東方拾得録   作:まほろばのーぶる

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第7話 名前のない子には縁を

「あなたを隠そうとしたものと、あなたの血について」

 

 朝の博麗神社。

 

 賽銭箱に賽銭を入れて、霊夢に住み込みを認めてもらって、ようやく少し落ち着いたと思ったところだった。

 

 なのに、いつの間にか現れた美人なお姉さんが、いきなり話を重くしてきた。

 

 幻想郷、油断ならない。

 

「……えっと」

 

 ボクは胸元の巾着袋を押さえながら、お姉さんを見る。

 

「話を聞く前に、ひとつ確認していい?」

 

「ええ、どうぞ」

 

「紫お姉さまって怖い人?」

 

 紫お姉さまは扇で口元を隠し、目だけで笑った。

 

「どうかしらね?」

 

 絶対怖い人だ。

 

「紫お姉さまには逆らわないと宣誓するので怖いことはしないでね?」

 

「あら?紫でいいわよ。人聞きが悪いわね。あなたのために情報を持ってきたというのに」

 

「人聞きなんて気にしない癖に」

 

 霊夢がぶっきらぼうに紫お姉さまに言う。

 

「紫お姉さま、情報提供をありがとうございます!とりあえずその隠そうとしたとかボクの血の話って厄介ごとの香りがプンプンするのですが耳が痛くなるお話?」

 

「少なくとも、普通の外来人よりは面倒な存在ということね、あなたは」

 

「やっぱり聞きたくなくなってきた」

 

 ボクが半歩下がると、霊夢が肩を掴んだ。

 

「逃げない」

 

「まだ神社の敷地内だから逃げた判定には早くない?」

 

「話を聞くの」

 

「はい」

 

 霊夢の手に逆らう勇気はなかった。

 

 魔理沙は箒を肩に担ぎ、紫お姉さまをじっと見ている。

 

 アリスも糸束を手にしたまま、警戒を解いていない。

 

 紫お姉さまはそんな3人を眺めて、楽しそうに微笑んだ。

 

「ずいぶん大事にされているのね、ナナシ」

 

「昨日今日拾われたばかりのわりには、とても手厚く介護されてる気がする」

 

「介護じゃないわよ」

 

 霊夢が言う。

 

「保護、かしら」

 

 アリスが訂正する。

 

「拾得物管理だな」

 

 魔理沙が続けた。

 

「魔理沙、ボクはまだ物品扱いなの?」

 

「無縁塚で拾ったからな」

 

「事実が強い」

 

 紫お姉さまがくすくす笑う。

 

「では、その拾得物について話しましょうか」

 

「拾得物で確定した……」

 

 ボクは小さくため息をついた。

 

「まず、あなたの血について」

 

 紫お姉さまの声が、少しだけ変わった。

 

 先ほどまでのふわふわした調子は残っている。

 

 けれど、その奥にあるものが少し冷たくなった。

 

「あなたの血は、ただの血ではないわ。妖怪にとって、ひどく魅力的な匂いを放つ。空腹でないものに空腹を思い出させる。獲物を探していないものに、狩りの衝動を呼び起こす」

 

 昨日の森の声が蘇る。

 

 あまい。

 

 ちょうだい。

 

「前例は少ないけれど……そうね。仮に、稀血と呼びましょうか」

 

「……つまり、ボクは歩くごちそう?」

 

「嫌な言い方をすれば、そうね」

 

「もう少し優しい表現は?」

 

「希少食材」

 

「悪化した」

 

「極上の献上品」

 

「人権が消えた」

 

「幻想郷では、人権より力関係の方が幅を利かせることも多いわ」

 

「とても嫌な豆知識をありがとう紫お姉さま」

 

 ボクは巾着袋をぎゅっと握った。

 

 怖くないわけではない。

 

 でも、不思議と頭は冷えていた。

 

 自分の血が妖怪を惹きつける。

 

 昨日の出来事を考えれば、納得はできる。

 

 認めたくはないけれど。

 

「あなたの血は、吸ったもの、食べたものの記憶にひどく残りやすい。単純に美味しいというだけではなく、飢えに名前を与えてしまう……一種の妖怪への依存性がある」

 

「飢えに名前?依存性?」

 

「一度味を知ると、忘れられなくなってしまう、ということよ」

 

 紫お姉さまは扇を揺らす。

 

「特に吸血鬼には毒になるわね。吸血鬼特攻の依存性の高い毒」

 

 フランドールの顔が浮かんだ。

 

 興奮した顔。

 

 蕩けた目。

 

「……フランドールは、大丈夫なの?」

 

「吸血鬼は飢えに一晩苦しむくらいでは死にはしないわ」

 

「……苦しんじゃうんだ」

 

「あら」

 

 紫お姉さまの目が細くなる。

 

「自分を襲った相手の心配?」

 

「襲われたのは怖かったよ。すごく怖かった。でも、あの子、自分でも止められなかったみたいだったから」

 

 霊夢が小さく息を吐く。

 

「そこで相手の心配をするから危なっかしいのよ」

 

「それはさっき怒られたから、今日の反省欄にもう書いてあるよ」

 

「反省欄って何よ」

 

「心の中に作った」

 

「増やしておきなさい」

 

「了解しました!」

 

 魔理沙が苦笑する。

 

 アリスは少し複雑そうな顔をしていた。

 

 紫お姉さまはますます楽しそうにボクを見ている。

 

「次に、あなたの身体について」

 

「うん」

 

「あなたは、普通の人間よりかなり治りが早い。血を失っても、傷を負っても、命が残っていれば肉体を作り直す力がある」

 

「昨日あれだけ血を吸われたのに、今朝すっきり起きた理由はそれ?」

 

「ええ」

 

「なるほど。便利」

 

「便利で済ませる話じゃないわ」

 

 霊夢が即座に言った。

 

「血を吸われても治るなら、また吸わせてもいいか、なんて考えてたら殴るわよ」

 

「……考えてないよ」

 

「何その間」

 

「いや、考えてないよ?」

 

「ナナシ」

 

「分かりました!考えません!」

 

 即答した。

 

 紫お姉さまは愉快そうに笑う。

 

「理解が早いのね」

 

「命がけの会話は反応速度が大事だと昨日学んだからね」

 

「良い学習だわ」

 

「なんだろう、褒められても嬉しくない」

 

 ボクは首筋に触れる。

 

 昨日の噛み跡は、もうほとんど残っていない。

 

 ほんの少し違和感がある程度だ。

 

 血を失っても治る。

 

 傷を負っても治る。

 

 それが自分の身体の話なのに、妙に遠い。

 

 まるで他人の診断書を読んでいるみたいだった。

 

「……つまり、まとめるとボクの身体は優秀な血液を製造する特殊な工場がある?」

 

「表現は雑だけれど、理解すべき方向性は近いわ」

 

「血を作る機能が普通より強い。怪我したら修復する。失血しても補充が早い。でも無限ではない」

 

「ええ」

 

 紫お姉さまの瞳がわずかに鋭くなる。

 

「ここからが大事よ。あなたは大けがしてもその血のおかげで一晩で治る……でも不死ではない」

 

 空気が、少しだけ重くなった。

 

「蓬莱人のように、どれほど壊れても戻る存在ではないわ。あなたの身体は壊れた部分を作り直す力を持っている。けれど、それを司る組織や核が著しく損傷すれば死ぬ」

 

「蓬莱人はちょっとよくわからないけど、核、ね」

 

「そう。血を作るもの。骨の奥にあるもの。命を修復するための土台。そこを壊されれば、あなたは普通に死ぬわ」

 

「……なるほど」

 

 ボクは頷いた。

 

「造血を司る組織、多分骨髄かな?それがボクにとっての一番重要な生命維持の要。そこが壊れると、再生の材料も指示系統も失われる。だから不死ではなく、再生能力が高いだけってことだね」

 

 言ってから、みんなの視線に気づいた。

 

 霊夢、魔理沙、アリスがこちらを見ている。

 

「……え、何?」

 

「ナナシ」

 

 魔理沙が目を瞬かせる。

 

「お前、今の話、普通についていけたのか?」

 

「え?」

 

「造血とか、組織とか、指示系統とか」

 

「なんとなくだよ。ボクの血は特殊っぽいけど通常の人間と同じで骨の中にある骨髄で作るものっぽいし、作る場所が壊れたら補充できない。すごくざっくり言うと、水を汲む井戸が壊れたら水は出ない、みたいな話でしょ?」

 

 魔理沙が黙った。

 

 アリスが眉を寄せる。

 

 霊夢も少しだけ怪訝そうな顔をした。

 

「……あんた、本当に記憶喪失なの?」

 

「少なくとも自分の名前は分からない」

 

「妙に聡明で知識は残っているのね」

 

 アリスが言う。

 

「その知識の常識がどこまで信用できるかは、昨日からずっと怪しいんだけど」

 

「幻想郷に来た時点で、外の常識は半分くらい捨てなさい」

 

 霊夢が言った。

 

「半分で済む?」

 

「済まないこともある」

 

「つらい」

 

 紫お姉さまはじっとボクを見ていた。

 

 その視線が、さっきよりずっと近い気がする。

 

「面白い子」

 

「紫お姉さま、それ、褒め言葉?」

 

「ええ。とても」

 

 紫お姉さまは扇で口元を隠した。

 

「記憶は空白なのに、理解の筋道は残っている。怖がりなのに、話を聞く耳もある。自分の身体が狙われる理由を聞いているのに、感情だけで崩れない」

 

「実感がないだけかも」

 

「それでもよ」

 

 紫お姉さまの笑みが深くなる。

 

「この子、うちの子にしちゃおうかしら」

 

 空気が止まった。

 

「は?」

 

 霊夢の声が低くなる。

 

「紫」

 

「……冗談よ」

 

「その顔は半分本気でしょ」

 

「半分だけなら可愛いものじゃない」

 

「可愛くない」

 

 ボクはそっと魔理沙の袖を引いた。

 

「魔理沙」

 

「なんだ?」

 

「このお姉さまの子になったら、ボクはどうなるの?」

 

 魔理沙は紫お姉さまを見て、ボクを見て、それから真面目な顔で言った。

 

「まず日常的に気持ち悪い空間から出入りさせられる」

 

「うん?」

 

「よく分からない仕事を任される」

 

「うん」

 

「人間なのか妖怪なのか分からない立場になって、気づいたら幻想郷の裏事情に片足突っ込んでる」

 

「……うん」

 

「たぶん橙あたりと一緒に式の使い方とか礼儀作法とかを叩き込まれるな」

 

「……橙?って誰?」

 

「あと、紫に面白がられる」

 

「最後が一番嫌かもしれない」

 

 紫お姉さまは楽しそうに笑っている。

 

 否定しない。

 

 つまりだいたい合っているらしい。

 

 ボクは姿勢を正して、紫お姉さまに向き直った。

 

「申し訳ありませんが、全力でお断りさせていただきます」

 

「あら、残念」

 

「ボクにはまだ雑用係としての未来があるからね」

 

「巫女の雑用係と私の式候補なら、後者の方が格上ではなくて?」

 

「格より安全保障を重視したいかな」

 

「賢いわね」

 

「褒められても行かないよ?」

 

 霊夢が珍しく満足そうに頷いた。

 

「よろしい」

 

「おぉ!今の選択で霊夢のボクへの評価が上がった気がする」

 

「紫について行かないだけで十分よ」

 

「基準が低い」

 

 アリスもほっとしたように息を吐いていた。

 

 紫お姉さまはまるで残念がっていない顔で、話を戻す。

 

「さて。次は神隠しについて」

 

 その言葉で、軽くなっていた空気が再び引き締まった。

 

「あなたは昨日、博麗神社から魔法の森へ飛ばされた。あれは偶然ではないわ」

 

「紫がやったんじゃないの?」

 

 霊夢が真正面から聞く。

 

「私なら、もっと優雅にやるわ」

 

「否定の仕方が信用しにくい」

 

「少なくとも今回は違うわ。私の真似事をした誰か、あるいは別種の術ね」

 

 紫お姉さまは扇を閉じる。

 

「ナナシは、まだ幻想郷に定着していない」

 

「定着?」

 

「この地に縁が薄い、ということよ。名前もない。記憶もない。出自も分からない。誰かとの関係も薄い。どこにも結びついていない。そういう存在は、隠されやすい」

 

 ボクは胸元の巾着袋を見る。

 

 空っぽだった袋。

 

 空っぽだった自分。

 

「つまり、ボクは幻想郷にちゃんと引っかかってない?」

 

「いい表現ね」

 

 紫お姉さまが楽しそうに言う。

 

「あなたはまだ、この世界の網目に十分絡んでいない。だから、神隠しの術に引かれやすい。場所をずらされ、所在を曖昧にされ、誰かの手元へ引き寄せられる」

 

「昨日みたいに?」

 

「ええ」

 

「対策は?」

 

 ボクが即座に聞くと、紫お姉さまの目が細くなった。

 

「怖がるより先に対策を聞くのね」

 

「怖がるのは後でまとめてやろうかなって」

 

「ますます面白い子」

 

「紫」

 

 霊夢が低い声で釘を刺す。

 

 紫お姉さまは軽く笑い、ボクに向き直る。

 

「対策は、縁を作ること」

 

「縁」

 

「幻想郷のさまざまなものと関わりなさい。人に会い、妖怪に会い、場所を知り、名前を呼ばれ、何かを渡し、何かを受け取りなさい。ここにいる理由を増やすの」

 

「居場所を作れ、ってこと?」

 

「そう」

 

 紫お姉さまの声は、意外なほど静かだった。

 

「あなたが“ここにいる”と認めるものが増えれば増えるほど、あなたは隠されにくくなる」

 

 紫はゆっくりと言った。

 

「魔理沙に拾われたこと。アリスに助けられたこと。吸血鬼に血を吸われたこと。霊夢に保護されていること。そして、私の興味を引いたこと」

 

「最後のは縁に入れていいの?」

 

「もちろん」

 

「ちょっと不安な糸が混じってる」

 

「切るには惜しいでしょう?」

 

 紫は微笑んだ。

 

「そういうもの全部が、あなたをこの世界に結ぶ糸になる」

 

 糸。

 

 アリスに渡した糸束が頭をよぎる。

 

 魔理沙にもらった名前。

 

 霊夢のお札。

 

 アリスのお茶。

 

 ひとつひとつが、ボクをここに留めるもの。

 

「ただ守って隠すだけでは駄目なのね」

 

 アリスが言った。

 

「隠すほど、神隠しの術とは相性が悪くなることもあるわ。閉じ込めるのは簡単だけれど、閉じ込められた子は世界との縁を増やせない」

 

「でも、外に出せば妖怪に狙われる」

 

 魔理沙が言う。

 

「ええ。だから、見守りが必要ね」

 

「面倒ね」

 

 霊夢が露骨に嫌そうな顔をした。

 

「でも、神社に置くだけでは足りないんでしょう?」

 

「さすが博麗の巫女。話が早いわ」

 

「褒めても面倒は減らないわよ」

 

「では、どうするのかしら?」

 

 紫お姉さまがわざとらしく首を傾げる。

 

 霊夢はため息をついた。

 

「まずは人間の里に行く」

 

「人間の里?」

 

 ボクは顔を上げる。

 

「まずは人里で顔を覚えてもらうのが手っ取り早いわ。人間として生活するなら、里との縁は必要だし」

 

「人間として生活」

 

 その言葉を小さく繰り返す。

 

 自分が人間なのかどうかすら、少し怪しくなってきたところだった。

 

 でも、霊夢はあっさり言った。

 

 人間として。

 

 その雑な断定が、少しだけ嬉しかった。

 

「買い物もいるだろ」

 

 魔理沙が言う。

 

「いつまでもその白い衣だけじゃ困るだろうしな」

 

「たしかに。替えの服はほしい。あと、この服、目立つ?」

 

「まあまあ目立つぜ」

 

「無縁塚で起きた時点では標準装備だと思ってた」

 

「どんな標準だ」

 

 アリスがボクの服を見る。

 

「人里なら、布や日用品も揃えられるわ。必要なら私も見立てる」

 

「アリスが選んでくれるなら安心感がすごい」

 

「魔理沙に任せると変なものを買ってきそうだもの」

 

「失礼だな。便利なものを選ぶぜ」

 

「爆発しない?」

 

「たまにしかしない」

 

「たまにするんだ……」

 

 少しだけ空気が和らぐ。

 

 紫お姉さまはそれを見て、満足そうに微笑んだ。

 

「では決まりね。今日は人間の里へ行ってらっしゃい」

 

「紫お姉さまは来ないの?」

 

 ボクが聞くと、霊夢が即座に言った。

 

「来なくていい」

 

「あら、冷たい」

 

「あんたが来ると話がややこしくなる」

 

「私はただの付き添いなのに」

 

「あ、でた。ただのって言葉が一番信用できないってさっき学んだ」

 

 ボクが言うと、紫お姉さまは楽しそうに笑った。

 

「よくできました」

 

「できれば褒めるより、安全な道を教えてほしい」

 

「霊夢について行きなさい。それが一番安全よ」

 

「霊夢が安全地帯」

 

「本人の機嫌が悪くなければね」

 

「重要条件がついた」

 

 霊夢がじろりとこちらを見る。

 

「何か言った?」

 

「何も」

 

 ボクは首を横に振る。

 

 紫お姉さまはゆっくりと扇を開いた。

 

「ナナシ」

 

「はい紫お姉さま」

 

「あなたは、自分の血を軽く見てはいけない。あなたの身体を便利だと思ってはいけない。そして、あなた自身を支払いに使ってはいけない」

 

 その声は、さっきまでより少しだけ真面目だった。

 

「あなたが思っている以上に、あなたは欲しがられる。食べたいものとして、調べたいものとして、利用したいものとして」

 

「……物騒な人気者だ」

 

「ええ。だから、ちゃんと縁を選びなさい。誰に名前を呼ばせるのか。誰の手を取るのか。誰のところへ帰るのか」

 

 誰のところへ帰るのか。

 

 その言葉が、胸に残った。

 

 ボクは霊夢を見る。

 

 魔理沙を見る。

 

 アリスを見る。

 

 まだ出会って2日も経っていない。

 

 それなのに、今のボクが帰る場所は、たぶんここだ。

 

「……分かった。ありがと」

 

 ボクは頷いた。

 

「まずは、人間の里に行く。いろんな人に会って、縁を作る。あと、できれば服と日用品を手に入れる」

 

「急に生活感が出たわね」

 

 霊夢が言う。

 

「生活は大事だよ。居場所づくりは衣食住から」

 

「間違ってはいないな」

 

 魔理沙が笑う。

 

「その前に朝ごはんかしら」

 

 アリスが言った。

 

 その言葉に、ボクのお腹が小さく鳴った。

 

 境内に、なんとも言えない沈黙が落ちる。

 

「……身体が治っても、お腹は空くみたいだ」

 

「健康そうで何よりね」

 

 霊夢が呆れたように言った。

 

 紫お姉さまはその様子を見て、くすくすと笑う。

 

「本当に面白い子」

 

「あんたの式にはしないからね」

 

 霊夢が釘を刺す。

 

「ええ、今は」

 

「今はをつけるな」

 

「では、また後で」

 

「来なくていい」

 

「必要になれば来るわ」

 

「必要じゃなくても来るでしょ」

 

「よく分かっているじゃない」

 

 紫お姉さまの足元に、黒い隙間が開く。

 

 無数の目がこちらを見ているような、見ていないような、変な空間。

 

 ボクは思わず半歩下がった。

 

「……やっぱり、紫お姉さまの子になるのは全力で遠慮したい」

 

「賢明だぜ」

 

 魔理沙が言う。

 

 紫お姉さまは最後にボクを見る。

 

「ナナシ」

 

「はい」

 

「迷子にならないようにね」

 

「うん、分かった」

 

 今日、何回目かの返事をする。

 

 紫お姉さまは満足そうに微笑み、隙間の向こうへ消えた。

 

 朝の博麗神社に、再び風が戻る。

 

 昨日まで、ボクには名前も記憶もなかった。

 

 今も、本当の名前は分からない。

 

 自分の正体も分からない。

 

 けれど、少なくとも今日やることは決まった。

 

 人間の里へ行く。

 

 誰かに会う。

 

 縁を作る。

 

 この世界に、ちゃんと引っかかるために。

 

「さて」

 

 霊夢が言った。

 

「まず朝ごはん。それから里へ行くわよ」

 

「住み込み雑用係、初仕事だね」

 

「初仕事は食べることじゃないわよ」

 

「腹が減っては雑用はできぬってね」

 

「都合よくことわざを使うな」

 

 魔理沙が笑い、アリスも小さく微笑んだ。

 

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