気がつくと、ボクは森の中にいた。
……木がある。
……草がある。
……見たことのない光るキノコが、足元にぽこぽこと生えている。
「……ここ、どこ?」
少なくとも、博麗神社ではないらしい。
背の高い木々が夜空を隠し、枝葉の隙間から落ちる月明かりだけが、かろうじて足元を照らしている……それくらい薄暗い森だった。
——博麗神社で、黒い影のようなものに地面の中に引っ張られた。
霊夢がそれを止めようとしてくれた。
魔理沙が手を伸ばしてくれた。
そこまでは覚えている。
けれど次に目を開けたら、ここだった。
……ボクは巾着袋をぎゅっと抱え直した。
そこには、霊夢が貼ってくれたお札があった。
妖怪避けのおまじない。
絶対ではないけれど、少しは妖怪を退けてくれる。
霊夢はそう言っていた。
お札は、夜の森の中でほんのり淡く光っている。
その小さな光だけが、今のボクにはひどく頼もしく見えた。
とにかく、自分がいる場所をもう一度詳しく確認してみる
右を見る。
木。
左を見る。
木。
前を見る。
……やっぱり木。
「……文字通り森だね」
小さく呟いた声は、思ったよりも簡単に夜の中へ吸い込まれていった。
あちこちでギチギチと虫の声がする。
獣が走ったかのような葉擦れの音がする。
どこか遠くで、何か巨大なモノが枝を踏む音もする。
「……うん、絶望的に遭難だね」
自分で言って、少しだけ泣きたくなった。
でも、泣いている場合ではない。
霊夢はとにかく逃げろと言っていた。
誰かを呼べとも言っていた。
なら、まずは人がいそうな場所を探すべきだ。
光るキノコが生えてるような不思議な森の中に人が住んでいるかどうかは分からないけれど、魔理沙が言うには幻想郷なら魔法使いが普通にいるらしい。
つまり光るキノコが生えてるようないかにも怪しげな森には魔法使いの家があっても、たぶんおかしくはない。
……いや、魔理沙は普通普通と言っていたけれど、普通に考えれば魔法使いが普通にいる時点でおかしい気もする。
でも、箒で空を飛ぶ魔法使いに空で振り回された直後のボクに、普通を語る資格はあまりない。
「よし。歩こう。立ち止まっているよりは、たぶんまし」
心機一転、そう言って、人を探すために一歩踏み出そうとした。
——その時だった。
「……たすけて」
森の奥から、声が聞こえた。
小さくて、かすれていて、今にも消えそうな声だった。
ボクは踏み出そうとしていた足を止め、声が聞こえた後方に振り返る。
「……誰かいるの?」
声をかけてみるが返事はない。
……気のせいだったのかな、とそう思いかけたとき、また声がした。
「たすけて」
今度は少しはっきりと確かに聞こえた。
誰かが助けを求めている。
「ちょ、ちょっと待ってて、今行くからね!」
もしかしたらけがをした人が倒れているかもしれない。
そう思ったボクは声のした方へ急ぐ。
足元はぬかるんでいて何度も足を取られそうになりながら、なんとか声のする方へ向かう。
「こっち」
細い声が、木々の間を抜けて聞こえてくる。
「こっちだよ」
「うん。聞こえてるよ!もう少し待ってね!」
背の高い草を踏み分けて進む。
葉の裏についた水滴が、足首に触れるたびにひやりとする。
「もっと」
声が近くなる。
「たすけて」
近くなる。
「こっち」
……近くなる。
……そこで、ボクは一度足を止めた。
——少し、おかしい。
助けを求めているにしては、声がずっと同じだった。
同じ高さ。
同じ調子。
同じ間の取り方。
弱っている声なのに、息切れがない。
震えているように聞こえるのに、感情の揺れが感じられない。
……いまさらながら魔理沙が無縁塚で言っていた色々あるらしい外来人の末路について考えが巡った。
「……えっと。もしかして怖い人じゃないよね? 声でおびき寄せて釣れた獲物を食べちゃうみたいな……」
……返事はなかった。
代わりに、草むらが揺れた。
がさり。
低い位置で、何かが動く。
そして——木と木の間から、それは出てきた。
人の形に、少しだけ似ていた。
でも、明らかに人ではない形。
背中を丸め、長い腕を地面につけて、引きずるように歩いてくる。
……かなり大きい。
丸まった姿勢のままで、ボクの3倍以上の大きさはある異形の怪物だ。
指は人間のものよりずっと長く、節の数がまばらで合っていない。
曲がってはいけない方向へ折れた関節が、ズシンズシンと歩くたびにこきり、こきりと鳴った。
体は細く痩せているのに、腹だけが不自然に膨れている。
身体全体がねっとりと濡れた皮膚でおおわれていて、その上に、泥と枯葉が貼りついている。
顔はうつむいたまま影になっていて、よく見えない。
ただ、口だけが妙に大きく見えた。
耳の下まで裂けたような口。
ボクなんか一飲みで飲み込めそうな大きな口の隙間から、ぬらぬらとした唾液が糸を引いている。
「たすけて」
それは、人の声で言った。
「こっち」
一歩、近づいてくる。
「こわくない」
「……いや、怖いよ?」
思わず怪物の声にツッコミながら、ボクは後ずさった。
逃げよう。
これは逃げた方がいいやつだ。
そう思った瞬間、怪物がぴたりと動きを止めた。
ひくり。
ひくり。
鼻を鳴らすような音がする。
「あまい?」
それは、小さく言った。
「におい……」
その声は、さっきまでの「たすけて」という声とは違っていた。
何かを見つけた、というような。
欲しがるような。
「あまぁい」
口が開く。
人の口ではありえないほど、大きく。
あごが外れるどころではなく、顔そのものが裂けるみたいに大きく開いた。
「ちょうだい」
ぬるり、と大きな口から舌がびちびちと音を鳴らしながら出てきた。
「ちょうだい」
「……あげない」
言いながら、ボクはじりじり後ずさった。
そして振り返って全力で走って逃げようとする直前、怪物が地面を蹴った。
大きな姿からは予想もしないほど俊敏に低い姿勢のまま、獣みたいに飛びかかってきた。
長い腕が素早く伸びてくる。
届く。
捕まる。
そう思った直前、巾着袋のお札がぱっと光った。
赤い光がボクの前に広がり、怪物は見えない壁にぶつかったみたいに勢いよく弾かれた。
じゅっ、と肉が焼けるような音がした。
焼け焦げた臭いが、森の中に広がる。
『ぎ、ぃ、ぎゃあああああああああああああああああッ』
怪物は地面に転がり、喉を潰したような声で叫んだ。
叫びは途中で人の声になり、獣の声になり、また人の泣き声みたいに戻った。
「……霊夢?」
ボクは当然、涙目になりながら、自然と震えた声で、その名前を呼んでいた。
もちろん、霊夢がここにいるわけじゃない。
返事があるはずもない。
それでも、巾着袋に貼られた小さなお札は、確かにボクの前で頼もしく光っていた。
——でも。
「あまぁい」
怪物は起き上がった。
光に触れた腕の皮膚が焼け、黒くただれている。
その部分を引きずるように歩く姿を見て、その怪我がかなり深手であると一目で分かった。
それでも怪物は赤い光に守られているボクにためらわず近づいてくる。
「におぉぉい」
怪物の顔が上がり初めて怪物と目が合った。
見えた目は、左右で大きさが違っていた。
片方は潰れかけ、もう片方だけが異様にぎょろりと開いている。
その目が、真っ赤に血走ったままボクを凝視していた。
「あまぁぁぁぁい」
怪物が光に焼かれながらも、一歩ずつ近づいてくる。
……まずい。
霊夢はお札の効果をこう言っていた。
絶対ではない、と。
一歩。
もう一歩と。
後ずさりして怪物から離れようとする。
けれど、後ろに木の根があることに気が付かなかった。
「……あ」
かかとが木の根に引っかかり視界が傾いた。
背中から地面に落ちる。
湿った土の匂いが鼻に入った。
慌てて起き上がろうとしたけれど。
それより早く、怪物が動いた。
赤い光に焼かれながらも、無理やり飛び込んでくる。
お札の光が弾ける。
怪物の皮膚が痛々しく裂ける。
……それでも、止まらない。
長い腕が、ボクの肩の左右に突き立った。
「っぐぁ!?」
強い衝撃とともに鈍い痛みが全身を貫く。
気づけば焼けただれた血だらけの怪物の顔が、すぐ上にあった。
ボクの視界いっぱいに、濡れた皮膚と裂けた口が広がる。
怪物の口の中から漂う腐った匂いと、焼けた肉の匂いと、濡れた土の匂いが混ざって、息が詰まる。
「あまぁい」
唾液が落ちる。
ぽたり。
「ちょうだい」
裂けた口がさらに大きく開く。
中に並んだ歯は細く、ばらばらで、奥にも外にも、何重にも生えている。
「ちょぉぉうだぁぁぁぁい」
——あ。
——これは、死んだ。
そう思った瞬間——。
細い光が、森の暗がりを横切った。
糸のように見えた。
けれど、それが本当に糸だったのか確かめる前に、小さな影がボクたちのそばに舞い降りた。
その影は小さな人形だった。
その細い腕が、すっと前へ伸びた。
直後、光が弾ける。
怪物の顔が横へ弾かれた。
『ご、ぶ、ぎゃああああああああああああああああッ!』
怪物は唾液を撒き散らしながら、横へ吹き飛んでいった。
そして、それが起き上がるより早く、あちこちから別の人形がたくさん飛んできた。
人形たちは糸で吊られているように、けれど糸なんて見えないまま、夜の森を人形劇のように美しく舞う。
そして怪物を囲むように位置を変える。
「そこまでよ」
落ち着いた声がした。
木々の間から、金髪の少女が歩いてくる。
青い服。
整った顔立ち。
その周りには、さらにたくさんの人形が浮かんでいた。
少女は少し迷惑そうに眉を寄せながら言った。
「人の家の近くで、ずいぶん騒がしいわね」
少女が指先を動かす。
すると人形たちが一斉に光弾を怪物に向け構えた。
光の弾が、森の暗がりを照らした。
『グ、ゴ、ガ、ァ……』
怪物が起き上がる。
口から、ぼたぼたととめどなく涎が落ちる。
自身を囲む人形におびえるように怯む怪物はそれでも目だけは、こちらをずっと見てきていた。
『あまぁい……あまぁぁぁい……』
喉を鳴らしながら、怪物は興奮しているようだった。
顔の大部分が焼けただれているのに、にたりとした気味の悪い笑みを浮かべていると感じられた。
『ちょうだぁぁぁぁあああぁぁぁい』
突然、咆哮を上げた怪物は、またボクに向けてその巨体を揺らして突進してきた。
「しつこいわね」
少女の声が、少しだけ低くなった。
その瞬間、人形たちが一斉に光を放った。
——戦いは、あっという間に終わった。
光の弾が幾重にも怪物を打ち据え、その体を森の奥へ押し返していく。
最後にひときわ大きな光が弾けると、怪物は暗がりの向こうへ吹き飛ばされた。
枝が折れる音。
何か重いものが地面に落ちる音。
そして、巨体が走り去る重たい音が遠ざかっていった。
怪物がいなくなったのを見届けてから、少女はこちらへ振り返った。
「大丈夫?」
ボクはすぐには返事ができなかった。
心臓がばくばくしている。
手も震えて力がうまく入らない。
でも、何とかうなずいた。
「……た、たたたたぶん。たぶん、大丈夫」
「……たぶん?」
「い、今のところ、手足は全部ついてるし、た、食べられなかっただけ、大丈夫の範囲内かなって」
言ってから、自分でも少し無理があると思った。
少女は少しだけ眉を寄せる。
呆れたようにも、心配しているようにも見えた。
ボクは慌てて、頭を下げる。
「あ、あの、助けてくれて……本当に、ありがとう」
「……どういたしまして」
少女は少しだけ目を細めた。
「私はアリス・マーガトロイド。魔法使いよ」
「……魔法使い」
「ええ」
「……幻想郷は魔法使いの遭遇率が高いんだね」
「……他に誰に会ったの?」
「霧雨魔理沙」
「ああ」
アリスは、それだけでだいたい納得したような顔をした。
「……魔理沙が関わっているなら、これは面倒事ね」
「……今の一言に、すごく強い信頼と諦めを感じたよ」
「だいたいそれで合っているわ」
そこでようやく少しだけ、肩の力が抜けた。
ボクは自分をさらに落ち着かせるために、胸元の巾着袋をぎゅっと握る。
「ボクは、ナナシ」
「ナナシ?」
「うん。名前が分からないから、ナナシ」
「……分かりやすい名前ね」
「それ、霊夢にも似たようなことを言われたよ」
アリスの視線が、ボクの巾着袋に貼られたお札へ向かう。
「霊夢の札?」
「うん。妖怪避けのおまじないだって」
「なるほどね。それがあったから、まだ無事だったわけね」
……アリスが来てくれるのがもう少し遅かったら、どうなっていたのか。
……霊夢のお札がなかったらどうなっていたのか。
……今は、考えない方がいい。
アリスは怪物が消えた森の奥を見た。
「……それにしても、妙ね」
「妙?」
「霊夢の札があるなら、普通の妖怪はもう少し嫌がるはずよ。痛い思いをしてまで近づくなんて、よほどあなたに執着する理由があったのかしら」
——あまい。
——ちょうだい。
あの声が、耳の奥に残っている。
これはしばらくトラウマになりそうだ。
「……ボクってそんなにおいしそうに見えるのかな。自分では、あんまり食べ応えがあるタイプには見えないんだけど」
「そうね。食べ応えはなさそうね」
「…………」
「でも、あの妖怪はあなたに執着していた。見た目や量じゃなくて、別の何かに惹かれたんでしょうね」
「……別の……何か?」
「ええ。少なくとも、ただの人間の子どもに向ける反応ではなかったわ」
アリスは少しだけ考え込むように、ボクを見た。
……警戒している。
たぶん、そういう目だ。
「あなた、どうしてこんな森の中に?」
「博麗神社にいたんだけど、足元に黒い水みたいなのが出てきて……霊夢が止めようとしてくれたんだけど、気づいたらここにいた」
「黒い水?」
「うん。冷たくて、黒い影がボクを地面に引っ張ってくる感じがして……霊夢は、それを見て攫われるって言ってた」
そう言うとアリスの表情が変わった。
さっきまでの呆れや心配が薄れ、思案の鋭さが前に出る。
「神隠しの術……。博麗神社の境内で……? でも霊夢が止めようとして、この森に飛ばされたのなら、その術は失敗したようね」
「神隠し?」
「何者かが、あなたをどこかへ連れて行こうとした可能性があるということよ」
「……ボクを?」
「そう」
そこまで言うとアリスの眉が、思案から帰ってくるかのように柔らかくなった。
「とにかく、このまま森に置いておくのは危険ね」
アリスはそう言って、ボクへ手を差し出した。
「私の家が近いから、そこで休みなさい」
「……いいの?」
「このまま放っておく方が気になるもの」
少しそっけない言い方だった。
でも、冷たくはない……優しい声だ。
「……ありがとう、アリス」
「歩ける?」
「たぶん」
「さっきから、たぶんばかりね」
アリスは呆れたように息を吐いて微笑みかけてくれた。
ボクはその手を借りて立ち上がる。
膝はまだ少し先ほどの恐怖体験の余韻からか、震えていた。
人形たちが、すっとボクに肩を貸してくれて、ボクたちの前後に散る。
まるで、頼もしい小さな護衛みたいだった。
「……すごいね」
「何が?」
「人形たち。助けてくれたし、今も肩を貸してくれたり周りを見てくれてる」
「……私の人形だもの。当然よ」
「大事にしてるんだね」
アリスが少しだけ目を瞬かせた。
それから、ふいと視線を逸らす。
「……変なところを見るのね」
「そうかな」
「そうよ」
そう言う声は、さっきよりも少しだけ柔らかかった。
◇
しばらく歩くと、木々の向こうに小さな灯りが見えた。
夜の森の中で、その灯りは驚くほど温かく見える。
「着いたわ」
アリスの家は、洋風の静かな家だった。
中に入ると、本と布と裁縫独特の優しい匂いがした。
それから、お花のような少しだけ甘い匂い。
棚には本が並び、机には裁縫道具が置かれている。
部屋のあちこちには、綺麗な人形たちがいた。
そのうちの1つと目が合って、にこりと微笑んでこちらへ小さくお辞儀をしてきた。
「……礼儀正しい」
「私の人形だもの」
「動くだけじゃなくて、挨拶もできるんだ」
「必要ならお茶も運ぶし、掃除もするわ」
「……ボクより生活力が高い可能性が出てきた」
「否定はしないわ」
「傷心中なんだから否定はしてよ……」
アリスは呆れるように小さく息を吐いた。
けれど、どこか楽しそうにも見える。
「座っていて。今、温かいものを用意するから」
「……ありがとう」
言われた通り、椅子に腰かける。
座った瞬間、体から少しだけ力が抜けた。
思っていたより、疲れていたらしい。
無縁塚で目を覚まして。
魔理沙に拾われて。
箒で空を飛ばされて。
霊夢に会って。
神隠しに遭って。
森で怖い妖怪に襲われて。
今、アリスの家にいる。
……改めて並べてみると、けっこう波乱万丈でひどい。
「……記憶喪失の初日って、普通もう少しゆっくり手加減されるものじゃないの?」
「何か言った?」
「ううん。今日という日に対する苦情を少し」
「そう」
人形が飲み物を運んできてくれる。
カップを両手で受け取る。
こくりとゆっくりと飲み込む。
……温かい。
指先の震えが、少しだけ落ち着いてきた。
「……少しは落ち着いたみたいね」
「うん。たぶん。まだ怖いけど、ちゃんと助かったんだなって、今になって分かってきた」
「……そう」
アリスは短く答えた。
「霊夢か魔理沙が迎えに来るまで、ここにいなさい」
「うん、助かるよ」
「ここにいる間は勝手に外へ出ないこと。森で声がしても絶対に返事をしないこと。知らない草やキノコを食べないこと」
「……待って。最後だけ急に、ものすごく小さい子への注意になってない?」
「あなた、小さい子でしょう」
「…………」
ボクは改めて自分の手を見る。
……小さい。
カップを持つにも、両手でちょうどいいくらいに。
「……反論材料が見つからない」
「でしょうね」
「でも、知らないキノコは食べないよ。そこはちゃんとしてるよ」
「魔理沙は食べるわ」
「魔理沙は食べちゃうんだ……」
やっぱり、あの人は普通じゃない気がする。
ボクはカップに口をつけた。
安心していいのかもしれない。
少なくとも、今だけは。
そう思うと、ようやく部屋の音が耳に戻ってきた。
カップの中でお茶が揺れる音。
暖炉の小さな火がパチパチとはぜる音。
人形が棚の上で布を畳む、かすかな布擦れの音。
そのどれもが、温かい部屋の中にちゃんとあった。
——だからこそ、次の瞬間にそれが一気に消えたことが分かった。
最初に動きを止めたのは、窓辺にいた一体の人形だった。
小さな顔が、音もなく外へ向く。
次に、棚の上の人形が動きを止める。
机の端で裁縫道具を片づけていた人形も、同じ方向……入口の扉を見た。
そこでアリスの表情が、すっと硬くなった。
「アリス?」
「静かに」
そう言うアリスの声は低く、こちらにもその緊張が伝わるくらいに硬かった。
人形たちが音もなく配置を変える。
数体がボクの前に降り、数体が窓辺へ。
残りは扉の左右へ散った。
守ってくれている。
そう分かったのに、安心できなかった。
——守らなければならない相手が近づいているということだから。
こん、こん。
扉が鳴った。
礼儀正しい音だった。
けれど、家の中の空気は一瞬で冷えた。
アリスが小さく息を吐く。
「……こんな時間に、礼儀正しく来る相手ほど面倒なのよね」
返事はない。
代わりに、扉の向こうから声がした。
「こんばんは、アリス」
幼い少女の声だった。
明るくて、無邪気で、楽しそうな声。
けれどアリスは、警戒を解かなかった。
「……もう夜遅いわ。歓迎はしないわよ」
アリスが扉の向こうへ、冷たい声を投げかける。
扉の向こうで、少女がくすりと笑う気配がした。
「つれないわね。夜だから、遊びに来たというのに」
その声は軽い。
まるで本当に、友達の家を訪ねただけみたいに親し気な声だった。
でも、人形たちはひとつも動かない。
アリスも、扉から目を逸らさない。
「ねえ」
扉の向こうの少女が、楽しそうに言った。
「ここにいるでしょう?」
その声が、ほんの少しだけとろけるように熱に浮かされるかのように甘くなる。
「すごく、いい匂いの子」
——あまい。
怪物の声が、また耳の奥でよみがえる。
あの怪物は、痛がりながらも近づいてきた。
霊夢のお札に焼かれても、全身傷だらけになっても逃げなかった。
その理由が、今になって凝縮されて形を変えて扉の向こうに立っている気がした。
「……帰りなさい」
アリスが短く言う。
「どうして?」
扉の向こうの少女は、本当に不思議そうに聞き返す。
「私はただ、遊びに来ただけよ」
「今夜は駄目」
わずかな沈黙そして声は続けた。
「じゃあ、その子だけ貸して」
その言葉にボクの背筋は一気に冷えた。
言葉は無邪気だった。
まるで小さな子がおもちゃを貸して、と言うみたいに軽かった。
……だからこそ、怖い。
アリスの指先が、ぴくりと動く。
人形たちが油断なく構える。
「貸さないわ」
「少しだけ」
「駄目」
「壊さないわ」
——壊さない。
それは、普通なら安心させるための言葉のはずだった。
でも今は、違う。
壊れるか壊れないかを基準にしている時点で、何かが決定的に違っている……そんな気がした。
「……アリス」
自分でも驚くくらい、小さな声が出た。
「動かないで」
アリスは扉を見たまま答える。
「あなたは、そこにいて」
「うん」
ボクは頷いた。
——そして取っ手が、ゆっくり回り、扉が開いた。
入ってきたのは、幼い姿の美少女だった。
金色の髪。
赤い服。
背中には、不思議な翼。
その翼には七色の結晶のようなものがぶら下がっていて、外の夜闇の中で月明りを受けて小さく綺麗に光っていた。
少女は、可愛らしくにこにこと笑っている。
明るくて、無邪気な笑顔だった。
……けれど。
さっきの怪物よりも、ずっと静かで。
そしてずっと、危ない気配がした。
そう思った瞬間、胸元の巾着袋に貼られたお札が、急激に熱を持ち始めた。
それと同時に少女の赤い瞳が、ボクを見つける。
まっすぐに。
嬉しそうに。
ようやく見つけた、と言うみたいに。
「ああ……」
少女が、笑った。
「本当に、いい匂い……」
——次の瞬間。
ぱん、と乾いた音を立てて、霊夢が貼ってくれた札が弾け飛んだ。
焼け焦げた紙片が宙を舞う。
赤い光が、火の粉みたいに散って消えていく。
ボクはそれを、ただ目で追うことしかできなかった。
さっきまでボクを守ってくれていたものが、今、壊れた。
その事実だけが、妙にはっきり分かった。
アリスが、低くその少女の名を呼んだ。
「……フランドール」