東方拾得録   作:まほろばのーぶる

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第5話 閑話 甘い血に寄るものたち

 ナナシが意識を失ったあとも、魔法の森は静かではなかった。

 

 アリスの家の周囲に、いくつもの気配が集まり始めていた。

 

 原因は、ナナシの血だ。

 

 フランドールに吸われた血は、ほんのわずかに外へ漏れただけだった。

 

 すぐに霊夢が札を貼り、アリスが家の結界を強め、魔理沙が周囲の魔力を散らした。

 

 だから、匂いが森全体へ広がったわけではない。

 

 それでも、魔法の森に棲む妖怪たちには十分だった。

 

 甘い匂い。

 

 血の匂い。

 

 それはただの人間の血ではなかった。

 

 妖怪の本能を刺激し、近づきたいと思わせる匂いだった。

 

 腹が減っていなくても、食べたいと思う。

 獲物を探していなくても、探したくなる。

 そんな危うい匂いだった。

 

 木の根元で、黒い影が動いた。

 

 獣のようにも、虫のようにも見える小さな妖怪だった。

 

 それは地面を這うようにアリスの家へ近づき、窓に貼られた霊夢の札の気配に触れた。

 

 じゅ、と小さな音がする。

 

 影は慌てて身を引いた。

 

 けれど、完全には逃げない。

 

 少し離れた場所から、まだ家を見ている。

 

 枝の上にも、赤い目がいくつか光っていた。

 

 鳥ではない。

 

 人間の子どもを見つければ、面白半分に攫っていくような小妖怪たちだ。

 

 彼らも家へ近づこうとして、すぐに動きを止めた。

 

 アリスの人形たちが、家の周囲を巡回していたからだ。

 

 小さな灯りを持った人形が、窓辺を通り、庭先を回り、木の影へ目を向ける。

 

 人形たちは喋らない。

 

 けれど、近づけば攻撃されることは、森の妖怪たちにも分かった。

 

 暗がりで、囁き声がした。

 

「あれ、人間だろ」

 

「食えるのか」

 

「巫女の札がある」

 

「魔法使いもいる」

 

「でも、あの匂い……」

 

 誰かがそう言いかけたところで、窓の札が淡く光った。

 

 それだけで、囁き声は止まった。

 

 博麗の巫女の札。

 

 その意味を知らない妖怪は、幻想郷には少ない。

 

 近づけば祓われる。

 

 弱い妖怪たちは、そう理解して少しずつ森の奥へ引いていった。

 

 だが、全員が諦めたわけではなかった。

 

 一度覚えた匂いは、簡単には忘れられない。

 

 木々の影には、まだいくつもの視線が残っている。

 

 近づく勇気はない。

 

 けれど、離れることもできない。

 

 そんな中で、森の空気がふと変わった。

 

 風が止まったわけではない。

 

 鳥が鳴きやんだわけでもない。

 

 ただ、そこにいた妖怪たちが、同時に息を潜めた。

 

 何かが来たのではない。

 

 最初からそこにいたものに、今さら気づいてしまったような沈黙だった。

 

 木々の間に、細い隙間が開く。

 

 闇に裂け目が入ったような、不自然な空白。

 

 その向こうから、金色の髪が揺れた。

 

 日傘を肩にかけた女が、半身だけを覗かせている。

 

 紫を基調とした服。

 

 口元を隠す扇。

 

 すべてを見通しているような瞳。

 

 彼女は、アリスの家を眺めていた。

 

 近づきもしない。

 

 隠れもしない。

 

 ただ、そこにいる。

 

 それだけで、森の妖怪たちは自分たちが見られる側になったことを理解した。

 

 八雲紫。

 

 幻想郷の境界に深く関わる、大妖怪である。

 

「博麗神社で神隠し。記憶を失った外来人らしき子ども。吸血鬼を狂わせる血……」

 

 紫は扇で口元を隠し、くすりと笑った。

 

「随分と派手にやったものね」

 

 神隠し。

 

 その言葉は、紫にとって無関係ではない。

 

 外と内。

 

 人と妖怪。

 

 ある場所と、ない場所。

 

 それらの境を揺らし、人を別の場所へ滑り落とす行為。

 

 幻想郷でそれを扱える者は多くない。

 

 だからこそ、紫には分かった。

 

 これは自分の術ではない。

 

 自分の隙間でもない。

 

 境界をこじ開けた痕はある。

 

 けれど、繊細さがない。

 

 縁の扱いも荒い。

 

 目的地へ運ぶというより、力任せに奪おうとした跡が残っている。

 

「私の真似事にしては雑すぎるわ」

 

 紫は愉快そうに言った。

 

 けれど、その声音にはわずかな冷たさが混じっていた。

 

「それとも、私に疑いを向けたい誰かの仕込みかしら」

 

 紫はアリスの家へ視線を向ける。

 

 壁も窓も、彼女にとっては大した障害ではない。

 

 寝台の上では、ナナシが眠っていた。

 

 顔色は悪い。

 

 首筋には布が巻かれている。

 

 血を失ったせいで、体は弱っているように見えた。

 

 その近くには霊夢がいる。

 

 魔理沙もいる。

 

 アリスは人形を動かしながら、家の外を警戒している。

 

 守りは十分だった。

 

 少なくとも、普通の妖怪が手を出せる状況ではない。

 

 紫はしばらくナナシを見つめた。

 

「……妙な子ね」

 

 血を失って弱っている。

 

 それは間違いない。

 

 けれど、ただ衰えているだけではなかった。

 

 細い身体の奥で、何かが静かに働いている。

 

 失ったものを、元に戻そうとしている。

 

 傷を塞ぐ。

 

 血を補う。

 

 命をつなぎ直す。

 

 そんな気配が、かすかに見えた。

 

 普通の人間ではない。

 

 だが、蓬莱人とも違う。

 

 紫は扇の影で、ほんの少しだけ目を細める。

 

「自然にそうなった、という感じではないわね」

 

 断言はしない。

 

 けれど、偶然とも思えなかった。

 

 記憶喪失。

 

 名前のない少女。

 

 博麗神社で起きた神隠し。

 

 そして、妖怪を引き寄せる血。

 

 それらが同じ夜に集まりすぎている。

 

「霊夢は、ずいぶん面白い子を拾ったわね」

 

 紫は小さく笑った。

 

 からかうような声だった。

 

 けれど、その目はアリスの家から離れない。

 

 笑っている。

 

 余裕もある。

 

 それでも、見落とすつもりはない。

 

 森の中には、まだナナシの血を狙う妖怪が残っている。

 

 弱いものだけではない。

 

 知恵のある妖怪ほど、こういう時は近づかない。

 

 近づかず、覚える。

 

 覚えて、次の機会を待つ。

 

 紫は扇を閉じた。

 

 ぱちん、という音が森に響く。

 

 それだけで、周囲の気配が一斉に震えた。

 

「今夜はお開きよ」

 

 紫が静かに告げる。

 

 次の瞬間、森の空気が変わった。

 

 木の影にいた妖怪が身を引く。

 

 枝の上の赤い目が消える。

 

 地面を這っていた影も、土の中へ潜っていく。

 

 誰も逆らわなかった。

 

 甘い血は魅力的だった。

 

 だが、八雲紫を敵に回してまで近づくものはいなかった。

 

 やがて、アリスの家の周囲は静かになった。

 

 少なくとも、表面上は。

 

 紫は紅魔館の方角へ目を向けた。

 

 フランドールが去っていった方角だ。

 

「あの子には、少し甘すぎたでしょうね」

 

 ナナシの血は、ただ美味しいだけではない。

 

 吸った者の記憶に強く残る。

 

 もう一度欲しいと思わせる。

 

 特に吸血鬼にとっては、危険な味だった。

 

 フランドールが今後どう動くかは分からない。

 

 だが、何もなかったことにはならないだろう。

 

「甘すぎる毒、か」

 

 紫はそう呟いた。

 

 その声には、呆れとも興味ともつかない響きがあった。

 

 そのとき、アリスの家の屋根の上で、小さな鳥が動いた。

 

 黒い鳥だった。

 

 だが、普通の鳥ではない。

 

 羽の形が少し歪んでいる。

 

 足が細すぎる。

 

 何より、目が鳥のものではなかった。

 

 紫はその鳥を見上げる。

 

「あなた、いつから見ていたの?」

 

 鳥は答えない。

 

 ただ、羽ばたいて逃げようとした。

 

 しかし、その先に隙間が開く。

 

 鳥は慌てて向きを変える。

 

 だが、右にも左にも、逃げ道の先には紫の隙間があった。

 

 やがて鳥は空中で動きを止めた。

 

 紫に捕まったのだ。

 

 鳥の形が、ぐにゃりと歪む。

 

 羽がほどけ、嘴が裂け、黒い糸のようなものがこぼれ落ちる。

 

 それは鳥ではなかった。

 

 遠くからアリスの家を覗くための式。

 

 あるいは、誰かが作った監視用の目だった。

 

 紫の表情は変わらない。

 

 ただ、目だけが少し冷える。

 

「なるほど。まだ見ていたのね」

 

 黒い鳥は、最後に一度だけ鳴いた。

 

 鳥の声ではない。

 

 誰かが笑ったような、不快な音だった。

 

 次の瞬間、鳥は紫の隙間に呑まれて消えた。

 

 森に静けさが戻る。

 

 紫はしばらく、鳥が消えた場所を見つめていた。

 

「神隠しを仕掛けた者の目、かしら」

 

 確証はない。

 

 だが、ただの偶然とは思えない。

 

 ナナシはまだ狙われている。

 

 少なくとも、誰かがナナシの様子を見張っていた。

 

 それだけは確かだった。

 

 紫はアリスの家へ視線を戻す。

 

 家の中では、ナナシが眠っている。

 

 自分の血が森の妖怪を引き寄せたことも。

 

 フランドールに忘れられない味を与えてしまったことも。

 

 誰かがまだ自分を見ていることも。

 

 何も知らずに眠っている。

 

「本当に、不思議な子」

 

 紫は小さく呟いた。

 

 それから、少しだけ笑う。

 

「霊夢に任せておけば、退屈はしなさそうね」

 

 その言葉は軽かった。

 

 けれど紫は、すぐには去らなかった。

 

 今夜、この森でナナシに近づけるものはいない。

 

 少なくとも、紫がここにいる間は。

 

 ただし、それは本当の安全ではない。

 

 ナナシの血に惹かれた妖怪たち。

 

 ナナシを見張っていた謎の術者。

 

 ナナシの血を味わったフランドール。

 

 ナナシを守ろうとする霊夢たち。

 

 それぞれが、すでにナナシを中心に動き始めている。

 

 眠っているナナシだけが、まだそれを知らなかった。

 

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