空を飛ぶというのは、きっと素敵なことなのだと思う。
風を切って、雲の近くまで昇って、地上の景色を見下ろして。
鳥のように自由に、どこへだって行ける。
たぶん、普通ならそう思うのだろう。
けれど、今のボクには、その素敵さを理解する余裕がまったくなかった。
「ほらナナシ、下見てみろよ。幻想郷がよく見えるぜ」
「見ない! 絶対に見ない! というか、見たら色々終わる気がする!」
ボクは魔理沙の背中にしがみつきながら、必死に目を閉じていた。
足元には何もない。
あるのは風と空と、信じられないくらい遠い地面だけ。
冷静に考えれば、箒に2人で乗って空を飛んでいる時点で、いろいろおかしい。
いや、そもそも箒は掃除道具であって、人を乗せて飛ぶものではないはずだ。
でも今、それを指摘したところで状況が改善するとは思えない。
むしろ、楽しそうに笑っている魔理沙なら「モップでも飛べるぜ」くらいは平然と言いそうだった。
「大丈夫だって。私の箒さばきは幻想郷でもなかなかのもんだぜ?」
「その自信が怖いんだけど!? ボク、根拠のある安全保証がほしい!」
「根拠ならあるぜ。今まで落ちたことはほとんどない」
「ほとんど!? 今聞き捨てならない単語が聞こえたんだけど!?」
しかし問い詰めるより早く、箒がぐんと上へ跳ねた。
「ひゃっ!?」
お腹のあたりがふわりと浮く。
心臓が置いていかれた気がした。
ボクはますます魔理沙の服を握りしめる。
「お、いい悲鳴だな」
「評価しなくていいよ! 悲鳴に点数をつける文化、ボクは反対だよ!」
「じゃあ次は旋回だ」
「高得点を狙ってなんて一言も言ってないんだけど!?」
魔理沙の箒が空を大きく曲がる。
右へ。
左へ。
少し上がって、少し落ちる。
視界を閉じていても、体が傾く感覚だけで十分怖い。
目の奥がじわっと熱くなる。
けれど、ここで本格的に泣いたら魔理沙にまた面白がられそうで、それも少し悔しい。
だからボクは、震える声でせめてもの抵抗をした。
「魔理沙の、ばか……」
「ははっ、言うようになったな」
「言わせた側が嬉しそうにしないでほしい……」
そんなこんなで、ボクが空というものに一生分の警戒心を抱き始めたころ、ようやく箒は高度を下げた。
恐る恐る片目を開ける。
赤い鳥居が見えた。
石畳の参道。
古びているけれど、不思議と空気の澄んだ社殿。
木々に囲まれた境内。
どうやら、あれが博麗神社らしい。
箒が境内へ降り立つ。
足が地面についた瞬間、ボクはその場にへなへなと座り込んだ。
地面だ。
ちゃんと硬い。
落ちない。
偉い。
地面は本当に偉い。
「着いたぜ、ナナシ」
「……魔理沙」
「ん?」
「ボクは今、地面という存在に深く感謝してる」
「そいつはよかったな」
「そして魔理沙には、ちょっとだけ恨みがある」
じとっと見上げると、魔理沙は悪びれもせず笑っていた。
そのとき、神社の方から足音がした。
赤と白の服を着た女の人が、こちらを見ている。
黒い髪に、大きな赤いリボン。
どこか眠たそうなのに、目だけは妙にはっきりしている。
その人は、笑っている魔理沙と、地面に座り込んでいるボクを見比べた。
そして、ものすごく当然の疑問を口にした。
「……何この状況」
「よう、霊夢」
「よう、じゃないわよ。あんた、今度は何を拾ってきたの」
「お、話が早いな。無縁塚で拾った」
「本当に拾ったのね」
霊夢、と呼ばれたその人は、呆れたように額へ手を当てた。
魔理沙は箒を肩に担いで、簡単に事情を説明する。
無縁塚でボクを見つけたこと。
ボクに記憶がないこと。
名前も、どこから来たのかも分からないこと。
説明を聞く間、霊夢はずっと面倒くさそうな顔をしていた。
けれど、途中で帰れとも言わなかった。
それだけで、少しだけ安心する。
「で、あんたは?」
霊夢の視線がボクへ向いた。
ボクは立ち上がろうとして、まだ少し足が震えていることに気づく。
仕方なく座ったまま、魔理沙を一度だけ恨めしそうに見てから答えた。
「えっと、ナナシ……だよ。魔理沙がそう呼んでくれた」
「ナナシ?」
「うん。名前が分からないから、ナナシ」
自分で言ってから、少し変な名前だと思った。
でも、不思議と嫌ではない。
呼ばれるたびに、空っぽだった場所に小さな印がつくような気がする。
霊夢は魔理沙を見る。
「もうちょっと何かなかったの?」
「分かりやすいだろ?」
「分かりやすすぎるのよ」
「ボクもそう思う」
「お前まで言うのかよ」
魔理沙が不満そうに口を尖らせる。
少しだけ、怖さが薄れた。
こうやって言葉を返せるうちは、たぶんまだ大丈夫だ。
霊夢はボクの前にしゃがむ。
「本当に何も覚えてないの?」
「うん。名前も、家族も、どこに住んでたかも。外の世界っていうのも、正直よく分からない」
「外来人っぽいのは間違いなさそうね」
霊夢は小さく息を吐いた。
「霊夢、外に返せそうか?」
魔理沙が聞く。
その言葉に、ボクは少しだけ黙った。
外へ返す。
きっと、ボクが元いた場所へ戻るという意味なのだろう。
でも、帰りたい場所が思い出せない。
会いたい人も、待っている人も、何も浮かばない。
帰る、という言葉だけが、形のないまま胸の中を漂っていた。
「外に返すだけなら、できないわけじゃないわ」
霊夢はそう言った。
けれど、すぐに続ける。
「でも、今のこの子を返すのは無理ね」
「……そっか」
思ったより、声は小さくなった。
霊夢は淡々と説明する。
「外の世界って言っても広いのよ。あんたがどこの誰か分からないんじゃ、帰す先を決めようがない。名前でも、家族でも、住んでた場所でも、持ち物でもいい。何かしら縁になるものが必要になるわ」
「縁……」
「それに、幻想郷と外の世界の境界を正確に扱うなら、紫の協力もいる」
「紫?」
「境界を操る妖怪よ。面倒だけど、こういうことには詳しいわ」
「面倒って言い切るんだ……」
「面倒なものは面倒なのよ」
霊夢はきっぱり言った。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「下手に外へ返そうとすれば、どこへ飛ばされるか分からない。帰るどころか、もっと危ない場所に出る可能性もある」
それは、たしかに困る。
今のボクには、行きたい場所も、帰る場所もない。
けれど、どこでもいいから放り出されたいわけではない。
「……ごめん」
気づいたら、そう言っていた。
霊夢が眉をひそめる。
「何で謝るのよ」
「ボクが何も覚えてないから、余計な手間を増やしてるんだと思って」
「別に、あんたが謝ることじゃないでしょ」
霊夢の声は、少しだけ強かった。
叱られた、という感じではない。
間違ったことを訂正されたみたいだった。
「記憶喪失なんて、好きでなったわけじゃないんでしょ。だったら謝らなくていいわ」
「……うん。分かった。たぶん、すぐには直らないけど、覚えておく」
「そこは素直に直すって言いなさいよ」
「努力目標としては前向きに検討するよ」
「妙に言い方が大人びてるわね、この子」
霊夢が呆れたように言う。
魔理沙は面白そうに笑った。
「だろ? 拾ってみたら、なかなか喋るんだぜ」
「だから拾い物扱いを続けないでほしい」
そう返したところで、ふと境内の隅にある箱が目に入った。
木でできた大きな箱。
前に垂れた太い縄。
古びているのに、そこだけ妙に目を引く。
「あれは?」
「賽銭箱よ」
霊夢が振り向く。
「神社に来た人がお金を入れる箱。まあ、最近はほとんど空だけど」
賽銭箱。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。
知らないはずなのに、知っている。
覚えていないはずなのに、体のどこかが勝手に反応する。
神様の前では、空の手でいてはいけない。
そんな言葉が、頭の奥をかすめた。
捧げなければならない。
何かを。
「……ナナシ?」
魔理沙の声が聞こえた。
でも、返事が少し遅れる。
ボクは自分でもよく分からないまま、胸元の麻袋へ手を入れた。
指先に、冷たいものが触れる。
丸くて、硬い。
小さな金属。
取り出すと、それは何枚かの小銭だった。
「……あれ?」
ボクは思わず首を傾げる。
こんなもの、袋の中に入っていただろうか。
いや、少なくともボクは知らない。
知らないのに、手だけは迷わなかった。
気づけばボクは賽銭箱の前に立っていた。
そして、その小銭をそっと投げ入れる。
からん。
乾いた音が、境内に響いた。
音が消えたあとも、胸の奥だけがまだ小さく揺れている。
何かを終えたような。
何かを始めてしまったような。
変な感覚だった。
霊夢の表情が変わった。
「……もしかして今、入れた?」
「……うん。入れた、と思う」
「賽銭を?」
「たぶん」
「……いい子じゃない」
霊夢の声が、明らかに一段やわらかくなった。
魔理沙が横で笑う。
「おい霊夢、露骨に機嫌よくなったな」
「賽銭を入れる子に悪い子はいないわ」
「判断基準が神社に寄りすぎてないか?」
「神社の巫女なんだから当然でしょ」
霊夢は胸を張って言った。
それはそれとして、魔理沙はボクの麻袋をじっと見ている。
「なあ、ナナシ。その金、最初から持ってたのか?」
「分からない。少なくとも、ボクは知らなかったよ」
「無縁塚で見たとき、そんな音はしなかった気がするんだが」
ボクは麻袋を見る。
古びた袋。
何の変哲もないように見える。
でも、さっきの小銭は確かにここから出てきた。
自分の持ち物のはずなのに、自分が一番よく分かっていない。
なかなか不安になる状況だ。
霊夢も一瞬だけ真面目な顔をした。
けれど、すぐに賽銭箱へ視線を戻す。
「まあ、細かいことは後で考えましょ」
「いいのか?」
「賽銭を入れた子を疑うほど、私は薄情じゃないわ」
「賽銭がなかったら?」
「もう少し疑ってたかも」
「正直すぎるよ、霊夢さん」
思わずそう言うと、霊夢は少しだけ口元を緩めた。
「霊夢でいいわよ。さん付けされるほど偉くもないし」
「じゃあ、霊夢」
「順応早いわね」
「呼び方は大事だと思うから」
名前を呼ぶ。
名前で呼ばれる。
それはたぶん、ボクが思っているよりずっと大事なことなのだと思う。
霊夢は袖の中から、小さなお札を1枚取り出した。
指先でさらさらと何かを書き足すと、それをボクの麻袋にぺたりと貼る。
「これは?」
「おまじない」
「おまじない?」
「妖怪避けよ。絶対じゃないけど、少しは妖怪に見つかりにくくなるわ」
「妖怪避け」
「小物相手ならそれなりに効くわ。けど、これで安全ってわけじゃない。力の強い妖怪や、最初から狙いをつけてくるようなのには通じないこともある」
「なるほど。お守りだけど万能ではない」
「そういうこと」
お札は小さい。
けれど、貼られた麻袋のあたりがほんの少し温かく感じた。
「賽銭のお礼?」
「そう。賽銭のお礼」
「それなら、入れてよかったよ」
「……そういう素直なところは大事にしなさい」
霊夢はそう言って、ボクを見る。
「ただし、危ないと思ったら、ちゃんと逃げなさい」
「逃げる」
「そう。戦えないなら逃げる。誰かを呼ぶ。無理して立ち向かわない」
「……それ、けっこう難しいこと言ってない?」
「難しくてもやるのよ」
霊夢の声は淡々としていた。
でも、たぶんこれは大事な忠告だ。
少なくとも、ここ幻想郷にいる間はボクが覚えておくべきことだと思う。
「分かった。努力する」
「努力じゃなくて実行しなさい」
「そこは今後の課題ということで……」
「不安な返事だな」
魔理沙が横で笑った。
その空気は、ほんの少しだけ穏やかだった。
さっきまで知らない場所で、知らない人たちに囲まれていたはずなのに。
名前を呼ばれて、賽銭を入れて、おまじないをもらって。
ほんの少しだけ、ここにいてもいいと言われたような気がした。
麻袋に貼られたお札へ、そっと指を触れる。
紙一枚なのに、なぜか心強い。
「……ありがとう、霊夢」
「賽銭分の仕事をしただけよ」
「じゃあ、今度からお礼を言うときは賽銭を入れればいい?」
「その理解は大変正しいわ」
「霊夢、子どもに変な教育するなよ」
「いい教育でしょ。神社的には」
「神社的には、ってつければ何でも許されると思ってない?」
魔理沙が笑う。
ボクも、少しだけ笑った。
このままなら、たぶん大丈夫。
帰る場所はまだ分からない。
自分が誰なのかも分からない。
けれど、今すぐひとりで放り出されるわけではない。
そう思った。
思ってしまった。
だから、油断していたのかもしれない。
次の瞬間。
境内の音が、消えた。
「――っ」
最初に気づいたのは、霊夢だった。
さっきまで緩んでいた表情が、一瞬で鋭くなる。
風が止まった。
鳥の声も、木々のざわめきも、魔理沙の笑い声さえ、遠くへ押し流されたみたいに薄れていく。
まるで、境内だけが世界から切り取られたみたいだった。
ボクは息を吸おうとして、うまく吸えないことに気づく。
足元が冷たい。
いや、冷たいのは地面じゃない。
何かが、下から這い上がってくる。
見えない手。
見えない縄。
それがボクの足首を、膝を、胸を通り抜けて、もっと奥の方へ潜っていく。
体の外側ではない。
骨でも、血でもない。
名前も記憶も届かない、もっと深いところ。
そこにある何かを、乱暴に掴まれた。
「魔理沙、下がって!」
「どうした!?」
「この子、攫われる!」
攫われる。
その言葉を理解するより早く、霊夢がボクの腕を掴んだ。
熱い。
さっきまで冷えきっていた体に、霊夢の手の熱だけがはっきり伝わる。
赤い札が宙に舞った。
一枚、二枚、三枚。
紙片は風もないのに鋭く走り、ボクの周囲を囲む。
赤い光が輪になって、足元から伸びる冷たい気配を押し返した。
魔理沙もすぐに前へ出る。
箒を構えたその背中は、さっきまで空で笑っていた人と同じなのに、まるで別人みたいに頼もしかった。
「ナナシ、動くな!」
「う、動きたくても、身動きひとつとれないんだけど!?」
冗談みたいな声になった。
でも、実際には笑えない。
体が引っ張られる。
どこかへ連れていかれる。
足元の影がほどけて、黒い水みたいに広がっていく。
その中心に、ボクがいる。
怖い。
怖いけれど、怖いと言っているだけでは状況が進まない。
進まないどころか、たぶん悪化する。
ボクは震える息を吸って、霊夢の手を握り返した。
「霊夢、これ、ボクが原因?」
「今それを気にしてる場合じゃないでしょ!」
「いや、原因が分かれば対処も変わるかなって……!」
「冷静なのか混乱してるのか、どっちなのよ!」
「両方!」
霊夢の札が強く光る。
赤い結界が、足元の黒いものを押し潰すように広がった。
けれど、黒は消えない。
むしろ、結界の隙間を探すように細く伸びてくる。
蛇みたいに。
糸みたいに。
それはボクの影と重なって、そこからさらに深く潜ろうとしていた。
「何よこれ。ただの神隠しじゃない……紫の隙間でもない。でも、境界をこじ開けてる……?」
「術の効果は切れないのか!?」
魔理沙が叫ぶ。
「無理に切ったら、この子ごと壊れる!」
壊れる。
その言葉を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。
ボクは自分の体を見る。
小さな手。
震える足。
名前も記憶もない、頼りない体。
それが壊れると言われても、うまく想像できない。
けれど、霊夢が本気で止めようとしてくれていることだけは分かった。
「ご、ごめん、霊夢」
「だから謝るなって言ったでしょ! 本当に面倒な子ね!」
「そのこと覚える前に実践編が来るの、早すぎないかな!?」
「文句は後!」
霊夢が叫びながら札を放つ。
赤い光が、足元の冷たい力とぶつかり合った。
空間が軋む。
耳の奥で、聞いたことのない音が鳴る。
ガラスが割れる音にも似ている。
縄が張り詰める音にも似ている。
誰かが遠くで、ボクの名前ではない何かを呼んでいるようにも聞こえた。
見えない縄は、外から巻きついているわけではなかった。
もっと深いところ。
ボクの中に、最初から結びつけられていた何かが、誰かに引かれている。
そんな感じがした。
それが分かった瞬間、ぞっとした。
ボクは、誰かに引かれるものなのか。
誰かのところへ戻されるものなのか。
名前もないボクに、それでも行き先だけは決められているのか。
「ナナシ!」
魔理沙の声が聞こえる。
魔理沙が手を伸ばす。
霊夢がボクの腕を掴んでいる。
「っ、行き先をずらす……!」
「霊夢!」
「完全には止められない! でも、連れて行かせはしない!」
赤い札が一斉に弾けた。
境内に、まばゆい光が広がる。
足元の黒がひしゃげる。
引っ張る力が、ぐにゃりと歪む。
けれど、消えない。
消えないまま、ボクの足元が抜けた。
「あ……」
指先から力が抜ける。
霊夢の手が離れる。
「ナナシ!」
「魔理沙……!」
声が遠ざかる。
赤い鳥居が歪む。
霊夢の伸ばした手も、魔理沙の叫ぶ顔も、ぐるりと反転して見えなくなる。
怖い。
ひとりになりたくない。
そう思ったのに、喉から声が出なかった。
最後に見えたのは、麻袋に貼られた小さなお札が、淡く光るところだった。
その光だけが、黒い闇の中で、かすかにボクの胸元を温めていた。