ナナシが意識を失ったあとも、魔法の森は静かではなかった。
アリスの家の周囲に、いくつもの気配が集まり始めていた。
原因は、ナナシの血だ。
フランドールに吸われた血は、ほんのわずかに外へ漏れただけだった。
すぐに霊夢が札を貼り、アリスが家の結界を強め、魔理沙が周囲の魔力を散らした。
だから、匂いが森全体へ広がったわけではない。
それでも、魔法の森に棲む妖怪たちには十分だった。
甘い匂い。
血の匂い。
それはただの人間の血ではなかった。
妖怪の本能を刺激し、近づきたいと思わせる匂いだった。
腹が減っていなくても、食べたいと思う。
獲物を探していなくても、探したくなる。
そんな危うい匂いだった。
木の根元で、黒い影が動いた。
獣のようにも、虫のようにも見える小さな妖怪だった。
それは地面を這うようにアリスの家へ近づき、窓に貼られた霊夢の札の気配に触れた。
じゅ、と小さな音がする。
影は慌てて身を引いた。
けれど、完全には逃げない。
少し離れた場所から、まだ家を見ている。
枝の上にも、赤い目がいくつか光っていた。
鳥ではない。
人間の子どもを見つければ、面白半分に攫っていくような小妖怪たちだ。
彼らも家へ近づこうとして、すぐに動きを止めた。
アリスの人形たちが、家の周囲を巡回していたからだ。
小さな灯りを持った人形が、窓辺を通り、庭先を回り、木の影へ目を向ける。
人形たちは喋らない。
けれど、近づけば攻撃されることは、森の妖怪たちにも分かった。
暗がりで、囁き声がした。
「あれ、人間だろ」
「食えるのか」
「巫女の札がある」
「魔法使いもいる」
「でも、あの匂い……」
誰かがそう言いかけたところで、窓の札が淡く光った。
それだけで、囁き声は止まった。
博麗の巫女の札。
その意味を知らない妖怪は、幻想郷には少ない。
近づけば祓われる。
弱い妖怪たちは、そう理解して少しずつ森の奥へ引いていった。
だが、全員が諦めたわけではなかった。
一度覚えた匂いは、簡単には忘れられない。
木々の影には、まだいくつもの視線が残っている。
近づく勇気はない。
けれど、離れることもできない。
そんな中で、森の空気がふと変わった。
風が止まったわけではない。
鳥が鳴きやんだわけでもない。
ただ、そこにいた妖怪たちが、同時に息を潜めた。
何かが来たのではない。
最初からそこにいたものに、今さら気づいてしまったような沈黙だった。
木々の間に、細い隙間が開く。
闇に裂け目が入ったような、不自然な空白。
その向こうから、金色の髪が揺れた。
日傘を肩にかけた女が、半身だけを覗かせている。
紫を基調とした服。
口元を隠す扇。
すべてを見通しているような瞳。
彼女は、アリスの家を眺めていた。
近づきもしない。
隠れもしない。
ただ、そこにいる。
それだけで、森の妖怪たちは自分たちが見られる側になったことを理解した。
八雲紫。
幻想郷の境界に深く関わる、大妖怪である。
「博麗神社で神隠し。記憶を失った外来人らしき子ども。吸血鬼を狂わせる血……」
紫は扇で口元を隠し、くすりと笑った。
「随分と派手にやったものね」
神隠し。
その言葉は、紫にとって無関係ではない。
外と内。
人と妖怪。
ある場所と、ない場所。
それらの境を揺らし、人を別の場所へ滑り落とす行為。
幻想郷でそれを扱える者は多くない。
だからこそ、紫には分かった。
これは自分の術ではない。
自分の隙間でもない。
境界をこじ開けた痕はある。
けれど、繊細さがない。
縁の扱いも荒い。
目的地へ運ぶというより、力任せに奪おうとした跡が残っている。
「私の真似事にしては雑すぎるわ」
紫は愉快そうに言った。
けれど、その声音にはわずかな冷たさが混じっていた。
「それとも、私に疑いを向けたい誰かの仕込みかしら」
紫はアリスの家へ視線を向ける。
壁も窓も、彼女にとっては大した障害ではない。
寝台の上では、ナナシが眠っていた。
顔色は悪い。
首筋には布が巻かれている。
血を失ったせいで、体は弱っているように見えた。
その近くには霊夢がいる。
魔理沙もいる。
アリスは人形を動かしながら、家の外を警戒している。
守りは十分だった。
少なくとも、普通の妖怪が手を出せる状況ではない。
紫はしばらくナナシを見つめた。
「……妙な子ね」
血を失って弱っている。
それは間違いない。
けれど、ただ衰えているだけではなかった。
細い身体の奥で、何かが静かに働いている。
失ったものを、元に戻そうとしている。
傷を塞ぐ。
血を補う。
命をつなぎ直す。
そんな気配が、かすかに見えた。
普通の人間ではない。
だが、蓬莱人とも違う。
紫は扇の影で、ほんの少しだけ目を細める。
「自然にそうなった、という感じではないわね」
断言はしない。
けれど、偶然とも思えなかった。
記憶喪失。
名前のない少女。
博麗神社で起きた神隠し。
そして、妖怪を引き寄せる血。
それらが同じ夜に集まりすぎている。
「霊夢は、ずいぶん面白い子を拾ったわね」
紫は小さく笑った。
からかうような声だった。
けれど、その目はアリスの家から離れない。
笑っている。
余裕もある。
それでも、見落とすつもりはない。
森の中には、まだナナシの血を狙う妖怪が残っている。
弱いものだけではない。
知恵のある妖怪ほど、こういう時は近づかない。
近づかず、覚える。
覚えて、次の機会を待つ。
紫は扇を閉じた。
ぱちん、という音が森に響く。
それだけで、周囲の気配が一斉に震えた。
「今夜はお開きよ」
紫が静かに告げる。
次の瞬間、森の空気が変わった。
木の影にいた妖怪が身を引く。
枝の上の赤い目が消える。
地面を這っていた影も、土の中へ潜っていく。
誰も逆らわなかった。
甘い血は魅力的だった。
だが、八雲紫を敵に回してまで近づくものはいなかった。
やがて、アリスの家の周囲は静かになった。
少なくとも、表面上は。
紫は紅魔館の方角へ目を向けた。
フランドールが去っていった方角だ。
「あの子には、少し甘すぎたでしょうね」
ナナシの血は、ただ美味しいだけではない。
吸った者の記憶に強く残る。
もう一度欲しいと思わせる。
特に吸血鬼にとっては、危険な味だった。
フランドールが今後どう動くかは分からない。
だが、何もなかったことにはならないだろう。
「甘すぎる毒、か」
紫はそう呟いた。
その声には、呆れとも興味ともつかない響きがあった。
そのとき、アリスの家の屋根の上で、小さな鳥が動いた。
黒い鳥だった。
だが、普通の鳥ではない。
羽の形が少し歪んでいる。
足が細すぎる。
何より、目が鳥のものではなかった。
紫はその鳥を見上げる。
「あなた、いつから見ていたの?」
鳥は答えない。
ただ、羽ばたいて逃げようとした。
しかし、その先に隙間が開く。
鳥は慌てて向きを変える。
だが、右にも左にも、逃げ道の先には紫の隙間があった。
やがて鳥は空中で動きを止めた。
紫に捕まったのだ。
鳥の形が、ぐにゃりと歪む。
羽がほどけ、嘴が裂け、黒い糸のようなものがこぼれ落ちる。
それは鳥ではなかった。
遠くからアリスの家を覗くための式。
あるいは、誰かが作った監視用の目だった。
紫の表情は変わらない。
ただ、目だけが少し冷える。
「なるほど。まだ見ていたのね」
黒い鳥は、最後に一度だけ鳴いた。
鳥の声ではない。
誰かが笑ったような、不快な音だった。
次の瞬間、鳥は紫の隙間に呑まれて消えた。
森に静けさが戻る。
紫はしばらく、鳥が消えた場所を見つめていた。
「神隠しを仕掛けた者の目、かしら」
確証はない。
だが、ただの偶然とは思えない。
ナナシはまだ狙われている。
少なくとも、誰かがナナシの様子を見張っていた。
それだけは確かだった。
紫はアリスの家へ視線を戻す。
家の中では、ナナシが眠っている。
自分の血が森の妖怪を引き寄せたことも。
フランドールに忘れられない味を与えてしまったことも。
誰かがまだ自分を見ていることも。
何も知らずに眠っている。
「本当に、不思議な子」
紫は小さく呟いた。
それから、少しだけ笑う。
「霊夢に任せておけば、退屈はしなさそうね」
その言葉は軽かった。
けれど紫は、すぐには去らなかった。
今夜、この森でナナシに近づけるものはいない。
少なくとも、紫がここにいる間は。
ただし、それは本当の安全ではない。
ナナシの血に惹かれた妖怪たち。
ナナシを見張っていた謎の術者。
ナナシの血を味わったフランドール。
ナナシを守ろうとする霊夢たち。
それぞれが、すでにナナシを中心に動き始めている。
眠っているナナシだけが、まだそれを知らなかった。