ナナシが眠りに落ちたころ、魔法の森は静かにざわめいていた。
夜風が木々を揺らす。
湿った土の匂い。
茸の匂い。
古い葉が腐り、森の底へ沈んでいく匂い。
いつもなら、それだけで満ちているはずの夜だった。
けれど今夜は、別のものが混じっている。
甘い匂い。
血の匂い。
それは人間の血に違いなかった。
けれど、ただの血ではない。
妖怪の本能を、爪の先でそっと撫でるような香り。
空腹ではないものに、空腹を思い出させる。
獲物を探していなかったものに、狩りの衝動を呼び起こす。
眠っていた飢えを、甘く、やさしく、残酷に揺り起こす。
ナナシの血は、フランドールが吸った瞬間、わずかに外へ漏れた。
アリスの家の結界。
霊夢の札。
魔理沙の魔力。
それらがすぐに周囲を抑え込んだため、匂いは森全体に広がったわけではない。
だが、魔法の森に棲むものたちは敏感だった。
森の奥に潜む、名も知れぬ影。
人の形をしていないもの。
腹の中に古い飢えを抱えたもの。
知恵を持ち、力を持ち、欲望を抑える術を知っているがゆえに、なお危険なもの。
そうしたものたちが、遠巻きにアリスの家を見ていた。
木の根元で、黒い影が這った。
獣にも虫にも見えるそれは、霊夢の札の気配に触れると、じゅっと音を立てて身を引く。
だが、完全には去らない。
甘い匂いを覚えてしまったからだ。
枝の上では、赤い目がいくつも瞬いていた。
鳥ではない。
妖精でもない。
ただ、人間の子どもがひとりいれば、笑いながら攫っていくような小妖怪たち。
けれど彼らは、近づけない。
アリスの家の周囲を、人形たちが静かに巡回していた。
小さな灯りを持った人形たちは、音もなく窓辺を過ぎ、庭先を巡り、木々の影に目を向ける。
人形たちの目には、生き物の光はない。
それでも、侵入者を許さないという意志だけははっきりしていた。
森の中で、何かが囁く。
「あれは、なんだ」
「人間の子だ」
「人間なら、食えばいい」
「だが、巫女の匂いがする。魔法使いもいる」
「それでも……」
そこで言葉が途切れた。
アリスの家の窓に、赤白の札が1枚、静かに貼られていたからだ。
それは脅しではない。
ただの警告だった。
ここから先に来れば、祓う。
博麗の巫女の霊力は、そう告げていた。
多くの小物は、それだけで牙を引っ込める。
だが、今夜の森は、それだけで終わらなかった。
さらに奥。
月明かりの届かない場所で、ひとりの影が笑った。
少女のような声だった。
けれど、そこに幼さはない。
長い時間を退屈の中で生きてきた者の、湿った愉悦が混じっている。
「まあ……ずいぶん美味しそうなものが落ちてきたのね」
木々の間に、1本の隙間が開いた。
まるで夜そのものが、ぱっくりと口を開けたような隙間。
その奥から、金色の髪が揺れる。
優雅な日傘。
余裕を含んだ瞳。
口元を隠す扇。
八雲紫は、半身だけを境界から覗かせて、アリスの家の方を眺めていた。
彼女は直接近づかない。
近づく必要がないからだ。
「神隠しの術。博麗神社の境内。記憶を失った外来人の少女。おまけに、吸血鬼を狂わせる血……」
紫は扇で口元を隠し、くすりと笑う。
「誰の仕込みかしらね。私の真似事にしては、ずいぶん雑だけれど」
その声には、楽しんでいるような響きがあった。
しかし、目は笑っていない。
幻想郷の境界を扱う彼女にとって、神隠しは無関係ではない。
外の世界と幻想郷の境を越えるもの。
人を隠し、連れ去り、所在を曖昧にする術。
それを誰かが勝手に使った。
しかも、博麗神社の目の前で。
「霊夢は怒るでしょうね」
楽しそうに言いながら、紫はアリスの家を見つめる。
家の中では、ナナシが眠っている。
青ざめた顔。
細い手首。
幼い少女の姿。
そのそばには霊夢がいる。
腕を組んだ魔理沙がいる。
静かに人形を動かすアリスがいる。
守りは薄くない。
少なくとも、普通の妖怪なら手を出す前に祓われる。
けれど、紫が見ているのは、その外側ではなかった。
ナナシの身体の内側。
そこにある、異常なほど強い生命の気配。
傷つけば癒える。
血を失っても、また満ちる。
肉体を修復する力を宿している。
けれど、完全な不死ではない。
紫の瞳が、細くなる。
「……なるほど。血と骨。命を作り直す器。けれど核は残っている。壊せば死ぬ。蓬莱とは違う、歪な不死性」
彼女はナナシの秘密を、ほとんど一目で見抜いていた。
そして同時に、ナナシ自身がそれを知らないことも。
「危うい子ね。自分の価値を知らない子ほど、簡単に自分を差し出す」
扇が、ぱちんと閉じられる。
その音に反応して、近くにいた妖怪たちが一斉に身を伏せた。
八雲紫の気配に気づいたのだ。
甘い血に惹かれて集まった者たちも、彼女の前では獣のように縮こまるしかない。
紫は森へ向けて、柔らかく告げる。
「今夜はお開きよ」
声は穏やかだった。
しかし、森の空気が変わった。
木々の間にいた影が、ひとつ、またひとつと消えていく。
枝の上の赤い目も閉じる。
地を這うものも、土の中へ潜る。
囁き声も、羽音も、湿った息遣いも、少しずつ遠ざかる。
それでも、完全には消えない。
紫は小さくため息をつく。
「困ったものね。幻想郷は、忘れられたものを受け入れる場所ではあるけれど……これは受け入れるだけでは済まなさそう」
そのとき、別の方向から微かな気配が走った。
紫は目を細める。
それは、フランドールが去った方向。
紅魔館へ続く夜の気配。
吸血鬼の妹は、おそらく今ごろ、自分でも理解しきれない衝動に震えている。
ナナシの血は、ただ美味しいだけではない。
吸った者の記憶に深く残る。
忘れられない味として、飢えに形を与える。
渇きを満たすのではなく、渇きそのものを名づけてしまう。
「吸血鬼には毒ね」
紫はくすりと笑った。
けれど今度の笑みは、どこか苦かった。
「甘すぎる毒」
アリスの家の屋根の上に、一羽の小鳥が止まっていた。
普通の鳥ではない。
闇に溶ける羽。
首を傾げる仕草。
目だけが妙に人間じみている。
それはじっと窓の中を見ていた。
ナナシの眠る寝台。
そのそばに立つ霊夢。
腕を組む魔理沙。
静かに人形を操るアリス。
鳥は小さく鳴いた。
その声は、鳥の鳴き声ではなく、誰かの笑い声に似ていた。
紫は屋根の上を見上げる。
「あなたは誰の使いかしら」
小鳥は答えない。
ただ、羽ばたいた。
次の瞬間、紫の開いた隙間がその行く手を塞ぐ。
鳥は逃げようとしたが、空間そのものに絡め取られるように動きを止めた。
紫は扇で口元を隠したまま、ゆっくりと近づく。
「神隠しを仕掛けた者の目? それとも、ただの物見高い妖怪?」
小鳥の形が、ぐにゃりと歪む。
羽がほどけ、嘴が裂け、影が糸のように伸びる。
それは鳥ではなかった。
遠隔から覗くための式。
あるいは呪いで作られた、仮初めの目。
紫の瞳に、冷たい光が宿る。
「なるほど。まだ見ていたのね」
影の鳥は、最後に一度だけ鳴いた。
耳障りな、笑い声のような音。
それから、紫の隙間に呑まれて消えた。
森に静寂が戻る。
しかし紫は、消えた影の残滓を見つめていた。
「……霊夢に伝えるべきかしら」
少し考え、彼女は微笑む。
「あの子なら、すぐ気づくでしょう。……それでも私も興味があるし……怒るでしょうけど接触はするべきね」
どこか悪戯っぽい声。
けれど、紫はその場をすぐには去らなかった。
境界の中に半身を隠したまま、アリスの家を見守る。
今夜、この森でナナシに触れられる者はいない。
紫がそう決めたからだ。
ただし、それは安全を意味しない。
見えない誰かは、まだナナシを狙っている。
神隠しの術を使い、博麗神社から奪おうとした何者か。
ナナシの血に惹かれる妖怪たち。
ナナシの存在を見張る謎の術者。
ナナシの血を味わい知ってしまったフランドール。
ナナシを守ろうとする霊夢たち。
幻想郷の夜は、静かに糸を張り始めていた。
その中心にいるのは、眠る小さな少女。
名前のない少女。
ナナシ。
まだ彼女自身だけが、自分の周りに集まり始めたものの大きさを知らない。