『あまい』
その言葉が、胸の奥で響いたまま消えなかった。
森の怪物が言っていた言葉。
そして今、目の前の少女がこちらを見つめる目にも、同じものが宿っている気がした。
「こんばんは、アリス」
少女は楽しそうに言った。
金色の髪。
赤い服。
背中には、不思議な翼。
その翼には七色の結晶のようなものがぶら下がっていて、夜闇の中で小さく光っている。
明るくて、無邪気で、綺麗な笑顔だった。
けれど、アリスは警戒を解かなかった。
「……フラン。紅魔館から出てきて大丈夫なの?」
「聞いたら止められると思ったから、聞いてない」
「つまり無断ね」
「そうとも言うかも」
少女は悪びれた様子もなく笑った。
会話だけ聞けば、子どもの言い訳みたいだった。
でも、アリスの人形たちはひとつも構えを解かない。
「用件は?」
アリスが短く尋ねる。
少女は答えなかった。
ただ、部屋の中を見回す。
棚。
机。
人形。
そして、ボク。
赤い瞳がこちらを向いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
見つかった。
また、そう思った。
少女の鼻が、ぴくりと動く。
「……ああ」
小さな声だった。
けれど、とても満足そうな声だった。
「やっぱり、ここだった」
「何が?」
「匂い」
少女は、ボクを見たまま答えた。
「外を歩いてたら、甘い匂いがしたの。森の中から、ずっと」
甘い。
その言葉に、指先が冷たくなる。
あまい。
ちょうだい。
森の中の声が、耳の奥でよみがえった。
「フラン」
アリスが一歩、ボクの前に出る。
「その子は私の客よ」
「うん。見れば分かるよ」
「なら、近づかないで」
「どうして?」
「あなたが近づくと危ないから」
「私はまだ何もしてないわ」
「何かしてからでは遅いのよ」
少女は、少しだけ首をかしげた。
怒った様子はない。
反省した様子もない。
ただ、本当に不思議そうだった。
「匂いを嗅ぐだけでも?」
「あなたの場合、それだけで済まないでしょう」
少女は人形たちの向こうから、じっとボクを見ている。
その目は、森の怪物とは違っていた。
濁っていない。
飢えているだけでもない。
もっと澄んでいて、もっと単純だった。
おいしそうなものを見つけた。
だから欲しい。
ただ、それだけ。
「ねえ」
少女が言った。
「あなた、名前は?」
「……ナナシ」
「ナナシ」
彼女はその名前を繰り返した。
まるで、味を確かめるみたいに。
「私はフランドール・スカーレット。紅魔館に住んでるの」
「紅魔館……?」
「吸血鬼のお屋敷よ。私は、その吸血鬼」
吸血鬼。
その言葉を聞いた瞬間、霊夢が言っていた危ないもの一覧が頭の中で勝手に開いた。
できれば今すぐ閉じたい。
「血の匂いじゃないのに」
ぽつりと、フランドールは言った。
「喉が渇く」
部屋の空気が、はっきりと冷えた。
「……喉が?」
「うん。血を見たわけでもないのに、飲みたくなる。こんなの、初めてかも」
飲みたくなる。
その意味を、考えたくなかった。
でも、考えなくても分かってしまう。
「フラン」
アリスの声が低くなる。
「それ以上は駄目」
「少しだけ」
「駄目」
「壊さないようにするわ」
「その言い方をやめなさい」
アリスの指先が動いた。
人形たちが一斉に前へ出る。
小さな身体が、ボクとフランドールの間に壁を作った。
けれど、フランドールは笑っていた。
楽しそうに。
まるで、遊びが始まるのを待っているみたいに。
「アリス、意地悪ね」
「今夜はそういう役回りみたいだから」
「私はお願いしているだけよ」
「お願いで済まないから止めているのよ」
フランドールが、一歩踏み出した。
その瞬間、人形たちが動いた。
光の弾が放たれる。
細い糸が、夜の空気を切るように走る。
なのに。
「え?」
フランドールの姿が、ぶれた。
次の瞬間には、彼女は人形たちの間にいた。
小さな手が、そっと人形の腕を掴む。
ぎしり。
嫌な音がした。
「壊さないようにするの、難しいね」
フランドールは困ったように笑った。
人形が横へ弾き飛ばされる。
壁にぶつかる音。
裁縫道具が跳ねる音。
カップの中身が揺れる音。
全部が、一度に聞こえた。
「フラン!」
アリスの声が鋭く響く。
さらに数体の人形が飛び出した。
糸が絡み、光が弾ける。
けれど、止まらない。
フランドールはほんの少し身じろぎしただけで、人形たちを木の葉みたいに振り払った。
小さな身体。
細い腕。
幼い顔。
なのに、その動きには、人間の形をした何かとは思えない力があった。
吸血鬼。
この子は、ただの女の子じゃない。
アリスの人形でも、止められない。
「ナナシ、下がって!」
アリスが叫ぶ。
下がる。
そうしなきゃいけない。
分かっている。
でも、足が動かなかった。
カップを持つ手だけが震えている。
指先に力が入らない。
カップが、手から滑り落ちた。
床に当たって、鈍い音を立てる。
温かかった飲み物が、床の上に広がっていく。
フランドールは、もうボクのすぐ前にいた。
近い。
近すぎる。
赤い瞳。
白い頬。
小さな唇。
その全部が、恐ろしいくらいはっきり見えた。
「怖い?」
フランドールが聞いた。
ボクは答えられなかった。
喉が、動かない。
「怖がらなくてもいいのに」
彼女はそう言って、そっと手を伸ばした。
冷たい指先が、ボクの頬に触れる。
逃げなきゃ。
霊夢はそう言っていた。
危ないと思ったら逃げる。
誰かを呼ぶ。
無理して立ち向かわない。
でも、声が出ない。
足も動かない。
ただ、目の前の赤い瞳から逃げられなかった。
「血の匂いはしないのに、あなたを見ていると喉が渇くの」
フランドールは、楽しそうに言った。
「変よね」
背中の翼についた七色の結晶が、夜の光を受けてきらりと揺れる。
その光が、妙に綺麗で。
こんな時なのに、綺麗だと思ってしまった自分が怖かった。
「ねえ、ナナシ」
フランドールが、ボクの名前を呼ぶ。
初めて会ったはずなのに。
その声は、まるでずっと前から知っていたみたいに近かった。
彼女は笑った。
お菓子をねだる子どもみたいに。
ただ欲しいものを、素直に欲しいと言うみたいに。
「あなたの血、吸わせて?」
「駄目よ」
即座に、アリスが言った。
その声は、さっきよりずっと硬かった。
「その子に触らないで」
「どうして?」
「分かっているでしょう」
「壊さないわ」
「あなたの“壊さない”は信用できないの」
フランドールは少しだけ唇を尖らせた。
「ひどいなあ」
「ひどくて結構よ」
アリスが指を振る。
人形たちが再び動いた。
今度は攻撃ではなく、ボクを囲うように展開する。
けれど、フランドールはその隙間を見つけるように、すっと身体を滑らせた。
速い。
目で追えない。
人形の糸が彼女の腕に絡む。
次の瞬間、糸が弾けた。
その衝撃で、アリスの身体がわずかに後ろへ揺れる。
「アリス!」
「大丈夫!」
けれど、声とは裏腹に、アリスの頬に細い傷が走っていた。
赤い線が、白い肌に浮かぶ。
血が、少しだけ滲む。
それを見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。
アリスが傷ついた。
ボクを守ろうとして。
ボクのせいで。
「……待って」
気づけば、声が出ていた。
小さな声だった。
けれど、部屋の中の空気がぴたりと止まった。
「ナナシ?」
アリスがこちらを見る。
フランドールも、赤い瞳を細めた。
ボクは震える息を吸う。
怖い。
怖いに決まっている。
吸血鬼に血を吸わせるなんて、どう考えても怖い。
でも、このままではアリスが傷つく。
人形も壊れる。
家だって壊れるかもしれない。
それなら。
「フランドール」
ボクは、できるだけ声を震わせないように言った。
「血が欲しいなら、ボクのを飲んでいいよ」
「ナナシ!」
アリスの声が飛ぶ。
でも、ボクは止まらなかった。
「ただし、条件がある」
「条件?」
フランドールが楽しそうに首をかしげる。
「アリスを傷つけないこと。人形も壊さないこと。家も壊さないこと。あと、できれば床もこれ以上汚さないこと。掃除するのはたぶん人形さんたちだから」
「そこまで気にするの?」
「気にするよ。お邪魔してる家だし」
自分でも、何を言っているのか少し分からなかった。
でも、喋っていないと怖さに呑まれそうだった。
「それと、ちょっとだけ。ほんとにちょっとだけだからね」
「うん」
「あと、痛くしないで」
「大丈夫」
「本当に? 吸血鬼基準の大丈夫じゃなくて、人間基準の大丈夫でお願いしたいんだけど」
「大丈夫だよ」
「その軽さがすごく不安なんだけど」
フランドールは笑った。
さっきまでよりも、ずっと楽しそうに。
「あなた、変な子ね」
「ボクとしては、今日の幻想郷全体にその言葉を返したい気分だよ」
「怖いのに?」
「怖いよ。ものすごく怖い。できれば今すぐ布団に入って、今日のこと全部夢だったことにしたい」
「じゃあ、どうして?」
フランドールの声が少しだけ低くなる。
純粋な疑問だった。
ボクは、アリスを見る。
頬の傷。
構えたままの人形たち。
ボクの前に立とうとする背中。
「アリスが傷つくくらいなら、ボクで済む方がいい」
そう言った瞬間、アリスの表情が変わった。
怒ったような。
痛そうな。
そんな顔だった。
「ナナシ、それは――」
「大丈夫。ちゃんと条件つけたから」
「そういう問題じゃないわ!」
アリスが叫ぶ。
けれど、その声を遮るように、フランドールがボクのすぐそばへ来た。
「いいよ」
彼女は笑っていた。
「約束する。アリスも、人形も、家も、壊さない」
「床は?」
「床も、たぶん」
「たぶん……」
「吸うなら、首でいい?」
「待って待って待って、急に具体的になると怖さが跳ね上がるんだけど!?」
「腕でもいいけど、首の方がおいしそう」
「その評価、今すぐ取り下げてほしい!」
フランドールは、ボクの悲鳴みたいな抗議を楽しそうに聞いていた。
そして、そっとボクの肩に手を置く。
冷たい。
でも、乱暴ではなかった。
「痛くしないから」
「絶対?」
「たぶん」
「たぶんって言った! 今たぶんって言ったよね!?」
「動かないでね」
「話を聞いて!?」
フランドールの顔が近づく。
赤い瞳が細められる。
白い牙が、ちらりと見えた。
ボクはぎゅっと目を閉じる。
「痛くしないでね!? 本当に痛くしないでね!? あと変な毒とか入れないでね!? 吸血鬼の仕様が分からないから事前説明がほしいんだけど!?」
「大丈夫」
「それしか言わない!」
次の瞬間。
首筋に、ひやりとした感触が触れた。
そして、牙が沈む。
「――っ」
痛みは、なかった。
少なくとも、思っていたような痛みはない。
針で刺されるような鋭さも、肉を裂かれるような熱さもない。
ただ、冷たいものが触れたと思った次の瞬間、身体の奥から何かを吸い上げられるような感覚がした。
ぞくり、と背筋が震える。
力が抜ける。
息が、うまく整わない。
怖い。
怖いのに。
妙に、気持ちが悪くない。
むしろ、頭の奥がふわふわする。
身体のどこかを撫でられているような、眠りに落ちる直前のような、変に甘い感覚が広がっていく。
「……え、待って」
ボクは目を見開いた。
「これ、やばい。これ絶対やばいやつ。中毒成分とか注入されてないよね!? 吸血鬼ってそういう機能あるの!? フランドール、説明! 説明を要求するよ!」
けれど、フランドールは答えなかった。
首筋に顔を埋めたまま、ぴたりと動きを止めている。
「……フランドール?」
アリスの声が揺れた。
次の瞬間、フランドールの指がボクの肩を強く掴んだ。
痛い。
今度は、はっきり痛かった。
「っ、フランドール……?」
彼女の喉が、小さく鳴る。
ごくり。
ごくり。
血を飲む音が、耳元でやけにはっきり聞こえた。
フランドールの身体が震えている。
翼の結晶が、かすかに揺れている。
「……おいしい」
吐息のような声だった。
「なに、これ」
フランドールが顔を上げる。
赤い瞳が、とろんと蕩けていた。
頬は上気している。
唇には、ボクの血がついていた。
「おいしい」
もう一度。
さっきよりも深く、熱のこもった声で。
「もっと」
「え」
「もっと、ちょうだい」
ぞっとした。
今度こそ、本当に。
中毒になっていたのは、ボクじゃない。
フランドールの方だ。
「フランドール、離れなさい!」
アリスが叫ぶ。
人形たちが一斉に動いた。
けれど、フランドールはボクを抱え込むようにして離さない。
小さな腕なのに、まったく動かない。
吸血鬼の膂力。
その言葉が、頭の中で妙に冷静に浮かんだ。
「フランドールっ、ま、待って、約束、ちょっとだけって……!」
「うん」
フランドールはうっとりと笑った。
「ちょっとだけ。もう少しだけ」
「それ、ちょっとだけって言わないやつ……っ!」
牙が、もう一度首筋に沈む。
血が抜けていく。
身体が冷える。
指先の感覚が遠くなる。
アリスの声が聞こえる。
人形が飛ぶ音。
何かが壊れる音。
フランドールの喉が鳴る音。
全部が遠い。
「ナナシ!」
アリスがフランドールの腕を掴む。
けれど、引き剥がせない。
フランドールの服の胸元に、赤い染みが広がっていく。
ボクの血だ。
そう理解するのに、少し時間がかかった。
……あれ。
これ、まずいかも。
「フランドール?……そろそろ……店じまい、というか……閉店時間……」
自分でも何を言っているのか分からない。
膝から力が抜ける。
視界が白くにじむ。
アリスの叫び声が、ひどく遠く聞こえた。
その時。
「そこまでよ!」
鋭い声が、部屋を裂いた。
赤い札が飛ぶ。
眩しいほどの赤い光が、フランドールの背中に叩きつけられた。
「っ!」
フランドールの身体が跳ねる。
ボクを抱えていた腕が緩んだ。
「ナナシ!大丈夫か!」
黒い影が飛び込んでくる。
その黒い影がボクの身体を受け止めた。
同時に、紅白の影がフランドールとの間に立つ。
「……霊夢」
声が、ほとんど出なかった。
「喋らないでいい」
霊夢は短く言った。
「魔理沙、押さえて。血が出てる」
「分かってる!」
魔理沙の手が、ボクの首筋を押さえる。
温かい。
いや、ボクの身体が冷えすぎているのかもしれない。
フランドールは部屋の向こうで膝をついていた。
霊夢の札に押し返され、ようやくボクから離れている。
赤い服の胸元が、さらに濃い赤で濡れていた。
口元にも。
指先にも。
服の裾にも。
ボクの血が、滴っている。
フランドールはそれをぼんやりと見下ろしていた。
「……私」
小さく呟く。
さっきまで蕩けていた赤い瞳に、少しずつ焦点が戻っていく。
そして、床に倒れかけているボクを見た。
顔色の悪いボク。
首筋を押さえられているボク。
立つ力もなく、魔理沙に支えられているボク。
そこでフランドールの表情が、初めて揺れた。
「……ごめんね」
小さな声だった。
誰に向けたのか分からないくらい、小さな声。
霊夢は札を構えたまま、目を細める。
「今は帰りなさい。これ以上ここにいたら、容赦しない」
「うん」
フランドールは素直に頷いた。
けれど、その視線は最後までボクから離れなかった。
「ナナシ」
名前を呼ばれる。
その声は、さっきとは違っていた。
甘くて、怖くて、少しだけ寂しそうだった。
「またね」
「または……できれば、安全基準を見直してからで……」
言い切る前に、視界がぐらりと傾いた。
フランドールが窓の方へ歩く。
アリスの人形たちは、もう追わなかった。
追えなかったのかもしれない。
七色の結晶を揺らしながら、フランドールは夜の中へ消えていく。
その後ろ姿を見ながら、ボクは思った。
綺麗だ。
「ナナシ、寝るな」
魔理沙の声がする。
「ナナシ!」
霊夢の声もする。
アリスも何かを言っている。
でも、言葉が水の中みたいに歪んでいく。
身体が重い。
指先が冷たい。
ああ。
これは、まずい。
そこで、限界だった。
魔理沙の腕の中で、ボクの意識はふっと途切れた。