東方拾得録   作:まほろばのーぶる

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第2話 名もなき少女と賽銭箱

 

 空を飛ぶというのは、きっと素敵なことなのだと思う。

 

 風を切って、雲の近くまで昇って、地上の景色を見下ろして。

 

 鳥のように自由に、どこへだって行ける。

 

 たぶん、普通ならそう思うのだろう。

 

 けれど、今のボクには、その素敵さを理解する余裕がまったくなかった。

 

「ほらナナシ、下見てみろよ。幻想郷がよく見えるぜ」

 

「見ない! 絶対に見ない! というか、見たら色々終わる気がする!」

 

 ボクは魔理沙の背中にしがみつきながら、必死に目を閉じていた。

 

 足元には何もない。

 

 あるのは風と空と、信じられないくらい遠い地面だけ。

 

 冷静に考えれば、箒に2人で乗って空を飛んでいる時点で、いろいろおかしい。

 

 いや、そもそも箒は掃除道具であって、人を乗せて飛ぶものではないはずだ。

 

 でも今、それを指摘したところで状況が改善するとは思えない。

 

 むしろ、楽しそうに笑っている魔理沙なら「モップでも飛べるぜ」くらいは平然と言いそうだった。

 

「大丈夫だって。私の箒さばきは幻想郷でもなかなかのもんだぜ?」

 

「その自信が怖いんだけど!? ボク、根拠のある安全保証がほしい!」

 

「根拠ならあるぜ。今まで落ちたことはほとんどない」

 

「ほとんど!? 今聞き捨てならない単語が聞こえたんだけど!?」

 

 しかし問い詰めるより早く、箒がぐんと上へ跳ねた。

 

「ひゃっ!?」

 

 お腹のあたりがふわりと浮く。

 

 心臓が置いていかれた気がした。

 

 ボクはますます魔理沙の服を握りしめる。

 

「お、いい悲鳴だな」

 

「評価しなくていいよ! 悲鳴に点数をつける文化、ボクは反対だよ!」

 

「じゃあ次は旋回だ」

 

「高得点を狙ってなんて一言も言ってないんだけど!?」

 

 魔理沙の箒が空を大きく曲がる。

 

 右へ。

 

 左へ。

 

 少し上がって、少し落ちる。

 

 視界を閉じていても、体が傾く感覚だけで十分怖い。

 

 目の奥がじわっと熱くなる。

 けれど、ここで本格的に泣いたら魔理沙にまた面白がられそうで、それも少し悔しい。

 

 だからボクは、震える声でせめてもの抵抗をした。

 

「魔理沙の、ばか……」

 

「ははっ、言うようになったな」

 

「言わせた側が嬉しそうにしないでほしい……」

 

 そんなこんなで、ボクが空というものに一生分の警戒心を抱き始めたころ、ようやく箒は高度を下げた。

 

 恐る恐る片目を開ける。

 

 赤い鳥居が見えた。

 

 石畳の参道。

 古びているけれど、不思議と空気の澄んだ社殿。

 木々に囲まれた境内。

 

 どうやら、あれが博麗神社らしい。

 

 箒が境内へ降り立つ。

 

 足が地面についた瞬間、ボクはその場にへなへなと座り込んだ。

 

 地面だ。

 

 ちゃんと硬い。

 

 落ちない。

 

 偉い。

 地面は本当に偉い。

 

「着いたぜ、ナナシ」

 

「……魔理沙」

 

「ん?」

 

「ボクは今、地面という存在に深く感謝してる」

 

「そいつはよかったな」

 

「そして魔理沙には、ちょっとだけ恨みがある」

 

 じとっと見上げると、魔理沙は悪びれもせず笑っていた。

 

 そのとき、神社の方から足音がした。

 

 赤と白の服を着た女の人が、こちらを見ている。

 

 黒い髪に、大きな赤いリボン。

 どこか眠たそうなのに、目だけは妙にはっきりしている。

 

 その人は、笑っている魔理沙と、地面に座り込んでいるボクを見比べた。

 

 そして、ものすごく当然の疑問を口にした。

 

「……何この状況」

 

「よう、霊夢」

 

「よう、じゃないわよ。あんた、今度は何を拾ってきたの」

 

「お、話が早いな。無縁塚で拾った」

 

「本当に拾ったのね」

 

 霊夢、と呼ばれたその人は、呆れたように額へ手を当てた。

 

 魔理沙は箒を肩に担いで、簡単に事情を説明する。

 

 無縁塚でボクを見つけたこと。

 ボクに記憶がないこと。

 名前も、どこから来たのかも分からないこと。

 

 説明を聞く間、霊夢はずっと面倒くさそうな顔をしていた。

 

 けれど、途中で帰れとも言わなかった。

 

 それだけで、少しだけ安心する。

 

「で、あんたは?」

 

 霊夢の視線がボクへ向いた。

 

 ボクは立ち上がろうとして、まだ少し足が震えていることに気づく。

 仕方なく座ったまま、魔理沙を一度だけ恨めしそうに見てから答えた。

 

「えっと、ナナシ……だよ。魔理沙がそう呼んでくれた」

 

「ナナシ?」

 

「うん。名前が分からないから、ナナシ」

 

 自分で言ってから、少し変な名前だと思った。

 

 でも、不思議と嫌ではない。

 

 呼ばれるたびに、空っぽだった場所に小さな印がつくような気がする。

 

 霊夢は魔理沙を見る。

 

「もうちょっと何かなかったの?」

 

「分かりやすいだろ?」

 

「分かりやすすぎるのよ」

 

「ボクもそう思う」

 

「お前まで言うのかよ」

 

 魔理沙が不満そうに口を尖らせる。

 

 少しだけ、怖さが薄れた。

 

 こうやって言葉を返せるうちは、たぶんまだ大丈夫だ。

 

 霊夢はボクの前にしゃがむ。

 

「本当に何も覚えてないの?」

 

「うん。名前も、家族も、どこに住んでたかも。外の世界っていうのも、正直よく分からない」

 

「外来人っぽいのは間違いなさそうね」

 

 霊夢は小さく息を吐いた。

 

「霊夢、外に返せそうか?」

 

 魔理沙が聞く。

 

 その言葉に、ボクは少しだけ黙った。

 

 外へ返す。

 

 きっと、ボクが元いた場所へ戻るという意味なのだろう。

 

 でも、帰りたい場所が思い出せない。

 会いたい人も、待っている人も、何も浮かばない。

 

 帰る、という言葉だけが、形のないまま胸の中を漂っていた。

 

「外に返すだけなら、できないわけじゃないわ」

 

 霊夢はそう言った。

 

 けれど、すぐに続ける。

 

「でも、今のこの子を返すのは無理ね」

 

「……そっか」

 

 思ったより、声は小さくなった。

 

 霊夢は淡々と説明する。

 

「外の世界って言っても広いのよ。あんたがどこの誰か分からないんじゃ、帰す先を決めようがない。名前でも、家族でも、住んでた場所でも、持ち物でもいい。何かしら縁になるものが必要になるわ」

 

「縁……」

 

「それに、幻想郷と外の世界の境界を正確に扱うなら、紫の協力もいる」

 

「紫?」

 

「境界を操る妖怪よ。面倒だけど、こういうことには詳しいわ」

 

「面倒って言い切るんだ……」

 

「面倒なものは面倒なのよ」

 

 霊夢はきっぱり言った。

 

 それから、少しだけ真面目な顔になる。

 

「下手に外へ返そうとすれば、どこへ飛ばされるか分からない。帰るどころか、もっと危ない場所に出る可能性もある」

 

 それは、たしかに困る。

 

 今のボクには、行きたい場所も、帰る場所もない。

 

 けれど、どこでもいいから放り出されたいわけではない。

 

「……ごめん」

 

 気づいたら、そう言っていた。

 

 霊夢が眉をひそめる。

 

「何で謝るのよ」

 

「ボクが何も覚えてないから、余計な手間を増やしてるんだと思って」

 

「別に、あんたが謝ることじゃないでしょ」

 

 霊夢の声は、少しだけ強かった。

 

 叱られた、という感じではない。

 

 間違ったことを訂正されたみたいだった。

 

「記憶喪失なんて、好きでなったわけじゃないんでしょ。だったら謝らなくていいわ」

 

「……うん。分かった。たぶん、すぐには直らないけど、覚えておく」

 

「そこは素直に直すって言いなさいよ」

 

「努力目標としては前向きに検討するよ」

 

「妙に言い方が大人びてるわね、この子」

 

 霊夢が呆れたように言う。

 

 魔理沙は面白そうに笑った。

 

「だろ? 拾ってみたら、なかなか喋るんだぜ」

 

「だから拾い物扱いを続けないでほしい」

 

 そう返したところで、ふと境内の隅にある箱が目に入った。

 

 木でできた大きな箱。

 

 前に垂れた太い縄。

 

 古びているのに、そこだけ妙に目を引く。

 

「あれは?」

 

「賽銭箱よ」

 

 霊夢が振り向く。

 

「神社に来た人がお金を入れる箱。まあ、最近はほとんど空だけど」

 

 賽銭箱。

 

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。

 

 知らないはずなのに、知っている。

 

 覚えていないはずなのに、体のどこかが勝手に反応する。

 

 神様の前では、空の手でいてはいけない。

 

 そんな言葉が、頭の奥をかすめた。

 

 捧げなければならない。

 

 何かを。

 

「……ナナシ?」

 

 魔理沙の声が聞こえた。

 

 でも、返事が少し遅れる。

 

 ボクは自分でもよく分からないまま、胸元の麻袋へ手を入れた。

 

 指先に、冷たいものが触れる。

 

 丸くて、硬い。

 

 小さな金属。

 

 取り出すと、それは何枚かの小銭だった。

 

「……あれ?」

 

 ボクは思わず首を傾げる。

 

 こんなもの、袋の中に入っていただろうか。

 

 いや、少なくともボクは知らない。

 

 知らないのに、手だけは迷わなかった。

 

 気づけばボクは賽銭箱の前に立っていた。

 

 そして、その小銭をそっと投げ入れる。

 

 からん。

 

 乾いた音が、境内に響いた。

 

 音が消えたあとも、胸の奥だけがまだ小さく揺れている。

 

 何かを終えたような。

 何かを始めてしまったような。

 

 変な感覚だった。

 

 霊夢の表情が変わった。

 

「……もしかして今、入れた?」

 

「……うん。入れた、と思う」

 

「賽銭を?」

 

「たぶん」

 

「……いい子じゃない」

 

 霊夢の声が、明らかに一段やわらかくなった。

 

 魔理沙が横で笑う。

 

「おい霊夢、露骨に機嫌よくなったな」

 

「賽銭を入れる子に悪い子はいないわ」

 

「判断基準が神社に寄りすぎてないか?」

 

「神社の巫女なんだから当然でしょ」

 

 霊夢は胸を張って言った。

 

 それはそれとして、魔理沙はボクの麻袋をじっと見ている。

 

「なあ、ナナシ。その金、最初から持ってたのか?」

 

「分からない。少なくとも、ボクは知らなかったよ」

 

「無縁塚で見たとき、そんな音はしなかった気がするんだが」

 

 ボクは麻袋を見る。

 

 古びた袋。

 何の変哲もないように見える。

 

 でも、さっきの小銭は確かにここから出てきた。

 

 自分の持ち物のはずなのに、自分が一番よく分かっていない。

 

 なかなか不安になる状況だ。

 

 霊夢も一瞬だけ真面目な顔をした。

 

 けれど、すぐに賽銭箱へ視線を戻す。

 

「まあ、細かいことは後で考えましょ」

 

「いいのか?」

 

「賽銭を入れた子を疑うほど、私は薄情じゃないわ」

 

「賽銭がなかったら?」

 

「もう少し疑ってたかも」

 

「正直すぎるよ、霊夢さん」

 

 思わずそう言うと、霊夢は少しだけ口元を緩めた。

 

「霊夢でいいわよ。さん付けされるほど偉くもないし」

 

「じゃあ、霊夢」

 

「順応早いわね」

 

「呼び方は大事だと思うから」

 

 名前を呼ぶ。

 

 名前で呼ばれる。

 

 それはたぶん、ボクが思っているよりずっと大事なことなのだと思う。

 

 霊夢は袖の中から、小さなお札を1枚取り出した。

 

 指先でさらさらと何かを書き足すと、それをボクの麻袋にぺたりと貼る。

 

「これは?」

 

「おまじない」

 

「おまじない?」

 

「妖怪避けよ。絶対じゃないけど、少しは妖怪に見つかりにくくなるわ」

 

「妖怪避け」

 

「小物相手ならそれなりに効くわ。けど、これで安全ってわけじゃない。力の強い妖怪や、最初から狙いをつけてくるようなのには通じないこともある」

 

「なるほど。お守りだけど万能ではない」

 

「そういうこと」

 

 お札は小さい。

 

 けれど、貼られた麻袋のあたりがほんの少し温かく感じた。

 

「賽銭のお礼?」

 

「そう。賽銭のお礼」

 

「それなら、入れてよかったよ」

 

「……そういう素直なところは大事にしなさい」

 

 霊夢はそう言って、ボクを見る。

 

「ただし、危ないと思ったら、ちゃんと逃げなさい」

 

「逃げる」

 

「そう。戦えないなら逃げる。誰かを呼ぶ。無理して立ち向かわない」

 

「……それ、けっこう難しいこと言ってない?」

 

「難しくてもやるのよ」

 

 霊夢の声は淡々としていた。

 

 でも、たぶんこれは大事な忠告だ。

 

 少なくとも、ここ幻想郷にいる間はボクが覚えておくべきことだと思う。

 

「分かった。努力する」

 

「努力じゃなくて実行しなさい」

 

「そこは今後の課題ということで……」

 

「不安な返事だな」

 

 魔理沙が横で笑った。

 

 その空気は、ほんの少しだけ穏やかだった。

 

 さっきまで知らない場所で、知らない人たちに囲まれていたはずなのに。

 

 名前を呼ばれて、賽銭を入れて、おまじないをもらって。

 

 ほんの少しだけ、ここにいてもいいと言われたような気がした。

 

 麻袋に貼られたお札へ、そっと指を触れる。

 

 紙一枚なのに、なぜか心強い。

 

「……ありがとう、霊夢」

 

「賽銭分の仕事をしただけよ」

 

「じゃあ、今度からお礼を言うときは賽銭を入れればいい?」

 

「その理解は大変正しいわ」

 

「霊夢、子どもに変な教育するなよ」

 

「いい教育でしょ。神社的には」

 

「神社的には、ってつければ何でも許されると思ってない?」

 

 魔理沙が笑う。

 

 ボクも、少しだけ笑った。

 

 このままなら、たぶん大丈夫。

 

 帰る場所はまだ分からない。

 自分が誰なのかも分からない。

 

 けれど、今すぐひとりで放り出されるわけではない。

 

 そう思った。

 

 思ってしまった。

 

 だから、油断していたのかもしれない。

 

 次の瞬間。

 

 境内の音が、消えた。

 

「――っ」

 

 最初に気づいたのは、霊夢だった。

 

 さっきまで緩んでいた表情が、一瞬で鋭くなる。

 

 風が止まった。

 

 鳥の声も、木々のざわめきも、魔理沙の笑い声さえ、遠くへ押し流されたみたいに薄れていく。

 

 まるで、境内だけが世界から切り取られたみたいだった。

 

 ボクは息を吸おうとして、うまく吸えないことに気づく。

 

 足元が冷たい。

 

 いや、冷たいのは地面じゃない。

 

 何かが、下から這い上がってくる。

 

 見えない手。

 見えない縄。

 

 それがボクの足首を、膝を、胸を通り抜けて、もっと奥の方へ潜っていく。

 

 体の外側ではない。

 

 骨でも、血でもない。

 

 名前も記憶も届かない、もっと深いところ。

 

 そこにある何かを、乱暴に掴まれた。

 

「魔理沙、下がって!」

 

「どうした!?」

 

「この子、攫われる!」

 

 攫われる。

 

 その言葉を理解するより早く、霊夢がボクの腕を掴んだ。

 

 熱い。

 

 さっきまで冷えきっていた体に、霊夢の手の熱だけがはっきり伝わる。

 

 赤い札が宙に舞った。

 

 一枚、二枚、三枚。

 

 紙片は風もないのに鋭く走り、ボクの周囲を囲む。

 

 赤い光が輪になって、足元から伸びる冷たい気配を押し返した。

 

 魔理沙もすぐに前へ出る。

 

 箒を構えたその背中は、さっきまで空で笑っていた人と同じなのに、まるで別人みたいに頼もしかった。

 

「ナナシ、動くな!」

 

「う、動きたくても、身動きひとつとれないんだけど!?」

 

 冗談みたいな声になった。

 

 でも、実際には笑えない。

 

 体が引っ張られる。

 

 どこかへ連れていかれる。

 

 足元の影がほどけて、黒い水みたいに広がっていく。

 

 その中心に、ボクがいる。

 

 怖い。

 

 怖いけれど、怖いと言っているだけでは状況が進まない。

 進まないどころか、たぶん悪化する。

 

 ボクは震える息を吸って、霊夢の手を握り返した。

 

「霊夢、これ、ボクが原因?」

 

「今それを気にしてる場合じゃないでしょ!」

 

「いや、原因が分かれば対処も変わるかなって……!」

 

「冷静なのか混乱してるのか、どっちなのよ!」

 

「両方!」

 

 霊夢の札が強く光る。

 

 赤い結界が、足元の黒いものを押し潰すように広がった。

 

 けれど、黒は消えない。

 

 むしろ、結界の隙間を探すように細く伸びてくる。

 

 蛇みたいに。

 糸みたいに。

 

 それはボクの影と重なって、そこからさらに深く潜ろうとしていた。

 

「何よこれ。ただの神隠しじゃない……紫の隙間でもない。でも、境界をこじ開けてる……?」

 

「術の効果は切れないのか!?」

 

 魔理沙が叫ぶ。

 

「無理に切ったら、この子ごと壊れる!」

 

 壊れる。

 

 その言葉を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。

 

 ボクは自分の体を見る。

 

 小さな手。

 震える足。

 名前も記憶もない、頼りない体。

 

 それが壊れると言われても、うまく想像できない。

 

 けれど、霊夢が本気で止めようとしてくれていることだけは分かった。

 

「ご、ごめん、霊夢」

 

「だから謝るなって言ったでしょ! 本当に面倒な子ね!」

 

「そのこと覚える前に実践編が来るの、早すぎないかな!?」

 

「文句は後!」

 

 霊夢が叫びながら札を放つ。

 

 赤い光が、足元の冷たい力とぶつかり合った。

 

 空間が軋む。

 

 耳の奥で、聞いたことのない音が鳴る。

 

 ガラスが割れる音にも似ている。

 縄が張り詰める音にも似ている。

 

 誰かが遠くで、ボクの名前ではない何かを呼んでいるようにも聞こえた。

 

 見えない縄は、外から巻きついているわけではなかった。

 

 もっと深いところ。

 

 ボクの中に、最初から結びつけられていた何かが、誰かに引かれている。

 

 そんな感じがした。

 

 それが分かった瞬間、ぞっとした。

 

 ボクは、誰かに引かれるものなのか。

 

 誰かのところへ戻されるものなのか。

 

 名前もないボクに、それでも行き先だけは決められているのか。

 

「ナナシ!」

 

 魔理沙の声が聞こえる。

 

 魔理沙が手を伸ばす。

 

 霊夢がボクの腕を掴んでいる。

 

「っ、行き先をずらす……!」

 

「霊夢!」

 

「完全には止められない! でも、連れて行かせはしない!」

 

 赤い札が一斉に弾けた。

 

 境内に、まばゆい光が広がる。

 

 足元の黒がひしゃげる。

 引っ張る力が、ぐにゃりと歪む。

 

 けれど、消えない。

 

 消えないまま、ボクの足元が抜けた。

 

「あ……」

 

 指先から力が抜ける。

 

 霊夢の手が離れる。

 

「ナナシ!」

 

「魔理沙……!」

 

 声が遠ざかる。

 

 赤い鳥居が歪む。

 霊夢の伸ばした手も、魔理沙の叫ぶ顔も、ぐるりと反転して見えなくなる。

 

 怖い。

 

 ひとりになりたくない。

 

 そう思ったのに、喉から声が出なかった。

 

 最後に見えたのは、麻袋に貼られた小さなお札が、淡く光るところだった。

 

 その光だけが、黒い闇の中で、かすかにボクの胸元を温めていた。

 

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