紅魔館の門は、いつにもまして静まり返っていた。
赤い館。
赤い壁。
赤い屋根。
夜へ沈みきった空の下では、その赤さが昼間よりも濃く見える。
霊夢はそんな館の門の前に降り立つ。
袖の中には札。
手には、いつでも振りまわせるように、お祓い棒を握っている。
門番は、どうせいつも通り寝ているだろう。
その横を通りすぎたらきっと咲夜が出てくる。
いつものように蹴散らして、レミリアを引きずり出す。
そして、ナナシを返させる。
簡単だ。
少なくとも霊夢の中では、そういう認識だった。
……そう思っていたのに。
門の前に立つ人影を見た時、霊夢はほんの少しだけ眉をひそめ、面倒くさそうに舌を鳴らした。
「こんばんは、霊夢さん」
赤い館の門番……紅美鈴は、丁寧に頭を下げた。
「……珍しく起きてるのね」
そう言うと美鈴は少しだけ困ったように笑う。
「……いつも起きてますよ?」
「いや、珍しいわね」
「珍しいって言われるほどでは……」
「あるわよ」
「……ありますか」
「あるわね」
霊夢は短く答えた。
美鈴は、その言葉にほんの少しだけ肩を落とす。
けれど、すぐに表情を戻した。
「今夜は、お嬢様からきつく言われていまして」
「……レミリアから?」
「はい。巫女が来た時に寝ていたら、紅魔館の門番として格好がつかないでしょう、と」
その言葉に霊夢の目が鋭くなる
「……へえ」
つまり、この事が意味する事実は実に分かりやすい。
レミリアは、霊夢が来ると読んでいた。
ナナシを紅魔館に連れて行けば、霊夢が来る。
分かっていて、咲夜に連れて行かせた。
分かっていて、美鈴を起こしておいた。
霊夢の指が、袖の中の札に触れる。
「随分と準備がいいじゃない」
「……お嬢様ですから」
美鈴はそう言って、柔らかく笑った。
「なら話が早いわね」
霊夢は札を一枚、袖から抜いて美鈴に向けた。
「……いつものやつで決めましょうか」
「はい」
美鈴も、懐から一枚の札を取り出した。
どちらの札も、ただの紙だ。
けれど、幻想郷ではこれが決闘の合図になる。
名を持つ技を掲げ、互いに弾幕を放ち、避け、魅せ、認めさせる。
それが幻想郷の、いちばん平和で、いちばん物騒な揉め事の片づけ方だ。
「霊符」
霊夢の札が、夜闇の中で白く浮く。
美鈴は拳を引き、呼吸を整える。
「華符」
赤い門の前に、色を帯びた弾が一つ、また一つと灯る。
「芳華絢爛」
次の瞬間、札と彩光が、夜の門前に大輪の花を咲かせた。
◇
「……ごちそうさまでした!」
「結局、警戒していた割には料理も残さず食べたわね。満足したようで何よりだわ」
レミリアがお腹いっぱい幸せになったボクに満足そうに頷く。
……結局、気付けばボクはお腹いっぱいまで晩御飯をごちそうになっていた。
スープもパンも、赤いソースのかかった何かのお肉も、今まで食べたことがないくらいにとてもおいしかった。
……でも改めてこの館には拉致まがいに連れてこられたのだと思い返す。
おいしいものを食べると、それだけで危機管理の基準が少し甘くなってしまうみたいだ。
何か今なら全てを許せる気がする。
そんな、ほんの少し柔らかくなりかけた空気の中で。
——レミリアの指が、カップの縁で止まった。
ほんの一瞬。
食堂の空気が、見えない糸を引かれたみたいに張る。
レミリアは、窓のない壁の向こうを見た。
いや、見ているように見えた。
「……始まったわね」
「何が?」
ボクは、まだ皿の余韻から戻りきっていない頭で聞き返した。
「野暮なお迎えが暴れているのよ」
「……迎え」
その言葉に、ボクは反射的に顔を上げた。
「もしかして、霊夢?」
レミリアは答えなかった。
ただ、少しだけ笑った。
その笑い方が、答えだった。
「咲夜」
「はい。お嬢様」
咲夜さんが一礼する。
「ここを任せるわ」
「かしこまりました」
その返事をした直後、咲夜さんの手がエプロンの端へ滑った。
次の瞬間、どこに隠していたのか、銀色のナイフが数本、指の間に収まっている。
さらに太もものホルダーらしき場所を軽く確認し、腰のあたりにも手を添えた。
動きは静かだった。
けれど、完全に戦う人の準備だった。
「今の“かしこまりました”って食事の後片付けを任された時の返事の力の入り方じゃないよね?」
「何のことかしら」
レミリアがしれっと言う。
「いや、咲夜さんが今、ナイフの在庫確認みたいなことしてたんだけど」
「メイドの嗜みでございます」
咲夜さんが涼しい顔で答える。
「メイドの嗜み、だいぶ物騒なんだね……」
「ナナシ様」
「はい」
「どうぞ、お気になさらず」
「いや、気にしない方が難しいやつだよ、それ!?」
妖精メイドたちが、扉のそばで小さく固まっていた。
さっきまで褒められてふわふわしていた空気が、咲夜さんのナイフひとつで一気に引き締まった。
紅魔館。
ご飯はおいしいけど、やっぱり怖いところだった。
レミリアは椅子から立ち上がった。
「ナナシ」
「うん?」
「食後の散歩をしましょう」
そう言いながら、レミリアはくすりと笑って、するりとボクの手を取った。
小さな手だった。
けれど、握り方は妙に自然で、こちらが断る前に、もう散歩が始まっているみたいだった。
「……食後の散歩?」
ボクは、握られた手を見下ろしてから繰り返した。
この館で、その言葉をそのまま信用するのは危険な気がする。
「せっかくの夜だけれど、外は少し騒がしくなりそうだもの。今夜は館の中を案内してあげるわ」
「……吸血鬼的には、夜って外を散歩する時間じゃないの?」
「ええ。夜は私たちの時間よ。けれど、野暮なお迎えが庭先で暴れる夜は別」
「霊夢って、吸血鬼基準だと野暮なお迎えなんだ……」
「少なくとも優雅ではないわね」
「それはちょっと分かる」
レミリアは、またボクの手を軽く引いた。
強引というほどではない。
けれど、不思議とほどくきっかけも見つからない。
「私と二人きりが不安?」
「うん、かなり」
即答した。
レミリアはまた楽しそうに笑う。
「正直ね」
そう言って、レミリアはボクの手を優しく撫でる。
その手つきが少しくすぐったくて、ぞくりとした。
冷たいわけではない。
むしろ、思っていたよりも柔らかい。
でも、その柔らかさが安心につながるかどうかは、また別の話だった。
「ボクの吸血鬼への第一印象は、かなり恐怖体験だったからね。警戒するなって方が無理だよ」
「第一印象が悪くても、第二印象で挽回すればいいでしょう?」
「第二印象の相手も、なんだかちょっぴり掴みどころがなくて怖いというか、なんというか……」
「大丈夫よ。優しく案内してあげる」
「この幻想郷において“優しい”って言葉は、まだボクの中で怪しい言葉として審査中なんだよね」
「審査に通るよう努力するわ」
「……努力する吸血鬼はちょっと面白いかも」
「でしょう?」
レミリアは、こちらが断る隙を与えない自然さで、食堂の出口へ向かった。
当然のように。
そして当然、手を握られているボクも一緒に動くことになる。
「……あの、レミリア?」
「何かしら」
「今、食後の散歩に出発する流れが、かなり自然に成立してるみたいなんだけど」
「ええ。そうよ?」
「散歩って、双方の合意があってから始まるものじゃない?」
「あなたは今、歩いているじゃない」
「歩いてるんじゃなくて、歩かされてるんだよ!?」
妖精メイドたちは、心配そうにこちらを見ている。
レミリアは、扉の前で振り返った。
「それに、ただ館を歩かせたいだけではないの」
「……散歩なのに?」
「ええ。目的地のある散歩よ」
「それ、散歩っていうより移動じゃない?」
「優雅に歩けば散歩になるわ」
「定義が強引すぎる」
ボクはそっとレミリアの手から逃れようとしてみた。
けれど、握られた手はそのままだった。
レミリアは強く引いているわけではない。
乱暴でもない。
むしろ、こちらを気遣うような軽い力で、指先を包んでいるだけに見える。
それなのに。
動かない。
ボクが少し後ろへ重心をかけても、レミリアの手はびくともしなかった。
まるで、細い絹糸で巨大な杭につながれているみたいだった。
……ボクは悟った。
見た目は小柄な少女。
手は柔らかい。
握り方も優しい。
なのに、こっちが抵抗しても、向こうは一歩も揺れない。
吸血鬼。
そうだった。
この人は、見た目と力の基準がまったく一致しない側の怖い存在だった。
「レ、レミリア?」
「ええ」
「優しく手を引かれてるだけなのに、逃げられないのって、だいぶ怖いんだよ?」
「怖がらせるつもりはないわ」
「怖がらせるつもりがないのに怖いのも、かなりレベルの高い怖さだと思う」
レミリアはくすりと笑った。
「心配しなくても、あなたを取って食べるために連れていくわけではないわ」
「吸血鬼の口から出ると、その説明だけでだいぶ不安なんだけど」
「会わせたい相手がいるのよ」
その言葉で、ボクの中の警戒が別の形に変わった。
この館で。
レミリアがわざわざ会わせたい相手。
思い当たる相手は、多くなかった。
「……それって」
「ええ」
レミリアは、赤い瞳を細めた。
「フランドールよ」
……ああ、やっぱり。
金色の髪。
赤い服。
七色の結晶が揺れる、不思議な翼。
赤い瞳。
そして、首筋に牙が沈んだ時の、あの冷たい感覚。
フランドール・スカーレット。
怖いか怖くないかで言えば、かなり怖い。
ものすごく警戒対象だ。
何しろ前回、ちょっとだけ吸血の約束から、普通に失神吸血コースまで進んでしまった相手である。
幻想郷における安全基準の見直しが必要な相手ランキングがあるなら、かなり上位に入る。
「……確認なんだけど」
「何かしら」
「今回は、吸血なし?」
「……少なくとも、あなたの了承なしにはさせないわ」
「今の“少なくとも”と“了承なしには”の間に、いろいろ含まれてない?」
「……含みを読むのが上手いのね」
「読めちゃうくらいには危機感を感じているからね?」
レミリアは楽しそうに目を細める。
「フランはあなたに会いたがっていたわ」
「それは……まあ」
会いたがっていた。
その言葉を、完全に無視できなかった。
前に会った時、フランドールはボクの血の匂いで止まれなかった。
その結果ボクは血を吸われすぎて、最後には意識が飛んだ。
ただ、それはあの子だけが悪いわけではない。
紫お姉さまから、ボクの血に妙な効果があることは聞いている。
だから、フランドールが止まれなくなったのも、あの子だけのせいではないのだと思う。
それに、あの子は最後に謝っていた。
またね、とも言った。
……だから。
「……会うだけ。まずは会うだけ。吸血なし。失神なし。ここ大事」
「ええ。まずは、ね」
「その“まずは”に含みを持たせるの、やめてほしい」
「そうねぇ、じゃあ……ひとまず?」
「変わってないよ!」
「細かい子ね」
「命に関わるところは細かくいきたいんだよ」
レミリアは、明らかに楽しんでいた。
「あなた、本当に退屈しないわね」
「……うわ、その評価、だいたいやばい人から出るやつだ」
「やばい人?」
「紫お姉さまとか萃香とか。なんだか怖くて、自由で、こっちの都合を笑顔で横に置いていく人たち」
「……あら、随分な括り方ね」
「……違うの?」
「違うとは言わないわ。でも、私を同じ棚に並べるなら、せめて一番上に飾りなさい」
「棚の高さを気にするタイプのやばい人だ」
そう言うとレミリアは、ますます愉快そうに笑った。
「……ここでボクが行かないって言ったら?」
「フランが残念がるわね」
「うっ」
「それに、あなたもフランのことが気になっているのでしょう?」
「……ぐうっ!」
……違う、と言い切れなかった。
怖い。
警戒している。
……でも、フランドールはそこまで悪い子には思えないし、いつか仲良くなれそうな気はしている。
「……会うだけだからね」
「ええ」
「……あと、レミリアがいるから安全、みたいな説明はまだ信用してないからね」
「そこはこれから信用させてあげる」
「……その自信が怖い」
「吸血鬼だもの」
「理由になってるようでなってないよ!」
それでも、ボクは抵抗する力を抜いた。
……というより、抜かざるを得なかった。
レミリアの手は相変わらず優しい。
でも、優しいまま逃がしてくれそうにない。
咲夜さんが静かに頭を下げる。
「お気をつけて、ナナシ様」
「……その言い方、けっこう真面目に気をつけた方がいい場所に行くボクを見送ってる感じがする」
「……はい」
「怖いから否定してよ!」
「お気をつけて」
「…………」
そうしてボクはレミリアに手を引かれ、食堂を出た。
妖精メイドたちが、小さく手を振ってくれた。
ボクも空いた方の手で、小さく振り返す。
食堂の温かな匂いは、少しずつ遠ざかっていく。
代わりに近づいてきたのは、古い石と、閉じた空気の匂いだった。
◇
門前に、白と赤の光が交差する。
美鈴の弾幕は拳の動きに合わせて、丸い弾が花弁のように広がっていく。
まるで門を守るための弾幕。
相手を潰すためではなく、ここから先へ行かせないための形。
霊夢は七色の弾幕の隙間を縫うように前へ出る。
すかさず美鈴の拳が風を切る。
けれど、その拳は霊夢の身体を直接狙わない。
拳の軌道に沿って、彩光の弾が生まれ、霊夢の進路を再び塞いだ。
霊夢はその弾幕に向けてお祓い棒を振るう。
白い光弾が、花の形を崩していく。
崩れゆく彩色の弾幕の先で、美鈴が次の札を掲げていた。
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。
美鈴の周囲を流れる気が、赤い門前の空気を押し広げる。
拳を引き、半身に構え、彼女は一歩だけ前に出た。
挑むように。
それでいて、見せるように。
「彩符」
美鈴の声が、夜気に落ちる。
「彩光乱舞」
その瞬間、七色の弾が幾重にも花開いた。
赤、青、緑、黄。
重なり、ほどけ、また結ばれる。
まるで門そのものが巨大な花壇になったみたいに、色とりどりの光が霊夢の視界を埋めていく。
霊夢の目が細くなった。
「いいわ。本気で遊んであげる」
霊夢はそう言うと自身の周囲に大きな丸い光弾を展開させた。
白い光弾が、夜の中で輪を描いていく。
——そして霊夢のお祓い棒が、ゆっくりと持ち上がりそれに伴い光弾の光が強くなっていく。
美鈴は、それを見て小さく笑った。
……通さない。
そう言ったけれど。
正々堂々戦った結果、押し通るなら……それは仕方ない。
霊夢が、スペルカードを宣言する。
「霊符――夢想封印」
その瞬間、紅魔館の門が白く染まった。