十六夜咲夜は、空になった皿を見下ろしていた。
白い磁器の上には、ソースの跡が細く残っている。
先ほどまでここにいた小さな客人は、用意された食事をわりときちんと食べた。
それはもう緊張していたわりには、匙を止める回数は少なかった。
考えていることが全部顔に出るくらい無防備で、理解できないことにはどんな恐ろしい存在であれすぐ疑問を投げかける。
慎重で、臆病で、勇敢で、大胆。
——不思議な子だ、と咲夜は思う。
「……困った客人ね」
咲夜は小さく呟き、皿を下げた。
妖精メイドたちへ短く指示を出す。
食堂の片付け。
食器の洗浄。
門番の介抱。
最後の指示に、妖精メイドが首を傾げた。
咲夜は微笑む。
「今に分かるわよ」
そう言った途端。
紅魔館の正面側から、空気が揺れた。
……じきに、来る。
あの赤白の巫女が不思議な子を取り返しに。
咲夜は、銀のトレイを妖精メイドに渡して指示を出す。
「ここはもういいから下がっていなさい。少し散らかるから後片付けをお願いね」
「は、はい!」
そう言うと妖精メイドたちが慌てて廊下の奥へ消えていく。
咲夜はエプロンドレスの乱れを指先で整え、手袋の皺を伸ばし、胸元に仕込んだカードの感触を確かめる。
お嬢様は、ナナシを地下へ連れて行った。
それが何を意味するのか、咲夜にはまだすべて分からない。
けれど、命令は明確だった。
——しばらく、誰も通すな。
ならば、主の期待に十二分に応えなければ。
そう決心したところで廊下の先に、赤と白が目立つ影が現れた。
札を指に挟んだ博麗霊夢が、赤い絨毯の上をまっすぐ歩いてくる。
面倒くさそうな顔。
無造作な足取り。
気ままにふらふら歩いているようで、そのくせ、視線だけはまっすぐ地下へ続く方角を向いている。
「そこをどきなさい、咲夜」
挨拶の代わりに、霊夢はそう言った。
咲夜は廊下の中央で一礼する。
「ようこそ、博麗の巫女。あいにく、お嬢様はただいま取り込み中です」
「お嬢様に用があるわけじゃないわ」
「では、何用ですか?」
「あんたらが地下に誘拐したうちの雑用見習いを取り戻しに来たの」
それを聞いて咲夜の目がわずかに細くなった。
すでにあの子の居場所が割れている。
……博麗の巫女というものは、勘が良すぎて困る。
「当館の客人でしたら、お嬢様が直々に丁重におもてなししております」
「信用できないわ」
「あら、心外ですわ」
「吸血鬼の館で、行き先が地下。しかも案内役があんたの主人。これで信用しろって方が無理でしょ」
咲夜は微笑んだ。
「それでも、ここから先へは通さない」
「人間同士なんだから、少しは融通しなさいよ」
「私は紅魔館のメイドですので」
「……そう。じゃあ、人間扱いしなくていいのね」
霊夢がため息をついた。
その袖から、札が1枚滑り出る。
「相変わらず面倒なやつ」
「お褒めにあずかり光栄だわ」
「褒めてない」
咲夜は胸元からカードを取り出した。
「幻符――」
咲夜の周囲に、ナイフが現れる。
1本。
2本。
10本。
数える意味がなくなるほどに。
銀の刃は、廊下の幅を測るように整列し、壁際から天井近くまで逃げ道を塞いでいく。
「インディスクリミネイト」
宣言と同時に、無数のナイフが、霊夢の進路を塞ぐように走る。
霊夢は小さく息を吐いた。
「ほんと、面倒ね」
その指先にも、カードが現れる。
赤と白の光が、袖の周りで淡く揺れた。
「霊符」
霊夢の背後に、陰陽玉が浮かぶ。
丸い光が、咲夜の作り出す銀の檻を正面から見据える。
「夢想妙珠」
次の瞬間、赤白の光が廊下を駆けた。
◇
……食後の散歩、という言葉がある。
食事のあとに少し歩いて、腹ごなしをする。
たぶん、そういう意味のはずだ。
少なくとも、ボクの理解ではそうだった。
だから、食後の散歩という名目で吸血鬼のお屋敷の地下へ連れて行かれる、今のこの現状は、たぶん世間一般の散歩からだいぶ外れていると思う。
階段を下りるたびに、空気が少しずつ冷たくなっていく。
ボクの右手は、レミリアの小さな手に握られているままだ。
見た目だけなら、迷子を案内する子どもの手のようにも見える。
「……レミリア?」
「何かしら」
「今更だけど食後の散歩にしては、進行方向が健康的じゃない気がする」
「……地下は涼しいわよ?」
「いろんな意味で涼しすぎるかも……」
赤い絨毯が途切れ、石造りの廊下に変わる。
上の階にあった華やかさは、少しずつ薄れていきだんだんと無骨な館本来の骨組みが見え始める。
磨かれたピカピカの食器。
温かいスープと、香ばしい匂い。
そして妖精メイドたちのかわいらしい声。
そういうものが、1段下りるたびに遠ざかっていった。
「……紅魔館って、上と下で雰囲気が違いすぎない?」
「上は客を迎える場所。下は……そうでない場所」
「説明が簡潔すぎて怖さが増したんだけど……」
「分かりやすいでしょう?」
「分かりやすい怖さってことだよ!」
そう返したところで。
——レミリアの歩みが、ふと止まった。
彼女は、空いている方の手を壁に添える。
支えるため、というほど大げさではない。
ただ、指先が石の表面をなぞり、そこで少しだけ止まった。
もう片方の手は、まだボクの手を握っている。
足を止めた理由が分からなくて、ボクはレミリアの横顔を覗き込む。
そして、燭台の火に照らされたレミリアの紅い瞳が、ぼんやりと細くなっていることに気づいた。
何かを見つめているようで。
何かに沈んでいくような目。
そして、その視線はゆっくりと、ボクの首筋に落ちてきた。
「……あの、レミリア?」
「……何かしら」
一呼吸空けてから、レミリアは何でもないように返事をした。
……でも、その声には違和感がある。
熱にうかされているような……そんな感じの声だ。
「……今、ちょっと危ない顔してたよ」
「……あら」
「あら、じゃなくて」
ボクは反射的に襟元を押さえ、半歩だけ身を引いた。
けれど、右手はまだレミリアに握られている。
逃げるには近く、安心するにも近すぎる距離だった。
「その目、安心できる種類の目じゃないよね」
その言葉をレミリアは否定しなかった。
ただ、唇の端を上げ微笑む。
さっきまでと変わらない、うさんくさい優雅な微笑だ。
けれど、その奥にある獣のような獰猛さが、今だけは隠れきっていなかった。
「……地下は空気がこもるのよ」
「……それ、ボクがものすごく臭いみたいな言い方に聞こえるんだけど」
「違うわ。芳しい、と言うべきね」
「それはそれで納得いかない!」
「甘くて、濃くて、厄介で……少し、毒に近い」
「だんだん褒め言葉から離れてない?」
「吸血鬼にとっては、立派な賛辞よ?」
「人間側の受け取り基準も考慮してほしい!」
レミリアは小さく笑った。
けれど、笑いながらも視線が外れない。
ボクの首筋。
そこにある、フランドールが牙を立てた場所。
もう傷跡は残っていない。
痛むわけでもない。
それなのに、見られているだけで、そこだけ体温が変わったみたいにぞわぞわする。
「……ボクの血って、そんなに吸血鬼に効くの?」
そう聞いてから、少し後悔した。
でも、聞かないまま進む方がもっと怖かった。
レミリアはすぐには答えなかった。
ゆっくりと一度、息を吸う。
そこで止める。
まるで、吸い込みすぎないようにしているみたいだった。
そして、何かを飲み込むように、わずかに喉を動かす。
「……少し、ね」
「その言い淀み方はたぶん少しじゃない感じがする……」
「そうかもしれないわね」
「あっさり認められると超怖いんだけど!?」
「あら?じゃあ隠される方がよかった?」
「どっちにしろ怖かった……」
レミリアは、壁から手を離した。
けれど、ボクの手は離さない。
紅い瞳は、さっきよりは澄んでいた。
だから余計に、ボクは自分の手を握るレミリアの指先を意識してしまった。
冷たい。
細い。
でも、力加減は正確だ。
逃がさない程度に強く、痛めない程度に弱い。
親切と拘束の境目みたいな手だった。
——その時。
握られた手の奥まで、低い振動が伝わってきた。
石の壁が、ほんのわずかに鳴る。
燭台の火が、遅れて揺れた。
上の階で何か大きな力がぶつかったのだと分かるくらいには、はっきりしていた。
「……今、揺れなかった?」
「そうかしら」
「そうかしら、で流せる揺れじゃなかったと思うけど」
「安心しなさい、紅魔館は頑丈よ」
「頑丈って言葉が出る時点で、安心できないんだけど」
また、遠くで音がした。
今度は、さっきより少しだけ長い。
何かが壁に何度も突き立つような、硬い音。
その直後に、空気が震えるような大きく低い振動。
火が、ふっと細くなり……そして戻る。
ボクは思わず天井を見上げた。
もちろん、石の天井の向こうで何が起きているのかなんて見えるはずがない。
でも、何となく分かる。
上で誰かが戦っている。
それも、ただの喧嘩ではない。
もっと規模が大きくて、派手で、壁や床ごと壊したり巻き込むような何か。
「……ねえ、レミリア」
「何かしら」
「上で何が起きてるの?」
「……少し、騒がしい客が来ているだけよ?」
レミリアは楽しそうに笑った。
笑っている場合ではないと思う。
少なくとも、ボクの安全基準では笑って済む振動ではなかった。
「心配はいらないわ。きちんと決められたやり方でやっているもの」
「……決められたやり方って?」
「ええ。幻想郷では、揉め事にも作法があるのよ」
「揉め事に作法?」
「作法があるから、この程度で済むの」
「この程度って言った? 今、館が揺れてるんだけど!?」
「揺れただけでしょう?」
「揺れた時点でボクからするとだいぶ事件だよ!?」
また、遠くでズズンと大きな振動が連続する。
見えない場所で、知らない戦いが作法に則って進んでいる……らしい。
……情報が多い。
「……この状況、食後に処理する情報量じゃないと思う」
「消化には良い刺激になるでしょう?」
「刺激が強すぎると消化には悪いんだよ?」
レミリアは笑った。
その笑みは楽しそうで、余裕があって、少しだけ意地が悪い。
きっと彼女は、全部分かっている。
その全部を分かったうえで、ボクの手を引いている。
……嫌な言い方をすれば、盤上の駒を進めているみたいに。
◇
やがて、重そうな扉の前に着いた。
そこで、レミリアの手がようやく離れる。
自由になったはずなのに、足は動かない。
その扉は、食堂や廊下にあったものとは少し違っていた。
装飾はある。
けれど、装飾の奥に、見えない鍵がもうひとつ掛かっているような重厚な重さがあるように見える。
「……ここが?」
「ええ」
「最後にもう一度確認していい?」
「何かしら」
「この扉を開けた瞬間、ボクが吸血鬼姉妹に仲良く食べられる展開じゃないよね?」
「……食べられたいの?」
「食べられたくないから確認してるんだよ!?」
「なら、その意思表示は大事ね」
「意思表示で止まるタイプの食欲であってほしい……」
レミリアは、扉に手をかけた。
その横顔からは、さっきの酔ったような飢えたような怖い気配はもう消えている。
紅魔館の主。
吸血鬼の姉。
今はその2つの顔を、何でもないことのように見せている、そんな顔だ。
「準備はいい?」
「……よくはない」
「正直ね」
「前回失神するまで吸血された吸血鬼の妹さんに、絶賛ボクを食べてきそうな危ない姉の吸血鬼と一緒に会うんだよ? 超怖いに決まってるよね」
レミリアは、その言葉に微笑む。
「怖いと言いながら、逃げないのね」
「……逃げ道を塞いでる側が、それ言う?」
「それもそうね」
「納得が早いよ……」
そう呆れながら言って少しだけ思案する。
扉の向こうには、フランドールがいる。
前にボクの血を吸って、止まれなかった吸血鬼。
——怖い。
それは間違いない。
けれど、最後に見た彼女の顔も覚えている。
またね、と。
そう言っていた。
怖いから、会いたくない。
……でも、怖いだけで終わらせていいのかは、分からない。
「……別に勇敢なわけじゃないよ」
「ええ」
「怖いし、帰りたいし、できれば安全確認を30項目くらい定めてから会いたい」
「多いわね」
「多分、命に関わるからね」
「それで?」
「でも、何も見ないで全部拒絶するのも、何か違う気がする」
そう言うとレミリアは、少しだけ目を細めた。
値踏みするような。
それでいて、どこか満足したような目だった。
「……そう」
「……今、何か採点された感じがした」
「……気のせいよ」
「気のせいで済ませていい圧じゃなかったよ?」
レミリアは答えず、扉を押した。
重い扉が、音を立てて開く。
部屋の中は、思ったより静かだった。
薄暗い地下室。
古びた家具。
いくつかのぬいぐるみ。
天蓋のついた小さな寝台。
棚に並んだ本。
直された跡のある玩具と、直されないまま置かれた何かの破片。
ここは牢屋ではない。
少なくとも、そう見えるようには作られていない。
けれど、外へ続く気配は薄かった。
部屋、というより、閉じた世界。
誰かのために整えられていて。
誰かが長い間引きこもっていたかのような。
そんな場所だった。
——その部屋の中央に、少女がいた。
金色の髪。
赤い服。
七色の結晶が揺れる、不思議な翼。
赤い瞳が、こちらを向く。
嬉しそうに。
少しだけ、待ちくたびれたように。
そして彼女は、静かな地下室の真ん中で、楽しそうにボクの名前を呼んだ。
「久しぶりね、ナナシ」