東方拾得録   作:まほろばのーぶる

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第5話 閑話 甘い血に寄るものたち

 

 ナナシが眠りに落ちたころ、魔法の森は静かにざわめいていた。

 

 夜風が木々を揺らす。

 

 湿った土の匂い。

 茸の匂い。

 古い葉が腐り、森の底へ沈んでいく匂い。

 

 いつもなら、それだけで満ちているはずの夜だった。

 

 けれど今夜は、別のものが混じっている。

 

 甘い匂い。

 

 血の匂い。

 

 それは人間の血に違いなかった。

 けれど、ただの血ではない。

 

 妖怪の本能を、爪の先でそっと撫でるような香り。

 

 空腹ではないものに、空腹を思い出させる。

 獲物を探していなかったものに、狩りの衝動を呼び起こす。

 眠っていた飢えを、甘く、やさしく、残酷に揺り起こす。

 

 ナナシの血は、フランドールが吸った瞬間、わずかに外へ漏れた。

 

 アリスの家の結界。

 霊夢の札。

 魔理沙の魔力。

 

 それらがすぐに周囲を抑え込んだため、匂いは森全体に広がったわけではない。

 

 だが、魔法の森に棲むものたちは敏感だった。

 

 森の奥に潜む、名も知れぬ影。

 人の形をしていないもの。

 腹の中に古い飢えを抱えたもの。

 知恵を持ち、力を持ち、欲望を抑える術を知っているがゆえに、なお危険なもの。

 

 そうしたものたちが、遠巻きにアリスの家を見ていた。

 

 木の根元で、黒い影が這った。

 

 獣にも虫にも見えるそれは、霊夢の札の気配に触れると、じゅっと音を立てて身を引く。

 

 だが、完全には去らない。

 

 甘い匂いを覚えてしまったからだ。

 

 枝の上では、赤い目がいくつも瞬いていた。

 

 鳥ではない。

 妖精でもない。

 

 ただ、人間の子どもがひとりいれば、笑いながら攫っていくような小妖怪たち。

 

 けれど彼らは、近づけない。

 

 アリスの家の周囲を、人形たちが静かに巡回していた。

 

 小さな灯りを持った人形たちは、音もなく窓辺を過ぎ、庭先を巡り、木々の影に目を向ける。

 

 人形たちの目には、生き物の光はない。

 

 それでも、侵入者を許さないという意志だけははっきりしていた。

 

 森の中で、何かが囁く。

 

「あれは、なんだ」

 

「人間の子だ」

 

「人間なら、食えばいい」

 

「だが、巫女の匂いがする。魔法使いもいる」

 

「それでも……」

 

 そこで言葉が途切れた。

 

 アリスの家の窓に、赤白の札が1枚、静かに貼られていたからだ。

 

 それは脅しではない。

 

 ただの警告だった。

 

 ここから先に来れば、祓う。

 

 博麗の巫女の霊力は、そう告げていた。

 

 多くの小物は、それだけで牙を引っ込める。

 

 だが、今夜の森は、それだけで終わらなかった。

 

 さらに奥。

 

 月明かりの届かない場所で、ひとりの影が笑った。

 

 少女のような声だった。

 

 けれど、そこに幼さはない。

 

 長い時間を退屈の中で生きてきた者の、湿った愉悦が混じっている。

 

「まあ……ずいぶん美味しそうなものが落ちてきたのね」

 

 木々の間に、1本の隙間が開いた。

 

 まるで夜そのものが、ぱっくりと口を開けたような隙間。

 

 その奥から、金色の髪が揺れる。

 

 優雅な日傘。

 余裕を含んだ瞳。

 口元を隠す扇。

 

 八雲紫は、半身だけを境界から覗かせて、アリスの家の方を眺めていた。

 

 彼女は直接近づかない。

 

 近づく必要がないからだ。

 

「神隠しの術。博麗神社の境内。記憶を失った外来人の少女。おまけに、吸血鬼を狂わせる血……」

 

 紫は扇で口元を隠し、くすりと笑う。

 

「誰の仕込みかしらね。私の真似事にしては、ずいぶん雑だけれど」

 

 その声には、楽しんでいるような響きがあった。

 

 しかし、目は笑っていない。

 

 幻想郷の境界を扱う彼女にとって、神隠しは無関係ではない。

 

 外の世界と幻想郷の境を越えるもの。

 人を隠し、連れ去り、所在を曖昧にする術。

 

 それを誰かが勝手に使った。

 

 しかも、博麗神社の目の前で。

 

「霊夢は怒るでしょうね」

 

 楽しそうに言いながら、紫はアリスの家を見つめる。

 

 家の中では、ナナシが眠っている。

 

 青ざめた顔。

 細い手首。

 幼い少女の姿。

 

 そのそばには霊夢がいる。

 腕を組んだ魔理沙がいる。

 静かに人形を動かすアリスがいる。

 

 守りは薄くない。

 

 少なくとも、普通の妖怪なら手を出す前に祓われる。

 

 けれど、紫が見ているのは、その外側ではなかった。

 

 ナナシの身体の内側。

 

 そこにある、異常なほど強い生命の気配。

 

 傷つけば癒える。

 血を失っても、また満ちる。

 肉体を修復する力を宿している。

 

 けれど、完全な不死ではない。

 

 紫の瞳が、細くなる。

 

「……なるほど。血と骨。命を作り直す器。けれど核は残っている。壊せば死ぬ。蓬莱とは違う、歪な不死性」

 

 彼女はナナシの秘密を、ほとんど一目で見抜いていた。

 

 そして同時に、ナナシ自身がそれを知らないことも。

 

「危うい子ね。自分の価値を知らない子ほど、簡単に自分を差し出す」

 

 扇が、ぱちんと閉じられる。

 

 その音に反応して、近くにいた妖怪たちが一斉に身を伏せた。

 

 八雲紫の気配に気づいたのだ。

 

 甘い血に惹かれて集まった者たちも、彼女の前では獣のように縮こまるしかない。

 

 紫は森へ向けて、柔らかく告げる。

 

「今夜はお開きよ」

 

 声は穏やかだった。

 

 しかし、森の空気が変わった。

 

 木々の間にいた影が、ひとつ、またひとつと消えていく。

 

 枝の上の赤い目も閉じる。

 地を這うものも、土の中へ潜る。

 囁き声も、羽音も、湿った息遣いも、少しずつ遠ざかる。

 

 それでも、完全には消えない。

 

 紫は小さくため息をつく。

 

「困ったものね。幻想郷は、忘れられたものを受け入れる場所ではあるけれど……これは受け入れるだけでは済まなさそう」

 

 そのとき、別の方向から微かな気配が走った。

 

 紫は目を細める。

 

 それは、フランドールが去った方向。

 

 紅魔館へ続く夜の気配。

 

 吸血鬼の妹は、おそらく今ごろ、自分でも理解しきれない衝動に震えている。

 

 ナナシの血は、ただ美味しいだけではない。

 

 吸った者の記憶に深く残る。

 忘れられない味として、飢えに形を与える。

 渇きを満たすのではなく、渇きそのものを名づけてしまう。

 

「吸血鬼には毒ね」

 

 紫はくすりと笑った。

 

 けれど今度の笑みは、どこか苦かった。

 

「甘すぎる毒」

 

 アリスの家の屋根の上に、一羽の小鳥が止まっていた。

 

 普通の鳥ではない。

 

 闇に溶ける羽。

 首を傾げる仕草。

 目だけが妙に人間じみている。

 

 それはじっと窓の中を見ていた。

 

 ナナシの眠る寝台。

 そのそばに立つ霊夢。

 腕を組む魔理沙。

 静かに人形を操るアリス。

 

 鳥は小さく鳴いた。

 

 その声は、鳥の鳴き声ではなく、誰かの笑い声に似ていた。

 

 紫は屋根の上を見上げる。

 

「あなたは誰の使いかしら」

 

 小鳥は答えない。

 

 ただ、羽ばたいた。

 

 次の瞬間、紫の開いた隙間がその行く手を塞ぐ。

 

 鳥は逃げようとしたが、空間そのものに絡め取られるように動きを止めた。

 

 紫は扇で口元を隠したまま、ゆっくりと近づく。

 

「神隠しを仕掛けた者の目? それとも、ただの物見高い妖怪?」

 

 小鳥の形が、ぐにゃりと歪む。

 

 羽がほどけ、嘴が裂け、影が糸のように伸びる。

 

 それは鳥ではなかった。

 

 遠隔から覗くための式。

 あるいは呪いで作られた、仮初めの目。

 

 紫の瞳に、冷たい光が宿る。

 

「なるほど。まだ見ていたのね」

 

 影の鳥は、最後に一度だけ鳴いた。

 

 耳障りな、笑い声のような音。

 

 それから、紫の隙間に呑まれて消えた。

 

 森に静寂が戻る。

 

 しかし紫は、消えた影の残滓を見つめていた。

 

「……霊夢に伝えるべきかしら」

 

 少し考え、彼女は微笑む。

 

「あの子なら、すぐ気づくでしょう。……それでも私も興味があるし……怒るでしょうけど接触はするべきね」

 

 どこか悪戯っぽい声。

 

 けれど、紫はその場をすぐには去らなかった。

 

 境界の中に半身を隠したまま、アリスの家を見守る。

 

 今夜、この森でナナシに触れられる者はいない。

 

 紫がそう決めたからだ。

 

 ただし、それは安全を意味しない。

 

 見えない誰かは、まだナナシを狙っている。

 

 神隠しの術を使い、博麗神社から奪おうとした何者か。

 

 ナナシの血に惹かれる妖怪たち。

 ナナシの存在を見張る謎の術者。

 ナナシの血を味わい知ってしまったフランドール。

 ナナシを守ろうとする霊夢たち。

 

 幻想郷の夜は、静かに糸を張り始めていた。

 

 その中心にいるのは、眠る小さな少女。

 

 名前のない少女。

 

 ナナシ。

 

 まだ彼女自身だけが、自分の周りに集まり始めたものの大きさを知らない。

 

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