の顔が、霊夢の頭に浮かぶ。
「人の居候を、勝手に持っていくんじゃないわよ」
「待て、霊夢。相手は紅魔館だ。私も――」
「いい」
霊夢は振り返らなかった。
「これはうちの問題よ」
そう言い残して、霊夢は夜の人里を出た。
湖の向こうに、赤い館が見える。
夜を背負ったようなその影は、遠目にもやけに目立っていた。
霊夢は札を一枚、指に挟む。
「返してもらうわよ、レミリア」
◇
赤い館の食堂は、神社の食卓とは何もかもが違っていた。
長い食卓。
白いクロス。
銀色の燭台。
壁に飾られた絵画。
椅子の背もたれまで妙に立派で、座っているだけで背筋に緊張が走る。
そして、目の前には料理が並んでいる。
香草の匂いがする肉料理。
湯気を立てる白いスープ。
焼きたてらしいパン。
見たこともない形に整えられた野菜。
赤いソースのかかった何か。
見た目だけなら、ものすごくおいしそうだった。
ただし、ここは吸血鬼の館である。
そして、食卓の向こうでは、紅魔館の主であるレミリア・スカーレットが、こちらを楽しそうに眺めている。
その横には、完璧な姿勢で控える十六夜咲夜さん。
つまり、確認すべきことはひとつ。
「……あのさ」
「何かしら」
レミリアが、紅茶のカップを手にしたまま答える。
ボクは目の前の赤いソースを見た。
「この料理に、血液とか、そういう……吸血鬼的な隠し味って入ってる?」
レミリアは一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑った。
「入っていないわ」
咲夜さんも静かに頷く。
「ご安心ください。ナナシ様のお料理には、血液は一切使用しておりません」
「“ボクの料理には”って言い方、他の料理には可能性がある感じで怖いんだけど」
「本日は人間向けに整えております」
「……本日は?」
言葉の端に引っかかるものが多すぎる。
そこで、レミリアがふとカップを下ろした。
赤い瞳が、皿ではなく、ボクの方を見る。
いや、正確には。
……ボクの首元を見ている。
それはそれは食い入るようにじぃっと。
「……あの、レミリアさん?」
「何かしら」
「その……ボクを見る目は、食事とは無関係という理解でいい?」
レミリアは、優雅に微笑んだ。
「……客人を眺めていただけよ」
「……客人を見る時の視線は、もう少し首より上にしてもらえると助かる」
「あら。見えていた?」
「見えてたし、怖いよ!?」
レミリアは楽しそうに言った。
「せっかくの客人を、食卓で怯えさせる趣味はないわ」
「連れてこられ方の時点で、だいぶ怯えてるんだけど」
「あら、招待よ」
「招待は相手の同意を得てから成立する言葉だと思う」
「同意なら後から育つわ」
「育てるものじゃないよ!?」
そう返すと、レミリアは声を立てて笑った。
「あなた、案外よく喋るのね」
「怖い時ほど確認事項が増えるんだよ。ボクの安全管理上、これは必要な会話なのさ」
「なら、ひとつ安全なことを教えてあげる」
「……うん」
「私のことは、レミリアでいいわ」
「……それ、安全情報?」
「距離が縮まるでしょう?」
「吸血鬼との距離が縮まるのは、安全と逆方向の可能性があるんだけど」
「そう?」
レミリアは紅茶を揺らした。
カップの中で、赤い水面が小さく波打つ。
「近くにいた方が、分かることもあるわ」
「……その“分かること”って、たとえば?」
「……匂い、とか?」
その言い方が、妙に軽かった。
軽かったのに、ボクの背筋は勝手に伸びた。
「……絶妙に怖い返しをやめてほしい」
レミリアは、少しだけ楽しそうに目を細める。
「安心なさい。今のところ、私はとても淑女的よ」
「……今のところ」
「ええ」
「時間制限つきの安全宣言、嫌すぎる」
「では、遠慮してレミリア様と呼ぶ?」
「レミリアで」
即答すると、レミリアは満足そうに目を細めた。
「よろしい」
咲夜さんがなぜか少しだけ微笑んでいた。
たぶん、ボクは今、何かの流れに負けた。
それはともかく、皿から立ちのぼる匂いは、こちらの警戒心を的確に攻撃して崩しにきている。
バターの香り。
焼けた肉の香ばしさ。
甘酸っぱい果実のような匂い。
スープからは、きのこと野菜のやわらかい香りがする。
……正直に言うと、お腹が空いていた。
とても空いていた。
でも、吸血鬼の館で出された赤いソースを、即座に信用するほどボクは幻想郷に慣れていない。
「この赤いソースは?」
「葡萄を煮詰めたものを基にしております」
「本当に?」
「本当に」
「吸血鬼の館で赤い液体を信用するには、もう少し時間がほしい」
咲夜さんは微笑んだ。
「では、こちらのスープからいかがでしょう」
「……逃げ道を用意された」
「温かいうちが一番おいしいかと」
その言葉は強かった。
ボクはしばらく匙を見つめ、覚悟を決めてスープをすくった。
白い湯気が立つ。
香りが近づく。
恐る恐る、口に運ぶ。
「……え」
思わず、声が出た。
めちゃくちゃおいしい。
いや、ただおいしいだけではない。
味の情報量が多い。
最初はやさしい。
舌に触れた瞬間は、温かくて、まろやかで、ほっとする味がする。
でもそのあとから、きのこの香りと、野菜の甘さと、何か知らない香草の匂いが順番に追いかけてくるすごく複雑で完成された味。
「……なにこれ」
ボクはもう一口飲んだ。
「おいしい。待って、すごくおいしい。味がちゃんと順番待ちしてる」
「順番待ち?」
レミリアが面白そうに聞き返す。
「うん。塩味と甘さと香りが一度に押しかけてこないの。最初に温かいのが来て、その後にきのこが来て、最後に香りが残る。全部が喧嘩してない」
「変わった褒め方ね」
「ボクの語彙が今、料理に追いついてない」
次にパンをちぎる。
外側はかりっとしているのに、中はふわっとしていた。
そのままでもおいしい。
スープにつけると、もっとおいしい。
レミリアは笑いながら、カップを口元へ運んだ。
けれど、その動きが途中で少しだけ止まる。
ボクがパンをちぎるために少し首を傾けた、その一瞬。
レミリアの視線が、また首筋に落ちた。
さっきよりも短い。
ほんの一瞬。
でも、見逃すには十分すぎるくらい、分かりやすかった。
「……レミリア」
「何かしら」
「今、またボクの首筋を見てたよね」
「……あなたがあまりにもおいしそう……に食べるものだから?」
「それ、文脈によってはかなり怖い言葉だよ?」
「料理の話よ」
「本当に?」
「……半分くらいは」
「残り半分は何!?」
レミリアは紅茶を一口飲んだ。
ごまかすように。
……いや、違う。
たぶん本当に、ごまかしたのだ。
ボクはそっと襟元を押さえた。
「……食事中に食材側の気分を味わいたくないんだけど」
「……失礼ね」
「首を見られる客人の気持ちにもなってほしい」
そう言ってレミリアの視線から逃げるように……実際には見られていることを見ないようにしながら改めて柔らかいパンをちぎってぱくりと食べる。
「でもこのパンは、ふわふわした幸福だね。外が香ばしくて、中がやわらかくて、スープを受け止める器量まである。神社で食べるお米もそうだったけど主食って、もしかしてどこの文化でも強いの?」
「パンと米を同じ土俵で語る人間を幻想郷では初めて見たわ」
「だってどっちもすごいんだよ。米は一膳で荒れた人生を丸め込んでくるし、パンはスープと組んだ瞬間に食卓の支配力が跳ね上がる」
「支配力?」
「これはもう、主食界の実力者だよ」
レミリアは楽しそうに笑った。
咲夜さんも、口元を少しだけ緩めている。
肉料理にも手を伸ばす。
赤いソースへの警戒は残っていた。
残っていたけれど、ここまで来ると食欲が勝った。
小さく切って、口に入れる。
酸味。
甘み。
肉のうまみ。
香ばしい匂い。
ボクは数秒黙った。
「……疑ったことを謝りたい」
「誰に?」
「このソースに」
レミリアがまた笑った。
「吸血鬼の館で出る赤い液体を信用してなかったんだけど、これは疑ってごめんって言いたくなる味だよ。酸っぱいのに尖ってなくて、肉の味を消さないで、むしろ強くしてる。何これ。料理って魔法?」
「魔法ではなく、手間でございます」
咲夜さんが答える。
「手間、すごい」
ボクは素直に感動した。
紅魔館は怖い。
吸血鬼も怖い。
連れてこられた経緯もまったく納得していない。
でも、ご飯はものすごくおいしい。
その事実は、残念なくらい強かった。
「あなた、本当においしそうに食べるのね」
レミリアが、少しからかうように言った。
「だっておいしいから」
「誘拐されたと主張していたわりには、よく食べるわ」
「それとこれとは別だよ。ボクは状況には抗議してる。でも料理に罪はない」
「なるほど。では、料理には降伏したのね」
「降伏っていうか、停戦協定かな。ボクとこの料理は今、かなり良好な関係を築いてる」
「料理と関係を築くのね」
「おいしいものとは仲良くした方がいい」
レミリアは、愉快そうに頬杖をついた。
「黄泉戸喫、という言葉を知っている?」
「よもつへぐい?」
聞き慣れない響きを、ボクはそのまま繰り返した。
「えっと……料理名?」
「知らないなら、それでいいわ」
「今の流れで知らないままでいいって言われると、すっごく不安なんだけど」
「あなたはまだ、知らないままでいい」
レミリアはそう言って、カップに口をつけた。
それ以上は説明する気がないらしい。
こういう時、だいたい説明されない方があとで困る。
ボクは幻想郷での経験はまだ浅いけれど、勘がそう言っている。
「……今の一口で何か契約成立とかしてないよね?」
「さあ、どうかしら」
「咲夜さん、ボク何か書類にサインした?」
「まだでございます」
「まだってなに!?」
なぜ未来形の余地を残したのか。
不安は増えた。
増えたけれど、料理はおいしい。
この2つは両立してしまうらしい。
やがて皿がだいぶ空になった頃、ボクは改めてレミリアと咲夜さんに向き直った。
「えっと……その」
「何かしら。血が入っていなかったことへの感謝?」
「そこもまあ、けっこう大事だけど」
「紅魔館の料理に屈した報告?」
「……言い方」
レミリアが楽しそうに笑う。
ボクは少しだけ姿勢を正した。
「すごく美味しかった。ありがとう。連れてこられ方には抗議するけど、この料理を食べられたことにはちゃんとお礼を言いたい」
素直にそう言うと、レミリアは少しだけ目を細めた。
「そういうところ、本当に面白いわね。警戒しているのに、礼は忘れない」
「料理を作った人に失礼なことはしたくないからね」
「なら、その礼は私ではなく、あの子たちに言いなさい」
「あの子たち?」
レミリアが食堂の扉へ視線を向ける。
その瞬間だった。
扉の隙間からこちらを覗いていた小さな影たちが、レミリアの視線に気づいて、一斉にびくっと跳ねた。
妖精メイドたちだった。
数人が半身だけ出して、こちらを見ている。
目が合った瞬間、彼女たちはあわあわと互いの背中を押し合った。
「お、お嬢様に見つかった!」
「見つかってない、まだ見つかってない!」
「もう見つかってるよぉ!」
一番後ろの子が小声でそう言って、前の子に口を塞がれていた。
咲夜さんが静かに一歩進む。
妖精メイドたちは、ぴしっと背筋を伸ばした。
さっきまでの慌てぶりが嘘みたいに、全員が揃ってお辞儀をする。
「今宵の料理は、あの子たちが作ったのよ」
「えっ」
ボクは思わず、空になりかけた皿を見た。
それから、扉の前で緊張している妖精メイドたちを見る。
「これ、君たちが?」
妖精メイドたちは、こくこくとうなずいた。
ボクは少し固まった。
いや、だって。
紅魔館の料理というから、もっとこう、ものすごく年季の入った料理人とか、咲夜さんみたいな完璧な人が全部作っているのかと思っていた。
それを、目の前のかわいらしい妖精メイドたちが作ったらしい。
「すごい」
自然に声が出た。
妖精メイドたちが、ぱっと顔を上げる。
「本当にすごい。まずスープ。あれ、すごくおいしかった。最初はやさしいのに、後から香りが追いかけてくる感じがして、飲むたびに違う味がした」
「わ、私、スープの係でした!」
おずおずと手を上げた子が、すぐに顔を赤くする。
「君か。すごい。スープ係、かなり強い」
「つ、強いですか?」
「強い。胃袋に優しく勝ってくるタイプ」
スープ係の妖精メイドが、両手で頬を押さえた。
「それからパン」
「パン係、私! 私です!」
元気のいい妖精メイドが、勢いよく両手を上げた。
「パン、すごかった。外がかりっとしてて、中がふわっとしてて、スープにつけた時の受け止め方が優秀だった」
「受け止め方!」
「うん。あのパンは器が大きい」
「パンなのに?」
「パンなのに!」
パン係の子が、ものすごく嬉しそうに隣の子の袖を引っ張った。
「聞いた? 私のパン、器が大きいって!」
「パンなのに?」
「パンなのに!」
かわいい。
紅魔館は怖い。
それは間違いない。
でも、今この瞬間、扉の前で褒められて跳ねそうになっている妖精メイドたちは、普通にかわいい。
「あと赤いソース」
そう言うと、今度は少し大人しそうな妖精メイドが、びくっと肩を揺らした。
「それ、私です……」
「最初、正直かなり警戒した」
「うっ」
「でも食べたら、すごくおいしかった。酸味があって、でも肉の味を邪魔してなくて、むしろ強くしてた。見た目で疑ってごめん。あれは赤いから怖いんじゃなくて、赤いのにおいしいやつだった」
「赤いのにおいしいやつ……!」
ソース係の妖精メイドが、胸の前で手を握る。
「つまり、君たち全員すごい」
ボクは真面目に言った。
「料理班、かなり強い。紅魔館、怖いだけじゃなくてご飯も強い。これはずるい」
妖精メイドたちは、顔を見合わせた。
次の瞬間、わあっと小さな歓声が上がる。
「褒められた!」
「お嬢様、褒められました!」
「咲夜様、聞いてました?」
「聞いております。騒ぎすぎないように」
「はい!」
咲夜さんの声に、妖精メイドたちはまたぴしっと背筋を伸ばす。
でも、その顔はみんな嬉しそうだった。
レミリアはそんな光景を、主らしく満足そうに眺めている。
「どう? うちの子たちは」
「かなりすごい。あと、かわいい」
妖精メイドたちが、また小さく跳ねた。
「かわいいって!」
「静かに」
「はい!」
咲夜さんの注意も、今は少しだけ柔らかかった。
紅魔館は怖い。
吸血鬼も怖い。
連れてこられた経緯にも、まだ納得はしていない。
けれど、温かな料理と、褒められて嬉しそうな妖精メイドたちの顔だけは、どうにも疑いようがなかった。