朝の光が、障子越しに差し込んでいた。
薄い白に透けた光。
畳の匂い。
どこかで鳥が鳴く声。
それから、ほんの少しだけ、お茶の香り。
「……知らない天井だ」
目を開けて最初に思ったのは、知らない天井だ、ということだった。
口に出してから、すぐに首を傾げる。
「……いや、昨日から知らない場所ばっかりだから、今さら感がすごいけど」
体を起こす。
……身体が軽い。
頭もすっきりしている。
「……おお」
ボクは自分の手を握ったり開いたりした。
動く。
足も動く。
頭も痛くない。
首筋に少し違和感はあるけれど、思っていたよりずっと平気だ。
……昨日の夜、フランドールに血を吸われた。
たしか、たくさん吸われた。
そのあと霊夢と魔理沙が来て、アリスも何か叫んでいて、フランドールが帰っていって、それから。
それから、意識が途切れた。
そこまでは覚えている。
「……で、今は朝」
ボクは深く息を吸った。
「つまり、よく寝た?」
結論が出たところで、襖の向こうが急にドタドタと騒がしくなった。
次の瞬間、襖が勢いよく開いた。
「ナナシ!」
入ってきたのは霊夢だった。
その後ろに、魔理沙とアリスもいる。
3人とも、こちらを見て固まった。
ボクは布団の上で正座して、にっこり笑ってぺこりと頭を下げる。
「おはよう!」
「……」
「……」
「……」
沈黙。
長い沈黙。
やがて魔理沙が、ぽつりと言った。
「……元気そうだな」
「うん。すごくよく眠れたよ」
「よく眠れた?」
霊夢の眉がぴくりと動く。
「昨日、あれだけ血を吸われて倒れたのに?」
「……そう言われると、急に寝起きの感想として不謹慎な気がしてきた」
「気がするじゃなくて、だいぶそうよ」
霊夢は頭を押さえた。
アリスは信じられないものを見るようにボクを見ている。
「本当に、具合は悪くないの?」
「うん。ちょっと首が気になるくらいで、体は軽いよ。むしろ寝起きとしては好調だね」
「好調……」
アリスが小さく呟く。
その声には、安心と困惑が半分ずつ混ざっていた。
魔理沙が布団のそばまで来て、ボクの顔を覗き込む。
「顔色も悪くないな。昨日は真っ青だったのに」
「え!? そうなの?」
「死人のように真っ青だったぜ。正直、かなり焦った」
「……そっか」
ボクは少しだけ目を伏せた。
覚えている。
魔理沙の腕。
霊夢の声。
アリスの叫び。
それから、フランドールの赤い瞳。
「……心配かけたんだね。ごめん」
「謝る前に、まず無事だったことを喜びなさい」
霊夢がぴしゃりと言った。
「うん。じゃあ……生還したよ!やったね!」
「……言い方」
「いや、ちゃんとありがとうって言うつもりだったよ。霊夢も、魔理沙も、アリスも。助けてくれてありがとう」
霊夢は少し視線を逸らした。
「別に。目の前で倒れられたら、放っておけないでしょ」
「私は迎えに行っただけだぜ」
「…………」
アリスが黙ってボクを見つめてくる。
……こんな美人に見つめられると恥ずかしいんだけれど。
「あなた、昨日、自分の血を差し出したでしょう」
アリスが少し強い語気で言ってくる。
「……うん」
「私や人形を守ろうとしたのは分かるわ。でも、あんなことを軽く言わないで」
「軽く、言ったつもりは……」
なかった。
そう言いかけて、止まる。
怖かった。
本当に怖かった。
でも、たぶんアリスから見れば、ボクはずいぶん簡単に自分を差し出したように見えたのだろう。
「……怖かったよ」
ボクは正直に言った。
「すごく怖かった。でも、アリスが怪我するのも怖かった。人形さんたちが壊れるのも嫌だった。だから、ボクで済むなら、その方がいいかなってなって……」
その瞬間、部屋の空気が少しだけ重くなった。
霊夢が眉間にしわを寄せる。
魔理沙が困ったように帽子のつばを触る。
アリスは、苦そうな顔をした。
「そういうところよ」
「……え?」
「そこが危ないのよ、ナナシ」
アリスは静かに言った。
「誰かが傷つくより、自分が傷つく方がまし。そう考えるのは、狂った考え方よ」
「……え?」
「自分を守るべきものの中に入れていない、ひどく歪んだ思考ってこと」
ボクは何も言えなかった。
「自分を簡単に差し出すな」
魔理沙が言った。
「お前、昨日自分を賽銭みたいに簡単に差し出しかけたそうだぜ」
その言い方に、少しだけ胸が詰まる。
でも同時に、妙に分かりやすかった。
賽銭。
捧げるもの。
差し出すもの。
「……うん」
ボクは小さく頷いた。
そこでようやく、魔理沙が少し笑う。
「まあ、とにかく元気そうで何よりだな」
「……ご心配をおかけしました」
ボクはもう一度、3人を見る。
何か、お礼をしたい。
助けてもらった。
守ってもらった。
心配してもらった。
言葉だけでは足りない気がした。
何か形になるものを渡せたらいいのに。
——そう思った瞬間。
胸元の巾着袋が、ぽう、と淡く熱を持った。
「……ん?」
ボクは巾着袋を見る。
昨日まで空っぽだったはずの袋。
賽銭箱の前で小銭を出した、不思議な袋。
今、その袋の内側から、何かが触れる感覚がした。
「どうした?」
魔理沙が覗き込む。
「いや、巾着袋が……なんか、温かい」
「温かい?」
霊夢とアリスの表情が変わる。
ボクは恐る恐る袋の口を開いた。
中を覗く。
そこには、いくつかのものが入っていた。
小銭。
昨日賽銭箱に入れた分より、明らかに多い小銭。
それから、光沢のある糸束。
細く、滑らかで、月明かりを閉じ込めたような上質な糸。
そして、よく分からない小さな金属片。
星の形に似た、鈍く光る欠片だった。
「……増えてる」
ボクは呟いた。
「いや、増えるって何。袋って普通、勝手に中身が増えるものじゃないよね?」
「普通は増えないな」
魔理沙が即答する。
「幻想郷基準でも?」
「そこは物による」
「……基準が揺らいだ」
霊夢は無言で小銭を見つめていた。
とても真剣な顔だった。
ボクはその視線の意味を察する。
「……霊夢」
「何」
「これ、賽銭箱に入れてくる」
「そう」
声は平静だった。
でも、目が少しだけ輝いていた。
たぶん、かなり嬉しいのだと思う。
ボクは布団から出る。
「待ちなさい。急に動いて大丈夫なの?」
アリスが止めようとする。
「大丈夫。すごく元気」
「……それが一番不思議なのだけれど」
「不思議は後で考えよう。今は賽銭が先」
「霊夢の教育がもう効いてるじゃないか」
「いい教育でしょ?」
霊夢が胸を張った。
「神社的には、だろ?」
「神社的には、ね」
魔理沙が笑う。
ボクは小銭を握りしめて、さっそく小走りで部屋を出た。
廊下をお行儀よく早歩きで、境内へ向かう。
朝の博麗神社は、昨日よりもずっと穏やかに見えた。
鳥居。
石畳。
社殿。
そして、賽銭箱。
昨日ここで賽銭を入れて、霊夢におまじないをもらった。
あの札がなければ、たぶん森で助からなかった。
ボクは賽銭箱の前に立ち、小銭をそっと投げ入れる。
からん。
乾いた音が、朝の境内に響いた。
昨日と同じ音。
でも今日は、少しだけ違って聞こえた。
「……お礼です」
小さく言う。
誰に向けた言葉なのかは、自分でもよく分からなかった。
神様にか。
霊夢にか。
それとも、ボクをここまで繋いでくれた何かにか。
「急に飛び出すから何事かと思ったわ」
後ろから霊夢の声がした。
振り返ると、霊夢が腕を組んで立っている。
魔理沙とアリスも一緒だった。
「ごめん。でも、賽銭は鮮度が大事かなって」
「聞いたことないわね」
「今作った」
「でしょうね」
霊夢は呆れたように言った。
けれど、その口元は少しだけ緩んでいる。
「でも、ありがとう」
小さな声だった。
ボクは目を瞬かせる。
「霊夢が素直にお礼を言った」
「何よ」
「いや、今のは記録しておいた方がいい貴重な瞬間なのかなって」
「するな」
「はい」
魔理沙が横で笑っている。
「よかったな、霊夢。神社に住み着いたら毎日賽銭が入るかもしれないぜ」
「それは悪くないわね」
「そこは否定しないんだ」
ボクは苦笑して、次に糸束を取り出した。
「これは、アリスに」
「私に?」
「うん。昨日、家とか人形さんたちとか、いろいろ巻き込んじゃったから。お詫びというか、お礼というか」
アリスは糸束を受け取った。
指先でそっと撫でる。
その瞬間、表情が変わった。
「……これ」
「変なものだった?」
「逆よ。かなり上等な糸だわ。人形用に使うには贅沢なくらい」
「おお。よかった。ちゃんとお礼っぽい」
「どこから出てきたの?」
「巾着袋から」
「その袋、何なの?」
「ボクが一番知りたい」
アリスは糸を見つめ、それからボクを見る。
「本当に、もらっていいの?」
「もちろん。アリスに渡そうと思ったら出てきたから、たぶんアリス用だと思う」
糸束に触れたとき、不思議と迷わなかった。
これはアリスに渡すものだ。
理由は分からない。
でも、袋の奥からそう教えられたような気がした。
「……不思議な理屈ね」
「昨日から不思議なことしか起きてないので、細かいところは勢いで処理してる」
「処理しないで考えなさい」
「はい」
怒られた。
今日だけで何回目だろう。
けれど、アリスは糸を大事そうに持ってくれた。
それが少し嬉しかった。
「で、私は?」
魔理沙が期待に満ちた顔で身を乗り出す。
「魔理沙には、これ」
ボクは巾着袋から、星の形に似た小さな金属片を取り出した。
鈍く光っていて、何に使うのかは分からない。
けれど、なんとなく魔理沙に渡すものだと思った。
「お、なんだこれ」
「分からない」
「分からないものを渡したのか」
「魔理沙なら分からないものほど喜ぶかなって」
「よく分かってるじゃないか」
「喜ぶんだ……」
魔理沙は金属片を指先で転がし、目を輝かせた。
「魔力を少し含んでるな。星の欠片……いや、鉱石か? 面白いぜ」
「面白そうならよかった」
「ナナシ、お前その袋すごいな」
「ボク自身はだいぶ怖くなってきたよ」
「調べる価値があるな」
「今、魔理沙の目が研究者というより蒐集家の目になってる」
「気のせいだぜ」
「その“だぜ”でだいたい誤魔化せると思ってない?」
魔理沙は笑ってごまかした。
たぶん図星だ。
ひとまず、3人へのお礼はできた。
問題は、これからのことだ。
霊夢も同じことを考えていたらしい。
「で、ナナシ」
「うん」
「あんた、これからどうするつもり?」
境内に、朝の風が吹いた。
どうする。
そう聞かれて、ボクは巾着袋を握る。
無縁塚で目を覚ました。
魔理沙に拾われた。
霊夢におまじないをもらった。
アリスに助けられた。
フランドールに血を吸われた。
妖怪に狙われる理由も、神隠しに遭った理由も、まだ分からない。
分からないことばかりだ。
でも、ひとつだけ分かる。
ボクひとりでは、たぶん危ない。
……それに。
ひとりでいたいわけでも、なかった。
「……霊夢」
「何」
「ボクを、しばらく神社に置いてください」
霊夢は眉を上げた。
魔理沙とアリスもこちらを見る。
ボクは慌てて続けた。
「も、もちろん、ただでとは言わないよ。掃除でも、水汲みでも、雑用でも、できることは何でもする。賽銭も……出せるかは袋次第だけど、出たら入れる。だから、住み込みで働かせてください」
「ずいぶん潔いわね」
「昨日の件で学んだよ。ボクはひとりで行動すると、だいたい危ない」
「だいたいどころか、かなり危ないな」
魔理沙が言う。
「否定できないのがつらい」
「でも、神社に置くのが一番安全かもしれないわね」
アリスが言った。
「少なくとも、霊夢の目が届く場所なら、普通の妖怪は近づきにくいわ」
「普通じゃないのが来る可能性は?」
「……あるわ」
「あるんだ……」
霊夢はため息をついた。
「まあ、いいわ」
「いいの?」
「昨日みたいに勝手に飛ばされても面倒。妖怪に狙われても面倒。探し回るのも面倒。だったら、最初から目の届くところにいた方がましよ」
「理由の全部に面倒が入ってる」
「大事な判断基準よ」
「でも、置いてくれるんだ」
「雑用するんでしょ?」
「する。超頑張る」
「じゃあ、しばらく住み込み。掃除、水汲み、留守番。あと、勝手にどこかへ行かないこと」
「はい」
「知らない声について行かないこと」
「はい」
「吸血鬼に血を差し出さないこと」
「……はい」
「今、間があったわね」
「いや、不可抗力でまた吸われそうだと思って……もうしない方向で前向きに……」
「…………」
「……了解しました!」
霊夢の圧が強かった。
ボクは深く頭を下げる。
「ありがとう、霊夢」
「はいはい」
霊夢は雑に返した。
でも、その雑さが少し安心する。
魔理沙がにやにやしながら言う。
「よかったな、ナナシ。今日から神社の雑用係だ」
「言い方に夢がない」
「巫女見習いよりは現実的だろ」
「巫女見習い……」
少し想像する。
赤白の服を着た自分。
掃除をしている自分。
賽銭箱の前で参拝客を待っている自分。
「……賽銭箱の前で営業努力する係ならできるかも」
「やめなさい」
霊夢が即座に止めた。
「神社の品位が下がる」
「でも賽銭は増えるかも」
「……」
「霊夢、迷わないで」
真剣に考えこみ始めた霊夢にそう言うと魔理沙が笑った。
アリスも小さく笑っている。
朝の博麗神社に、少しだけ穏やかな空気が戻った。
昨日の夜が嘘みたいだった。
けれど、首筋に残る違和感が、全部が現実だったと教えてくる。
フランドールの赤い瞳。
甘い、という声。
ボクの血を欲しがった妖怪たち。
まだ何も終わっていない。
でも、今は。
ここにいていいと言われた。
それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
「では、改めて」
知らない声がした。
「新しい居候さんの誕生、ということかしら?」
ボクは振り返った。
そこに、美人なお姉さんがいた。
金色の髪。
上品な服。
手には扇。
いつからそこにいたのか分からない。
さっきまで誰もいなかったはずの場所に、まるで最初から会話に混ざっていたみたいな顔で立っている。
「……えっと」
ボクは瞬きをした。
「どちらさまですか?」
霊夢がものすごく嫌そうな顔をした。
魔理沙が「あー」と言った。
アリスが警戒するように目を細める。
その反応だけで、ただ者ではないことは分かった。
美人なお姉さんは、楽しそうに微笑んだ。
「八雲紫。通りすがりの、ただの妖怪よ」
「ただの妖怪」
ボクは霊夢を見る。
「霊夢」
「何」
「幻想郷の“ただの”って、信用していい言葉?」
「一番信用しちゃ駄目なやつよ」
「だよね」
紫と名乗ったお姉さんは、扇で口元を隠してくすくす笑った。
「まあ、失礼ね」
「初対面で急に出てくる人に、信用の審査は厳しめにいきたいかなって」
「賢い子ね」
「褒められてる気がしない」
紫の視線が、ゆっくりとボクに向けられる。
優しいようで、底が見えない目だった。
その目で見られた瞬間、ボクはなぜか背筋を伸ばした。
怖い、というより。
全部、見透かされそうな感じがした。
「あなたが、ナナシね」
「……うん」
「よく眠れた?」
「すごく」
「それは何より」
紫は微笑む。
けれど、その笑みの奥で、何かが静かに動いている気がした。
「では、少しお話しましょうか」
「お話?」
「ええ」
紫は扇を閉じた。
ぱちん、という小さな音が、朝の神社に響く。
「あなたを隠そうとしたものと、あなたの血について」
風が止まった気がした。
さっきまでの軽い空気が、少しだけ変わる。
居場所ができたと思った朝。
そのすぐ隣で、まだ知らない厄介ごとが、静かに口を開けていた。